欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

無理のしすぎ 過去の人と緩衝地帯

午前から曇っていたけれど、午後になって雨が降り出した。灰色の閉ざされたような雰囲気で、気分も下降していく。ここから晴れてくれたら良い。そうなれば、それだけで心に光が差して明るくなる。

暖房の効いた部屋と厚着した体。秋や冬にも風情はあるけれど、昔の苦い記憶もイメージされてくる。空気の感触や色合い、風、匂い、光、日の長さ、季節ごとの日常とその移ろい。細かな要素の中で、何が浮かんでどう振り返るか。その時の気分で変わってくる。この頃はどうだろう。良くもあり、悪くもある。

夜の寝ている間、どうも歯ぎしりをしてしまっている。夕べは歯が抜け落ちる夢を見た。ありありとした感触の夢だった。歯がぐらぐらしている感触を、確かに感じていたのだった。怖くて涙が出るなか、最後にぐらぐらの歯が抜け落ちてしまう。だらだらと血が流れ出すなか、口を開け、顔を崩して涙を流していた。そんな怖い夢だった。

日頃から感情を抑え込んでいたり、抑え込んだことで生まれる感情すらも抑え込むと悪夢に繋がるそう。そうアーロン博士の本に記されていた。HSPは悪夢にうなされることが多いとのこと。

何かの行動ではなく、ただただ涙が出るくらいに怖がっていて、ぐらぐらの歯が抜けたところで夢が醒める―。

何の原因があるかは定かに閃かない。ただ、何かのフラストレーションが悪夢を引き起こすのは確か。それを表層の自我は理解していて、日頃からそれは認識されている。だから恐らくは、

(あの夢を見るということはフラストレーションが溜まっている。それは解る。それがある。でも、現状はそれを理解しているけれど、何も改善をすることが出来ない。なかなか変われない。変わりたいのに変われない。悔しい。どうすれば良い?どうすれば変わっていく?このまま朽ち果てていくのか?

そう思っている。フラストレーションを晴らそうということが叶わず、それすらもフラストレーションとなってしまっている。無垢な自我は抑え込まれ、見えない所で泣き叫んでいる。焦燥、不安、孤独、暗闇。取り残された感情は、未だに取り残されたままだ。

ずっと人の気持ちばかり感じ取って優先し、その人を喜ばせようとしていた。些末な言葉や言動が頭に残り、それによって意識を左右される。引いては過去の人まで喜ばせようとしていたHSPの認知を得た後、こういったものがあったのだと知った。残像の過ぎ去りし人が離れず、その人の願いをひたすら叶えようとしていた。

答えるべきメッセージはたくさん湧いてくる。内なるものと、それをかき消す周りからくるもの。HSPのことを知り、成されるべきことを理解しても、日頃の癖は大きい。容易には変えがたい事がある。認識が病的に歪んでしまっている。

 

個性の個性化、盤石化が必要。無意識のナチュラルな反応を受け止め、意識のレベルへと押し上げる必要がある。言いたいことは言い、伝えたいことは事前に伝えること。無理なものは遮断し、叶えるべきことは叶える。当たり前の折り合いをつけることだ。そうしなければ、絶えず身体がダメージを受け続けてしまう。

自分の感情を外面に持ち出しすぎることが問題だ。そうなれば、本来の自分の感情が取り残される。それらは歪みとして、身体や心が受け止める。それが由々しき症状として現れてしまう。

きちんと緩衝地帯を設けることが必要。誰かの心音や、雑音が入らないような時間を取ること。自分の感情を意識に引き上げられるようにすること。そうやってバランスを取らなければならない。

これらが出来たら良い。そうしたいし、そうしないといけない。

親を責めることは出来ないけれど、未だに自分は何年も前の親を喜ばせようとしている。親の行動は、自分の中で痛手として刻まれた。親が対処したのは、あるいは対処出来たようなことは、自分の体調を気にすることぐらいだった。

今ならHSPというものに本質的な要因があると解る。でも、以前は解らなかった。自分だけではなく、親も周りも解らなかった。自分自身も、親も、教師も、ドクターも、誰もそんなことを知らなかった。そのなかで歪みはわかりやすく体調に表れ、フォーカスが当たった。

先細る体調のなか、きちんと対応してくれたのは有難いことだった。それは感謝するしかない。でも、それでしかなかった。体調の悪化など、行動の最前線の表面でしかなかった。体調よりも、根本にある大きな問題を見つけてほしかった。自分には、苦しさの原因なんて到底解らなかった。

 

なかば強制的に入院する事にもなった。辛かったし、恥ずかしくて堪らなかった。何とかしたくても何も出来ず、耐えるしかなかった。大きな困難があった。これが今の自分を左右している。強いストレスの原体験だ。

「体調が悪ければ辛いことになってしまう」と、そういった気持ちになっていた。それがずっとあった。恥ずかしいことばかりで誤解だらけ。でも、説明のしようがなかった。学校に行けなくなり、病院に行かざるを得なくなった。でも、正しく診てはもらえない。何も改善することはない。

その中でずっと思っていたことは、本質に何があろうが、「とにかく元気があれば良いのだ」ということだった。元気でいられたら困難に太刀打ち出来た。それがないから何もかも払拭出来ないのだ、と、そう思った。それが自分なりの立脚点だった。生きていくための、自分なりの教訓だった。

親の行動は、こういった感情と相まり、「体調に対してきちんとケアすべきなのだ」という思考に揺れ動いた。そう染み付いてしまった。それは苦しさから脱却したい気持ちと相まり、「体調を上向かせないといけないのだ」というプレッシャー思考に変化した。

 

体調至上思考。良くなるように、悪くならないように、無理をして踏ん張ろうとしてしまう。身体の水準にセンシティブになり、病的に身体の感覚にナイーブになってしまう。とにかく、"食べなければ"、"良くしなければ"、と、そのように無理をしてしまう。そのように身体を治そうとしていた。

その呪縛にがんじがらめになっていた。無理をしてしまい、一喜一憂をし、また無理のしすぎに陥る。その循環から抜け出せずにいた。身体へプレッシャーをかけ続け、ひたすら体調を上向かせようとし続けてしまっていた。

生活の中心に体調はあり、日々は健康という原資の下支えがあってのもの。焦りや不安、フラストレーションなど、体調にまつわる感覚はいつでも顔を出す。悪循環はすぐにやってくる。ナイーブになるセンシティブループ。

身体は破滅への一途を辿るのみだった。ずっと呪縛のようだと思っていた。狂っているようでおかしいと思っていた。

 

それは今、認知が得られてかなり変わっている。でも、なかなか変わらないものもある。

すべきことは、まず一人の時間を設けること。とにかく静かで落ち着ける場所を設け、そこで心のバランスを取ること。それをする必要がある。そこでエネルギーを整えること。

そうすれば、穏やかな心で家族と接したり、元気に活動出来るはず。それが整えば何でも出来る。過去の人という大きな刺激との緩衝地帯を設けること。そこからが始まりだ。そうしないとどうにもならない。

ただただ普通に、元気で、大丈夫でいたい。それだけが望みだ。

健康でいるためには、適当な休息では足りないのだろう。センシティブパーソンのやるべき仕事を完成させないと、生活の基礎は整わない。生きていく上のネックを解消させること。

そして、その先にもたくさんのやるべきことがある。自然と健康になるのではなく、必要な要素を集めること。そうしなければ健康に辿り着かない。

 

そこにいつかは辿り着くだろうか?

すべては自分次第。努力するしかない。

 

参考書籍:

ひといちばい敏感な子

ひといちばい敏感な子

 

9月30~10月1日 一膳の量 一汁一菜のはやり

9月30日(金)

今日の計測では増えていた。昼にまたも満腹になってしまい、それで夕はかなり一膳を抑えたものの、それなりに増えている。昼の分が腹に溜まっていたのか、夕食の抑えが快かったのか。

 

今朝の胃に不快感はほぼなし。食前の漢方後も悪くない。それでするすると摂り進められ、パン一本と二口で収める。そこで止められたのは良かった。それが満腹になっていなかったのか、昼までにスポドリを飲める。

昼は食欲もあり、早期膨満がなかった。その前に歩いたのが効いたのか?久し振りに幼稚園の手前まで歩く。そこで怖くなったため、そこで引き返した。食間の長さを感じられる。

そこで結果的には食べすぎたものの、食欲の範囲内ではあったか。なるべく摂ろうとしていたのは覚えているけれど、無理の範囲だったかは分からない。ただ、今の胃の状態ではそれが応える。無理は禁物なところ。

 

夕方まで昼の不快感は続いたものの、空腹にはなっていたはず。その後の漢方が効いたのか、不快感をあまり感じず夕食を摂れる。一膳は少し控え目にしたものの、食卓の上に置けば十分な量に思えた。立って炊飯器からよそうと少なく見える。

それでおかずの肉も少なめで、味噌汁はつまむ程度。それで腹が膨らんだ感じはしなかったものの、きつさがほぼない。その効果で肥えたのだと思う。無理さえなければ結果は伴う。

「今日くらいの一膳で良いのか」と思いつつある。そうしたら胃が弱くなりそうだけれど、結局は運か満腹の程度だろう。摂取量より食後の快さ。それさえあれば幸せにもなるだろう。力も満ちるはず。

10月30日(土)

今日の計測では変わりなし。昨日から減ることはなかった。今日は三食を通じてそこまで悪くない。昼に少し食べすぎの感はあったものの、その後にスポドリで収められる程度。そこで食欲が湧いたため、総合して良かった方か。

 

朝は目覚めが良かったもののの二度寝をしてしまう。早朝に新聞配達で起こされるのはうんざりするも、耳栓を買うまでに至っていない。有り金は本に回すのが第一。どうすれば良いものか。家族が一階のトイレへ降りるのも部屋まで響く。そこの改善だけでかなり生活は良くなるか。

それでいて歯ぎしりはない。胃の状態や栄養不良があるといけないものの、寝る前のストレッチが奏功しているよう。

そして今朝は珍しく空腹感がある。寝るまでに空腹だった訳ではないものの、その良くも悪くも内的な刺激を感じる。それで寝坊したものの、状態は良い。パン一本と二口を摂れるこの頃。

 

そこから読書をして散歩。今日も図書館まで行けそうな感じがして、そこを目指して幼稚園の前まで通る。だけれども、少し暑さがあり、身体もそこまで自信が伴わない。それで無理せずに引き返す。結果的にその内部信号は正しいもので、帰宅してから少し疲労する。

昼は少し満腹になってしまうも、過度なそれにはならない。ここ直近の失敗として、「もう少し摂っておきたい」というはやりがきつさの原因だった。その反省がよぎり、それが少し遅かったものの、最悪には至らなかった。

 

夕では一膳の量を抑えられる。食べ始めると量が多いかと思ったものの、食前の状態で補える。それでいて全て抑えても余裕があり、味噌汁をいつもより摂れる。これはご飯の余裕によるか。

計測で増えはしなかったものの、調子が落ちなかったのは良い。大台の手前を維持できるのも遠ざかっていた。これからも一膳を抑え、余分なはやりも抑えること。それで自然と落ち着いてくるだろう。

最近は一汁一菜を収められないのが気がかり。そこに何とか達したいがためのはやりだ。胃の持久力がそこまで上向けば、気持ちも落ち着いてくるのではないか。一膳とおかずと味噌汁はしっかり摂ること。そこにだけは達したい。すると体重も伴い、運動によるストレス低減の段に進める。

 

9月28~29日 そういう人生

9月28日(水)

今日の計測では微減。二百グラムの減だ。摂取量は悪くなかった体感でも、快くはなかったか。

朝は抑えられ、昼前は食欲があったものの、そこで満腹になってしまう。一膳を多く盛ったのを撤回できず、早期膨満に対応できなかった。それでいてするすると食べられる感じもある矛盾。

その後はスポドリで収められ、夕方には空腹になったものの、少し負債はたたっていた。程よい満腹で抑えたつもりだけれど、嫌なきつさがある。腹は膨らんでいたけれど、快さがないと肥えはしない。

 

明日の朝からまた零からだ。今朝もそうやって抑えられたものの、それで食欲が出たのが裏目に出たか。どうにも難しい。

とにかく昼を抑えること。朝は抑えれば良いし、夕食がたたったとしても、その次の朝もまた抑えれば良い。とにかく夕食で快さがないと肥えない。

 

早く大台に戻りたい。それは三日で到達するのではないか。その夕食での快さ三日だ。そこからもう五百グラム増えれば以前と同じ。すんなり右肩を維持できなくとも、過度な無理がなければ到達するはず。一週間は意識の暴走を抑えること。それが鍵だ。

9月29日(木)

今日の計測では増えたか減ったか不明。よく解らない体重計の振れ幅。良い方で大台から三百グラムの減。どちらにせよ、今日もまた昼食で失敗をする。

朝はパン一本で明確に抑え、その後は早くに空腹となる。それで昼は食欲があったものの、五口足らずで胃がきつくなる。これは早期膨満のようだけれど、どうにも以前とは違う感がする。そこからゆっくりと摂り進めたところ、抑えられなさそうな感じもない。それで用意した量を収めてしまう。

 

その後は強めの満腹感がある。調子が良ければ一時間で楽になるところを、三時間経ってもまだきつさがある。それでも夕方には空腹になり、夕食は摂取を落として収める。それで痩せずには済んだところ。

昼はどうすれば良かったのか。好調コンプレックスが働いたのは確かでも、それを収めるのも難しそうだった。そもそも用意していた量が少なかったのに、それすら収められないのは堪えられない。

でも、それが意識による愚かな選択か。そこで無理をしなければ、すぐに間食を摂れ、夕食では食欲があったはず。その選択が賢明だったか。

ただ、その用意していた量は、ごはん一膳、味噌汁一杯、目玉焼き一つ。それでも明確に食べすぎない方が良い?そもそもなぜ早期膨満になる?食べ進めると上腹部が膨らむのが正常。それを伝える神経伝達物質が狂っているのか?

 

ストレスとコンプレックス。近くに居場所があればすぐにでも治るようなもの。それがここまで尾を引くとは思わなんだ。それが結果として人生に実りをもたらす?それが幸せに一役買い、苦しみがなければ得られないような喜びを手にする?

どうしてもそうは思えない。既に十代の日々は失われた。何も思い出がないのは辛い。自活は何とか挽回できるにしても、その時しか費やし得ないものはあるはず。

 

とにかく無理をするのが発端でも、それはもうどうしようもない。生理的に負の循環にでも入っているかもしれない。それにしても手の施しようがない。

本来は障害を認められても良いし、診断では著しい困難も認められるはず。それは家で軽食作りか選択しか出来ないもの。そんなものだ。だったらもう無理しなくて良いし、そういう人生だと受け止めるしかない。

 

9月25~27日 食欲不振の確かな原因

9月25日(日)

今日の計測では増加していた。昨日から三百グラムの増。大台まであと二百グラムだ。少しは下腹部に厚みがあったところ。

今日は三食を通してあまり食欲がなかったものの、無理がたたっている訳ではなかった。食前の不快感はないのだけれど、爽快感まではない感じ。それでいてよく摂れた方。

 

朝は食前のその感じを受け止められ、程よい満腹で収めたつもり。でも、パン一本と一口でも満腹になっていた。それでスポドリを飲む時間に空腹でない。ただ、昼は早期膨満がなく、今度こそ程よい満腹になったところ。

そこでスポドリで収めたため、夕方には空腹になる。ただ、またスポドリの飲みすぎはあったか。甘さが欲しかっただけだけれど、そういう時にごくごくのむといけない。それがなければ夕食はもっと快適だったか。

その夕食では少し食べすぎたけれど、過度ではない。スポドリで収めれば良いだろう。今朝に食べられなくても肥えたのだから、明日の朝も抑えれば良い。そして昼も抑えること。それで夕食もよく摂れ、計測では肥える。そこで満腹になったとしても、過度でなければスポドリで収められる。

 

今日は秋晴れで散歩に出掛ける。距離は伸ばさなかったけれど、図書館まで歩けそうな気がした。前日に肉が削げていたけれど、そんな調子になるのか。

まずは大台回復までじっくり取り組みたい。まだまだ胃は虚弱状態だから、明日から頑張らなくても良い。とにかく余裕をもって収めることで、単利か複利で摂取が増えるはず。まずはそれが大切。

9月26日(月)

今日の計測では減少。昨日から二百グラムの減。流石に自覚があり、今朝のパン一本と二口がここまで尾を引いた。そうなってしまう調子だと理解したのに、何度も何度も繰り返してしまう。昨日に捉え直したばかりだったのに。

今朝は寝坊があり、そこまでも腹も爽快でない。冷静に収めれば良かったのだけれど、夕べまで調子が良かったのが響いたか。不調コンプレックスが鎮まっても、すぐ逆が起こってしまう。

 

昼と夕では食前の状態が微妙で、存分に腹が膨らまなそうな感じがあっな。それで一膳を収めるのがぎりぎり。どちらも満腹に近いのも変わらずだ。

今晩のスポドリで負債を払いきりたい。でも、明日はしっかり収められたとしても、どうせ同じ轍を踏むのだろう。それはどうしようもない。死にたくないし、豊かに生きたいし、不調を悟られたくない。好調を誇示したい。そうしないとまともに生きていけない。

 

どれだけ調子が上向こうが、それが三日は続かないと駄目だろう。そうならないと胃の持久力はつかない。三食を快く摂り、それを連続すること。

今は胃が虚弱であり、状態が落ちている。負債を抱えない摂取が続かない限り、身体の栄養は満ちず、ストレスもなくならない。今は認識が歪んでいるだけで、摂取量は落ちている。少しでも無理をすれば負債になるから、丁重な摂取を続けないといけない。

9月27日(火)

今日の計測では微増していた。下腹部もわずかに膨らんだような所見。ただ、腰を括れさせればまだえぐれるし、はっきり調子が戻った訳ではない。ここからがようやく始まりといったところ。

 

朝は起きた時にあまり食欲がなかったものの、漢方後の不快感がほぼなかった。それで珍しくよく食べられそうな気がする。ただ、流石に怖くなり、パンは一本と一口で抑える。一本では満足できない感じがあったものの、そこで抑えられたのは良かった。

朝食後はそこまで爽快でなかったものの、早めに空腹になっていたか。パンは一本で抑えるのが安定でも、その後に負債がたたった訳ではない。だから問題なかったはず。

 

昼もそこまで食欲がなかったものの、ここ最近の規定量は摂れる。一膳と小鉢分のおかず、それと味噌汁を幾ばくか。そこでもまだ早い満腹があったか。早期膨満なのかもしれないけれど、単純な満腹感である感じだ。単純に満腹の限度が低い。

ただ、その後はスポドリで収められる。それで夕方には明確な空腹になり、夕食の一時間も前には食欲が出てくる。これは久し振りで、漢方を飲んでもいつもより早く食べたくなる。それで美味しく規定量を収められる。そこでまた抑えられたのも良い。

 

まだ摂取量は落ち込んでいる。でも、満腹による負債がたたらなければ、それだけで爽快に収められる。食欲も湧いてくるし、早期膨満もなくなる。

それが本当のものになれば、食間の間に腹が減って仕方なくなるはず。そしてそれまでの食欲のなさが病的に思える。一食で大食することがなければ、きちんと空きっ腹の時に腹が空く。それが健全だろう。

 

今は胃が弱っているし、それによって栄養状態も悪い。だから大食をすればそれもストレスとなる。まずは満腹を避け、胃をフラットにする。そこからが始まりで、まだより食べてはいけない。徐々に徐々に栄養状態を良くし、胃を強くすること。そうして軌道に乗らないといけない。

夕食をよく摂れたことの安堵を懲らしめたいところ。明日もまたよりよく食べてしまいそうだ。すぐに調子を底上げしようとする癖。とにかく朝の摂取は落とし、昼もなるべく落として、夕も落とす。ああそうだった、食べすぎて良い時などない。

 

今日は歩くことがなかったけれど、食欲には全く影響がない。かえってよく食べられたくらいだ。それに恨みはないけれど、時と場合によるだろう。運動にはストレス低減の効果があれど、今はその段階のストレス解消が相応しくない。

まず胃の負債と栄養状態を整えること。そこで身体に力が満ちた時、運動による効果があるはず。胃がフラットであれば、散歩によって腹が空く。力の充満でストレスになるのは社会交流のなさだ。それは身体が満ちて生まれるフラストレーションで、そこを運動による効果でかき消したい。

かつては散歩の効果があったのではなく、散歩へ出られる調子だからより軌道に乗ったのか。まずは意識による意識の暴走の制御をし、胃をフラットに保たないといけない。そこから徐々に調子を取り戻し、そこで回復すれば運動の効果を見込めるはず。

 

思考のメモ 同類へのメモのログ

人からノウハウを教わるより、自分から身に付けようとするのが効率的か。それが第一の学習であり、外から学ぶのはその補助に過ぎない。

 

現代の成り上がっている個人は、大体がメディアを運営しているはず。それは誰でも生み出し得る資本。コンテンツが他己資本となり、自分の労働が少なくて済む。それが軌道に乗れば更にそれが資本を生む。

自分ではなく商品に働いてもらい、雪だるま式に資本を増やす。その持つべきものが軌道に乗れば、資本がどんどん資産を生む。今度はその資産がそのまた資産を生む。そして資本にも投資できる。

旧来の奴隷、土地、石油、ビジネスの仕組み、従業員、マスメディア、プラットフォームなど、それらの資本は持ち得る人が限られた。でも、今は個人がメディア並みの発信力・影響力を持ち得る。

そうやって資本を持たないときついか。ましてや自分は肉体の資本がない。誰かの資本になると酷使されるし、それすらも自分は出来ない。コンテンツ製作とメディア運営しかないだろう。

 

ブログ=人生ノートではないか。人生の様々なメモのログ。何かを感じ、考え、ノートにメモを取る。それがパーソナリティーの形成になったり、誰かの役に立ったりする。どんなことならノートにメモを取れるか。

ブログはライフメモ。人生のあらゆる感じたこと・考えたことをメモにし、ノートでまとめてパッケージ化する。そのログだ。

どんなことでメモ・ノートを取れるか。そう自分のメディアで積み重ねると、自分の人格が可視化され、誰かにとって有益なものになり得る。ブログの原初の価値はそうだろう。

 

noteでAmazonアフィリエイトが出来るらしい。それで記事を途中から有料にも出来る。フローの更新でも定期購読が可能。それを無料で行える強みは大きい。ふと再確認した。

そこは記事のバックアップをすれば十分か。ASP経由のアフィリエイトは出来ないけれど、noteはコラムニスト・エッセイストの場。自分はそちらに適合できる方。

記事のバックアップを除けば、はてなで記すメリットは薄いか。個人的にはそう思える。選択肢はnoteと独自サイトになるけれど、後者の方を選ぶメリットはあるか。あるとすれば、記事のバックアップとASPからのアフィリエイトか。前者は工夫で何とかなりそうで、後者に関してはどんなブロガーであるかだ。目的は何か。

 

noteはコラムやエッセイ。独自サイトは情報のアフィリエイト。となると、独自サイトを選ぶ意味はあるか?そこでコラムを書いても検索流入は見込めない。公式サイトとしてまとめても良いけれど、その場でする効果はある?

人格としてのエッセイ、同類への情報提供、コラムによる悩みへの訴求、フローの定期購読、書籍やおすすめの商品の紹介。それはnoteでも出来そう。最後はクリエイトの場所として合わないだけで、アフィリエイトは出来る。

アートで稼ぐよりもコンテンツで稼ぐ。その腹を決めた方が良さそうだ。さて、どうする?

 

家族や友達にも話せることを発信するのが良いか。それだと内容を見られても恥ずかしくない。というより、家族や友達に助言できるものを発信すれば良い。

 

ふと思ったメモとして、人生の問題は言語化すれば解決できるのではないか?とにかく自問して「何故?」と煎じ詰める。そしてそれをノートに書き付ける。すると意外な心理が見えてきたりして、かすみが晴れる。最近はノート術の本を読んでいる

 

自分の強みをコンテンツにし、自分のメディアを伸ばす。それは学習して高めた知識だったり、悩みを乗り越えたこと、趣味を極めたこと、スキルを身に付けたこと、簡単に出来ること、たくさん消費したこと。これらを内面情報と共にノート化=感じたこと・考えたことを筋道立ててメモする。そこから市場の反応を見極め、クオリティを上げて収益化を図る。

 

「自分はどんなことで感謝されたいか」に加え、「世の中の人はどんな強い欲求を持っているか」「どんな欲求なら満たしてあげられるか」を見つけられたら良い。そこには自分の意欲と得意が付随する。感謝されたいことに強い欲求が重なれば至高。そこに意欲と得意があり、対価も発生する。それが天職か。

 

家族や友人知人、趣味や悩みの同類を思い浮かべて考える。その人たちにどんな助言が出来、どんなことなら感謝されそうか。そこに強みが隠されている。

それをノートに筋道立ててメモする。それをコンテンツにし、メディアを伸ばしていく。そして広告を貼ったり、有料コンテンツに課金してもらう。

 

「楽しさ」とは何かの上達か。「上達するのが楽しい」と思えたらフロー状態に入るのか?程よい難しさと既存のスキル。それを乗り越えようとする時に没頭し、クリア出来たら楽しさを覚える。

この認識は何に使えるか。儲けられるスキルを定め、その上達を感じ、それ自体を楽しめること。それが幸福と対価をもたらすのか?フローに入れることで儲けられるなら至高か。

 

読書にお金を使えば知識が増える。知識が増えると問題を解決でき、意見を生み出せたりする。すると市場での価値を高められるか。

それによって誰かから感謝さたら良い。そのために発信していく。原因の解明による問題解決、意見や価値観の形成。そうやって同類に助言を届ける。

 

楽しく上達できることに資源を割く。お金、時間、注意力の投入。すると健全な報酬がどんどん得られ、それ自体が幸福となる。

やってみたら面白いものを知り、上達によって報酬を得ていく。するとそれが熟達したものになり、人助けに用いられるスキルとなる。

 

資本の原初は生産・獲得したものか。その物々交換が経済活動の始まりで、農耕時代からは生産物の投資が始まった。生み出した穀物を全て消費せず、未来の収穫を増やすために用いること。

自己資本によって資産を獲得し、それを他己資本へ投資する。そして得た資産からまた資本を伸ばす。この循環で雪だるま式に資本・資産を増やしていく。

 

たとえ商業的な目的がなくとも、自分の悩み・趣味を記録するのは意義があるか。世の中の誰かも同じことを抱えていて、その人のことを知りたがっている。その記録が同類の欲求を満たせるならより良い。単純なメモやノートは誰かを助ける可能性がある。そうやってメディアを運営したい。

 

悩みを中心にメディア運営をする場合、その悩みにまつわる内面吐露・内面情報によって読者に寄り添い、そこから悩みを乗り越えた方法を教える。

自分に似た同類の悩みを言語化し、寄り添って助言する。自分はどんな悩みを抱えていて、どのように解決したのか。それをしっかり筋道立ててメモすること。

 

何かを楽しく続けるには報酬が必要で、快か不快かで継続できるか決まる。その快とは「上達を感じられること」ではないか。「面白い」とは少し違うはず。

程よい塩梅の課題を設定し、そこに挑んでみる。すぐには成果が得られなくとも、少しの工夫で上手くいくのがちょうど良い。すると没頭していくはず。

 

発信とは人生の可視化、アバター化か。人生の何を可視化すると言えば、それはログ(記録)、つまりメモだろう。ウェブ上に人生のメモをログしていく。

ノートに何をメモすることがあるか。伝えたいことを伝えていく。その悩みや趣味、乗り越えたこと、身に付けたスキルは、誰かが知りたいと思っている。自分と似た同類はたくさんいて、その人たちも同類を求めている。同類が発する情報をとにかく知りたい。

そのために自分の悩み・趣味を内面情報と共にメモしていく。乗り越えた悩み、乗り越えて身に付けたもの、簡単に出来ること、それらを筋道立ててメモし、ウェブに記録していく。それには価値がある。

 

乗り越えた悩み、極めた趣味、たくさんの消費、簡単に出来て感謝されること。それらは発信する上での強みか。それらについて知りたい人はたくさんいるはず。普段から行動・消費・学習していることをメモし、筋道立てて体系化していく。その清書をウェブで表現する。

それに価値がるのなら=誰かの欲求を解決できるのならば、広告価値や課金価値がある。それが市場価値であり、まずそれを見つけること。そこからあるサービスや商品を紹介したり、直接その人の欲求を満たしてあげる。

同類はどんな欲求を抱えていて、どんなことをしてあげられるか。ニーズと強み。

 

最近に読んだ書籍の著者は、情報を仕入れるのが好きなのだと思う。それを体系立てて知識にし、人生の諸問題を改善していく。全ての書籍はそれを筋道立ててメモしたものだろう。知識を高める目的がはっきりしていて、だからこそ人へ伝えたくなったり、メモを取りたくなるのだろう。それは発信の強みだ。

 

言語化の効果はかなりあるか。まずペンをもってノートに向かうこと。スクリーンに向かって思考・記録していると、能動性がないから脳が怠けてしまう。きちんとペンを動かして「何故?」と自問し、現実的でポジティブな文章を生む。すると脳が活性化して、頭の回路が変わってくる。

 

「趣味を楽しめるか否か」に素質は関係するのか。程よい難度の課題があり、それを手持ちのスキルでクリアできるとはまるはず。すぐに報酬を得られることで、そのことが楽しくなる。

趣味を楽しんでいる人は、それを楽しむのに向いているのか?エネルギー性向はあれど、既存のスキルと報酬によるのではないか。

つまり「やってみたらはまるものはあるのではないか」ということ。フロー状態に入る趣味・スキルはどこかにある。それを見つけるのに必要なのは、まず色々と手を出すことで、いきなり挫折しないこと。すぐに難しい課題へ取り組まず、報酬があって上達を感じられるような課題に取り組む。それが大切。

 

「誰かの欲求を満たしてあげられる」というのが強みか。その根底にあるものとは何か。誰かに何かを与えられる強さ。自分は何に長く費やしているか。

 

参考文献

9月23~24日 結果の原因 意識の力

9月23日(金)

今日も計測ではようやく増えた。そのための努力はしていないものの、たまたま増えてくれた。やはり調子の歯車が噛み合ったのか?少しまともな摂取の感じが得られた。

 

今日は三食を通じて食欲があったか。朝は昨日と同じく不快感がなく、限度量の上限が上がっていた。パン一本を収めてもきつくなく、その後の一口をしっかりと吟味した結果、食べられる感じがした。

それでその後にきつくならない。それどころか早くに空腹になった。これも最近でなかった感触だ。これが以前の普通の調子ではある。昼までにも長く空腹の時間があり、それで良い調子で迎えられる。

 

昼と夕では少し満腹感があったものの、スポドリで収められる範囲内だろう。昼は実際にそうなり、夕方までに空腹になる。そして食欲もあった。

それで計測では二百グラムの増。確かな感触と確かな結果だ。ようやく上向いてくれたのか?ここで無理をしなければ軌道に乗るはず。

 

運動による効果が効いてきたのか、アコファイドが効いてきたのか。あるいはフローに入っているからか?ここ直近で始めたのは、読書での思考をノートにつけること。それによってするすると筋道が立っていく。そのポジティブな体験はあるか。

ある人は爪を整えるのにそんな体験をし、それで社会復帰にまで至ったそう*1。その没頭はスキルと課題のレベルが釣り合ったために生じたはず。そんな体験と仲間が重要らしく、それがある人は鬱や摂食障害様の症状を見せないよう*2

9月24日(土)

今日の計測では三百グラムも減る。これで大台から六百グラムの減。また最近で最も低く落ち込んだ。それでまた絶望的な言葉がよぎってはよぎる。

ただ、入浴の時に考えた。それは今朝にパンを余計に摂ったから。その自覚はある。それに加え、その朝食が不振になったのは、夕べに水分を摂りすぎたから。

夕べはよく摂れたのに加え、その後の収まりも良い。そこでヤクルトを飲みたくなる。それを飲んだのにも関わらず、まだ甘い口が残っていた。それでスポドリをわずかに飲む。そこで飲みすぎないように抑えたものの、それが仇となったのだと思う。

食欲不振は必ずその前の摂取による。これをもっと痛い思いをして学ばないといけないか。満腹がなければ腹は空く。腹に異常はないし、その内部信号を感じ取れない意識がおかしい。ただそれだけのことだ。

 

昼と夕にも不振があったのもそう。昼は朝が尾を引いていて、昼でも満腹になったのが夕に影響する。身体はおかしくなく、満腹の限度を超えるのが悪い。そもそも大半はそんな調子で、腹がきつくなってから五口は摂っている。それが全ての根元だろう。

親愛なる人と過ごせたら良いのか?それで全ては治まる?それで腹側迷走神経を働かせ、恐れなき稼働化・不動化に入り、消化と睡眠の質を上げる。それで神経伝達物質も出るか減るかするだろう。すると不定愁訴はなくなり、胃袋はフラットになる。風邪が治って調子が戻るのと同じ。胃袋の筋トレも可能になる。

 

体調コンプレックスは負と正の二つあり、負は「死にたくない」「家族に下手なケアをされたくない」というもの。それは誤った努力をしてしまうものだ。正も同じ誤ったもので、「まともに生きるために身体を底上げするしかない」と努めてしまう。

社会交流があれば正のコンプレックスはなくなるはず。ただ、負のコンプレックスも鎮まるかは分からない。不調時に飛び越えて社会交流できたらどうなる?

まず安全の欲求を満たさないといけない?それには肉体と精神の安心も含まれそう。そこで体力が満ちないと人へ会いたくならない。だとすれば、基礎的な体力による安全は、社会交流を得るまでに整えないといけない?それは意識の力で?

 

それが意識の力で何ともならないのが問題。死にたくなく、身体の余裕を持ちたい。親に干渉されたくなく、まともに生きていたい。すぐ死ぬことはないし、親もある程度は理解があり、在宅で生きると決めている。それが腹落ちしているはずでも、どうしても無理が治まらない。

またコンプレックスなりを捉え直す?それはトラウマ関連だろう。まだその開拓は終わっていない。お金さえあれば時間は費やせる。その根気もあるところ。

 

ドクターに「死ぬことはない」と言ってもらおうか。そうすれば真に腹落ちが得られ、無理しなくても良いと思える。内向直観による悪い癖もあるだろうし、それは事実から確かめたい。ただ、これは既に捉え直している。

まだ死ぬかもしれないと思っていて、親の目も離れなく、まともに生きていたいと思っている。これが核心といったところか。体重の恐怖、摂取量の把握、理想の日々。これが社会交流でも鎮まらない場合、自分は真の病人だ。それは生粋のもの。そうなればようやく運命を受け入れられる。

かといって、それで癒されるのなら何なのか。「社会交流に出られなかったのがこれほどの不可逆を生んだ」と自分に呪われ続ける。そうなるだけ良いけれど、何だか全てが報われない。

 

この病気・障害・無為に意味はあるのか?それが自己実現をもたらす?そのストレスが人生観を構築し、満足を浮き立たせ、その実現に迫る?それくらいが人生に実りをもたらす?

問いを立てて学ぶことが主義主張を叶え、得意なことによって人生が満たされる?それが真の幸福?没頭と満足のお裾分け?どんな物語も人物もこれを辿る?

 

参考文献

*1:『フロー体験入門』P56

*2:『フロー体験入門』P58

9月21日~ 22日 大いなる齟齬 調子のバロメーター

9月21日(水)

今日は診察の日。行程は無事に終わって夜。何の意味もないと言えば失礼だけれど、そんな体感があった。道中も全く楽しくないし、オンラインで済ませたいところ。ドクターの診察方法なのか、自分の開示が悪いのか。

今朝の胃は真っ白にフラットで、それでいてパンを摂りすぎることもない。更にその後の昼夕もよく摂れた体感でも、最近で最も体重が落ちていた。大台から五百グラムの減少。一膳の量を減らしているからなのか、あまり自覚がない。それで腹が空かないからよりそうなる。

 

行程の道中で緊張はなかった。やはり身体の状態が緊張をもたらすのか。胃に不快感がなく、体力も余裕があれば良い。それで過度な神経の高ぶりは減る。

これは大きな気付き。直前の摂取を抑えれば良いということ。体力があれば外的に立ち向かえる訳だ*1。吐気を催すと「敏感すぎるあなたへ」のセルフケアをしていられない。

 

診察ではまず、アコファイドがあまり効いていないこと、腹を下していないことを言う。依然として食欲の不振があり、早期膨満の不定愁訴もあると伝える。それを深刻に言わなかったのは身体がきつくなかったから。

それにどうもドクターは了見を得ない感じで、その後の回答も明察を得ない。何と返されたか覚えていないものの、まともな考察は帰ってこなかった。「それでも調子が維持されているなら良いでしょう」と言われるも、それは大いなる齟齬。どうすれば良かったのか?

 

「食欲は筋肉か脳が糖を消費すると生まれる。だからそれがあれば」と言われるも、これはストレスの理論からするとずれているはず。それも一理あろうけれど、風邪を引いているのに大食をするようなもので、まずは風邪を治すことだ。そうストレスをなくして生存を確かにするのが先決。

そのストレスというのが栄養不良であり、まずは余計なことをせずに休養し、落ち着いてから少しずつ摂り進めるしかない。でも、それを阻むのがコンプレックスであり、恐らく空腹であっても食欲が湧かないのは、事前の食事でそれによる満腹があるから。なるべくよく摂りたい囁きが全てを狂わせる。

 

それを放っておきたいものの、今日の計測の結果でかなり怖くなった。さすがに嘆いてもいられないけれど、かといっえ成す術もない。それでいて、悪くなる要素も本来はない。全ては時の運による流れでもある。

昨日に意識の強い制御を誓ったものの、昼にそれが崩れた。少し良い調子だったがために、これがなるべくよく摂ろうとしてしまう。それがたたらなかったのが幸いで、夕食は爽快に収められたものの、全く肥えていなかった。

 

まあ、頭のエネルギーは枯渇していないところ。よほど具合が悪くなければ少しは摂れる。それで学ぶことも記すことも可能。今はもう、自活をすることが頭の大半だ。どうせ何ともならないし、そんな調子でスキルと強みを考えていこうか。何も悪くない。

9月22日(木)

今日は二度寝を二回して目覚める。それでも胃の気持ち悪さはなかった。それで昨日のようにするする摂れるも、パン一本と一口ほどで収める。そこは理知が働いていた。

ただ、問題は昼だ。食欲は悪くない方で、かつ早期膨満も少ない。そして最近では珍しく、一膳を収めてもまだ食べたくあった。それで久し振りに炊飯器へ向かう。

その時の心理は覚えていないものの、より収めようとしてしまったのだろう。五口くらいはいつもより摂ってしまう。それは直後だとあまりきつくなかったものの、三十分もしたらかなりきつくなった。

 

それで間食は摂れず、げっぷが何回も出る。それはいつもと違うものだったりそれが収まったら今度はむかつき、更に胸焼け。空腹感はあるものの、それで快適に摂れる感じはない。

夕食前の漢方を飲んだらほんのり吐気もある。それで摂取を迷ったものの、食べ進めるとあまりきつくならなかった。それで半膳と少しは摂り、おかずはほぼいつも通り。

 

ただ、計測で増えはしない。減ってもいなかったものの、ここ直近で初めて痩せたのを体感した。あばらから脇腹にかけてが特に顕著。脂肪が落ちているのが分かる。

まだ消耗はしていないものの、着実にどんどん余裕がなくなっている。思い詰める必要はないけれど、そんな訳にもいかない。すぐ不定愁訴なんか楽になるけれど、そう思えたらとっくに楽になっている。

いよいよ事切れてしまうのか。かるいは飄々と気を遣るようになっているか?これまでの事例として、どれほどの不調が続こうが、いつかは回復してそんな調子になる。それが調子のバロメーターだけれど、それが出来ても低空のままではある。

 

やはりもう意識の力ではどうにもならない。ただ、今朝と昼が良い調子だったのは何だろう。それは好調の兆しか?ちょうど一ヶ月でアコファイドが効き始めた?

どんな調子でも無理は禁物。となれば、いつまでも良くならない?胃の持久力がつけばどう?無理をするのはコンプレックスが強まったからか?死の恐怖はあれど、好調コンプは減ったはず。だけれども、やはり不調のコンプはどうにもならない。

 

参考文献

*1:スマホ脳』 P210~より

9月19~20日 軌道に乗るまで

9月19日(月)

今朝の胃に負債はなく、食前の漢方を飲んでもきつくならなかった。それは良かったのだけれど、食べ進めると腹に溜まる感じがする。それは嫌な溜まり方であり、無理はできない感じだった。

特に朝はそうなるこの頃。夕べはよく摂れたというのに、すんなり変わってくれない。パン一本で抑えられたのは良かったけれど、それではどうにもだ。

 

昼は食欲が強くなかったものの、早期膨満がなかった。それでいつもより収められる。いつもの規定量に達しても胃が辛くない。

ただ、そこから遅れて満腹になる。それは裏切りのようなものでないか。腹が空いていなかったから?それに加え、スポドリで収めようとしたものの、それをほんの一口多く飲みすぎた。ただそれだけなのに、胃がかなりきつくなってしまう。もうこれこそ滅茶苦茶だ。

台風が近づいているということで歩きに出ず。体力が満ちていなかったし、歩きたくもない。それで早期膨満が減るのは皮肉だけれど、結局はまた苦しくなる。

 

案の定、夕食では食欲に影響が出る。いつもの規定量に届かず、ましてやもちろん爽快でない。これでは太ることがない。理想は毎食で爽快さがないといけない。もう分からない。

食前に冷静な声は浮かんでいた。はっきりと規定量を収め、その分その後にアイスを食べる。それで明日からまた振り出しに戻る。それを受け入れようかと思ったものの、今の状態で量を減らせはしない。ただでさえ一膳が少なく、それを母親に悟られまいと必死だ。それはどうしても採用できない。

でも、結局は一膳を食べきれず、であれば明確に抑えても良かった。この調子なら無理は禁物であり、そうするのが奨励されるはず。だけれども、もうどうにもならない。

 

全ては脳が決めたことでないか。これも一つの自然の摂理。意識も無意識も含め、全ては脳が決めたのを映すのみ。それを強制されるまでだ。神は生き物に幸福を与えようと世界を創ってはいない。自然界だってそうだろう。繁殖・生殖できない生き物はいて、狩りも上手くいかず、病気になったり、誰かに殺されたりする。

人間もそんな調子で良いのではないか?懸命に生き、それでも朽ち果ててしまう。それを称賛してはくれないか?天晴れと言っておくれ。生き物の大儀を果たしたのではないのか?

9月20日(火)

今朝は身体と胃がきつかった。悪夢は見ていないけれど、何だか背中の辺りが痛んだし、心臓の鼓動が弱い感じがした。こう記すとどうにも恐ろしい。以前もこんな事があったけれど、また繰り返している。

朝食は万全の調子で摂れなかったものの、最悪ではなかった。でも、それでパン一本を摂れなかったから深刻だ。アイスで収める程ではなかったものの、まともに摂れはしない。

 

ただ、それで無理はなかったようで、慎重に摂り進めたのが良かった。それは直近の反省が活かされた。早くに空腹になり、漢方を飲むとそれなりの食欲がある。そして早期膨満も薄い。

ただ、朝に調子が落ちた結果だろう。満腹の限度が落ちている。それでいて用意した量を収めようとしてしまう。それはそこまで多くなかったものの、今の自分ではぎりぎり収められないところ。

それを認識しておらず、母親に「全てを収める」と伝えてしまった結果、全てを摂ろうとしてしまう。ただ、ぎりぎりで抑えられたのは良かった。でも、微妙に満腹に達したようなところ。その後にヤクルトを飲もうかと思ったものの、ためらいがあったため控える。

 

夕食では間食を抑えた結果か、また空腹で迎えられる。それで早期膨満もなく、昨日の夕に収められなかった量を収められる。昼にスポドリを飲みすぎなかったのが良かった。

でも、それは半口ほどを控えたのみ。わずかなその量を飲んでも影響してしまう。昨日と一昨日はそんなところだった。そうなってしまう調子だと認識すべきだったか。ようやくそれが腑に落ちた気がする。

 

ただ、計測で肥えることはなかった。大台を二百グラムほど割る。これは痛手だ。明日の調子によるけれど、調子が戻ることはなく、かえって落ち込んでしまったのが確定する。

本当に明日からは何とか軌道に乗りたい。そのためには絶対に無理をしないこと。また内部信号を感じ取らなければならない。

胃の負荷という第一のストレスを解消し、徐々に栄養状態を整え、胃の持久力を整えていく。それだけでもう一キログラムは戻るはず。一度胃に体力がつけば、そこから安定軌道に乗ってくれるはず。

 

まず快く摂り続けること。それさえ得られたら何とでもなるはず。食欲が出ないのはそれによる可能性がある。真にそれがなくなれば変わるかもしれない。

真のストレス解消は社会交流によるとしても、その欲求は体力が満ちないと湧かない。だからまずはそれを満たさないといけないし、こもっていても満たせると思う。意識の力でぐっと堪えよう。まずはそこからだ。

 

参考文献

思考のメモ 現代人の文化と強い欲求

アウトプットの発信では、感じる、考える、言葉にする、これらの過程が必要か。まず言葉と思考が好きでないと始まらない。誰かが記した文章から刺激を受け、筋道を立てて考え、精緻な文章にまとめていく。

それを全自動で出来る人もいるだろうけれど、出来なければ磨くしかない。特に思考はそうだと思う。有益な情報を仕入れ、付加価値を付ける。それは独自の言語の錬成で、新たな情報の産出か。それは行動と思考がエッセンスになるはず。

 

勉強が好きなら勉強でマネタイズすれば良いのか。ただ、それには何の価値があるのか。知識を活かして学びを勧める?誰かの代わりに勉強をし、何かの利を得る。消費、勉強、行動。それによって得たものを誰かに与える。

とにかく何でも良いから、学んで得たものを言葉にすることか。意識的に感じ取り、「何故?」と内省して論理を展開する。それをどんどん公開すること。そこに何かの価値を感じてくれる人がいれば、そこで何かになるはず。それ試してみないと分からない。

 

「楽しい」という感情は、何かの上達を感じられた時に得られるのか。その時にしか感じないように思える。ゲームで得られるようなもので、レベルが上がる時に感じるもの。この楽しさを見つけ、何かが熟達したものとなった時、お金が得られるかもしれない。人の役に立つスキルを楽しく学べたら至高か。

 

自分が欲しいものを人に与える。ブロガー・アフィリエイターに向いているのは、ある情報を誰かに伝えたい人。その人はまず、日頃から情報を集めている。

自分が当たり前に熟知していることを、それについて詳しくない人へ伝える。だからまず、何かに熟知するのが良い。すると人へも伝えたくなる。それにあまり反応がないのならば、もっと当たり前のように身に付いている知識を伝える。現実で誰かに感謝されることや、言語化するなかで感謝されること。

 

エッセイストは自分の感情を熟知し、コラムニスとは教養と見識に富み、アフィリエイターは商品とその利用までに精通している。どうコンテンツ産出し、どのように広めていくか。

そしてどこで強い欲求・感情を満たしてあげるか。エッセイは感動欲、コラムは見識欲、アフィリエイトは問題解決欲か。この世の誰かの強い願望と、それに見合う与えられるもの。

 

価値があるというのは、誰かが強く欲しているということ。それを人間に当てはめると残酷になる。でも、誰かがそう思ってくれなくとも、自分の精神が生きたいと願い、それを叶えてくれる肉体を欲しているならば、その人の内側に価値があるとも思える。それすらなければ厳しいけれど。

 

もう資本主義のフロンティアは開拓し尽くされ、大量に生産しても大量に消費してもらえなくなった。だから誰でもぱっと思い付くような価値=需要で考えても儲からない。

すると「現代の文化に生きる人たちの独特な需要」を見つけないといけない。日本の貧しさというより、時代の需要を見誤れば貧しくなるのか?知恵の貧富が格差を生む。

現代文化を生きる誰かの強い欲求・感情を満たすものを売る。物品・サービス・コンテンツ。現代人はどんな悩み・趣味・娯楽を求めているか。その願望と与えられる何か。

 

「どのように人から感謝されたいか」と考えると、自分の得意が見えてきそう。ブログを記してどう感謝されたいのか?共感してあげたいのか、知識を与えたいのか、それらが浮かぶ。

「自分はこんな人を喜ばせられる!こんな風に人助けが出来る!」と見つけること。その「こんな人」を見つけるのが先か。それには自分の得意が付随する。

それは適当に考えて浮かぶものではないか。大量生産・大量消費の旧来価値とは違うそれを見つけること。より細かな現代人の文化と、そこにある欲求。

 

人助けをして喜ばせるか、誰かの欲しい物を持ってきて与えるか。そうやって物やサービスを循環させ、高度な生活のレベルを維持する。

現代の文化で個人は何を求めているか。既存の資本のフロンティアが開拓されたとしても、また新たなニーズが生まれるはず。それを見つけるアイディアが資本になる。

 

知識にまつわる価値として、「それによって問題を解決できる」というのがあるか。それは誰もが求めているもので、工夫すれば誰かの強い欲求を満たせる。それは仕事になるだろう。自分が抱えている問題を解決したりし、解決できそうな誰かの悩みを見つける。後はその人に解決のパーツを与えること。

 

「成果を出すこと」がインプット・アウトプットの目的か。だからその成果、つまり目標を明確にしなければならない。すると「何のためにイン・アウトプットをするか」が見えてくる。当たり前の話だけれど、そうしないと全く効率的でない。そこから逆算して相応しい行動を考える。

事前に綿密な思考をしないとほぼ無駄か。イン・アウトプットの前の段階でほぼ決まる。ひたすら何かの解決のために「どうやって?」「どのようにして?」と自問すること。何かを得るための案と、それを叶える効率の良い策略。そのパッケージがないとひたすら暗中模索。何の意味もない入出力になる。

成果の出るインプット・アウトプットを見つけたら無駄がない訳で、がむしゃらに頑張るよりも、事前の確固たる準備の方が重要。それが効率と結果を変える。正しい努力の仕方だ。「イン・アウトプットの仕方を見つけるためのイン・アウトプット」もありそう。「効率的な受験勉強をするための勉強」とか。

 

生き物としての強さがあれば、弱みを乗り越えることで強みになる。それは誰かの悩みを解決するだろう。生き物としてのそれがなくても、好きなことに費やしていれば、それについての上級者になる。するとその趣味の初心者に助言できる。後はその趣味・悩みにまつわる誰かの強い欲求を見つけること。もう感謝は近いはず。

スキルを身に付けたとしても、誰でもそのスキルを身に付けられるなら弱いか。スキルを買われるより、「この欲求なら自分が満たしてあげられる」と見つけること。誰かのコアな強い欲求を見つけ、それを簡単に満たしてあげられるなら強い。そうなると需要も供給も希少。誰もが優勝できるはず。

 

よく言われる話だろうけれど、初めの一歩が勉強だと効率が悪いか。取りあえずやるのが最も勉強になるし、教える側もそうやって知見を貯めてきた。勉強はショートカットだから、まず進んでいないと意味がない。教える立場になれば、「まず学びたい」という人に腹が立つのではないか。習うより慣れろ。

 

ブログはライフメモ、つまり人生のある部分の記録であり、そのログだろうか。自分が興味・関心を持っていることの知見をメモし、積み重ねる。それが自己紹介になったり、誰かにとって有益だったりする。それは副次的なもので、まずは時間やお金を使っていることのメモとして使う。有益さを工夫するのはその後。

 

「自分は何にお金を使っているか」と考えるのが良いか。すると費やしたことについて知見が貯まる。消費だと商品についてだし、勉強だと知識だろう。行動すると体験が加わる。それをメディアに乗せてコミュニケーション・プレゼンをしていく。アフィリエイターだとそれが仕事か。

 

参考文献

9月17~18日 意識の使い方 理性と行動

9月17日(土)

今日も歯ぎしりの違和感はなかった。やはり新しいストレッチは効果があるかもしれない。これでもう磨耗してくれなければ良い。歯ぎしりは歯科で治るものでもないし、筋肉のストレッチしかない。

 

今朝の胃はそこまで不快でなかったものの、朝食はパン一本で収める。もう少し食べたくあったものの、気持ち悪いような満腹感もあった。パン一本でそうなるのはきつすぎる。それで消耗はしないものの、少しでも歩いたりすると応える。

昼も負債はなく、食欲も悪くなかった一方、わずかに早期膨満があったか。というより、やはり胃が動かなくなるような満腹感がある。昨日と同じで満腹が早い。

それでいてやはり規定量を意識してしまう。それはもう病気として置いおこう。客観的な摂取量を認識したことにより、それを楽観・許容することが出来なかった。二口は食べすぎてしまったと思う。それが仇となり、食後から嫌な満腹感がある。

 

他に飲み物を摂らず、スポドリで収めた結果、夕方には空腹になる。それで夕食もそれなりの食欲があったものの、用意した量の半分を超えた辺りから雲行きが怪しくなる。

早期膨満とは少し違う感じで、胃の弱さと言うのか、病的なきつさを感じる。それで多くは摂らずに済んだものの、計測で増えるには至らない。

それも当たり前で、並みの量も到底摂れず、間食も摂れていないし、壊滅の寸前だ。体力の瀬戸際にいる。もう何ともならないのか。せっかく連続して散歩に出ているのに、全く効果がない。もうどうしたら良いのか。

 

胃が明らかに弱すぎる。それで多少の満腹でも負荷になってしまう。前回の診察後は快さがあったのに、それが全くなくなってしまう。もう何があったか思い出せない。

ドクターとの診察が浮かべてしまう頃。良い体調を報告したいけれど、そうならないものは仕方ない。こちらから申告しない限り、何かを変えられることはない。だから何も気遣わなくて良いけれど、どうしても取り繕いたくある。

まず診察の朝の調子による。それで快く収められなかった場合、体力的にきつくなる。そうなると診察室に着くのがやっとで、弱気なことを言ってしまうはず。だからまず当日の朝は快く収めたい。それさえ上手くいけば来月へ繋げられる。

9月18日(日)

今朝は早く目覚め、胃に負債はほぼなかった。でも、何故か食前の漢方を飲むと気分が悪くなる。それは漢方の味ではなく、水道水の臭いだったか。

それで胃が爽快でなくなり、いつも通りの朝食を摂れない。いつもでも少ないというのに、もう滅茶苦茶だ。アイスで収めようかと思ったものの、今度は親の視線を気にしてしまう。そしてそれを許容できない自分もいる。

 

ここまで不運なことがあるのか。なぜ胃が弱くなっているのか分からないし、運動をしても良くならない。そしてこの調子では歩きに出られない。もう何なんだ。

「意識が介入できやしない」と諦念も浮かんだけれど、意識がひたすら抗うからこうなるのか。分かっているけれど放っておけない。それを抑えるのはどうしても不可能。

 

身体の余裕は身体にないといけない。死にたくないし、体調を下手にケアされたくない。そして豊かに生きてフラストレーションを晴らしたい。ストレスを減らすにはそうするしかないと学んだ。「衰弱して死ぬのはまだ先だ」と捉え直したものの、それだけでは何とも収まらない。この生活は受容できない。

でも、それは受容なんかしなくて良いはず。ストレスがなくなればストレス反応もなくなる。それをするしかないだけ。すると食欲も出るし、不定愁訴はなくなる。屋外で過ごし、所属と愛があって、没頭できる何かで自己実現する。それでストレスはなくなるのだから、もうコンプレックスが働かなくても済む。

でも、それが叶わない内はどうすれば良いのか。それが分からないところ。ストレスや人生の限度は理解しているけれど、それでコンプレックスが鎮まることはない。何とか生存を確かにしようと働いてしまう。

 

それは生きるのにストイックということか?ある早世したミュージシャンのやつれ顔を思い出す。その人が出演したミュージックビデオでは、「このやつれた顔を見れば、いかに生きることにストイックだったか分かる」とコメントがあった。

生きる力が薄ければ生きやすい。生きる力が強いと暴力的になる。自分にもそうで、他人にも、社会にもそうなる。それはストイックな自尊心が故のこと。無情な世の中だ。この世は地獄なのか。

 

どうすれば良いか分からないのなら、心の声に耳を傾ければ良い。それが出来ないなら仕方ないけれど、「何故それが出来ないのか」は考えた方が良い。奥底の声は意識へサインを出していて、それは思考や生活の変化を求めている。ストレス反応を無視しないとこが第一で、ストレスから抜け出すのが第二。

意識の使い方を誤らないこと。それは奥底の声を感じ、それに忠実な行動を起こしていくもの。理性が奥底の声を遮ってはいけなく、その声をどう行動に移すかを考えないといけない。理性は命令に忠実な司令塔であるべき。

 

その後の昼では少し楽になり、買い物へも行けた。昼もあまり腹が空かなかったものの、最低限度までは収められる。そこからぎりぎりまで収めてしまったものの、その後はきつくならなかった。たまたまの幸運だろう。

午前はそこまできつくはなかった。体力は落ちず、すぐに消化された結果、その後はスポドリで収めていた。そして昼食後のヤクルトで落ち着いてくる。

不定愁訴はすぐ楽になるものか。劇的に落ち込むと恥ずかしくなる。それも経験しているのだけれど、どうにも意識が乗っ取られる。ストイックに取り組まないことだ。

 

夕食ではそれなりに食欲があり、かつ早期膨満もなかった。昨日の不意の満腹もない。体重は増えなかったものの、昨日より痩せずに済んだ。この調子で三食摂れたらどうなったのか。

 

やはり無理が全ての根源なのか。ふと思ったのは、「食欲不振や悪心は全てが不定愁訴によるのか?」ということ。そもそも身体の調子として、それらには波があって当然。それは普通の人でもそうだろう。

それなのにそれを気にしすぎ、根を詰めて真に受けてしまう。調子が悪くなって無理をし、良くなっても無理をしてしまう。その狭間に苦しみと現況がある。

まだこれは解明できるものか。内的家族療法のパーツ理論が関わりそう。神経伝達物質の作用機序と、コンプレックスに乗っ取られる原理。その解明が最後の捉え直しになるはず。

 

参考文献

9月14~16日 腹九分の幻想

9月14日(水)

今朝は歯ぎしりが薄かった。それは何故なのだろう。日中のストレスに左右されるのか?寝る前に下顎が痛いような時がある。それがない時もあるし、ある時もある。その時にストレッチをするのだけれど、それが逆効果だったりする。下顎のストレッチを調べようと思ったものの、面倒で何もしなかった。

朝食ではパン一本ともう一口。今日は少し胃の不快感があった。早く目覚めたものの、そういう時もある。その時は賢明に規定量を抑えること。

昼の食欲はそこまでで、それに早期膨満がしてしまう。これもそんな時があるけれど、そこでゆっくりと摂り進めたりした。ただ、用意していた量が少し多く、それを努めて収めてしまう。

振り返ってそれがいけなかった。それで間食が潰れ、その後はスポドリで収めたものの、夕食で負債がたたる。そしてまた規定量を緩めることが出来ない。

 

今日の計測では変わらず。絶妙な均衡で大台を維持する。でも、明日は分からない。明日も調子が傾けば、また大台を割るだろう。今日も摂り方が良くなかった。間食を摂れていないし、明日に繋がらない。

明朝は今晩の負債が残るかもしれない。だとすれば賢明にパン一本で収めること。そこから昼を爽快に迎え、一膳の量を少し落とし、腹八分で収める。胃の持久力がないと腹九分は幻想。

 

五日くらいは八分で収め続けないといけないか。どんなことがあろうとも八分を維持すること。それでも肥えなければ仕方ない。運動の効果もなければだ。ただ、体調不良におけるストレスの理論からすれば、それで調子は落ち着くはず。

体力がないなかで大食をするのは頂けない。それが満ちるまで八分だ。その期間が五日といったところ。その間に満腹になってしまうのがここ何ヵ月も。それを何とかしないとどうしようもない。

あるいは、それはもうどうしようもないものなのか。好調時も無理は頻発していたはず。それが負荷にならなかったのは胃の持久力による。それは運動の効果?それがよく分からない。

9月15日(木)

今日は胃の調子が良くなかったものの、夕食では快く収められた。それで大台を割らずに済む。ただ、昨日に懸念していたままの末路を辿りかけた。

今朝は胃に負債を感じず、パン一本と二口を摂ってしまう。それが負債となり、いつものようにスポドリを飲みたくならない。提示に散歩へ出るも、途中から気分が悪くなる始末。

駄目だったのはその後の昼食。負債を感じて慎重に摂り進めたものの、やはりまた規定量を意識してしまう。それでいて規定量には達しなかった。

 

昨日の昼に満腹になってから連続の失策。ストレスの理論を証明するに至らない。通院が迫っているのにこの調子だ。

何ともならないこの病的さ。胃の持久力がなさすぎ、些細な満腹でさえきつくなってしまう。その満腹も腹九分ほどだと感じているから厄介。

 

ただ、夕食ではきつさが和らいでいた。昼はそこまで食べ過ぎなかったよう。食べ進めても早期膨満や不快感がなく、懲りて少なめにした一膳を収められる。

それで腹が膨らんでいて、体重は減っていなかった。昼もよく食べられていたら増えたはず。快く収められただけでこうも変わる。それが連続してくれるだけで良いけれど、その障害はやはり食べすぎなのか?

 

昨日にも記したように、まず意識して何日かは抑えないといけない。そうすると軌道に乗るはず。鬼の形相で何としても抑えること。

摂取量を意図して落とし、それを何日か続ける。すると食欲が安定し、胃に持久力がつく。今は摂取を落とせていなくて、食欲が安定するかの段に入れない。

9月16日(金)

今朝は歯ぎしりをしていなかった。夕べに下顎のストレッチについて検索していて、それで新しい動画を見た。その効果があったのかもしれない。それが今日も効いてくれたら良いけれど。

今朝の朝食は反省を活かし、パン一本で抑える。流石に懲りたのもあるし、それだけで腹に嫌な感じで溜まったのを感じた。

やはりまだ胃袋は消耗状態なのか。それはゆっくり食べ進めないと感じられない。小口で摂るのも大切だし、事前に規定量を抑え、かなり厳重に摂取を制御した方が良い。

 

昼の食欲は悪くなく、焦らずゆっくりと摂れる。でも、抑えた規定量を摂るとすんと満腹になる。単純に程よく収まったけれど、我ながら物足りなさを感じてしまう。

だけれども、それが程よい摂取なのだろう。まだ胃に持久力はなく、弱っているようなもの。それでヤクルトも飲めたし、今はそのくらいで収めないといけない。

 

夕食でも食欲は悪くなく、程よく収められる。ここでも一膳を抑えて盛ったのが良かった。昼で抑えた分、その量が快さと共に帰ってくる。逆の複利といったところか。

計測で増加はなかったものの、昨日の摂取も低かったし、今日もたくさん摂れてはいない。一朝一夕に改善するようなものではないだろう。しっかりとケアをし続け、本当にためらいがなくなるまで堪える。そうなればより摂っても良い。

 

まだ体力は危ない領域にある。今朝はパン一本とミニヨーグルトを収めただけで、それで読書と思考、十分ほどの散歩、そこから掃除機をかけるまであった。そうなれば身体が削られるし、少し消耗しかけた。

その後も摂取は微妙であり、それで肥えることはない。また味噌汁を盛るのを止めたけれど、量を見れば微々たるものだ。一膳と小鉢ほどの主菜、それとわずかな味噌汁。

それしか収められないのだから、力がつくまで無理は禁物だ。とにかくパンと一膳を抑えること。もう三日はそうしよう。

 

ブログについて少し。今までにそれなりの意見を築いたけれど、体調や日記とごちゃ混ぜに記してしまった。それは独立したエントリーにまとめれば良かった。

これから三百の記事を再編するのは気が遠くなる。全てが有益ではないにしろ、作業に手間がかかる。それに内容もブラッシュアップしたいし、より勉強しないといけない。

 

自分の強みは悩みを乗り越えたこと、たくさん書籍を消費したことだろう。同類の悩みを解決させるため、築き上げた知識を提供してあげる。加えて書籍のセールスもしたい。

それにはどんな記事・メディアが好ましいのか。意見や知識を体系立て、分かりやすくまとめる。悩み、内面情報、知識、意見の総体。価値観。

それをまとめた後、そこからようやくツイートを公開できる。自分のことを理解してもらえるようなメディアを用意し、落としたフックとソーシャルで読者を引っ張ってくる。そしてnoteに移動したりして、コンテンツを横展開する。定期購読、有料コラム・書評、アフィリエイト、音声や動画もあるだろう。

知識や意見の下地はあるはず。後はそれを独立したエントリーにし、他の教養=知識によって肉付けする。そのために論理訓練することだ。メモを筋道立ててノートにし、見識を作る。それらによって問題を解決し、同類へ向けて伝える。それが欲求に刺されば価値となり、対価に繋がる。まだ行程の序盤だ。

 

9月12~13日 変えるべきもの

9月12日(月)

今日も体調について記したくはなかった。ただ、夕食では食べすぎがあったか。夕方には空腹になっていて、早期膨満もなくするすると食べられたものの、思いの外よく食べられてしまう。その結果、胃袋の強度いっぱいとなる。遅れてくる満腹感にはご用心。

朝はパンを一本と一口。それとヨーグルトを食べているから、少しでも「ヨーグルトの甘さと水分がほしい」と思ったら止め時。それが限界だ。今日はそれで収められた結果、満腹感がない分、早くに空腹になる。散歩での強度が心配だったものの、胃袋の強度も気遣うべきだ。

 

散歩ではまた少しきつくなる。胸の苦しさもあったはず。それは一時的だけれど、十分ほど歩いてそうなるのは黄色信号だ。ただ、その効果がようやく表れたのか、昼では早期膨満もなく、いつもより収められる。

その後にヤクルトを飲めそうな感じがしたものの、微妙に爽快さが足りなく感じた。それで昨日の反省を活かしてスポドリで収める。これも夕方までの強度が心配だったものの、胃を気遣って良かった。夕方には空腹になる。

この塩梅の調合が出来れば良い。それで食欲に繋がらないのが恨めしいものの、今日はそうならなかった。それが運動の効果なのか?だとすれば良いけれど、明日からはどうなるか。

夕食で満腹になったのが負債にならないか。また翌朝はパン一本で収めたら良い?それで昼夕に帰ってくる?このこつと運動の効果だ。それが重なれば胃が伸びていく。その膨張点に達すれば楽になるか。

 

それにしてもアコファイドは全く効いていない。下痢することはないけれど、何が前提が合っていないのか。消化酵素もそうだろう。ただ、不定愁訴は身体の正常な反応なら、外から神経伝達物質をいじっても仕方ない。かえってより不定愁訴が強まる可能性がある。

ただ、服薬中も上向いたことはある。だけれども、それは運動をしていた時くらいしか思い出せない。そして個人的な事情として、コンプレックスによる無理がある。それが更にストレス反応を生んでしまう。それはパニック発作があるのに外出するようなもの。まずは安静にすべきだけれど、安静にしてもストレスになる人間がここにいる。何なのか。

 

不定愁訴についても学びたいものの、もうその意欲も薄くなってきた。核心を突かないと治らないだろうけれど、今は自活への比重が大きい。それは執着のなさによるものか?

神経伝達物質から情報収集するのはめっきりだ。それもコンテンツの種になるけれど、どうにもやる気がでない。小難しくて面倒だから、報酬が期待できないと難しい。

9月13日(火)

今日の計測では微減。大台ちょうどとなった。でも、下腹部は少し膨らんだ所見。それに気が付けば一膳を収められるようになっている。まだ朝食と間食は足りないものの、悪くはないのではないか。散歩でもそこまできつくならない。

ただ、また歯ぎしりが強まったか。夕べはそこまでストレスがなかったはずなのに、また明け方に変な夢を見た。本当にありありとしていて、コンプレックスやフラストレーションが発現したのか、感情が高ぶっていた。それで歯ぎしりもしてたはずで、夢でぐらぐらと動く歯に怯えていた。

歯はまだあるものの、いつ負荷が限界に達してもおかしくない。身体が劣化するのは仕方なくとも、実際に不可逆となれば後悔するだろう。かといって、歯科に罹ることとも出来ない。罹らないようにしている分、明確な症状が出ないのが厄介だ。嗚呼。

 

今日の摂取はそこまで悪くない。朝食は悪夢が響くかと思ったものの、ほぼ支障はなかったか。寝坊していたのだけれど、案外それがたたらなかった。ゆっくりと起き出したのが良かったか?目覚めてから三十分は経たないと身体が起きない。そうしないと胃の負担になるのか。

それでパン一本と三口までいったはず。ヨーグルトの口になってすぐ止めたものの、少し胃残りはあった感じだ。それで昼が思いやられたものの、散歩の効果なのか、ちょうど消化は間に合った。

昼も最良に近く摂れる。その後にヤクルトは飲めなかったものの、またスポドリでは収められる感じだった。そして予想通り、夕方には空腹になっている。

 

やはり食欲はその前の摂取によるのか。そこで無理をしなければ腹は減る。何らかのそれがあるのだろう。寝坊して起きていない胃に漢方を入れたり、満腹のサインを感じ取れなかったりする。その無理に応じて次の摂取が落ちる。これが負債というもの。

 

ふと思ったけれど、不定愁訴とは「身体に異常がみられないのに表れる症状」だろう。それこそ『敏感すぎるあなたへ』にある不安・パニックが発生する機序と同じだ。

端的に言えばストレス反応であり、最初のストレス反応・心の声を無視し、変えるべきものを変えなかった場合、脳が神経伝達物質を分泌する。そして様々な症状を生み出し、ストレスから距離を取ろうとする。それは生存を確かにしようとするもので、検査で捕捉できないのだろう。だから機能性の不定愁訴になる。

今の医学は手術・化学治療の概念によるもので、目に見えない故障を取り扱えはしない。故障という原因が分からない限り、その治療を行うことは出来ない。だけれども、故障と捉えきれない機序が存在するはず。それがストレス反応であり、自律神経の迷走神経枝が関わっていると思う。

 

参考文献

思考の短文メモ コンテンツと意欲と自己実現

思考のメモ。

 

発信とはなんだろう。それは自己発信と言い換えれば良いか。大勢に自分のインプット(経験や知識)や内面情報を公開する。それに誰かが価値を感じてくれたら儲けもの。

それでいて、最初からその有益さを狙うのはどうだろう。意図して役に立つ情報を学び、それを得意にしていくのはある。とりあえず挑戦してみるのなら、言語化を習慣にして反応を見極めるのが良い。

そう考えると、ブログとは何なのだろう。ビジネス(人助け)でそれを記すなら、誰かの悩みを解決する情報を集めれば良いか。例えば何とか自分の悩みを解決してみる。そうやって代わりに勉強・行動・消費をし、似た悩みを持つ人へ情報を与える。集客とセールスをする仕事。

自分はそれに適わないと思っている。似た悩みを持つ人への表現ではあれ、自分がしているのは当事者研究。病状と認知、気付いたことや感じたことを記しているまでだ。それには何の価値があるだろう。あったとしても、コンテンツはどんなパッケージになる?それが定まっていないのがきつい。

 

考えられるのは書籍化だろうけれど、それが柱にはならないはず。それ以外だとアフィリエイトか、他に興味があるのは音声コンテンツ。前者は雑多なブログでも発生するかも知れない。あるいは割り切って選書をする。それをコラムやエッセイ、書評の形で表すのも良いか。

音声のコンテンツはよく聴いている。それは完成した思考(意見)を話すか、特別なファンへ向けた話をするかだろう。人へ思考を話したくあれば可能性に思える。

書籍化、ブログやコラムでのアフィリエイト・書籍の販促、音声配信。これらのコンテンツが想定に浮かぶ。それは知識を分かりやすく伝えるのが仕事か。

 

コラム・エッセイ系のコンテンツは、検索からの流入が見込めない。だから無料ソーシャルブログサービスでアクセスを伸ばすしかない。

エッセイならそこに読者がいる。コラム系なら、まずソーシャルメディアで自分の経験、意見、思考、知識を表現し、そこで当たったものをブログにまとめるのが良いか。

ソーシャルをして友達(顧客)と繋がり、魅力・価値のある表現をブログに格納していく。それでアクセスは集まり、タイトルを工夫すれば検索流入も見込めるはず。

そこから書評のアフィリエイト記事、気付き・行動・変化をまとめたコラム、選書サービス、有料の音声など、色々な方法で収益化できるはず。

 

お金を稼ぐためにコンテンツクリエイターになるのは厳しい。何かを伝えたい意欲がなければ、いつかコンテンツの産出が滞る。経験や知識、意見、芸術、娯楽、人格。これら何かの価値や魅力を形にする必要がある。いや、それを意識する必要はないか。ただ伝えたい意欲があれば何かしらあるはず。

発言を誰かに感謝されるインフルエンサーは、感謝されるために発言していないと思う。言語と思考が好きなはずで、常に学んだり考えている。だからそれを伝えたくなったり、まとめるためにメモをしたくなる。ただの言語化ではないから、それは誰かに感謝される中身を伴う。向かない人は向かない。

好きなことで稼ぐにしても、それでコンテンツビジネスをする場合、「好きなことを伝える」という作業が必須になる。コンテンツとは情報であり、「好きなことを分かりやすく伝える」という技術と意欲が必須。「○○が好き」というのは、「○○を伝えるのが好き」でないとコンテンツを作れない。

 

芸術は魂を表現すること。分かりやすく表現して伝える。でも、魂が震えることがないと何も始まらない。何らかの感動を味わい、それを内省し、それぞれの表現の技術を高める。そして同じ感動を想起させられた時、その作品に価値がつく。魂も一つの情報で、メディアに乗せてプレゼンする必要がある。

 

どんな人でも人助けは出来ると信じたい。でも、そのためには強さが必要か。弱みを乗り越えた強みや、人に何かを与えられるくらいの強さ。ただ誰かを笑顔にし、明るくしてあげるにも強さが必要。こう考えると、その強みを持てないから人助けできなくあるのか。

 

天職を見つけて自己実現するのは容易くない。ふと改めて思った。人生の前半にそれが見つかるなんてないだろう。だったら既存のシステムに組み込まれるしかない。能力も意欲も需要も、あらゆる要素が複雑すぎる。まずは既存の貨幣経済活動をし、それで得た原資と修練が噛み合わう時期を待つ。それが良いか。

ひたすらモチベーションがあって満足を得るためにいそしんでいるか、とにかく誰かを喜ばせるために励んでいるか、簡単に出来て喜んでもらえるものがあるか。これらどれかがないと天職は存在しないか。自分にはそれらのどれもない。

 

フィードバックの読書をし、収益を挙げるための仕事をして、余った時間に好きな読書をすれば良いか。前の二つが優先される。

でも、そこまでの余力は生まれる?それも発信のための勉強でもある。それに加えて表現もしないといけない。読書だけをしたいのだと思う。書きたくはあっても記したくない。

 

仮に生活に必要な収入が得られたとしても、知識を仕入れ、そこから思考したり、意見や内面情報を記すことは止めないか。そうなるのなら良い。

そうなれば、後はスタイルをどうするかということ。それすら解決できれば全て良くなるのではないか。学ぶ、考える、意見にする、表現する、記録する。

 

アートクリエイターやコンテンツクリエイターになるには、伝えたい意欲が必要で、かつ価値や魅力のある情報もあり、それを分かりやすく表現していく能力が必要。それをメディアに乗せてプレゼンしていく。これらは向き不向きがあり、向いていなければどうしようもない。金銭のためのクリエイトは不可。

 

 

9月10日~11日 摂取量の認識 ポジティブな回路

9月10日(土)

今日の計測では微減。一日を通して悪くなかった認識でも、夕食での食欲が微妙だった。胃に負債はなかったけれど、三時頃に飲んだスポドリが溜まったか。溜まったという訳でもないけれど、先日と同じで胃が固くなる。そうなると快く摂れず、普通の摂取ではなくなる。すると肥えない。

朝食では一口をはやってしまったものの、その後の影響は少なかった。パン一本と三口を摂ってしまう。朝食前の状態は微妙だったけれど、またするする食べられたから堪えられなかった。でも、その後にほぼ消化される。

昼食はそこまで悪くなかった。でも、一膳をぎりぎり収められたところで、おかずは目玉焼き一つ、味噌汁は何口か摂っただけ。それでは肥えることがない。そしてそれがぎりぎりであり、その後に間食を摂れない。

夕食もほぼ同じだ。ごはんを一膳と肉を何枚か、それと味噌汁を何口か。それもまたぎりぎりであり、寝るまでに固形物は摂れない。

確かにこの身体が維持されるものだ。これ以上の余地は感じないし、何だか今は超えたい感じがない。普通の人の腹五分で満腹になるところか。

 

散歩へも出たけれど、川縁を歩いて帰ったところ、一時的に胸が痛くなった。激痛ではないけれど、少し苦しいような感じがする。休めば楽になったけれど、激しい動きは禁物だろう。体力的にはぎりぎりのところだ。

もっと歩く距離を伸ばしたくもならないし、今のところ体調は良くなっていない。ストレスが減った気はしないものの、終日在宅の鬱屈とした感じはない。かといって不定愁訴は和らいでいない。

9月11日(日)

今日の計測では微増か。ちょうど大台ぴったり。昨日の数字はあまり覚えていなくて、執着があるのかないのか分からない。この事は何回も記しているけれど、一向に変化も何もない。

今日は体調についてのフラストレーションはなし。午前に川縁を歩き、午後は買い物へ行く。それ以外は画面か書籍とにらめっこ。

読んだことや感じたこと・考えたことをノートに取りたいものの、その気が全く湧かない。意義は感じているのだけれど、ノートがもったいないと思っているか。やりたいのだけれど、まだ機が熟していないのか。心の赴くままにしている。

 

朝食は無理なくパンを一本と二口。それが今の限度か。少し前は一本だったから、ほんの少しの上向きはある。昼は一膳と目玉焼き一個、それと味噌汁をいくらか。夕も一膳と刺身を六切れ、味噌汁を幾ばくか。

昼はヤクルトを飲めたから及第でも、スポドリで収めた方が良かったか。夕方の胃は少し不快感があり、水でも飲んでしまえば一巻の終わり。昼も無理をした気はないけれど、その前の食欲が薄かった。

となると朝のパン二口が余計だった?今も限度は一本だけ?まもなく通院まで一週を切る。改善の兆しはない。散歩後は胸の苦しさがなかったけれど、食欲に影響しない。

 

ブログについて色々学んでいるものの、まだ形が見えてこない。間もなくブログ開設から二年が経つものの、未だ上手く噛み合っていない。二年なんて微々たるものだし、年齢も未熟な域だろうけれど、早く形にしたいところ。

第一の問題として、何のために費やしているかが定かでない。趣味でもないければビジネスでもない。それが一番の問題だろう。成果を確かにしないとインプット・アウトプットも定まらない。すると誤った努力をひたすらすることになる。

 

でも、色々と策はある。アフィリエイターでもあり、コラムニストでもあるようなクリエイト。「商品を作るクリエイター」が相応しいか。それがコンテンツクリエイター。アフィリエイトブログ、有料コラム、定期マガジン、音声配信。それに動画を作れたら強い。note、Voicy、TwitterYouTube

まずは何の目的でコンテンツを作るか。そしてそれをどのプラットフォームでするのか。とりあえず始めて考えたいものの、サーバー代を契約するのは壁が高い。無料の場所でも何とかなるのか。それは作り始めないと分からない。

 

『敏感すぎるあなたへ』によれば、訓練して頭の回路をポジティブにすることで、それを実際に実現しようと頭が働くそう。ネガティブに不安を考えれば不安が生まれ、それは予期不安と呼ばれる。脳はそんなことが出来るくらいだから、ポジティブに現実的なことを考えるとそれは実現するよう*1

不定愁訴は和らがないものの、自活についてはポジティブになってきたか。「いつか実現するさ」と思っていると、実際にそれを叶えるための行動が生まれる。「いかにそれを実現するか」と考えている。それが脳のポジティブな回路であり、訓練して身に付けられるものだ。

 

数年で何とか変わっているのではないか。手持ちのお金もそれなりの額があるし、投資してもまだまだ残りは出る。だから心配は要らないのではないか。そんな気がしてくる。

 

参考文献

*1:「敏感すぎるあなたへ」P110

9月7日~9日 ただ凡の日々 屋外での時間

9月7日(水)

今朝の調子は色々だ。結果的に朝食はよく摂れる。そしめ身体の疲れもない。ただ、また起きる前に変な夢を見る。今回は日の出後の夢。家族と買い物へ行ったりするなかで、車が田んぼへ突っ込んだり、母親にぶち切れたりしていた。それが摂取に響かなかったのは幸い。

夕べは夕食後の収まりが良い方で、またヤクルトを飲む。その後もスポドリで追わせず、それが効いたのかもしれない。まだ病み上がりの状態だから、大食をしようとしなくて良い。とにかく無理をしないこと。それだけで良い。

 

今日の計測では微増だったか。体重計の不具合か何かでばらつきがあった。ただ、それでも下腹部は少し厚くなっていた。

もうこれで良いと思う。今朝の調子も相変わらずで、昼も間食を摂れなかったものの、一膳は収められるようになった。それで十分だと思う。体質的にも及第点ではないか。ストレス反応の最中なら特にそう。これよりもっと務めても仕方ない。

 

昼と夕で一膳を収められ、着実に上向いている印象。このまま全く無理がなければどうなる?理知の上では及第を与えている。

朝食と間食では以前に及ばない。でも、このまま上向いてくれると思う。最も駄目なのが無理をすること。それさえなければ少しずつ胃に持久力がつくはず。

 

体調には変わりがない。家族の接触者としてあと二日の待機。このまま何もなければ良い。それ以降も気は抜けないものの、とにかく散歩には出たいところ。そうしないと身体が腐る。秋の内に調子を上向かせたい。

日和は確かに秋になっているはず。部屋に通る空気ですら澄んでいる。日差しが微妙に弱くなり、空気のごみもなくなって、清流の中に立っているような感。

この夏と秋の狭間はすぐ過ぎる。一日で二回は歩きたい。都市や田舎の風情を感じたい。その理想が増えた。もうただ歩けるのが良い。図書館の近くを歩きたい。そしてただ普通で凡の日常を過ごしたい。もうそれで良い。屋外で過ごせばそれだけで幸せになるよう。そう理解した。

 

屋外で過ごし、外出する。家では本を読み、考えて加工する。それで誰かに何かを与える。そして後にパートナーに出会えたら良い。

青春の連想通りに過ごしたいものの、今は生きる土台を作るのが先決か。自活を出来るようになり、そこから誰かと社交する。あと十年近くは猶予があるはずだ。そう諦めて頑張ろう。まず五年は若さを保てるはず。

9月8日(木)

今日は色々と起伏のある一日。特に目立ったものはないけれど、またスムーズに復調する流れを失う。今朝は特に調子を記したくなく、調子が悪くないと安堵したはがりだ。

それで昼も一膳を収められたものの、夕方に水分を摂ると胃が固まった。そして抑えの規定量まで摂ろうとしてしまい、いま間食を摂れそうにない。アイス以下が好ましいけれど、そのちょうど良い摂り物を見つけていない。

 

昼は一時半頃にヤクルトを飲み、その後はスポドリを追わせることなく、水を飲んで収めた。ただ、夕方前にまた喉が渇く。それで少し水を飲んだだけで胃が動かなくなる。夕食は気持ちよく摂れず、普通の量も摂れない。

それで三百グラムも大台を割る。もう次の診察まで折り返したのに、全く調子が上向いていない。これは何と伝えれば良いのか?当初は腹が膨らんだものの、食べすぎがあるときつくなる。それを抑えようと摂取を抑え、気が付けばじり貧で摂取量が落ちてしまった。摂り方の工夫をしたけれど、摂取量を落としても調子が戻っていない。

夕食を抑えれば良かったものの、そうなるとかなり摂取量が落ちる。その量は到底許容できないもの。それがいけないのか?水を飲んで消化を抑えるのは身体の厚意?愚かな意識にはそう思えない。そんな気楽さがあればとっくに良くなっている。

 

今日まで風邪様の症状は出なかった。保健所指示では明日までが待機だそう。別に誰かと接触する訳ではないけれど、散歩には出ても良いだろう。それに直近で制度が変わり、待機期間が短縮された。それはいま療養している人も含まれるそう。

散歩へはしっかり出たい。初めは家の周りを回るのが限度でも、毎日欠かさなければ変わってくる。それに応じて段々と足が出向く。それはかつてもそうだったはず。ふとそう思い出していた。そうやって快方へ向かいたい。診察までに何とかならないものか。

9月9日(金)

今日の計測では増加していた。大台に戻ってプラス百グラム。昼に少し食べすぎたけれど、その後にスポドリで収められた。それは過度な無理ではなかったということ。やはり夕食を快く収められると変わる。それを維持できたら上向くだろう。

夕べは寝るまでに少し空腹になり、ミニプッチンプリンを一つ食べる。それが微妙に胃残りした気がしたものの、朝食はするすると摂れる。それでパン一本と二口は摂ったか。ようやくこれまでの調子に近づいてきた。それが負債にならなかったから、それなりの調子ではある。

昼食は食べすぎではあったけれど、これもするすると食べられる。想定した量をすんなり超えられ、十分によく摂れる。その後に間食は摂れなかったものの、悪くない摂取だったと思う。そして夕食でも一膳を収められる。

 

朝食と間食を摂れるようになり、昼と夕も少し増量すれば元に戻る。その認識は合っているだろう。まずはあと五百グラム。

そこから更に五百グラムで十分だろう。大台からプラス一キログラム。それで図書館までは歩けるし、その辺りが生活習慣における限度だ。もう数キログラムは生活が変わらないと無理。まともな摂取をしないと達しないはず。

 

今日までが接触者の待機期間で、明日から普通に外出しても良くなる。風邪のような症状があったりもしたけれど、短い間に治まったり戻ったりした。そこは釈然としない。父親の咳は治まったところで、少し安心できるところだ。

明日から心置きなく散歩に出よう。その日和が続いているから好機だ。しっかりと調子を取り戻したい。もうそれくらいしか活路はない。

 

9月4日~6日 運動と日光 喉元過ぎる頃

9月4日(日)

今日の計測では増えていた。一日で大台ちょうどに復活する。ただ無理せず食事を摂れば良いのか。そんな体感がある。孤独によるストレスの限度はあれど、無理がなければ調子は維持される。

体調コンプレックスの方が根深いのか?この町での生き方は決めたものの、それではあまり効果がないか。不調コンプレックスの領域を抜けたい。死が近い感じがなく、親からも干渉されずに済むような水準。

 

今朝は早く目覚めるも、眠気があって二度寝してしまう。そして朝方にありありとした夢を三つ見る。それで歯ぎしりもしていて、やはり不安が強いとそうなる。

夕べは不安があり、入浴後にアイスを摂ったため、胃に負債があった。それはそこまできつくなかったものの、寝坊によって状態が確定する。

朝は細いパン一本とミニヨーグルト。その後に更にスポーツドリンクで収めると、昼には空腹になってくれた。きちんと負債を受け止めたのは学習の効果。

 

昼食までにきつさを感じたものの、昼食はそれなりに摂れる。ただ、胃が小さくなったところ。またこれから調子を戻さないといけない。

昼食は満腹に近かったものの、間食でヤクルトを飲める。その後も空腹になり、夕食では食欲があった方。そして計測では大台を取り戻す。

食事をしてもきつくならない時はある。それがずっと続いてくれたら良い。でも、それは身体の疾患のせいではないし、自分が無理をしなければ良いだけ。ただ、それは痛い目を見ても変わらない。

 

今日は秋の陽気だったか。散歩へ出たくなったものの、それが買い物の時間と被ったりした。明日も気持ちが向けば歩いた方が良い。

以前に見たある女性クリエイターの動画を思い出した。それは「体重が四十キロを切りました」という報告だった。それにたしか医療従事者がコメントしていて、「食事をきちんと摂りつつ、まず少し歩きましょう。少しでも日光を浴びましょう」とアドバイスしていた。そのコメントは確認できなかったものの、それで合っていると思う。

身体は動けば動くほど楽になり、それはこれまでで証明されている。主に天候のせいで歩かないと駄目になる。振り返ればそう学べるはずだ。秋なのだから好機。

 

それともっと栄養補助食品を用意したい。今日の買い物で見かけたのは、栄養補助飲料のアイスクリーム版だった。それは胃がきつい時に最適に思えた。

そういうので工夫を図りたい。そんなアイス、ドリンク、ヨーグルト、プロテイン、そういうので良い。そうやって抑えるのが肝心で、すると逆の複利で食べられるようになる。調子が整った後も摂って良いし、良いことずくめだろう。

9月5日(月)

今朝は二度寝をするも、早くに目覚めたから寝過ごさずに済む。腹は夕べに推測した通りの調子で、フラットで快適。朝食はするすると収められたけれど、パン一本とプラス一口で止める。

そこからすぐ快適になり、体力も満ちる。それで久し振りに川縁を歩いてみた。ただ、その後の昼では早期膨満がする。咀嚼が丁寧でなかった気がするものの、口内でどろどろにはなっている。

 

今日の計測では微減。大台を百グラムで割る。それも仕方ないだろう。昼は早期膨満がきつく、夕は食欲が弱い。昼の間食は摂れず、それでいてその後の空腹感は弱かった。ならば百グラムの減で済んで良かったか。

でも、父親が発熱外来を受診し、陽性判定を受ける。この身体で果たして耐えられるのか?今のところ自分は全くの無症状。

風邪にうなされる体力があるのか否か。父親の初動の対応が遅かったから、もう曝露していてもおかしくない。発症するなら数日のことか。

「いつ誰が罹ってもおかしくない」と言いつつ、それは万全の対策をした人が唱えられるもの。何を学んで何を信じていたか。伝播性と感染性は違うとのことで、必ず罹る訳ではないだろうけれど、居間で過ごしたりはした。

 

でも、全く感染をしない生活は何なのか。仕事場にも出向かず、生身の触れ合いは家族だけ。それは果たして幸せなのか?そうリスクを減らしてもQOLは下がる。

それにしても酷い世界だ。ワクチンがあったのは良いけれど、どれだけの人が不幸せになっただろう。何というサバイバルの世界か。かつてもそんな時代があっただろうし、十分に恵まれてはいるだろうけれど、最悪の時代に思える。

真っ白な身体を維持したいのが本音だ。ワクチンが入るかウイルスが入るか。そのどちらかは経ないといけないだろう。ウイルスはどんな経過を辿るのか。そろそろ大方が上の二つを経るだろうから、より毒性が低くなるのではないか。一方で感染性が高まれば、また皆が曝露されるのもあるか。そのようになれば結果よし?

 

今朝は陽性判定が出る前に歩きに出た。ただ、明日からは控えた方が良さそう。無症状ではあるのだから、療養しておいた方が良い。いつ症状が出るか分からない。

9月6日(火)

今朝はこの間のように夢を見た。ありありとした夢で、母が誰かと自分の話をしている。自分のラベルについてであり、それは明確な誤解。それを語気を強めて訂正するも、なかなか伝わらなくて怒りが爆発する。

その瞬間に現実の肉体も叫んでいた。それで目が覚める。体勢がきつかったのもあるのか、歯ぎしりもしていた感じで、もう身体に応えた。明け方くらいにそれがあり、目覚めの時間が遅かった。

そうなるとほぼ体調が悪い。夕べは最良で収められず、寝る前のヤクルトもぎりぎりだった。でも、スポドリで収めると空腹が強くなる。もうどうすれば良いか分からない。

ウイルス性なのか身体がきつい。寝すぎたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。朝食は本当に最低限度であり、これでは先が思いやられる。

何で食欲が出てくれないのか。もはやストレス反応なのかも分からず、食べすぎなのかも分からない。何が始まりなのだろうか。もう滅茶苦茶だ。

 

今日の計測では微増。尿量の誤差はあったけれど、下腹部の厚さは変わっていた。少し増量はしているはず。でも、摂取量はまだまだだ。極端に摂れない訳ではないけれど、まだ一膳を食べきれない。危険も何もないけれど、危うさはある。

昼はゆっくり食べたお陰か、程よく満腹になる。その程度によって早めの空腹となり、ヤクルトを飲む。その後もまた空腹になり、夕食でもそれなりの状態がある。ただ、胃の持久力は落ちていて、ぐんと腹が膨らまない。

この晩の時点で症状はなし。随分と窮屈な日常だ。体調が良くても歩きに出られない。ましてや不定愁訴もあるのだし、身体が鈍って腐りそうだ。画面を見るばかりで応える。理想の日々からどんどん遠ざかる。

 

ある動画で二十代の若者がドライブをしているのを見た。複数人のグループが車中で談笑している。その何気なさが羨ましかった。そういうのが一番良い。

そういう体験をしないと「哀れな人生だった」と振り返りそう。それが本当に悔やまれる。病人の障害者には到底得られないものだけれど、それを最近ひしひしと感じる。時は取り戻せるのだろうか。

 

新しいブログ(=Webメディア)を運営しようと考えるものの、それになかなか手が出ない。そもそもこのブログも面倒に思っている。

意見を持つのは好きな方だけれど、読書感想文は分からない。感じたものを筋道立てて考え、一つのまとまりにする。それを意識的にするのが面倒だ。

これから何かで大成できるのだろうか。もうコンテンツを作るしかないと思っているものの、それで課金してもらっている姿が見えない。

 

読書にも身が入らなくなってきたか。セルフフィードバックの勉強は必須でも、ビジネスや自己啓発を読んでも仕方がない。自分の実践が最も役に立つ。自分がものを知り、そうやって教える側に立てば良い。

勉強の書籍代は高いし、自己啓発は役に立たない。だったら実践あるのみだけれど、その意欲がない。何も伝えたくないのだろう。

新しいメディアを作りたいし、お金を稼ぐ実践をしたい。でも、全くもって気持ちが動かない。何の矛盾なのかも分からない。

 

勉強の復習と論理訓練。それとブログの再構築。それを楽しみたいけれど、意欲が湧かない。それで刺激的な動画を閲覧するも、そこには過ごし得ない日常がある。酷い世界だ。

いつか理想を叶えられるのだろうか。『敏感すぎるあなたへ』によれば、ポジティブに考えることで脳にポジティブな回路が出来るよう。「不安が起こる不安」を生み出せるくらいだから、現実的でポジティブな理想を考えると、それを叶えるために脳が働くそう。

ただ、『敏感すぎるあなたへ』の再読も意欲が出ない。脳がポジティブになっている気もしたけれど、直近はそれが薄れてきた。この感染騒ぎでもう癖がなくなったか。

 

時が経つと全ては忘れるのか?今はその最中だからそう思えない。でも、どれほど辛くても「喉元過ぎれば」ではあった。今回もそうなる保証はないけれど、とりあえずこう記したまで。ポジティブに考える訓練は価値がありそうだ。

 

参考文献