HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

無理のしすぎ 過去の人と緩衝地帯

午前から曇っていたけれど、午後になって雨が降り出した。灰色の閉ざされたような雰囲気で、気分も下降していく。ここから晴れてくれたら良い。そうなれば、それだけで心に光が差して明るくなる。

暖房の効いた部屋と厚着した体。秋や冬にも風情はあるけれど、昔の苦い記憶もイメージされてくる。空気の感触や色合い、風、匂い、光、日の長さ、季節ごとの日常とその移ろい。細かな要素の中で、何が浮かんでどう振り返るか。その時の気分で変わってくる。この頃はどうだろう。良くもあり、悪くもある。

夜の寝ている間、どうも歯ぎしりをしてしまっている。夕べは歯が抜け落ちる夢を見た。ありありとした感触の夢だった。歯がぐらぐらしている感触を、確かに感じていたのだった。怖くて涙が出るなか、最後にぐらぐらの歯が抜け落ちてしまう。だらだらと血が流れ出すなか、口を開け、顔を崩して涙を流していた。そんな怖い夢だった。

日頃から感情を抑え込んでいたり、抑え込んだことで生まれる感情すらも抑え込むと悪夢に繋がるそう。そうアーロン博士の本に記されていた。HSPは悪夢にうなされることが多いとのこと。

何かの行動ではなく、ただただ涙が出るくらいに怖がっていて、ぐらぐらの歯が抜けたところで夢が醒める―。

何の原因があるかは定かに閃かない。ただ、何かのフラストレーションが悪夢を引き起こすのは確か。それを表層の自我は理解していて、日頃からそれは認識されている。だから恐らくは、

(あの夢を見るということはフラストレーションが溜まっている。それは解る。それがある。でも、現状はそれを理解しているけれど、何も改善をすることが出来ない。なかなか変われない。変わりたいのに変われない。悔しい。どうすれば良い?どうすれば変わっていく?このまま朽ち果てていくのか?

そう思っている。フラストレーションを晴らそうということが叶わず、それすらもフラストレーションとなってしまっている。無垢な自我は抑え込まれ、見えない所で泣き叫んでいる。焦燥、不安、孤独、暗闇。取り残された感情は、未だに取り残されたままだ。

ずっと人の気持ちばかり感じ取って優先し、その人を喜ばせようとしていた。些末な言葉や言動が頭に残り、それによって意識を左右される。引いては過去の人まで喜ばせようとしていたHSPの認知を得た後、こういったものがあったのだと知った。残像の過ぎ去りし人が離れず、その人の願いをひたすら叶えようとしていた。

答えるべきメッセージはたくさん湧いてくる。内なるものと、それをかき消す周りからくるもの。HSPのことを知り、成されるべきことを理解しても、日頃の癖は大きい。容易には変えがたい事がある。認識が病的に歪んでしまっている。

 

個性の個性化、盤石化が必要。無意識のナチュラルな反応を受け止め、意識のレベルへと押し上げる必要がある。言いたいことは言い、伝えたいことは事前に伝えること。無理なものは遮断し、叶えるべきことは叶える。当たり前の折り合いをつけることだ。そうしなければ、絶えず身体がダメージを受け続けてしまう。

自分の感情を外面に持ち出しすぎることが問題だ。そうなれば、本来の自分の感情が取り残される。それらは歪みとして、身体や心が受け止める。それが由々しき症状として現れてしまう。

きちんと緩衝地帯を設けることが必要。誰かの心音や、雑音が入らないような時間を取ること。自分の感情を意識に引き上げられるようにすること。そうやってバランスを取らなければならない。

これらが出来たら良い。そうしたいし、そうしないといけない。

親を責めることは出来ないけれど、未だに自分は何年も前の親を喜ばせようとしている。親の行動は、自分の中で痛手として刻まれた。親が対処したのは、あるいは対処出来たようなことは、自分の体調を気にすることぐらいだった。

今ならHSPというものに本質的な要因があると解る。でも、以前は解らなかった。自分だけではなく、親も周りも解らなかった。自分自身も、親も、教師も、ドクターも、誰もそんなことを知らなかった。そのなかで歪みはわかりやすく体調に表れ、フォーカスが当たった。

先細る体調のなか、きちんと対応してくれたのは有難いことだった。それは感謝するしかない。でも、それでしかなかった。体調の悪化など、行動の最前線の表面でしかなかった。体調よりも、根本にある大きな問題を見つけてほしかった。自分には、苦しさの原因なんて到底解らなかった。

 

なかば強制的に入院する事にもなった。辛かったし、恥ずかしくて堪らなかった。何とかしたくても何も出来ず、耐えるしかなかった。大きな困難があった。これが今の自分を左右している。強いストレスの原体験だ。

「体調が悪ければ辛いことになってしまう」と、そういった気持ちになっていた。それがずっとあった。恥ずかしいことばかりで誤解だらけ。でも、説明のしようがなかった。学校に行けなくなり、病院に行かざるを得なくなった。でも、正しく診てはもらえない。何も改善することはない。

その中でずっと思っていたことは、本質に何があろうが、「とにかく元気があれば良いのだ」ということだった。元気でいられたら困難に太刀打ち出来た。それがないから何もかも払拭出来ないのだ、と、そう思った。それが自分なりの立脚点だった。生きていくための、自分なりの教訓だった。

親の行動は、こういった感情と相まり、「体調に対してきちんとケアすべきなのだ」という思考に揺れ動いた。そう染み付いてしまった。それは苦しさから脱却したい気持ちと相まり、「体調を上向かせないといけないのだ」というプレッシャー思考に変化した。

 

体調至上思考。良くなるように、悪くならないように、無理をして踏ん張ろうとしてしまう。身体の水準にセンシティブになり、病的に身体の感覚にナイーブになってしまう。とにかく、"食べなければ"、"良くしなければ"、と、そのように無理をしてしまう。そのように身体を治そうとしていた。

その呪縛にがんじがらめになっていた。無理をしてしまい、一喜一憂をし、また無理のしすぎに陥る。その循環から抜け出せずにいた。身体へプレッシャーをかけ続け、ひたすら体調を上向かせようとし続けてしまっていた。

生活の中心に体調はあり、日々は健康という原資の下支えがあってのもの。焦りや不安、フラストレーションなど、体調にまつわる感覚はいつでも顔を出す。悪循環はすぐにやってくる。ナイーブになるセンシティブループ。

身体は破滅への一途を辿るのみだった。ずっと呪縛のようだと思っていた。狂っているようでおかしいと思っていた。

 

それは今、認知が得られてかなり変わっている。でも、なかなか変わらないものもある。

すべきことは、まず一人の時間を設けること。とにかく静かで落ち着ける場所を設け、そこで心のバランスを取ること。それをする必要がある。そこでエネルギーを整えること。

そうすれば、穏やかな心で家族と接したり、元気に活動出来るはず。それが整えば何でも出来る。過去の人という大きな刺激との緩衝地帯を設けること。そこからが始まりだ。そうしないとどうにもならない。

ただただ普通に、元気で、大丈夫でいたい。それだけが望みだ。

健康でいるためには、適当な休息では足りないのだろう。センシティブパーソンのやるべき仕事を完成させないと、生活の基礎は整わない。生きていく上のネックを解消させること。

そして、その先にもたくさんのやるべきことがある。自然と健康になるのではなく、必要な要素を集めること。そうしなければ健康に辿り着かない。

 

そこにいつかは辿り着くだろうか?

すべては自分次第。努力するしかない。

 

参考書籍:

ひといちばい敏感な子

ひといちばい敏感な子

 

善意のケア 不健全なあやし方

今日は晴れている。これくらいが春の陽気といったところか。ここ何日か前には夏日があったりして、これからが思いやられた。午前の早い時間でも歩くときつくなった。今日の温度感が季節相応だ。辺りの緑は薄く鮮やかになった。初夏と春が入り混ざる頃。

一昨日の計測では増えていた。夕食を快調に摂れ、腹が明確に膨らんでいた。そうなったのは昼食の摂り方だろう。昼食後にすぐ間食を摂れ、そこで無理をすることがなかった。もう一口だけ食べようかと思った時、少し手が止まったのを感じられた。それが満腹の合図だったろう。その内部信号を感じられた。

昨日の計測では減少していたものの、腹は問題なく膨らんだ。やはり満腹の寸前で収めるだけでも変わる。特に昼食でのそれが大切で、昨日もそれがあった。すると夕食で腹がぐんと膨らむ。ただそれだけで良い。一食で大食することはない。

肝心なのは連続して摂ること。三食の量よりもそれだろう。そして間食を摂りたい。不定愁訴はあるものの、空腹の時間が長くある。そこでエネルギーを使わずにいたい。奮って三食に挑むのではなく、薄く引き延ばすこと。何食も摂る必要はない良いけれど、軽い摂取はしていたい。

『身体はトラウマを記録する』を読み、また思考が開けた。人間がストレスを抱え、トラウマの後遺症に悩まされるのは、かつて逃げることも戦うことも許されず、養育者が保護するどころか、無視や危害を加えたからだ。その逆の状況があれば傷は浅かった。

ケアの仕方は子供の生涯を左右する。でも、自分の親は全てが善意だったと言う。それをどう受け止めれば良い?いつかそれが自分の糧になる?

愛着関係が構築されなければ、自分をあやす方法を手に入れられない。すると迷走神経系をコントロール出来なくなり、それが機能不全に陥る。養育者が同調したりして保護できなければ、子供は不健全な方法で自分をあやすしかない。

それは一生物になるかもしれない。大人になって親密な関係を築けなかったり、内外で化学物質に頼ったりしてしまう。うつ病パニック障害双極性障害、境界性パーソナリティー障害などがそうで、それは本質的に正確な診断とは言えない。摂食障害自傷行為などもそうだろう。それはトラウマによる情動の制御不全、更に迷走神経系の機能不全によるもの。

 

親は「虐待もネグレクトもしていませんが?」 などと偉ぶってふて腐れるものの、上述の状態をもたらした。自分は逃げることも許されず、聡明な振りをした親に半強制的に入院させられた。自尊心を傷つけてくる相手に対し、親は助けてくれず、逃げることも戦うことも叶わなかった。その時のその状況で、あるいは後に似た状況を再現しそうになったとすれば、いったい何の方法で生存を保てば良かっただろう。

親はどんなケアの仕方をし、それによって自分は何を学んだ?ただその状況を受け入れるしかなかった。そして何らかの努力をするとすれば、身体を頼るしかなかった。身体という最後の原資に頼り、情動をコントロールするしかない。不調にはまって生存・自尊心が脅かされたのだから、好調を取り戻すしかない。体重が落ち込んだのだから、何とかそれを戻すしかない。そのためには無理をして食べるしかなかった。

それが摂食と不良とみなされ、摂食障害の診断が下った。それは遺恨はまだ残っている。「死なないように体重を底上げしたい」とか、「在りたい日々のために体力が必要だ」とコンプレックスが湧き起こり、気が付けば無理をしてしまう。それは今の生活でも改善の方法がないから。

 

改めてその体調コンプレックス、情動の制御不全による摂食不良を鎮めるには、社会交流による安全の確保が欠かせない。そのなかで、親との和解は既に済んでいる。

後は「好調をもたらして豊かに生きたい」というコンプレックスを鎮めれば良い。そのためには実際にその満足を得ることと、それによる迷走神経系の機能の回復が重要だ。もうここまでは来ている。

ついこの前は、計測について記すのを忘れていた。「もうその気もなくなったか」と思った。その心理はもう記した通り。トラウマについて認知を得ても、ほとんどセルフフィードバックに繋がらないか。

産出が尽きたのであれば、もうこの形の文筆は見切り時か?では、次はどうすればよいだろう。思考による言語化と、人の心を読んで支援をすること。それが学んで認識した可能性のはず。

以前は日々の鬱屈を日記帳に記していたけれど、今はそれがほぼない。人生の進展ともとれるけれど、記す源泉がなくなった。それが意欲の根源ならば、その形の文筆には限界がある。でも、他の形を試すには意欲がない。学習と思考の言語化はまだあるけれど、それが何になるのか。他に仕事はあるのか。

 

生きている世界が原始時代であれば、十分に活躍できる仕事があったろう。センシティブさを活かすも良く、頭や手先を使っても良く、子供などに接するのも良いだろう。そのような単純な世界ならば、人の代わりに出来る仕事はたくさんあったはず。

 

世の中の仕事は全て代行業か。人が面倒だと思うものや、簡単に出来ないことをしてあげる。行動代行業でもあり、それは情報なりを代わりに取得している。手に入れにくい物を届けたり。あるいは自分で作ってみる。代わりにそうしてあげることだ。一次産業の産物でも良いし、情報など無形の物でも良い。

世の中で必要とされている物を、自分が代わりに届けてあげる。人が面倒だと思うことを代わりにする。そのように出来るのが得意なこと。

世の中はそうやって分業で出来ている。そのような出来ることをするか、単純に何かを楽しむか、何かの軸を定め、無垢で健全に承認を求めれば良い。趣味か一芸だ。どちらかがないといけない。趣味を代行して娯楽を生むか、極めて初心者に与える。あるいは人が煩うものをやってあげること。それが仕事になるはず。

とにかく市場に出るしかない。でも、評価に曝されるのは怖い。それは自信があるからなのだろう。でも、その裏側には不安も同じくある。それがネックだ。

社会的存続のために作品を作ってもろくなことにならない。それでは評価が生存に関わる。創作は打算のない意欲から始まらないといけない。嗚呼。

 

また明日。

 

参考文献:

意欲と産出 簡単に出来ること

ここ最近は晴れが続いている。また一段と季節が進んた。日光はかなりの温もりで、分厚い冬衣はほどいた。初夏といった感じで、匂いや風情などが変わった。風の匂いが様々になり、部屋の匂いも変わった。蜂が出てきたの煩わしいけれど。

一昨日の計測では堅調で、大台以上で少し余裕があった。そこまで腹は膨らまなかったものの、意外と数字は落ちていなかった。

その前の昼食では早期膨満が薄く、よく食べられてかつ収まりも良かった。そして夕食も悪くなく摂れる。この調子ならもっと上向くと思った。とにかく大台を維持できたら良い。

 

昨日の計測では少し減少していた。夕食は空腹で迎えられたものの、腹の膨らみが悪かった。少し昼食で食べすぎたのが影響したか。内部信号をかき消して無理をするのが半分、真の食べたさが勝っているのにきつくなるのが半分。

ただ、大台は維持できている。それで十分ではあるだろう。まだまだ腰周りがえぐれているものの、極端に摂取が滞ることはない。今朝にも負債は残らなかった。

満腹の感触を確かめるのは良いけれど、それにこだわりすぎるのはいけない。そうなってしまいがちなこの頃。無理をする必要は全くなく、とにかく楽に摂取をすれば良いだけだ。それだけでもかなり上向くはず。

ここ何日間でフィードバックになるような認知がない。この時に無理して記さなくても良いのか?そもそもそれに意欲がなければ苦痛になる。そうなれば試行錯誤すら始められない。

実用的な仕事を始めれば良いのか、市場性の高いプラットフォームで工夫していくか。そのどちらにも振り切れない。前者は何をすれば良いか分からないし、後者は評価に曝されるのが怖い。

当事者研究による知識、それによる言語化。単純に考えれば、それが生涯の仕事になるだろうか。意欲の有無は別として、取り組めるものは勉強と文筆くらい。セルフフィードバックや言語化、選書くらいだろう。

他のことに取り組んだとしても、それらは続けたい。義務的ではあるけれどそうだ。それを仕事にしてしまえたら良いか。二十四時間を仕事にするか、全く別のことに費やすか。どうすれば良いか。

 

読書と選書、そして言語化なりのコンテンツを生むか。それらの産出などは性に合うはずだけれど、その産出が尽きてしまえば意味がない。その壁がまずある。

セルフフィードバックをし、言語化のフックを絡めて選書をする。それが良いと思うけれど、それで対価を得られるのか?まず試すしかないけれど、まとまったものにならなさそう。そして親類縁者に認知されたくない。ではどうする?

 

テキストコンテンツでファンを作るか、あるいは意見・価値観・情報を発信するか。テキストもブログも動画も同じはず。根底にあるべきものは、何で評価されたいかという軸と、伝えたい・表現したいという意欲。それが明確にあると恵まれている。後は市場性の高い場所で試行錯誤すれば良いだけ。

はてなブログにエントリーするならば、無償の資産作りにしかならない。似た同類と交われる訳でもないし、自分は旨味がないのではか。有料の情報・コラムも書けない。そこだけで自足的にやっていけない。だとすれば、本当に書くことが好き、あるいは種が尽きない人でないと続かない。自分はそうでない。

 

「人生は何とかなる」という励ましをされても、全く不安が消えない。根拠がないから説得力がない。その人は何とか救われた経験があっても、それはただの幸運である可能性が高い。本当に不自由を抱えている人は、どう生きるかについて学べず、試行錯誤も出来ず、福祉に繋がることも出来ない。孤独に最期を迎えるか、家を失うかだ。

そういう人には明確な不自由があり、それを包摂するラベルもあるはず。でも、それは科学・医学の常道の外にあるか、貨幣を費やし、労力を割かないと見つけられないはず。

そしてそこからスタート地点に立っても、何かの意欲がないと始まらない。創造的なそれがなければ、何の産出も出来ない。それが出来たとしても、文化的に求められるものでないと意味がない。

 

世の中の仕事は全て代行業か。人が面倒だと思うものや、簡単に出来ないことをしてあげれば良い。行動代行業でもあって、それは経験なりを代わりに取得し、提供している。

満足感を高めることで、それがやがて技能となり、理想の生活をもたらす。では、その生活とは何?それが浮かばないから問題。かすかな意欲による研究と、稼ぐための勉強。それは趣味でも得意なことでもない。

人に話したくなるようなことをまとめたり、知見とそれによる思考を表現する。そのようなアイディアが尽きないものを選ぶ。

 

そもそも親に認知されても問題がないといけない。そうなれば心置きなく集客が出来る。でも、それが出来ないから問題。市場性の高い場所に身を置きたくない。だからブログへのフィードバックもないし、価値があるのかすらも分からない。

まもなくエントリーは三百を超える。

簡単に出来ることを人にしてあげれば良い。それは何?溢れ出る言葉をまとめれば良い?共感を生むようなメッセージ?本を勧めること?それが持続可能な商売になる?

少しずつ変化していると思うけれど、自活については先が見えない。将来は何をしているのか見えない。義務や習慣を維持すれば良いのか、何の束縛なく過ごしてみれば良いか。

 

また明日。

 

援助の手と勇気 自分の好きな人

今日は通院日だった。午前は晴れて暖かく、車中の温度もかなり上がった。今は曇っているものの、ぎりぎり暖房を点けなくても良い。帰宅してほとんど消耗はない。以前は歩きに出たけれど、まだそこまでは戻っていないか。それでもこう記すことはできる。

診察などでこれといった問題はなかった。道もあまり混んでおらず、余裕をもって病院に到着する。

大台に戻った体重を報告すると、好意的かつ意外そうに、「ようやく戻りましたか」といった反応をされた。先月から他に異状はなく、特に共有したいこともなかった。

体力はないものの、体調不良になることはほとんどない。変わらず図書館などには通っていないものの、「対面で会計などはいくらかしている」と伝える。緊張したりはするものの、病的に困難を抱えている訳ではない。そう話したところで診察は終わった。

生活の方針や展望を語りたいものの、ドクターからそのような質問はない。そして積極的に話すような余地もない。個人的にはもっと共有したくはある。五分診察なのだけれど、薬の処方だけで問題はない。

 

セルフフィードバックも済んでいて、後は社会交流をすれば良いだけ。もう認識は煮詰まった。近所にそのような場所がないということ。移動の不自由がネックだけれど、誰かが運転する車に乗る体力はある。

自活へは取り組みたいものの、車の免許を取るのは無理だろう。それは想定の範囲内で、後は先進的な乗り合いサービスでも生まれたら良い。それに乗る体力は確保している。その余裕もいくらか生まれた。

 

であるのなら、もう無理することもないか。不調コンプレックスはなくなっても良いはず。残るは好調・自尊心コンプレックスのみ。好調になることで自尊心を保とうとするもの。

豊かな生活をしたいということと、誰からも責められずにいたいということ。主に後者が強いはず。前者もあるものの、今の生活でも悪くないだろう。月並みに生きることは難しい。もう普通ではないことは学んでいる。一人の人生を想定しつつある。

「このような大人になった」という受け止めはある。だとすれば、残るは他責を逃れられるような生活。それは社会的な存続を保つものだ。そのためには自活するしかない。何とか自活をし、移動に耐えられる体力を維持して、甘んじて田舎町に生きる。それが方針と展望だ。もうこうやって生きるしかない。最低限の自立へ向けてだ。

『身体はトラウマを記録する』に単純で直接的な表現があった。またこれもメンタルヘルスの本質だろう。

苦悩に対する最も一般的な対応は、援助の手を差し伸べて、先へ進む勇気を与えてくれそうな、自分の好きな人を見つけ出すことだ。私たちは、自転車に乗ったり、スポーツジムへ行ったりといった体を使った活動を行って、落ち着くこともできる。私たちは、このようにして感情を調節する方法を、空腹のときに誰かが授乳してくれたり、寒いときに毛布を掛けてくれたり、傷ついたり怖かったりしたときに揺すってなだめてくれたりした最初の瞬間から学び始める。

身体はトラウマを記録する P147~148

ポリヴェーガル理論からすれば協働調整だろう。その情緒的な正しいケアがあれば、ストレスを調整する方法を得られる。問題なのは周囲がケアを誤った時。教育に誤りはないと思うけれど、心身のケアには誤りがある。

ケアする人が情緒的に健康でなかったり、欲求に逆らってしまえばトラウマになる。そうなると大人になって情動をコントロールできなくなり、身体という原資に頼らざるを得なくなる。

アーロン博士の『些細なことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』で記されていることもそうだろう。周囲のケアの良し悪しと、その名残との闘いだ。子供の調整能力を預かるのは養育者。それは一生ものであり、大人になってから矯正するのは難儀だ。教育でその子の運命を縛ることはない。縛るとすれば心身の扱い方だろう。

 

「好きな人を見つければ良い」というとても簡単な処方。でも、実行するのは簡単でないのが全てだろう。真に協働調整をもたらす関係を築けたなら、それで十分に幸せになれる。後は自活の問題くらいか。精神疾患の大方がここに詰まっているはず。

読書とインターネットをする日々。前者は習慣として務め、後者は気を抜けばそう費やしてしまう。でも、今やるべきことはそれだろう。ブログは楽しくないものの、「やる意義があるかもしれない」とは感じている。

ただ、意欲がないのをどう捉えれば良い?他に相応しいものがあるのか。そうだとすれば、今やるべきことは何?どうにも分からない。意欲の有無は別として、取り組めるものは勉強と文筆くらい。

セルフフィードバックや言語化、選書くらいか。他のことに取り組んだとしても、それらは続けたい。義務的ではあるけれどそうだ。それを仕事にしてしまえたら良い。二十四時間を仕事にするか、全く別のことに費やすか。どうすれば良いか。

 

ブログのエントリーの頻度を落としたため、その作業がない日がある。そうなると今度は暇になってしまう。インターネットサーフィンをしがちだ。何か創造的な作業なりがあれば良い。

あるいは既存の仕事をし、空いた時間で好きなことをすれば良いのか。何もすることがないとかえって辛くなる。いや、したいことはあるか。それもよく分からなくなった。

セルフフィードバックをまとめたくもなく、かすかな意義によって務めているのみ。それは簡単に出来ることではなく、ずっと費やしてしまうことでもない。

 

何が価値を生むか分からないものの、意欲やアイディア、産出が尽きるものでは意味がない。画家であるのならば、何を描くかアイディアが尽きたらお終いだ。そして描くのも好きでないといけない。

自分は文筆にその意欲がない。セルフフィードバックは尽きたし、それを活かす道筋も見えない。いや、それは用意されているのだけれど、心の準備が整わない。

あるいはまだ時機は来ていないのか。もう少しすれば恥ずかしくないスタイルになるのか?親類縁者に見られても良くなければいけない。それはもうすぐ来そうでもあるし、来なさそうでもある。嗚呼、この時期はどう過ごせば良いのか。

ある人も言っていたけれど、とにかく目の前のことに取り組むしかない。それを連続してこなしていけば、それがいつかに繋がっていく。意識できるのは今だけ。

一点一点を重ねていき、未来の問題を変えていけば良い。未来を不安に思っても仕方ない。そうやって今を放棄していれば、本当に悪い未来がやってきてしまう。存在するのはその時その時であり、その積み重ねで未来がある。

そのためにまず目の前のことだ。そうするしかない。たとえ変化が見えないとしても、少しずつは動きがあるだろう。それはやがて大きな力となり、不意に変化が訪れる。それはその時その時に集中していたから。その結果で未来に変化が起こる。

きっとそうだろう。そうやってあるべき日々へ辿ること。今の生活に原因を求めること。それを未来で回収する。過去と今は相互相補的。そして表裏一体だ。きっと何かに繋がっている。努力を怠れば不安が起こり、またその逆もある。まずは目の前のことをすれば良い。そうやって楽しめたらなお良しだ。

 

また明日。

 

参考文献:

情動と覚醒の調節 助けと同調

今日は晴れている。昨日は雨で冷え込んだけれど、今日は暖房をつけなくても良い。連休に入った世の中で、変わらず日々を過ごしている。家族の帰省もない。祝日に挟まれた平日が通院日だ。どのように迎えるのか。

一昨日の計測では大台を割っていた。その前の夕食はぎりぎり最良で、腹は快く膨らまなかった。昼食を好調で迎えられたため、そこで満腹になってしまっていた。

腹八分と九分をなかなか感じられない。食べたくて食べているけれど、それで限度に達してしまう。

これがなくなると上向くはず。でも、微かに満腹の内部信号は感じているか。その時に意識の力で抑えるしかないのか?それがどうにも難しい。

 

一方、夕べの計測では大台に戻っていて、更に上回っていた。夕食までに空腹になっていて、楽な胃で摂ることが出来た。大食しないようにしても腹が膨らんでいた。

快適な空腹を維持し、腹八分で収めていくこと。それがまた快適な空腹を維持する。それだけで状態は上向く。

改めてその感触を得られた。その肝は何回も思い知っていて、その意識を維持していけるかが問題。いつも気が付けば苦しくなってしまう。そうなってようやく気付く。

それが摂食の障害ということか。そういうことでもある。一時的な意識の解離だろうか。ふと自我の影響力がなくなる。するとコンプレックスに乗っ取られ、強い情動にかき回される。それが満足して去れば、ありのままの自我が苦しさを抱える。

 

『身体はトラウマを記録する』にはこう記されていた。

精神疾患の診断基準となる具体的症状ではなく、 精神的な苦しみの本質に目をやれば、 そうした苦しみのほとんどが、 きちんと機能して満足の得られる人間関係を築くのに支障が出ること、 あるいは (絶えず激怒したり、機能停止に陥ったり、過剰に興奮したり、混乱している場合のように) 覚醒状態を調節するのに手を焼くことのどちらかと関係しているのがわかる。たいていは、その両方の組み合わせを伴う。標準的な医学では、特定の「障害」を治療するのに適切な薬を見つける試みに専心するので、患者の抱える問題が、人間という集団の成員として機能するのをどのように妨げているかという点に取り組むことが、ついついなおざりになってしまう。

身体はトラウマを記録する P130~131

社会交流の機能の妨害と、覚醒の調整機能の不全。精神疾患はこれら二つに突き詰められるのだろう。そしてそれらは障害とみなされ、化学薬物を使用して治療しようとされる。本当にそれが本質のものであるのか。

情動をおもに頭の中で認識しているかぎり、私たちはおおむね主導権を握り続けられるが、胸が潰れる思いや、腹に一発見舞われたような思いがするときには、耐えられない。そのような内臓感覚を、私たちはなんとしても追い払おうとする-(中略)  どれだけ多くのメンタルヘルス上の問題が、自分の情動の耐え難い身体的苦痛に対処する試みとして始まることか。

身体はトラウマを記録する。126P

『トラウマによる解離からの回復』にも同じことが記されている。

身体を傷つけ、飢えさせ、その消滅を計画し、嗜癖的行動に強迫的になるのは、身体的および感情的な痛みを軽減するためです。

トラウマによる解離からの回復 P149

情動のコントロールというのが肝だろう。トラウマがそれを滅茶苦茶にし、迷走神経系の機能不全をもたらす。そのように陥る人はたくさんいるのだろう。

それを何とかコントロールしようとすれば、正常な人に障害だと認定される。せめて「薬以外で自ら生理的作用や内的均衡を変えられる」ということが常道に乗ってほしい。

 

腹側迷走神経系を通して他の成員と同調していれば、多大な恩恵が得られる。でも、そのしシステムが機能しなければ、トラウマが起こりうる。助ける求める声に誰も反応しなければ、古い脳である大脳辺縁系が加勢する。それでも脅威を防ぎきれなければ、究極の緊急系である、背側迷走神経系が活性化される。*1

自分の通院・治療におけるトラウマは、たしかにそのような状況にあった。家族は助けてくれず、裏切りとも取れるようなケアの仕方があった。それを乗り越えるとすれば、情動を圧し殺すしかない。ありのままの内部信号を無視し、身体的・感情的苦痛を和らげること。それが無理をするということだった。

その名残はまだある。不調にまつわる情動、死の恐怖は何とか消し去りたく、まともで豊かな日々を生きていきたい。その強い情動があり、かつそれを鎮める方法を手にしていない。すると頼りになるのは身体しかない。自分の場合では、何とか身体を上向けようとしてしまう。その摂食の不自由がある。

 

死にまつわる不調コンプレックスは半分を鎮めている。でも、まだ余裕を得たくあるし、満足のいく日々を生きたい気持ちが強い。それはやはり、現実で満足を得てしまうしかない。最低限の体力はあるのだし、何とかして社会交流をするしかないだろう。

社会的支援というのは、単に他の人々といっしょにいるのとは違う。肝心なのは「相互作用」であり、身の周りの人々に、本当に聞いてもらえている、目を向けてもらえていること、誰かの頭や心の中に自分がしっかり位置を占めていると感じられることだ。生理機能が落ち着き、回復し、成長するには、私たちは体の芯で安全を感じる必要がある。

身体はトラウマを記録する P131

それくらいの関係であれば良い。かつて元気であった頃は、たしかにそのような関係性があった。この町でそのように過ごせたら良いけれど、そのような相手はいないだろう。

ただ、こういった記述もあった。

大人も子供も、あまりに臆病だったり自分自身を閉ざしていたりして人間から慰めを得られないときには、他の哺乳動物との関係が役立ちうることが、過去に二十年間に広く認められるようになった。犬や馬、さらにはイルカまでもが、人間ほど複雑ではない交わりを通して、必要とされる安心感を与えてくれる。とくに犬と馬は、一部のトラウマ患者の治療に広く用いられている。

身体はトラウマを記録する P132

ペットとの繋がりで慰めを得られたら、体調にまつわる情動は収まるだろうか。それで生理的作用を変えられたら良い。

体調が上向けば余裕を得られる。そこでフラストレーションがなくなり、自立に向けて努力できたら良い。生活の満足があれば、この町でも甘んじて生きていけるだろう。

 

また明日。

 

参考文献:

*1:身体はトラウマを記録する P137.139

内臓感覚と理知の力 異なる方向

今日は晴れている。昨日は雨がぱらついていて、明けた今日は緑が目についた。新緑の若葉が萌えている。その鮮やかな色が映えてきた。今日になってそれが目立ったはず。

日の暖かさと風も変わった。これぞ春だと感じた。ここ何年かの散歩を思い出したし、色々な感触を得た。そんな豊かな時間を都市部で味わいたい。それをずっと思っている。

一昨日の計測では微減していた。大台ちょうどの水準。その前の夕食はそれなりに収められたものの、そこまで腹は膨らまなかった。昼食では満腹になっていたからだろう。

規定の量を用意するのも吹き飛んでしまいがち。体重が増えないのはそういうことがあるからか。そういう時に停滞が起こる。改めてそう捉え直した。

 

摂食障害は誤診だと思うけれど、トラウマが原因なのは同じか。だとすれば、本質的には誤診でないということになる。醜形恐怖はないものの、トラウマによる体調コンプレックスがある。それが摂食不良をもたらす。

耐え難い感情を抑えようとすれば、身体くらいしか頼るものがない。その点で言えば摂食の障害になるか。最近になって気づいた。自然に物を摂れたなら、それだけでもかなり落ち着くだろう。体重も少しずつ増えるはず。

 

内部信号を捉えれば、それで安全の満足は得られる。すると社会交流まで進めるか。ネックはトラウマを再現してしまうこと。理知的に不調コンプレックスは鎮められたものの、好調コンプレックスでそれは難しい。

余裕を持ちたいのが半分、まともに生きたいのか半分。とにかく自尊心を満たし、誰にも干渉・叱責されないような暮らしをしたい。生存を確かにし、健康になって自立・自活をする。それが自尊心を満たすものだ。そのためには身体を頼るしかない。そのコンプレックスが摂食の不良をもたらす。

 

夕べの計測では微増していた。夕食を最良で収められ、それなりに腹が膨らんでいた。昼食でもよく摂れていて、軽く収められつつ、間食も摂れていた。その昼食の調子が通常になれば良い。

入浴後の間食を誤ったかと思ったけれど、今朝に影響はなかった。それは胃の持久力か、基本エクササイズによるものか。とにかくフラットに戻ったし、また理知的に摂っていきたい。

『身体はトラウマを記録する』から印象に残った部分を引いてみる。上述の内部信号にまつわる話だ。それは心理学の専門用語としてあるのか。

私たち人間は哺乳動物、つまり、集団でしか生存も繁栄もできない生き物なので、これらの必要のどれを満たすのにも、協調と協働が欠かせない。精神的な問題は、内部信号がうまく働かないときや、自分の地図をたどっても行くべき場所に行き着けないとき、体が麻痺してしまって動けないとき、行動が必要性と一致しないとき、あるいは、人間関係が破綻したときに起こる。

身体はトラウマを記録する P94

マズローがノイローゼについて記したのと同じだろう。脳は生存を確保するため、体が必要とする内部信号を生み出す。それを感受できなくなるのが精神疾患であり、かつてはノイローゼ・神経症と呼ばれていた。その原因にトラウマがあるのも多いだろう。

(中略)  睡眠が妨げられたり、腸が機能しなかったり、つねに空腹感があったり、(トラウマを負った子供や大人がしばしばそうであるように)触れられただけで思わず悲鳴を上げたくなったりすると、生体全体が平衡を失う。精神の問題のじつに多くが、睡眠や食事、接触、消化、覚醒の困難を伴うのには驚かされる。トラウマの効果的な治療はどんなものであれ、こうした体の基本的な「維持管理業務」に取り組む必要がある

P95

(中略)  内臓感覚(軽いむかつきから、胸に湧き起こる逃れようのないパニックまで)のせいで、何であれ今あなたの心が注意を集中していることに差し障りが出て、身体的にも精神的にも、異なる方向にあなたを向かわせる。そのような感覚は、たとえどれほどかすかであっても、私たちが人生を通して下す大小の決定に対してじつに大きな影響力を持っており、たとえば、何を食べることにするか、どこで誰と寝たいか、どんな音楽を好むか、庭仕事をしたいか、それとも合唱隊で歌いたいか、誰と友達になり、誰を嫌うか、などを左右する。

P97 

軽いむかつきという内部信号はよく感じ取る。それによって差し障りも出ていて、それが違う方向へと向かわせてもいる。それが協調と協働、つまり社会交流だろう。最後の目標はそれになる。

 

むかつきを感じるのは、主に午前に読書をしている時。朝一番のエネルギーをまず読書に費やす。内臓の感覚というのは、爬虫類脳と大脳辺縁系が一緒になって生むそう。それらは危険、あるいは特別な機会を感知すると、ホルモンを放出して知らせる。

爬虫類脳は脳幹にある。機能からしても、背側迷走神経系との結び付きがあるはず。それは視床下部と共に体のエネルギー水準を制御し、心臓と肺の機能を協調させ、内分泌系と免疫系の機能も協調させる。

大脳辺縁系は情動の座であり、生命の維持にとって何が重要で何が重要でないかを裁定する。それは自身の遺伝的構成と持って生まれた気質と協働し、経験に応じて形作られる。ある反応が繰り返し発火すれば、それがデフォルト設定になる。安全で愛されているとすれば、脳は探検や遊び、協力が得意になる。

 

刺激追求性もそこから生まれるのかもしれない。過去の養育環境は劣悪ではなかった。その時に快適に暮らすための行動構成が作られた。今はそれに反してしまっているため、だから内臓感覚としてむかつきが生じる。そういうことなのか。 愛を得られていたため、今も愛が必要ということか?

今すべきは社会交流。最低限の体力はあるし、それを求められているのだろう。読書も必要ではあるだろうけれど、それで健康になることない。摂食の調整を取り、体調コンプレックスも収めるには、やはり親愛なる人との関係が必要。理知の力はあるのだから、とにかくそれしかない。

現実を生き、必要な内部信号を捉えること。そのための努力をしないといけない。勉強をしてセルフフィードバックするなり、セラピーを受けることだ。

脳の機能を取り戻すための認知は、読書からでも得られるだろう。誰でも理知の力を復活させるのは可能なはず。少なくとも努力の土壌はある。

 

また明日。

 

参考文献:

慢性的なストレス 体質と弱さ

今日は薄曇りで、少し風が強く吹いている。散歩で近所の猫に遭遇したものの、すり寄られることはなかった。

活動範囲は変わらず図書館の近辺。経済的な自立と移動の自由を思うこの頃。貨幣を得て経済的に自由にならなければ、移動すら自由に出来ない。そして自動的に自立も出来ない。

貨幣を得ること、健康になること、移動が出来るようになること。この基本的な前提が失われている人生。それは自分のせいか否か。環境が良ければ何とかなったのか、今の生活も自分が招いたものか。いつか技術が弱者を救うのか、この生活を未来に求められているのか。

意味があってこの状態があるのなら良い。今しているのは読書くらい。文章も記しているけれど、それが求められる技能かは分からない。自活のために試行錯誤する日々。意欲はそこから生まれていて、本当にやりたいことかは分からない。

一昨日の計測で微減していた。それでも、大台を割らずには済んだ。一昨日に比べれてみれば、夕食時の食欲が弱かったか。もう数口の伸びがあれば、もっと腹は膨らんだはず。

その状態になることはある。それを維持していきたい。そしてそこから天井を破る。一汁一菜を安定して摂り、間食ももっと摂る。そうなればかなり上向くだろう。

 

夕べの計測では減少がなかった。夕食前に食欲はあり、最良の量を余裕をもって収められる。それでよく腹が膨らんでいた。視覚的にも脂肪の厚みを感じられる。

胃の持久力はついてきているし、その調子も維持されている。体重が底に落ちた時と比べれば、一・五キログラムは増えている。

そこで少しの好調コンプレックスが湧いているか。それを理知的に抑えていきたい。無理をしないことで食欲を安定させる。食欲が安定しても食べ過ぎない。その連鎖する回転がはまれば、十分に肥えていくだろう。

問題なのは些細な無理がたたること。そうやって摂取が安定すれば、それなりの調子に戻っていくはず。無理なくフラットに摂り続け、消化酵素の力を借りる。そうなれば去年の水準を超えるかもしれない。去年も無理は頻発していた。それでも上向いたのは、消化酵素の力だったろう。

トラウマを負った人のストレスホルモンは、基準値に戻るまではるかに時間がかかる。ストレスホルモン値が絶えず高いと、知らず知らずに害が出る。どんな問題が生じるかは、各自の身体のどこが最も弱いか次第。

身体はトラウマを記録する P84

そういったことがあるのか。自分が弱いのは上腹部。慢性的な孤独により、絶えずストレスに見舞われている。それは哺乳類として生存確率を下げるからだろう。それでも記憶や注意、睡眠の問題は薄い。元々の機能が良いからなのか?

胃が弱いというのはどんな体質だろう。それは外胚葉型が一つあるはず。もう一つ考えられるのは、背側迷走神経系との関わりか。腹側迷走神経系との協働があってこそ、それが横隔膜下を整える。先祖が凍りつきで生き延びたのか、あるいは社会交流で生き延びたのか。それともただの体質なのか?やはり外胚葉にまつわるものか。

変わらず読書とインターネットをしている。ブログを記す時間が減った分、食事をしている人の動画をよく見ている。ブログに取り組みたくはないものの、創造的な仕事には従事したい気がする。それを少ししたい。

読書は大切だけれど、あまり楽しくはない。刺激的でないし、満足感がない。もっと面白い作業か仕事があれば良い。それは独立した別のスキルによるものか、セルフフィードバックによるものか。

 

トラウマやラベルについて学びたいけれど、そこまで精力的に励めないか。セルフフィードバックも尽きたし、強い意欲はない。自分の呪縛は大体が解けている。

フィードバックやそのブログを軸にするのか、あるいは別の作業なのか。勉強と文筆を生業にすれば良い?それが現実的でなくなったけれど、それ以外の意欲もない。嗚呼。

 

ブログに関わらず、クリエーションはアイディア勝負。それが尽きない産出を続けるだけで、十分な突出に繋がるはず。どんな仕事や創造的作業でも、アイディア・意欲・技能が尽きたらお終いだ。

アイディア資本と小資本の可能性。資本主義の前時代的フロンティアが消滅し、いかに有効なアイディアを生むかの世界になった。それはコンテンツクリエーションでも同じだと思う。

アイディアやアイディアの尽きない産出があれば、少ない資本でも成果を挙げられる。それによって何かの価値を見つけること。自分は記したい意欲が失せた以上、それを仕事にするのは難しいか。では、他に何がある?それが問題だ。

 

セルフフィードバックのための勉強と、ラベルや臨床的診断についての勉強。これらの意欲はまだある。でも、いつ途切れるか分からない。その勉強をいつまでも続けたいのか?それ以外の勉強・読書もしたいけれど、それをライフワークにしたいのか分からない。どんな生活をしていきたいのか。

フィードバックと選書を絡め、様々な言語化によるフックを展開していくか。読書と言語化が好きなのであれば、それが仕事になるかもしれない。セルフフィードバックや医学の診断を学びつつ、他の学びからも言語化をする。

ネックはそれをまとめるのが大変だということ。その作業も好きなのではない。嗚呼、社会的に成功した人は恵まれている。意欲のあることがたまたま文化的に必要だっただけ。仮に意欲があったとしても、それを形にする作業にまた別の意欲が必要。そしてそれが文化的に求められないといけない。

意欲と産出の相互作用。原動力と恒常的な産出。そしてそれが誰かの役に立った時、その人は天職と理想の生活を得る。その境地に達するのは恵まれた人だ。

セルフフィードバックの意欲は尽きつつあるし、それを何かに産出するのは簡単でない。やる気も技能もないということだ。どんな生活が理想かも分からない。すべては自活のためであり、経済的な満足を空想してみても、どんな意欲が生まれるか分からない。

何か簡単に出来る技能でも身に付けるか。そうやって稼ぐことが出来れば良い。でも、セルフフィードバックを探求したくある。他の読書もだ。それでは時間がなくなるはず。一体どうすれば良いか。

いつか意欲が生まれるなど、生活の変化があるのだろうか。そうなれば状況も変わる。何十年の単位で言えば、この町のインフラも変わってくるか。弱者に救いがあれば、絶望をしなくても良いかもしれない。どうなる?

 

また明日。

 

参考文献:

障害と化学物質 素朴な愛と喪失

午後の今は少し曇っている。暖房を点けないと肌寒いけれど、耐えられない程ではない。そろそろ辺りの桜が映えてきた。緑が繁る前の彩り。それが散って葉桜になれば、辺りは一気に緑になる。

この頃の体調はどうか。ここ何年かは記念写真を撮っていないはず。撮ってもらう人がいないということもあるし、そういうことが出来るのは好調の時。未来になってその調子を振り返るのは辛い。それもある。ただ、一年ぶりに調子は戻ってきているか。

一昨日の計測では微減していた。空腹で夕食を迎えたものの、そこまで腹は膨らまなかった。ただ、それなりには膨らんでいて、個人的な高止まりではあった。

でも、もっと美味しく頂きたいところだっあ。気持ち良い満腹感があれば肥えていく。そのために自我の制御なり、基本エクササイズをしているけれど、やはり時の運の要素が大きいか。とにかく快さだけを得られたら良い。

 

夕べの計測では急激な上昇があった。まさに急激で、大台よりも五百グラム多かった。夕食を快調に迎えられ、それでよく腹が膨らんだ。それだけでもかなりの変化だった。

前日よりも七百グラムの増加。やはり一食の快さが全てを決める。間食の量・回数は差ほど関係ない。胃の持久力がつけば摂りたいものの、まずは一食を爽快に摂るだけで良い。最低限の体力を得るにはだ。

一ヶ月で一キログラム増加がちょうど良いし、それで収まってくれた方が良い。今日以降はどうなるだろうか。満腹が遠ざかれば減っていくだろう。大台を維持できたら良い。

『身体はトラウマを記録する』読んでいる。そこから印象的な部分を引いてみよう。

人間の苦痛のほとんどは愛と喪失にかかわっており、治療にあたる者の仕事は、喜びも悲しみもすべて引っくるめて、人生の現実を人々が「認め、経験し、その重みに耐える」のを助けることだとセムラッドは私たちに教えた。

身体はトラウマを記録する P52 

こんなこともあった。ハーヴァード大学のこの高名な老教授が、夜、妻のお尻が自分の体に触れているのを感じると、どれほど心休まる思いで眠りに落ちることができるかを告白したので、私は驚いた。これほど素朴な人間の欲求を抱えてくれていることを打ち明けてくれたおかげで、そのような欲求が人生にとってどれだけ基本的なものかに、私たちは気づくことができた。

P52

自分もそんなパートナーがいてくれたら良い。それだけで良いのだろう。仕事とパートナーがほしい。仕事で生き甲斐を得、パートナーと過ごすことで豊かに生きる。そうやって健康と満足を得られたら良い。それだけが望みだ。今のところの目標はそれ。その下積みになっているなら良い。

 

そして改めて考えたのは、精神疾患とラベル、薬物治療についてだ。それについての新たな認知をたくさん得られた。それも引いてみる。

多くの節目を経て、精神の問題への取り組み方が徐々に変わっていった。耐え難い感情や関係の果てしなく多様な表出という捉え方が、それぞれに明確に区別された「障害」という脳疾患モデルに定められた。

P53

私たち人間がこれまでずっと扱いに苦労してきたあらゆる問題は、適切な化学物質の投与で治すことができる「障害」として再定義されたのだ。

P53

耐え難い感情や、関係の果てしなく多様な表出。言われてみればそうだ。鞍替え前の病院でラベルを貼られた時は、耐え難い扱いによる感情、そして人間関係における複雑な問題が絡んでいた。

そういった状態を包摂するのがラベルで、それは障害とされている。その前提を支えるのは、脳や化学的不均衡、遺伝子に異常があるとする科学。善かれ悪しかれ、それが市民権を得たのは周知の通り。

医薬品革命は、けっきょく、その成果に劣らぬほど大きな害をもたらしたかもしれない。精神疾患は主として脳内の化学的不均衡によって生じ、その不均衡は特定の薬で是正しうるという説は、メディアと大衆にも、医療の専門家たちにと同様、広く受け容れられた。薬は多くの場所でセラピーに取って代わり、患者が根底にある肝心な問題に取り組まずに症状を抑え込むことを可能にした。

P69

非薬物治療の研究はほとんど資金提供を受けることはない。(中略)  医学の主流は化学を通してより良い生活を実現するという方針を堅持しており、薬以外の手段で自らの生理的作用と内的均衡を現に変えられるという事実は、ほとんど顧みられない。

P71~72

ポリヴェーガル理論やポージェス博士の言葉など、ここ一年半で学んだことと重なった。原因が釈然としていない、あるいは不明とされている精神疾患、そして脳や遺伝子に原因があると推測されているその多くは、主にトラウマによる迷走神経系の機能不全が原因なのではないか。

そしてその症状は、必ずしも化学物質の投与では良くならない。それは各種のラベルにおける病態にも通ずるのではないか。薬以外の手段で生理的作用・内的均衡を変えられるというのは、ポリヴェーガル理論によるセラピーや、新しく生まれたトラウマケアによっても強調できる。自分はこの見地を強く支持したい。

特に「患者が根底にある肝心な問題に取り組まずに症状を抑え込むこもうとする」というのは耳が痛い話だろう。化学主義が覆らないのは、患者側にも原因があると思う。精神疾患を癒せるのは本人しかいない。とにかく本人が癒すしかない。

 

第2章の最後には、「適応か病気か」という節に重要なことが記されている。脳疾患モデルが見過ごした四つの事実。社会交流、言語化、基本的活動を通した生理的作用の調節、社会的状況・成功できる環境の構築。ポリヴェーガル理論からもそれは有用に思える。「人間性の典型的な特徴を無視すれば、トラウマから回復して自律性を取り戻す術を人から奪うことになる」という記述は、マズロー人間性の心理学を思い起こす。*1

精神疾患を癒すのに欠かせないのは、とにかく勉強をすることだろう。でも、それは誰しもが選べるものなのか?この状況・生活を築くことが出来たのは、自分が恵まれているから?切羽詰まって学びを迫られ、それを選択し、地道に積み重ねていく。これは大多数には出来ない?どうすれば世の中が変わるのだろう。

絶望に落ちてからの学び。それを自分が代わりにすれば良いのか?見知らぬ大勢が可哀想だと思っている訳でもない。本当に救われたいとさ迷っているのなら、「絶望と努力・学びが必要だ」ということ。手段がないと諦めている人がいるのなら、そうではないと言いたい。

 

でも、「最後には自分自身の力に懸かっている」とも伝えないといけない。それは今の自分にも言えることだ。

これからどうなることやら。学べる環境にあったのは恵まれたものの、治癒に繋げる行動を取れない。それが自分の大きなネック。

この生活は自分が作ってしまっているのか。居場所に出向けないのは努力の不足なのか?本当は運命を変えていけるのなら、今の状況は誰がもたらしたのか?

 

また明日。

 

参考文献:

*1:身体はトラウマを記録する P72

細分化された意欲 価値のある文化的な要求

今日も晴れている。ここ最近は連続して晴天だ。欠かすことなく歩くことが出来る。近所の猫と遭遇したりして、春を感じられている。あれだけ厳寒の季節があったのに、あっという間に変化した。ある夭逝したミュージシャンの音楽が浮かぶ。あらゆる風情や心情に則したBGMだ。

夕べの計測では減少していた。朝食では食前に食べられる量を見極め、昼食でも同じように摂れたものの、その後の収まりが微妙だった。

直近では間食を摂れずにいる。夕方までに食欲が湧かず、それで夕食を快く摂れなかった。それくらいだと体重は増えない。これも時の運なのか。体重は意識しない方が良いか。

昼食と夕食で爽快に摂れないところ。一膳より多く食べるのがきつい。直近に大台へ戻ったのは運なのか。消化酵素が効き始めたのでもないのなら、理由はよく分からない。

もう少し食事を楽しみたい。あまり美味しくは頂けていないか。朝食は快調が続いているものの、その後に胃が動かなくなる。好調時であれば、多少は無理をしても打撃にならない。そうでない今はその逆がある。

 

今朝の朝食後に薬を飲む時、最後の一口を余分に口に含んでいた。余計だと感じつつ、「便通のためにも」と飲み込む。その結果で嫌な悪心がした。過剰な無理ではなかったものの、それが響いてしまうこの身体。水の一口でこうなってしまうか。

嗚呼、やはり生活扶助を貰い、移動のサービスさえ使えたら良いのか。そんな気分になってしまう。仕事が全くない。何も能力が活かされていない。人間が無価値であるという意味でないものの、何の役にも立っていないのは事実。自活が出来ておらず、自力では生活が立ち行かない。

 

昨日に『身体はトラウマを記録する』が届く。六百ページに及ぶ大著。値段は張ったものの、知恵の結晶に比べると安いものか。研究の労力を買ったと思えば良い。一ヶ月以上は細切れに読んでいくはず。何か認知を得られたら記そう。

もうアウトプットも尽きてきたし、他の意欲も湧かない。もう自活の種などないのではないか。ふともう諦めたくなった。「後は手帳さえ通れば良い」と、そんなことを思ってしまった。

まだある意欲としては、読みたい書籍があるということ。でも、身体はそれなりに楽になった。精力的に励むのは難しいか。今は自活のための勉強をしたい。健康になるための方法は分かった。あるいは現実に則した自立をするだけ。その中心にあるのが自活だ。

情熱を生み出し燃え立たせる鍵は、あなたの中で最も熱く燃えるひとつのモチベーションに従うことではない。むしろ、意図的にできるだけ多くの異なるモチベーションを活用することだ。

あなたが認識し活用できる、独特で細分化された「好きなこと」「小さなモチベーション」が多ければ多いほど、あなたは思う存分、自分の人生を切り開いていける。

Dark Horse 「好きなことで生きる人」が成功する時代  P99

個性に基づく充足感やモチベーションとは、いったい何があるだろう。自分には習慣の束縛があって分かりにくい。朝一番にすることは読書か。でも、それも習慣によるもの。

真にやりたいことや好きなことは何か。情報に触れることだろうけれど、それがコンテンツの産出には繋がらない。あるいはとても難しい。細かなモチベーションも重ならない。選書が選択肢にあっても、人に伝えたい意欲はない。

 

他の書籍にも似たようなことが記されていた。

システムの効率化の中に取り込まれないために持つべきなのは何でしょうか。それは、システムになくて人間だけにある「モチベーション」です。

人間社会をどうしたいか、何を実現したいかといったようなモチベーションは、常に人間の側にある。だから、それさえしっかり持ち実装する手法があれば、いまはシステムを「使う」側にいられるのです。

働き方5.0  ~これからの世界をつくる仲間たちへ~ Kindleロケーション2154の448

今ある意欲というのは、「健康になるための方法を勉強すること」「自活をするために勉強すること」の二つしかない。前者は社会交流が必要だと分かっていて、後者の勉強には意義があるか不明だ。勉強をするにしても、技能を身に付けるためのものか、好きや情熱を高めるものをすれば良い。そうするしかない。

社会交流をし、価値のある文化的な作業をすれば良いのか。あるいはそれをするような暁で、自分は何を目的に生きるのだろう。そうなると何も浮かばない。今の日常にある勉強が要らない世界。その先に何の意欲が残っているのか。

それが分からないのが重大なネックだ。贅沢な話であっても、これは皆が抱えているようなもの。極められるような趣味もなく、学びの他にモチベーションがない。すると役に立つような産出にならない。つまり何にもならない。そして稼ぎが得られない。

 

そんな未来がやって来そうでならない。貯金はどんどん目減りしている。年金の支払いも免除されているし、経済的な破綻へまっしぐらだ。健康が遠く、経済的な自由も同じ。それはこの町において不自由を表す。自活の出来ない病人など、生活の自由がない。

それは自分のせいなのか?あるいは家族、他人のせい?時代の宿痾を背負っている?こういう運命にある人間がいて、破滅の過程を記せば名を残せる?そう燃え尽きるのが定めなのか?

まもなく二十一歳。いつまでこの生活に耐えられるのか。親の存在や扶助もそうだし、そろそろ日常に哀れさが出てきそう。いつまで取り残されるままなのか。過去に意味は生まれるのか。今夏には成人式がある。

 

また明日。

 

参考文献:

神経系への刺激の欲求 協働調整の必要と能力

今日は晴れのち曇りか。午前は晴れていて、いつもの道を散歩した。変わらず消耗はないものの、エネルギーが余っている訳でもない。まだ抜本的には上向いていないか。

そしてまた内的に費やすのみ。読書とインターネット。セルフフィードバックはそれなりに済んでしまったし、何かの意欲・情熱もない。誰かの役に立ちたいことがない。

 

少し前に食欲不振が連続していたけれど、夕べの計測では大台に戻っていた。時の運による一喜一憂の後の出来事。ここ直近で急激な右肩上昇だ。これは一時的なものか否か。

昨日は夕方までの空腹感が強くなかったものの、食前の漢方が悪く溜まらなかった。それで最良の量を摂れる。腹の膨らみはそこまで感じなかったけれど、計測では明確に変化があった。これからどうなるのか。

私たちは、協同調整する必要と能力によって定義されます

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P281

これに関連する記述もあるだろうけれど、上記の部分はそれだけが記されていた。社会全体の通念として、人間は協働調整するものだと認識されているか。確かにそうかもしれない。それが出来ないことで臨床的ラべルを貼られ、社会的立場も固まってしまう。その本質はこの多重迷走神経理論にある。

私たちは、ポリヴェーガルのレンズを通して、これらの生理学的状態が心理的物語を作り出す、ということを理解しています。自分自身について、他者について、関係性についてのクライアントの物語は、彼らの自律神経系の状態に支えられます。自律神経系の状態の調整が取れているときに初めて、クライアントは、柔軟で壮大で、創造的で、スピリチュアルな思考を持つことができます。

 P281

自律神経系の内なる叡知に敬意を払い、防衛パターンを作り直し、つながりのパターンをリソースとして再形成するのにちょうどよい量の神経系への刺激を与える方法を探すことです。

 P282

「ちょうど良い量の神経系への刺激」か。人間は他者との協働調整をすることにのみ、生存確率を上げられる。基礎の低次欲求を満たし、所属と愛、さらに尊敬と自尊を得ること。そうすることで心身の健康がもたらされる。

そうやってストレスを解消すること。それはすなわち、生存を確かにするということ。ちょうど良い刺激とは、基本的欲求の満足だろう。まさにマズローの理論と重複する。この本質論は様々な汎用が効く。

 

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』は再読を終えた。次に読む書籍は『身体はトラウマを記憶する』にしよう。その先にはピーター・ラヴィーン氏の書籍があったり、発達性トラウマに関するものがある。新たなセラピーはどんどん生み出されている。

それをもうしばらくは開拓するか。それ以外のセルフケアの書籍も見逃せない。それが済めば次は発達障害などか。あるいはセルフフィードバックに繋げない勉強もしたい。

「人間の集中力は三時間しか持たない」と記されていた。あるインフルエンサーからの情報で、別の人も同じように記していた。『スマホ脳』にはたしか「原始時代の狩りの時間は数時間ほどだった」と記されていたか。

二時間の読書とアウトプットといったところか。本当に頭が働くのはそれくらい。そのアウトプットをどう施そうか。書籍のレビューや書評が気になるけれど、その表現は難しそう。大変な作業になると思う。

でも、フィードバックの種は尽きている。欠乏ブログ/日記・パーソナルマップと、セルフフィードバック/選書・レビューに分岐させようか。あるブログもこのようなスタイルだと思う。

人となりや生活、思考が分かる文章が前者で、後者はラベルや臨床的診断に依存しない価値観を提唱する。そのためのフィードバックを体現し、教育する。そこから書評かつ販促に繋げる。それぞれの独立は難しいか?

 

最近にブログへ100アクセス近くあった、詳しくは分からないものの、一人の方に多く閲覧されたと思われる。はてなのトップページに載った訳ではないはず。

何か琴線に触れたのであれば嬉しい。それだけでも自信がつくし、「積み重ねたことは無意味でなかった」と思える。

でも、その後はめっきりだ。零か一桁台の前半が大半。過去のエントリーを修正しているけれど、「それなりに良いことを記している」と思えたりする。その実際の評価はどうなるのだろう。

それは人目に曝さないといけない。クオリティーが足りないのか、場所が悪いのか。どちらにせよ、とにかく工夫が欠かせない。ひたすら変化をすること。選択肢は全て試すしかない。

 

何か出来ることで仕事をしてしまえば、もうほとんどの悩みはなくなる。何か需要のある仕事に費やすか。そうして空いた時間で勉強する。それを義務的にアウトプットへ繋げる必要はない。日記を記しつつ、セルフフィードバックもしていく。

欠乏ブログ、セルフフィードバック、書評・選書ブログ。お金にならないことであっても、自分の出来ることを与え続ければ良い。それで役に立ったり、感謝されたりすれば儲けもの。それが才覚の油田であり、後はそれを展開していけば良い。

そのためには評価が必要。嗚呼、またここに行き着くか。どうすれば良いのか。出来ることと言っても、簡単に使いこなせる技能は思い付かない。何を簡単に産出し続けられるか。それが全ての鍵だ。

 

また明日。

 

参考文献:

神経系の協働 恒常性の維持

今日は曇り。いつもの時間に散歩へは行かず、両親と墓参りに行く。もっと前に雪は解けていただろうけれど、ようやく拝むことが出来た。祖母は老衰で外出が難しくなる。時が進み、それぞれの人生も進んでいる。いや、押し出されているというところか。

昨日の夕食はまた微妙だった。ここ二日は似たような摂取になっているか。朝食はよく摂れるものの、昼食までに食欲が湧かない。そこで満腹まで食べてしまい、夕食でも食欲が薄くなる。

そんな調子が続いている。計測では微減していて、少し腰の肉も減っていた。朝食でよく食べられるのがかえって悪く働いている。昼と夜にもっと食べたいけれど、そのためには食欲が必要。またフラットに摂りたいところ。

 

体重が増える時というのは、必ず気持ち良い食後感がある。腹が膨らみ、明確な差を感じられる。より増加して安定する時は、多少の食べすぎがあっても影響が薄い。胃の持久力がつき、持続してそれなりの摂取が続く時。

それは明確な好調の時。そんな時から長らく遠ざかっている。もう思い出すのも大変だ。これから取り戻せはしないのか?

動画である人の食生活を見た。摂取量が表されていた訳ではなかったものの、気楽で一般的な摂取を垣間見た。摂る時間は良いとして、量は気楽でも良い。その時その時で、気楽に腹を収めれば良いだけ。摂取量は関係ない。その神経の太さを感じた。これからその意識でいたい。

改めて交感神経系にまつわる認知を整理した。逃走は特定の場所を避けることも含まれ、一人でいることや、集団に属していないのは危険を表す。

交感神経系が防衛機制として発動した場合、背側迷走神経系の健全な機能は抑制される。すると、内臓の働きのために使われるエネルギーが可動化に転換される。

交感神経系は、体内の血液量を増加させる機能を持つそう。それは健全な呼吸サイクルと心臓のリズムをサポートし、体温を調整する役割を果たす。それが腹側迷走神経系と協働すれば、心拍と呼吸数を調整する。そして背側迷走神経系と協働することで、消化がサポートされる。

腹側迷走神経系の調整がよく取れていれば、三つの神経系が協働し、身体の恒常性の感覚が保たれる。やはり今の自分はそれが欠けている。逃走反応が背側迷走神経系の働きを阻害し、最低限の代謝しか維持されなくなっている。

孤独の感覚は、誰かに向かって手を伸ばしたいと私たちを駆り立てますが、脅威に対する用心深さも増加させます。そしてコルチゾールを増し、交感神経系を活性化させます

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P59

逃走反応をし続けていても、自律神経系は協働調整を求めるそう。交感神経系の過度な活性化と、それによる背側迷走神経系の機能の低下。これらの調整をとるのが腹側迷走神経系。とにかく安全の合図を与え合う協働調整が必要だ。

でも、やはり社交は難しい。何年もその場から離れている。もう視野に入らなくなった。相手はペットくらいしかないと思う。近所に親しい人はいない。タクシーで誰かに会いに行くべきなのか?嗚呼、そうしてもらうのが親孝行なのか?

仮に経済的自由と健康を手に入れたとする。それを維持するのには何も要らない。では、有り余った時間とエネルギーをどう用いれば良いか。そういった生活を考えてみれば良い。

その状況で費やすことをライフワークにすれば良い。趣味か勉強のどちらかだろう。それを通して何か役立つことをする。すると理想の生活に自活が伴う。その逆算が良いのではないか。

 

好きなことでインプットを高め、それを技術に転用・昇華させる。それで人の役に立てたら至高。同じ悩みを持っている人や、同じ趣味をもった人に働きかける。

好きなことでインプットが高まっていれば、それについて上級者になっているかもしれない。そして同じ分野の初心者に働きかける。好きなことにお金を費やしていれば、やがてインプットが大きくなる。

それが誰かの役に立ったり、誰かの娯楽を生んだりするかもしれない。必要なのは零から表現すること。情熱や知識なりを分かりやすくまとめる。それだけで上述の価値がつくかもしれない。

そのためのアイディアが勝負だ。いかに役に立つか、あるいは創作をするか。ともかく零から創造をしないといけない。価値を見つけられたなら、後はそれを拡大していけば良い。

示唆に富む書籍を読んだ。かなり有益な視点を得られた。これからそれを再読し、もう一捻り思考していく。

経済的に満足があれば、いったい何をするのだろう。トラウマや自律神経理論を学ぶのか、それとも稼ぐための勉強をするのか。

今の原動力は、「自活をしたい」ということのみにある。セルフフィードバックも尽きたろうし、何をするのか。人の役に立たなくても生きていけるのか?何かを作りたいという意欲も、何かの情熱もない。どうしたものか。

 

また明日。

 

参考文献:

自律神経の反応と物語 気付きと言語化

今日は久しぶりに雨が降っている。いつもの散歩の時間は曇っていたため、その内に歩いた。変わらず消耗しないものの、もっと歩きたくもならない。

変わらず読書、音声、動画で面白い情報に触れている。そうやって思考するのが好きだ。それならいくらでも出来るか。ただ、それが産出には繋がらないところ。

夕べの計測では微減していた。それは昨日に比べるとそうで、最近で言えば十分な水準ではあった。夕食はよく食べられた方だったけれど、抜本的に変わった訳ではないか。

ただ、一食の量は少し増えた気がする。無理も減っているし、それが大きく影響することも減った。このまま次第に上向けば良い。

 

今日の昼食では少し食べすぎたか。食欲があまり強くなく、早期膨満もしていたかもしれない。腹九部の内部信号は感じていたものの、最良の量を食べようとはやってしまった。それで案の定きつくなる。

今朝によく食べられたため、それがかえって好ましくなく働いたか。その負債は残らなかったものの、食欲には影響した。それがあるかもしれない。無理せず多く収められたとしても、それが胃の持久力を超えてしまうことがある。やはり規定の量しか食べない方が良いか。

親の影がちらつくのもある。一人で暮らしているのであれば、どのくらい腹に収めようが構いはない。もしそうならば、真に食欲に応じて食べられるかもしれない。

一人で食べる物を用意し、好きに腹に収める。それは親の世話がなくなる世界との交換。どっちが良いものか。いや、選べるものではないか。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』をほとんど読み終える。かなり時間がかかったものの、少しずつ読めば必ず読了できる。今は他のことも学びたいし、それで良いと思う。並行して他の読書も進めている。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』では、最後に結論がまとめられている。そこに複雑性トラウマへのポリヴェーガル理論によるアプローチの事例がある。

彼女は、自分の自律神経の系の反応を、彼女の辛い物語と切り離すことを学びました。彼女は、気づき、言語化し、自分の反応に向き合うことを実践しました。彼女は、「奈落の底に落ちていく体験」を繰り返す傾向がありましたが、それは、適応的な生き残り反応で、基本的な性格の欠陥ではないということを理解し、自分を尊重することを学びました。

セラピーのためのポリヴェーガル理論p277

この自我の力が大切なのだと思う。ポリヴェーガル理論の言語に熟達しようとし、気付きを言語化する。そうして理知が心理的な物語を書き替える。

それはポージェス博士やアーロン博士も記していた。勉強と捉え直しがいかに大切かということ。人生の初期に協働調整が欠けていたとしても、まだ神経系は組み替え可能であるそう*1

臨床的な診断を超えて自分の状態を理解することで、クライアントは、自分が取っている行動や信念を、生き残りに貢献する適応的な反応として見ることができるようになっていきます。ポリヴェーガルのアプローチは、クライアントを恥の苦しみから解放します。 P280

私たちが自分の反応に気づくずっと前から、私たちの自律神経系は反応してきました。そして、それが繰り返されるにつれて、習慣的な反応パターンが形作られます。私たちは、ポリヴェーガルのレンズを通して、これらの生理学的状態が心理的物語を作り出す、ということを理解しています。P281

まず基本的なポリヴェーガル理論を理解し、そこから理知によって心理的物語を書き直すという形。そのための様々なエクササイズが記されていた。こういったアプローチも重要だろう。有益な認知も得られたし、良い勉強になった。

所属と愛、自尊心の欲求の満足が人生を左右する。所属と愛によって欠乏症を癒し、技能を磨いて誰かの役に立つ。それが健康と幸せをもたらすはず。誰かの役に立つには技能が必要。そう考えれば、自分には文章くらいしかない。でも、産出に繋がる種がない。

ブログは自己を発現させるだけで良い。価値を生もうとしなくて良いし、欠かさずに続けなくても良い。とにかく自分らしく、自分の創作物、意見、価値観、技術をまとめる。それだけだ。

生み出し続けられるものを見つけ、やがてそれで感謝されたり、褒められたりしたら儲けもの。後はそれを拡大するのみ。とにかく自分のメディアを育てれば良い。

文章、音声、動画、画像、それらの何でも良い。市場性の高い場所を選び、コンテンツを生み続ける。そしてそのメディアを成長させる。コンテンツの中身を磨き、工夫して拡大させる。全てはそれだけで良い。

 

セルフフィードバックのスタイルがネックだ。始めから勉強をコンテンツにすれば良かったか。勉強で得た認知を経験と絡める。それを似た魂の人に届ける。

もっと情報を主に据えれば良かった。欠乏のブログは邪魔になるか。最近ではアウトプットの種が主になっていて、それもまたネックとなっている。

場所を移動したいけれど、大勢の目に触れるのも怖い。ここでも交流は出来ないものか。出来るだろうけれど、似たような人が見つからない。誰かに自然に見つけて欲しいけれど、そうはいかないのがこの場所。どうしたものか。

 

また明日。

 

参考文献:

*1:セラピーのためのポリヴェーガル理論 276P

安全な不動化 畏怖体験と神経系

今日も晴れている。まだ四月の中盤にも関わらず、夏日を記録した地点があるそう。もう暖房を使っておらず、服装も少し薄くしている。夏頃にはどうなっているのか。温暖化の影響なのか?

 

夕べはよく摂れなかったものの、計測では微増していた。底の数値より一キログラム増えていたか。食欲が薄くてもその結果だった。そこまで快調ではないものの、調子が変わっているかもしれない。尿量の誤差もなかったはず。

強いて挙げるのなら、諦めに近いような無理の抑制があるか。ここ何日間はそうかもしれない。三食でも過度な無理は少ないし、間食でもはやる気持ちも薄いか。意識や認識を緊張させているのではなく、気楽に感じられている気がする。

摂取量の内部信号を受け取ること。体重が大台へ戻れば、去年の春頃まで近付くのではないか。そうなれば最低限の体力を得られる。すると現実的な自立が見えてくる。

私たちは、生き残るためにお互い頼り合います。まず、生まれてすぐに、養育者からの世話を受けなくてはなりません。その後は、親密なつながりの時間を継続するために、私たちは防衛を解除し、安全な不動化の共有体験に入る必要があります

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P254

どうやって不動化しない相手を見つければ良いか。ペットくらいが現実的か。公的な居場所は何十キロメートルも先にある。そこで社会交流をしたとしても、その不動化の体験をするのは難しいはず。近しい人でないと始まらない。それは地理的に近い人。対人での社会交流は棄てざるを得ないか。

畏怖は驚異の感覚をもたらします。中略 私たちは、畏怖の瞬間に、自分の存在を小さく感じ、同時に、自分よりずっと大きな何かとつながります。このつながりの感覚は、私たちを分け合い思いやる喜びへと導きます。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P260

畏怖は物質的な物や社会相互作用というより、むしろ自然、芸術、音楽の中にある豊かな体験を通して祝福へ導く。畏怖体験は、孤独で時間が遅くなるように感じる静けさの瞬間にある。孤独がちな人であっても、リソースになる畏怖体験と繋がれるそう。小さな畏怖の瞬間を味わうことを重ねることで、やがて腹側迷走神経系の能力が築かれていく(セラピーのためのポリヴェーガル理論 P260)。マズローの至高経験を思い出した。

遊ぶこと、安全を感じながら静けさの中にいること、日々に畏怖体験を味わうこと、高揚感を味わって鼓舞されることがないと、日常生活の活気が失せてしまう。これらの体験を少しずつ味わうことで、神経系は整っていき、よく生き、よく愛する人生を歩むことが出来るようになっていく(セラピーのためのポリヴェーガル理論 P264)。

アーロン博士もこのように記されているはず。生理学的な状態の調整と、畏怖や高揚などの精神的な刺激。センシティブパーソンは特に自然が必要で、親愛なる関係もまた必要。それはタフネスパーソンよりも重要でないか。協働調整、自己調整、自然。もう一度アーロン博士の読み直そう。

コンテンツクリエイターならば、種が尽きないアウトプットをすべき。そうしないと始まらない。そのなかで、文章の産出が尽きつつある。これをどう捉えていこうか。

文を記した始まりは記録が大きいか。六・七年前の入院の際、体重と入院の記録を始めたのが切っ掛けだった。それが日記になっていき、段々と辛さの吐き出しに変化していった。

もうそのエネルギーがなくなった。記したいことがない。フラストレーションもないし、記録したいこともない。そして何か別のエネルギーが生まれない。一つの区切りか終わりが来たか。

せめて過去のストックを活かすか、他の種類の表現に移るか。いや、思考と文筆しかないと思う。文章を仕入れて新たに製造する。それくらいしかないだろう。読書と思考と表出。後はそれによる選書か。

セルフフィードバックを活かしつつ、それに繋げる。では、今は何をすべき?フローの更新を止める?後は純粋な日記だけで良い?何をストックに留め置いておく?これに市場からのフィードバックがあれば良かった。

 

また明日。

 

参考文献:

神経系を操る能力 繋がりの中の遊び

午後の部屋は暑いくらい。春に入った程度でこの日和か。午前に通販で買ったパソコンが届く。これでブログを整えられる。設定をいじって読書をした。

なかなかアウトプットには繋がらない。何かの労働に費やせば、習慣の縛りを設ける必要がなくなるのか?そうなれば好きにインプット・アウトプットが出来る。そう思った。

必要な技能を身に付け、それで自立自活する。創造的なことはその後にすれば良い。それが理想なのかもしれない。でも、今の生活でも創造的なことは始められる。インターネット上の人格や技能を定め、後は価値の提供だったり、承認を求めれば良い。

それだけのことだ。何かを表現したり、問題を解決すること。それだけで良いけれど、過去に積み上げたものがネックになる。方向を変えていくのか、貯蔵をいじっていくか。それを悩んでいる。

体調や体力は安定している。胃の不定愁訴を除いた場合、体調不良はほぼない。身体は健康な方なのか?生活リズムを崩すことはなく。習慣のコンプレックスが良く働くところだ。

夕べはよく食べられる。一昨日と比べるとそれは明確だった。食欲や胃の軽さがあり、早期膨満も薄い。そして計測では増えていた。この調子であれば上向くと解った。そう気付いたのは良かった。

これが自然と続けば良い。過度な無理もしていないし、そろそろそうなってくれても良い。食間の無摂取も避けようとしている。ストレスも目立ったものはないし、春の日和が加わってほしい。

神経系が複雑に絡み合っている状態をうまく操る能力が限られていると、クライアントは、遊びの豊かさ、親密性の優しさ、畏敬と高揚感を味わうことができません。(中略)  あそびは、活動と落ち着きの間を柔軟に移行する能力を強化するエクササイズです。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P248

この事はアーロン博士も記していた。遊んで楽しむことでエンドルフィンが分泌されるなど、様々な良い変化を起こしてストレスを解消する*1。ただ、トラウマサバイバーにとって、互恵的な体験に携わり、安全に繋がり続けるのは簡単でない。

遊びを試しながら活性化と落ち着きの間を行き来すれば、次第に上手く自分の状態を調整できるようになるそう。子供の頃の遊びの記憶を辿り、遊びのプロフィールを作ると、どのように遊びに取り組んできたのか気付きを得られる。すると、安心して遊びを試してみることができる*2

スクリーンを通したものではなく、ひとりの人の自律神経系が相手の自律神経系の共鳴し、つながりの中で遊ぶことで、私たちは健全さを取り戻します。

セラピーのためのポリヴェーガルのP254

やはりそれが協働調整になるか。それがペットで代替できるなら良い。可能性はそれくらいしかない。近所には誰もいないし、公的な居場所は遠くにある。

だとすれば、内臓機能が落ちた状態で過ごし、最低限の体力を維持するのみか。後は移動サービスを使って生きる。それが現実的な限度か。今後しばらくはその生活になりそう。いや、いつまでもそうなるかもしれない。

 

セルフフィードバックの種が尽きたし、それを展開するにも意欲が持てない。同じ悩みを持つ人に働きかける。自分のフィードバックを伝え、医学の定説や診断を疑うこと。それに救われない人を救う。そのための勉強や価値観を表す。セルフフィードバックと読書、派生して選書に繋がれば良い。それをどう実現するか。

ブログを開設した頃に戻り、「好きに始めれば良い」と伝えたい。好きに自己を発現し、似た魂を持つ人が助かるようなことをする。それを市場性が高い所で行う。承認の希求と価値の提供。今から零で始めても良いけれど、そうなると戸惑ってしまう。自分には読書と文章しかない。

 

また明日。

 

参考文献:

*1:ささいなことにもすぐに動揺してしまうあなたへ。P139

*2:セラピーのためのポリヴェーガル理論P249~252

食間の影響 空腹と皮下脂肪

午後の部屋は暑い。暖房をつけなくても良く、それどころか暑い。分厚い身衣を解きたくなる。一気に季節が進んだよう。

 

変わらず読書、音声、インターネット閲覧、これに費やしている。体力はあるけれど、他に創造的なものへの意欲はない。

「稼ぐことで自分を好きになれる」というタイトルの投稿があった。言いにくいけれど、とても共感できる。貨幣経済的な自由があったとしても、それだけだと精神的に辛くなる。役割がないとそうなると思う。

それに耐えられる人とそうでない人がいる。何かに感謝されるのは欠かせない。自分には何がある?身近な人に感謝されるのが良いだろう。現実の近しい人に褒められたり、オンライン上で感謝されたりすること。

後はそれを拡大すれば良い。それに価値がある。誰かに応援されているのなら、好きに自己を発現すれば良い。でも、自分にはどちらもない。好きな表現するものもないし、誰かのニーズに触れることもない。

 

夕べはよく食べられる。早期膨満も薄く、いつもより一口を食べられる。それで少しきつくなったものの、気分が悪くなる程ではなかった。今朝に負債は残っていない。

でも、計測では増えていなかった。一膳と主菜だけではそうなるか。まだその水準にいる。食欲は安定してきているけれど、まだ持久力は上がっていない。

 

昼食でも早期膨満は薄く、ちょうど良い量で収められた。意識していたかは覚えてないけれど、満腹に近づいた時に抑えが効いた。摂取量の内部信号を捉えたのは偶然か否か。それは意思の力だったのか?夕食はフラットに迎えられそう。そこでも同じように摂れるのか。

いつもの食べられる量を用意するのが大切。そのなかで、かなり余裕があると思ったら余分に摂れば良い。でも、その見極めが難しい。必ず適切な量のサインはあるだろうけれど、それを見逃してしまう。

それは確たるコンプレックスの仕業か?それがなければ上向くのか?消化酵素の力があってほしい。理知の力と薬物の力。春だから上向いたりはしないか。去年はそうだったはず。

 

今朝の新聞に皮下脂肪について記されていた。中性脂肪が空腹時の血液に多く含まれる場合、皮下脂肪として蓄積されるそう。その逆の少ない場合は痩せてしまう。これは初めて知った。

食間の空白が影響するのか?ドクターの言う通り、回数を均して摂取すべきか。脂と糖が脂肪になるということ。それは摂れていないか。高いカロリーの物に限って消化が出来なくなる。何時間も胃に滞留してしまう。

内臓脂肪は違う性質があるのか?それを調べてみたけれど、全く記されていなかった。ダイエットサイトばかりだったから仕方ない。内臓脂肪の方が貯蔵に優先されそう。

読書をし、音声を聴いて、インターネットを巡回する。発信を活発にしたいけれど、積み上げた物の出来が気になってしまう。それを拡大していくので良いのか。もっと市場性のある場所に出て、見やすく人格をまとめる。そうしないと始まらないだろう。

でも、ここで記すのが定着している。セルフフィードバックが尽きたら何になるのか。選書に目を付けているけれど、どう繋がっていくか分からない。いや、そもそも始めてもいない。

これから過去のエントリーを選別・加工していく。せめてここでも見やすくする。その後に場所を変えるかは分からない。ここで記しつつ、プロモーションをしていくのもあるだろう。

 

また明日。

身体に根差した物語 安定の継続

今日も晴れている。ここ直近は晴れの日が多いか。夕べは雨が降ったものの、散歩の時間には晴れることが多い。まだ風が冷たいものの、気分爽快に歩くことが出来る。自然に触れるのは大切。それだけでも脳内に物質が出る。

トラウマ的体験から、喜びの体験まで、全スペクトラムを通して、身体がそれを体験し自律神経系が物語を紡いでいることが、理解され始めています

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P209

次に読むのは『身体はトラウマを記憶する』にしようか。引用した記述のその前には、ヴァン・デア・コーク氏の発言が引用されていた。効果的なセラピーは身体に根差したものであるそう。タッチにまつわるセラピーが紹介されていて、とても興味深かった。それにまつわる書籍もありそう。

過去のエントリーを管理していると、身体がきつかった頃に当たった。それは去年の夏辺りで、かなり体調が乱れていた。その状態はまだ続いているものの、病的に無理をすることは減っている。それはあるだろう。

戻しそうになるような事がなくなれば良い。そうなれば体調は安定するはず。今はおおよそそうだ。コンプレックスによる慢性で突発の苦しみがなければ良い。この一年はどうなるだろう。四ヶ月間でまだそれはない。

 

昨日はブログを書かなかった。気づきも薄かったし、何かを記したくもなかった。毎日の更新は途切れる。でも、欠かさず更新するなら軽めが良いだろう。アルゴリズムに優遇されることもない。産出できる人がすれば良いもの。

それもどんな形が良いのか。まとまったコンテンツを積み上げたとして、次は何を表現すれば良い?セルフフィードバックがラベルや診断に頼らないためのものなら、それが価値観や技術になったりするのか。それを誰かに教育し、まとまったコンテンツを訴求する。それで一区切りになる?

出来ることで役立とうとしたり、純粋に承認を求めること。この欲求が湧けば良い。持っている熱量や技術を表現したり、褒められたいことを定め、それを繰り返し表現していく。それだけで良いはず。どんなものでも良いから、とにかく始めて試行錯誤すれば良い。

基礎年金だけでは生きていけないものの、それがあれば書籍代に回せた。それは大きかっただろう。また申請できるのか?本当は貰える状態でないのか?

まだ貯蓄はあるものの、それが減る一方だ。回収が出来る見込みはない。毎月一万円ずつ使っていけば、およそ八年後に全てが尽きる。これは長いのか否か。

 

仮に手元に何十億円かあるとする。そうなればどんな生活をするだろう。ここ何ヵ月かは全てを自活に向けていると気づいた。金銭は手段なのか目的なのか。本当にやりたいことは何か。

物も欲しいけれど、やはり自尊心が欲しいはず。ただ、社会的な価値も生みたいけれど、自由に物を手に入れたくもある。その狭間にいる。技能を身に付け、空いた時間に好きなことをすれば良いのか。

 

セルフフィードバックを閲覧しやすくまとめ、読書の記録や日記を発信する。フィードバックでファンが生まれたら、読書をしている毎日に価値がつくかもしれない。

読書と捉え直し。そこから派生して選書をすれば良いか。それが可能性としてありそう。フィードバックが尽きたなら、方向転換が必要になるだろう。

 

また明日。

 

参考文献: