欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

気楽な展開 役割と自分らしさ

午前は曇っていたものの、午後になって鮮やかに晴れだした。かなり気持ちの良い晴天。春の心地といったところ。久し振りの気分を感じられる。

ただ、午前に歩いたため、もう歩くことはないか。昼食が腹に溜まっているし、どうにも残念だ。食べる量を少し見誤り、またぎりぎり満腹となってしまう。どうにも難しい。

夕べはよく食べられなかったものの、無理をしなかったのは効いた。好調の時も不調の時もそうなのだろう。とにかく無理を減らすことが大切。それがリズムを作る。

昨日の昼食後の収まりは微妙だった。間食は少し食べられたものの、夕方までにはっきりと空腹は感じなかった。食前の漢方を飲むと状態が悪くなる。

食欲が減り、食べ進めるのが少しきつかった。一膳は食べきれたものの、それで精一杯だった。また腹が膨らまない。そして計測では微減していた。こんなことばかりだ。

 

前回の診察から二週間が経つ。頓服の効果は全く見られない。MBTIによる捉え直しをしてから、不確かな心象がもたらす恐怖はなくなった。それで死の恐怖は減り、無理も落ち着いている。

でも、とにかく余裕を求めている。好調コンプレックスは影を潜め、自立のためのコンプレックスが強くなっている。不調コンプレックスから派生したその無理も多い。自尊心コンプレックスの一部だ。正の感情を得たいというより、自立と自活によって自尊心を保ちたくある。

今の体力によるだと思うけれど、理知的には対人関係を求めていない。社会的・個人的な存在保証がほしいだけ。それは自活と自立によるもの。何とか自活をすることと、体力の余裕をもって生きること。それだけを渇望している。

 

直近で病的な無理はほぼない。でも、今度は食欲と早期膨満が問題になっている。食欲が安定せず、早期膨満もよくあり、何気ない満腹がぎりぎりのものになっている。そうなると次の食事にも影響する。

それが厄介だ。何でそうなるのかは分からない。以前は何故それがなかったのか、頓服の効果はないのか。去年もきつくなることは多々あった。それでも調子が上向いていたのは、運か生活習慣なのか。晴れの日によく歩いていたくらいだろう。

 

これを背側迷走神経による冬眠と見なせば良いのか。体力の低下はなく、歩きにもそれなりに出られる。ストレスはあまり強くない。この状態でも許容できるのか。

移動のサービスさえ使えれば良いとするか、生存を磐石にさせる必要があるのか。何もしなくても辛いことはなく、移動サービスがあれば出掛けられる。それを構築し、後は自活をすれば良いのか。体力を追い求めなくてもだ。

どちらにせよ、ほとんど成す術はない。このまま朽ちるのか?あるいは消化酵素と散歩の効果が出る?自然の畏怖を感じれば脳内物質が湧く?自活だけに目を向ければ良い?答えは出ない。ただ変わらず過ぎるのみ。

今日も同じ習慣で生きている。読書をし、各種のメディアからインプットする。書籍、短文、音声。そして日記やフィードバックを記す。そのための二十四時間だ。他には何もしていない。

でも、それに生産的な価値はない。その目的を中心に据えているけれど、束縛的な習慣に意義はない。ただの習慣による無理になっている。これが自活に繋がるのならば良い。

アウトプットに価値は伴わないのだから、せめて楽に積み重ねていきたい。そのための工夫はして良いはず。それをすべきくらいだ。コンテンツの中身を充実させ、より簡単にそれを生んでいく。そのための工夫は今すべき。

自分の好きなことを中心にするのか、人の役に立つことをするのか。アイデンティティーを展開するのか、既存のニーズに基づくのか。どれも選択できない。生活の全てが習慣によるため、何が好きで簡単に出来るのか見失った。

 

人には役割が必要だそう。何かで人の役に立たないといけない。本当に何もしたくない人はいても、自分はそうでないはず。病気になるほど社会交流が必要だ。人との交流が必要で、フラストレーションを晴らさないといけない。

何をすれば役に立てるのだろう。それを日常から見つけ、とにかく展開してみれば良い。好きなこと、簡単に出来ること、人の役に立つこと。それらの三つが重なれば敵なしだ。

好きなものなら自然とインプットが高まる。それを簡単に表現できたらなお良い。それが何かの役に立ったら至高。あるいはそこから逆算すれば良いのか。

誰かに役立ったことを思い出し、好きで簡単に表せるものを見つける。すると遊びは義務となり、義務は遊びとなる。日常の全てが意義深くなる。

 

自分が好きなのは、スクリーンを眺めることくらいか。それで人の意見や言葉を読むのが好き。読書も好きなのだけれど、それは話が変わってくる。読み上げるのと理解するのは別だ。それがネックとしてある。

簡単に出来ることとしては、思考や意見を言語化することか。いや、それを楽に出来る時はあっても、何かの価値を付けようと思ったら大変になる。自然と何かを記したくなるかもしれないけれど、それを綺麗な形にしようとするときつくなる。

何が人の役に立つかも分からない。人に喜ばれた経験がない。人の粗を見つけられたら良いのか?自分の成長が役立たないと始まらないだろう。アクセスを集めるのは無理だし、形式ばった販促をするのもつまらなそう。

となると、残りは意見とノウハウを発信することくらい。自分を救うことにより、同じ悩みを持っている人を救う。

 

ほんの一瞬だけ更新を止めてみようか。いや、別に誰も見に来ていない。だから読書も定時に読むことをせず、ただ思い付いた時に読み、記したい時に記す。それで価値が付けば万々歳だ。

何も考えず、ただ好きなことや出来ることをし、気楽に表現・創造を発信する。それが良いだろう。それで何かに繋がることを祈る。なるべく人通りの多いところでする。それだけで良いはず。

アイデンティティーを発展させれば良い。自分らしく人の役に立つこと。内向直観の才能を活かすも良し、成長を売るのも良し、ただ読んで記すのも良し。

いや、聖職的な支援をし、フィードバックのメモを残し、気楽に読み書きを発信すれば良いのか。ペットと触れ合い、現実的な悩みを解決し、自分らしさを展開させる。そうしてしまえば良い。

 

また明日。

 

参考文献:

叡知の認知 変化と成長

今日は午後から晴れている。風は強いものの、光も強く差している。ほんの少し青空も覗ける。路面は黒く露出していて、路肩の雪が少なくなってきた。

今日が春分の日。母親と寺まで行ってくる。特に何事もなく帰宅した。誰とも会うことはなく、国道沿いの店まで寄ってから帰る。通販の決済のために先払いをした。

 

どんどん手持ちの貯蓄がなくなっている。評価経済なら物々交換が主流になるそう。パラダイムシフトと貨幣価値の低下。自分に何かを融通してくれる人はいないし、そのための人格を置いてもいない。

いや、ここに置いているのだけれど、全く光が差さない。このコンテンツは不良なのか、それとも場所にそぐわないのか。とにかく出来と工夫が必要。そのための努力と知恵がないといけない。

それが分かっているけれど、どうにも手を変えられない。自分と似たような人が見つからない。ただ人の多い所に行けば良いのか。そこでただ声を挙げれば良い?たったその工夫だけで変わるものか?もう自分のことは救った。だから次の段階に進んでも良い。

似たような魂を持つ友を見つける。来てもらえるように置いておく。そこで評価経済をするなり、最低限の貨幣を得ること。それで生きていけるはず。

 

後はパートナーがいれば良い。人かペットかだろう。現実で友達と付き合うのは無理だ。話も遊びも通じない。内的に勉強を続け、家庭で安全の合図を与え合いつつ、インターネット上で自活をしていく。これで良いのではないか。

勉強が好きだし、その他に少しの社会交流があれば良い。内的な時間、社会交流、自活。好きな勉強をし、表現と発信をすることで自活をする。それを自動化・仕組み化し、最低限の原資を得ていく。

それで生活が出来れば良い。勉強も生き急いでする必要がなくなり、家庭での時間を増やすことが出来る。まとまった収益が上がるのであれば、フローの更新に煽られることもない。神経エクササイズの遊びにもっと費やせる。

それに飽きたらまた勉強をし、表現や創造をしていけば良い。この循環で生きていきたい。いつかまとまった身体の原資が得られたら、もっと局面は変わるかもしれない。良くも悪くも未来は不確定。

昨日の昼食後の収まりは微妙だったものの、夕方には空腹になっていたと思う。それよりも食欲があった。空きっ腹ではなかったけれど、それでも物を摂りたくなることがある。それがたまたまあった。

食前の漢方を飲んでも食欲は落ちず、よく食べられそうな感じで食べ始める。早期膨満も薄く、最近では珍しくよく食べられた。その差をはっきりと感じられる。

昨日とは調子が明らかに違った。満腹の限度も高くなり、それでいて余裕があった。計測では下腹が厚くなっていて、体重が増えていた。

やはりこれくらいの調子があれば良い。いつもは病的な不定愁訴があり、よく食べられていない。一食分に達していないはず。ある程度よく食べられないと肥えない。

 

今朝の胃はフラットで、朝食はするすると食べられる。でも、そこでちょうど満腹を見極めたはずが、ぎりぎり満腹になっていた。そのきつさが午前にはあった。

ただ、基本エクササイズの効果があったのか、昼食までにフラットになっていた。出掛ける際のセラピーを兼ねていて、その効果かいつも通り食べられる。

最近は寝る前にしかエクササイズをしていなかった。面倒だからやめていたものの、それはやはり効果があるのか。先月の診察前はそれと消化酵素が合わさった。それで摂取量が安定していたと思う。午前と午後にもすべきなのか。

ポリヴェーガル理論入門を読破する。訳者の方の後書きに感動した。ポージェス博士は、「セラピーの目的とは、クライアントが愛する人とともにいて、親密さや幸福を感じることができるようになること」だと論じている。その背景にある理論は大体を把握した。

社会全体がポリヴェーガル理論を理解し、生理学的状態を考慮すれば良い。社会交流システムを軸とする子育て、教育、福祉、医療費、そしてビジネスが実践された時、真の幸福と繁栄を手に入れられる。

この叡知を取得できて良かった。訳者の方と出版社の慧眼にも感謝したい。色々な人に認知してほしい。これを知っているのはまだ少数のはず。

 

認知をもう一つ。『腸神経系』についての解説が巻末に記されていた。それが胃腸系機能を制御するよう。それは自律的に働くことができるものの、自律神経系から相当の神経支配を受けている。

その働きは腹側迷走神経経路に依存していて、背側迷走神経回路によって活性化するものの、その活性化が防衛に用いられない時に最適化するそう。恐れなき不動化のことだろう。

それは腹側迷走神経系が最適に機能している時に起こる現象。背側迷走神経系が胃腸に繋がっているのは、爬虫類の先祖から引き継いだため。爬虫類の生存方法は体温を下げ、呼吸を減らし、代謝を下げるもの。哺乳類がそうすれば不適応になる。それを制御するのが腹側迷走神経系。交感神経系の過度の活性化も腹側迷走神経が制御する。

横隔膜下の内臓は背側迷走神経に繋がっていて、横隔膜上は腹側迷走神経に繋がっている。でも、経路によってはそれぞれ上下にも影響している。内臓を司るのが背側迷走神経で、リラックスと関連しているのが腹側迷走神経。

後者は社会交流システムとの繋がり、それによる合図がその神経を活性化させる。それが恐れなき可動化・不動化。遊びやパートナーとの凍りつきによるリラックス。神経エクササイズだ。それが健康、成長、回復を支持する。内臓の働きは正常に戻るのだろう。

去年のから生活の変化はないけれど、思考の変化や成長はあるはず。より精密なマニュアル・カリキュラムが完成している。

自立や自活の現実的な目標が定まっている。どんどん人生の下積みを重ねている。無為に娯楽や学問に費やしてはいない。経済的な自立が出来ればなお良し。

このような人生の方が良いのかもしれない。無思考に自分の意見を持たず、常識や世間に流されてばかりの人もいる。気が付けば不可逆になるのは誰だってそう。

全ては無い物ねだりで、最終的な結果の差はどちらに分があるか。健康、自活、社会交流。それをこの局面で重ねられるのは幸せか。それも自分の意見を持ってだ。

 

また明日。

 

参考文献:

努力と工夫 自活と省力化

今日は曇っている。少し風が強く、それに当たると身体が冷えた。直近では青空が見えていない。それを見たくはあるけれど、かえってやるせなくなったりもする。

理想は晴れた日に外出し、社会交流をして自活をする。それが出来ない生活は堪らない。田舎生活の不完全さに嫌気が差す。それもきついものだ。

昨日は昼食後に間食を摂り、その後の収まりは良かった。夕食前には空腹になっていたと思う。それは感じられた。

ただ、食前の漢方があまり食欲に繋がらなかった。そしてほんの少し早期膨満もあったか。一膳とおかずを食べきるので精一杯になる。そして計測では昨日より微減している。

今回はその理由がはっきり分かった。やはりまだまだ低調だ。快適な満腹からは遠ざかっている。それが安定して維持されたのなら、五百グラムは増えるはず。天井が変われば一キログラムだろう。その現状が見えた。

 

明けて朝食と昼食はよく食べられる。今朝の胃はフラットで、最良の量を食べられた。こうなることは前日の寝る前に分かる。明確な理知の制御が安定をもたらす。

昼食もフラットに迎えられ、早期膨満も薄かったと思う。ただ、少し時間が経って満腹感が強くなった。間食を摂れるか否か。やはり、ぎりぎりの満腹になってはいけない。次の食事は数時間でやってくる。

その満腹は不意だった。程よく食べた認識のはずが、時間差できつくなってしまう。ここで消化酵素の助力がほしい。それがあれば上向いていくのに、診察からかえって効果が減った。

一汁一菜に近く食べられたものの、そうなると駄目になってしまう。それでは肥えないのだろう。昨日から変わっていない。以前なら違ったのか、それとも似たようなものだったのか。去年もきつくなることは多々あった。どうしたものか。

今日も変わらず自活について考えている。インターネットにどんなコンテンツがあるか、そもそもコンテンツとは何なのか。そんなことから色々と調べ、色々と考えている。この準備が功を奏すのか否か。来年の今頃は何を考えているだろう。

フローのコンテンツとストックのコンテンツの違い。あるいは無料と有料の違いだ。それをどうフィードバックの価値と合わせるか。それを考えていると、自分が持つ価値が何なのか分からなくなる。自分と似た悩みを持つ人などいるのか。

コンテンツのクリエイト、あるいはメディアを運営すること。それは箱や導線で、そこに何を置くかが重要。人として魅力があるのか、有益な知見があるのか。娯楽を生んでファンを得るか、何か意見をまとめるのか。

 

娯楽を生む人は、アクセスによって広告枠を売ったり、ファンにグッズを課金してもらったりする。ストックコンテンツを作る人は、自分の成長の足跡をメモにまとめ、それを再現させる。あるいは意見を発信してコラムを書いたりする。その他に人を集める販促もある。

これらの価値と場所、導線は用意されている。そこに自分の何を入れるか。既存の価値や需要に基づくのか、簡単に出来る役立つことか。あるいは好きなものを通して表現するか。それを上手く役立たせるか。

自分から湧いて出てくるものは何か。コンテンツを生み出すならそれだ。普段から何のインプットを高めているのか。それを考える方が良い。それを表現していくこと。色々な形で試してみる。

 

Twitterで気付きをまとめ、それを置いておく。それは好きな時にやれば良いし、それに苦はない。日常から知的な刺激を感受したくあり、そこから考えるのが好きだ。一時的にその気付きを留めておき、有益なものをストックにまとめる。

問題はフローの更新だ。どんな形ですべきだろう。SNSのフローだけで良いのか、ストックに繋げるべきか。後者の更新している人が目についてしまう。

そのような人たちは、日常で常にインプットが刺激されるのだろう。そこで無料の軽いものを更新したり、有料で重厚なものを更新していたりする。その頻度はまちまちだ。

 

有益性とリーチ性。有益なものだけを定期的に更新するか、無料のものもフローで更新し続けるか。それをセルフフィードバックに落とし込めばどうなるか。

セルフフィードバックはエッセイ風味が大事で、そこに気付きもないといけない。情報と感動。それはあるブログには無いもの。単に情報をまとめるのであれば、無料で提供せざるを得ないかもしれない。利点はある。

 

ここ何ヵ月間の更新では、冒頭に日和の話をしている。それは話は要るのだろうか。それに加え、毎日の不定愁訴を残す意味もあるのか。情報の気付きをまとめた方が良いのではないか。

気付きをまとめて有益なものにする。それが意図だけでなく真にそうなれば、明確に価値を生まれる。それ以外の日常や天候、不定愁訴は邪魔になりそう。有料のコンテンツにするとすれば、それは要らないだろう。

発信を始めて一年半。まだそのスタイルが固まっていない。早くその型を見つけ、もっと楽に生活と創造を回したい。そして自活に繋げていきたい。

フィードバックのための勉強と、コンテンツ発信のための勉強。他にも意見を言うためのものもある。とにかくそれをするしかない。

いつか何かの価値が生まれ、明確なそれが対価をもたらしたなら、ようやく肩の力は抜けるはず。一度の継続的な努力と工夫により、それ以降の努力は省力化される。そうなれば前述の勉強が楽になり、アイデンティティーを展開するだけで良くなる。後は社会交流に費やして健やかになれば良い。

 

また明日。

 

参考文献:

社会交流と技能 調整の過程

午後の今は曇っている。光が強いため、気分はあまり落ち込んでいない。昨日の予報通りに湿った雪が降った。それが数cm積もる。それでもすぐに路面が見えるようになった。今くらいだとこうなるか。散歩をした時の風はそこまで冷たくなかった。

昨日の昼食後には間食を摂れる。ただ、夕方までに空腹を感じなかった。それは胃に滞留していたのか否か。あまり釈然としなかった。

夕食では快調に食べられなかった。ただ、最低限は食べられる。でも、あまり余裕はなかった。それでも計測では増えていて、意外に思った。

やはり、一膳とそれ以外をもっと摂りたい。そこに余裕が生まれると変わる。今はそこに達していなく、それが体重に現れている。認知の歪みはあり、以前の調子や摂取を忘れているのだろう。今は低調で推移している。

 

今朝は理知的な摂取が出来たと思う。少し状態の悪さを感じたものの、そこまでではなかった。最良の量の手前まで食べられる。それは十分に許容範囲で、午前の作業をしても辛くならなかった。珍しく自然と歩きたくなった。

昼食でも最良の量を食べられる。そしてそこからまた間食を摂れた。悪くないと思う。夕食が快調であれば、計測では増えるはず。快い満腹があれば必ず肥える。この調子で計測に持ち込みたい。

今朝、母親とお金の使い方を話していた。そこで少し話がぶつかる。自分の意見としては、「公的な扶助も貰えないのだし、積極的に投資して技能を身に付けよう」と主張した。

でも、母は「将来の生活費のために蓄えよう」と主張する。「それではじり貧になるばかりだ」と返すものの、それについてまともな意見はなかった。

以前も記したように、最終的には社会的な経済的支援を受けられる。現実的な障壁はあれど、それは事実としてあるだろう。

でも、それまでに何もしなければ、そのままその道まっしぐらだ。「遅かれ早かれそうなるのであれば、積極的に投資すれば良い」というのが自分の意見だった。

ただ無為に過ごすのではなく、せめて何かを積み重ねようというもの。これらの筋道を立てたけれど、渋い顔をされた。「ウェブ上にまともな仕事はある」と言っても、怪しい話だとして訝しがられた。

 

自分の意見に誤りはないと思うけれど、独創的に仕事を作ろうとしているのがネックだ。既存の価値をやり取りするのは考えていない。そしてこのブログの存在も知らせていない。だから最後の部分に説得力がない。

やはりこのフィードバックに見切りをつけるべきか。あるいはそれが日の目を見た時、否定されることなどないのか。どうにも分からない。問題はないのか、場所を変えるべきなのか。あるいはスタイルを変えれば良いのか?

 

ストックとフローの更新をどうしようか。セルフフィードバックは対価に繋がりにくいはず。情報や意見をコラムにまとめるか、何かの体験をメモとしてまとめるか。それらが可能性としてあるだろう。

どちらも選択肢としてあるだろうけれど、毎日の更新はどうすれば良いか。日記だけでも価値があるのか、気付きや体験をまとめれば良いのか。情報は軒並み無料化されているし、そのようなものを求めてもらえるのか。

 

ここ最近はそんなことをよく考えている。フィードバックすることからは離れているか。マニュアルの緻密さが高まることはあっても、それでやるべきことは見つからない。もう見つかっているから。

あとは行動あるのみで、自活と健康を手に入れるしかない。そうして自立した生活を送る。もうそれだけの局面に入った。社会交流と技能の獲得。それによる自活と健康の確立だ。

後はこまめに認知を入れ続ければ良い。それに束縛がなければなお良い。毎日の更新に縛られず、気楽に生活の均衡を保つ。遊びは義務となり、義務は遊びになる。それを昇華させる循環もあり、それは自動化・簡略化される。その仕組みを作りたい。

成人では、生存のための必要性は、安全と食物を得ることから、自分の生理学的な状態を調整することへ変化します。

ポリヴェーガル理論入門 238P

これが人生の全てだろう。それを認識するために必要なのが、ポリヴェーガル理論の概念。マズローの欲求階層とは少しずれるのか?先に安全と食物が必要なのか。

まず身体の恒常性を保つ必要があり、それが生理的欲求の満足となる。その後に必要なのが、健康、回復、成長をもたらす生理学的状態。それは安全と所属、愛の満足だろう。マズローいわく、安全は病気の悪化を防ぎ、所属と愛は病を癒す。

マズローの記した通り、これらの満足の順序は、生存確率の高さと相関する。それが欲求階層の本質。生理的な恒常性を整えるのが先にあり、生理学的な状態の調整というのは、健康、回復、成長をもたらすこと。つまり安全と所属・愛の満足を得ることだろう。

やはりこの順序だ。それが存続に欠かせない。マズローの概念は本質的だった。原始的・生理学的な視点で見れば、病気の原因は大まかに判断できる。どの不満足があるかによってだ。

 

現代の生活スケールと参照してみれば、経済的なネックが大きく横たわる。個人的に考えれば、今は生活の切迫がない。だから生理的な欲求は満たされていて、必要なのは生理学的状態を整える前述の満足。

改めてやるべきことは見つかっている。新たに認知を得たとしても、このやるべきことを補完するのみだろう。社会交流さえあれば、そこから健やかに生きることが出来る。そしてその過程に自活の種があれば良い。

毎日のメモにも意義があると思う。それを手放したくはない。欠かさず続けつつ、過去の記事を練り直し、新たに別のスタイルのメモを作る。そんなフローとストックの精錬。そこにもちろん読書も欠かさない。

もっと根を詰める必要があるのか。実働時間は小一時間ほどだし、もっと費やすべきなのか。そうなのかもしれない。

 

また明日。

 

参考文献:

準備と考察 才覚と価値

今日も曇りだ。天気予報にまた雪だるまが並んでいた。まさか降るのだろうか。いや、降ったとしても積もらなければ良い。親は積もると言っているけれど、一体どうなるのか。暖房を切った部屋の冷気が和らいだこの頃。

昨日の昼食後の収まりは良く、そこですぐに間食を摂れた。そこからの収まりも良く、夕方の早くに空腹となる。これくらいの調子が最低限のものか。

夕食では昨日より食べられた。調子が上向いたのを感じたし、計測でも微増していた。ようやくまともな満腹になった。今朝の調子は良くなかったものの、そこで無理をしなかったのが効いた。

 

今朝の胃はフラットだったものの、少し気分は優れなかった。ほんの少し食欲がなかった。でも、それは昨日とほぼ同じだったため、理知的に摂取を制御できた。一口のためらいを感受すること。それが後に効いてくる。

そして昼食はフラットに迎えられる。少し早食いの気があったものの、最低限は食べられた。その後の収まりは良い方で、すぐに間食を食べられた。悪くないと思う。

夕食もフラットに迎えられそう。そこで食欲があり、早期膨満がなければ良い。食欲は時の運でも、早食いはしないこと。そこで腹がよく膨らめば、体重はまた増えると思う。そうやって軌道に乗りたい。

今日も変わらずに過ごしている。散歩をしているため、こもってばかりではないと強調したい。いや、責められたら説得力はないか。社会交流がないといけないし、自立のための用足しもしていない。地理的な不便を慮っておくれ。

勉強では『ポリヴェーガル理論入門』をそろそろ読み終える。かなりペースは遅いものの、セルフフィードバックは大方が済んでいるため、他の書籍も読んでいる。

そして自活のためのインプットをしたくある。アウトプットもそうで、何が出来るかを考えている。どこに価値があるのか、それが既にあるものは何に基づいているのか。自分が好きで簡単に出来ることや、世の中のニーズについて。

 

まず自分が持つ価値、具体的に才覚や人の役に立つことを考える。日頃から好きなものに接していれば、それについてインプットが膨れ上がる。それが人との大きな差になったり、誰かの問題を解決するかもしれない。

自分が簡単に出来ることは、誰かにとっての面倒だったりする。それが好きなことに絡めば、もっと大きなエネルギーを生むはず。それを通して人の役に立つ。簡単で好きな作業かつ、人の問題を解決するものを選ぶ。

誰しも何かをしている。日常の中で何もしないということは出来ない。生活の束縛や切迫がないのなら、何か好きなことに費やしているはず。それを見つけて発展させれば良い。仕事と自己の同一化。アイデンティティーを展開させること。

 

自分の好きなこと、出来ることは、勉強やためになる情報を取得すること。これはそこまで苦ではない。そしてそれをまとめたくなる。役に立つ本を評価・選別したり、何かの意見を表現することもあるか。

それらのどこかに価値があれば良い。今はそれをよく考えている。創造的に生きたいのもあるけれど、やはり自活をしていたい。とにかくそれがないと始まらない。

 

世の中にはどんなニーズがあるのか、そしてそれをどこで見つければ良いのか。テキストコンテンツのブログサイトと、販促をするブログサイトがある。価値のあるテキストを生むか、情報をまとめるのか。その両方にはどんな努力や労力が必要なのか。

どうやら有料記事も面白そう。それはどんな価値に基づくかを調べている。検索からの流入もあるよう。無料のコンテンツでファンを獲得し、信用も得て、有料のコンテンツを残す。それが検索からも入り、お金を落としてくれる。

でも、それをファンから買ってもらえるのか。セルフフィードバックを無料で発信するのなら、どんな価値が生まれるだろう。それを書籍のようにまとめるのか、何かのノウハウを売るか。テキストコンテンツか、販促なのか。

 

やはり誰かの気になっていること、つまり問題を解決してくれそうな意見・情報が求められる。その人にしか表せない知見。それはコラムだったり、ノウハウだったりする。それを教えるのが良いか。検索との反りも良さそう。

文筆では何を売れば良いものか。積み重ねたフィードバックには何の価値があり、何のコンテンツになるのか。それを書籍の形にしたり、読んだ書籍を順序立ててて紹介することか。

それしかないと思う。気付きとその手間を売る。簡単に出来るそれで役に立つ。でも、それでまとまったものになるのか。

それか有料で何かの記事を出すか。今までに得た知見をまとめ、誰かの問題を解決させる。でも、それは行動量や知見の量が欠かせないだろう。経験の少ない人間は不利か。

 

戦略を立てるべきか、実際に試行錯誤してみるべきか。場所を変えたいのだけれど、どうにもためらってしまう。事前の準備と考察。これも仕方ない。センシティブパーソンは一回の挑戦で成功しようとする。

母親に読書に費やした金額を伝えたところ、「私はそこまでしない」という旨を言われてしまう。酷く失望したものの、すぐに気を取り直した。母に特段のスキルはない。それは何の因果によるものか。

読書をしないと始まらない。スキルも知見も何も得られないから。いつか大きく実を結ぶと確信している。多く費やしたのに悔いはない。もっと加速させたいくらいだ。

 

改めて思った。とにかくスキルを身に付けないといけない。何かの専門性を身に付けること。理想は市場で需要があるものを選べば良い。それによって自活をしていく。

そしてそれを売る。何らかの有形のものをまとめ、自動的に売れる仕組みを作る。そうすれば生活の束縛が消える。

それがアイデンティティーをなすものだったり、簡単に出来たりすればなお良い。時間の余裕が生まれたら、また才覚の進化に費やせる。

 

ブログに何の価値があるのか、それともないのか。それに早く気づきたい。あるのなら、もっと効率の良い楽な作業に変えたい。フローの更新はストックを兼ねるべきか。

気付きを売るのか、販促をするのか。あるいは純なテキストで勝負をするのか。その全てを始めれば良いのか。

 

また明日。

 

参考文献:

日常の均衡 価値の発見

今日は曇っている。雨がぱらついたりもしたけれど、そこまでどんよりとはしていない。光が十分に差していて、どこか情緒のある景色にも感じられた。湿った町と光。

昨日の昼食はよく食べられたものの、ぎりぎり満腹になってしまったか。少し前なら問題なく収まった量だった。少し胃の力が落ちていると感じた。

そして間食をせずにスポーツドリンクを飲む。夕方には空腹になったものの、夕食前の漢方を飲むと食欲がなくなった。一膳を食べるのが精一杯だった。案の定、計測ではまた底に落ちていた。

それくらいしか収められなくなれば、体重はもう一段落ちてしまう。それはすんなりと理解した。やはり食事量と体重は重なるのか。今は認知が歪んでいて、去年の春頃はもっと食べられていたか。

一膳とおかずはしっかりと食べ、汁物もつまんでいく。それが最低限の摂取。それを簡単に収められるようになれば、天井を突き破れるはず。

 

でも、そのためにはどうすれば良いのか。消化酵素の力は加わらず、ドクターに不信が募り、将来の自立・自活への不安も増大している。このまま時の運で変動していくものか。

病的な無理による消耗はないだろうけれど、とにかく余裕があった方が良い。直近で無理はないのだけれど、食欲に波があり、早期膨満もする。もう成す術が見つからない。嗚呼。

今朝は早く目覚めたものの、食欲を感じられなかった。胃はフラットだったものの、どこか不快感があった。

でも、それを理知的に処理することが出来た。感知した感覚を却下しなかった。食べる前から限度量を見定め、それでちょうど良く食べられる。

内的な感覚を受容できた。その後は力が満ちていて、午前に散歩に出た。手短に帰宅したものの、エネルギーの枯渇は強く感じなかった。

摂取が低調で続いているけれど、体力の低下は感じない。それは偽りないものだろう。この状態であれば問題はないのか。肥えてはつらつとまではいかなくとも、最低限の活動なら可能になる。後は移動のサービスさえ使えれば良い。

 

そして昼食はよく食べられる。食欲は強くなかったけれど、何とか満腹の手前で収められた。その量が最低限度に達していると有難い。

そうなれば体重は維持できる。それを解っているため、そこまで達しようと無理をしがちだ。まずその平均があれば良い、そこから天井を突破していきたい。

今晩の計測もどうなるだろう。そろそろまともな満腹がほしい。そうなれば今度は無理をするだろうけれど、まずはそうならないと話にならない。それを願うのだけれど、それが好ましくないのか。

今日も変わらず過ごしている。外出することは散歩の他にない。社会的な繋がりの場所はないし、店も歩く距離にない。この町の住民は、体力があっても徒歩で買い物はしない。生活圏が広すぎるため、自家用車がないと始まらない。

自分で物を買うだけでも自尊心が保たれる。それが出来れば他の用事も済ませられ、都会なら居場所にも出られたはず。後は自活が出来れば良いだけ。

健康、自立、自活。これらさえ手に入れられたら、至福の日々になるのだろう。そこで高次の欲求が湧いたとしても、好きなだけ成長欲求に費やせば良い。

 

午前は読書をし、インターネットを見て、母親と色々と話す。引き続き年金の話や、そこから家計のこと、作業と勉強のための費用などを話す。

デジタル環境については出費をしてくれるそう。そこまで深く話をした記憶がないけれど、その重要性は解ってくれたよう。

まともな机と椅子を用意し、デジタル機器を揃え、一人の時間で勉強・作業をしていく。この社会で良い立場を得たいのなら、この道を通らないといけない。

公的な信用がある人も、経済的に成功した人も同じだ。一人で勉強をし、技術を身に付け、デジタル機器を用いて仕事をしていく。お金を使わないということは、未来を失っているということ。公的な扶助は得られなくなったのだから、自活のために励むしかない。

 

大半の時間を内的に費やしている。勉強とアウトプットの時間は短いものの、インターネットや書籍から知識・刺激を得て、色々なことを思考している。それが最も楽しいかもしれない。楽に出来ることだ。それが人にとっての面倒なら価値がつきそう。

大半は暇で過ごしているものの、やはり義務的な習慣の束縛はある。「何かの表現に繋がらないと無益である」という呪縛。それがあり、暇を全て最大限に活かすべきと思ってしまう。

それが厄介で面倒だ。どうアウトプットするのが良いのだろう。それがよく分からない。フローの更新で良いのか、ストックに繋げた方が良いのか。自分の何の表現が効くのか判らないし、何をしていきたいのかも分からない。全ては自活のための習慣だ。

 

毎日の更新を楽にし、生活の束縛をなくす。自活をしていき、自尊心を保つ。これが理想だ。そのためにはどんなコンテンツを作れば良いだろう。どんな場所で、どんな形で生み出していくか。それが定まらない。

定まったものが日常と噛み合った場合、これもまた理想的になるだろう。内的な作業と、健康的で文化的な生活、そして自活の仕組み。家庭、個人、社会交流のバランスだ。これらの均衡の取れた日常があれば良い。

 

このアウトプットには何の価値があるのか。あるいは何の価値を築こうとするのか。娯楽にまつわるファンビジネスか、セールスをして販促するのか。それとも知見に基づいて役に立つか。

どれに価値があるか分からないし、どれを身に付けようかも選べない。それがいけないのだろう。やはり場所を変えないといけない。

でも、この文章は取り扱いが難しい。読んでほしくて記してはいないし、書きたいものでもない。とにかく自活をしたくて始めたのだった。

インターネットに発信するのであれば、本当の人格に基づくものであるべきだ。本名で発信しても問題がないか、親類縁者に知られてもまずくないか考える。自分にはそれがない。

とにかく下積みは続けている。だから少しずつ変化しているとは思う。知見の集積は止めていないし、今だって何かの役立つ価値があるはず。それはアウトプットをし、誰かに触れられないと生まれない。

十年もドロップアウトの経験があり、日常で簡単に出来る続けているものがある。だから諦めず努力し、工夫して何かに繋げれば良い。

 

また明日。

 

参考文献:

不自由の程度 ラベルと通念

今日は曇っている。曇ってはいるけれど、不穏な雰囲気は感じない。雨が降り出しそうな感じもせず、光は強く差している。これだけでも精神的に助かる。

午前に散歩へ出掛ける。内的に費やしてもあまりきつくならなかった。きつくなる時というのは、恐らく体力の低下があるのではなく、詰め込みすぎがいけないのだろう。

体力のなさで詰め込みの影響を受けるかもしれないけれど、誰でも頭は疲れるはず。頭も臓器だし、一度に疾走するとばててしまう。新鮮な状態でないとはかどらないのだから、何事もこまめにつまむのが良い。胃袋という臓器もか。

 

散歩では図書館を一周する。ここ最近は摂取が微妙だったものの、特にその問題はなかったか。帰宅しても消耗しておらず、読書なりに費やせる。

これで最低限の体力はあるはず。ここから余剰のエネルギーが生まれないものか。去年の春頃はもっと歩いていたものの、かなり差がある訳でもない。もう一キログラムは増えても良い。そうならないと話が始まらない。

経済的な困窮は何とかなるはず。現実的な壁はあっても、社会的な解決策は用意されてある。だから解決は簡単だという人もある。問題があるのは自立について。身体を持ち運ぶ必要は出てくるから、そのためにもっと底上げをしたい。

昨日の昼食と夕食はそれなりに食べられる。でも、また最低限しか食べられなかったか。直近では変わらずこの調子だ。よく食べられないけれど、駄目駄目でもない。

ただ、前回の診察前からは調子が落ちている。その時はよく食べられていて、かなり腹が膨らんでいた。それについては思い出せる。特に生活が変わっている訳でもない。ここから変動していくのか。

 

今朝は少し寝坊をしたため、朝食は最良量まで達しなかったか。でも、胃にほとんど負債はなかった。それで理知的に食べられたはず。

昼食では食欲が薄かったものの、早期膨満もこれまた薄かった。それでよく食べられる。最近では珍しい調子だった。一汁一菜に近い量を食べられる。それは早食いをしなかったからかもしれない。

この昼食での調子が最低限度か。でも、それを経た今は間食が摂れなさそう。どうしたものか。この調子が続き、それで最低限かつ余裕をもった体重が維持されたら良い。

昨日に届いた年金の棄却書類を読んでいた。その棄却理由としては、障害等級二級の発達障害の例において、「発達障害があり、社会性やコミュニケーション能力が乏しく、かつ不適切な行動がみられるため、日常生活への適応にあたって援助が必要なもの」という場合に当たっていないためだそう。

全くもって身体的な状態に言及がなかった。それが堪らない。問題点の検討として、

「精神の障害は多種であり、かつ、その症状は同一原因であっても多用である。したがって、認定に当たっては具体的な日常生活等の生活上の困難を判断するとともに、その原因及び経過を考慮するとされ(抜粋)」

とある。それなのに、申告した身体的な状態は摘記されていなかった。あるのは発達障害に区分され、それに基づいて測られた生活スケール。

やはりそのラベルが用いられたのが問題だった。ドクターとまともに話をしなかったのがいけない。個人的には関係性に亀裂が入った。

日常生活能力の判定では、その発達障害の不自由に基づいて測られる。身体の不自由があったとしても、申請に使ったラベルはそれだからだ。

そこから考えると「支障の程度が低いだろう」と見なされた。そうなるのも自然か。何故ならそのラベルは誤りだし、ドクターともまともに話をしていなかった。

 

ただ、他に使えるようなラベルはない。自尊心コンプレックスやらはあるものの、それはもちろん、個人的な捉え直しによるもの。社会的な理解と通念があるものとしては、「自律神経失調症」と「社交不安障害」しかない。これが誇張でも矮小でもないラベル。

でも、その程度の不自由に与える扶助はないか。それは個人的にも思える。著しい生活の限度はあるのだけれど、そこから見れば程度が知れてくる。嗚呼、もう使える手段はない。

 

これからは社会人の義務を背負わないといけない。それは一部で済むと思うけれど、どうにも参る。勤労の義務が負えないのに、納税の義務を負わないといけない。もっと機械化の社会における経済があるのではないか。

まだラベルとの付き合いはありそうだ。一部の義務で済ませるには、まだそのラベルが必要。もう一つの福祉に繋げられたらそれで良い。それ以降はかなぐり捨てれば良い。後は自活をして生きていくしかない。

 

その棄却理由についてや、各種の納税の義務について母親と話していた。それらについての折り合いは母につけてもらう。年金事務所に問い合わせるところで、母は色々と考えていたらしい。

色々と論点を整理しているようで、色々と話した。自分は無知が多い。母は以前に事務所の職員から納税の免除の制度を聞いたそう。だから自分は、「それを相談してくれ」と言う。でも、母はそれが不確定なものだ疑っていた。「それでも可能性の話だ」としたものの、色々と頭を抱えていた。

そこから棄却理由や将来の自立・自活について話をしたところ、何だか険悪になってしまった。感情と合理の対立。喧嘩になるならこちらに筋がある。でも、そんなことを証明しても意味がない。

以前から何度もこんなことにはなっていた。この話はもう避けたい。恐ろしくなるし、考えても何も始まらない。嗚呼。

ポージェス博士の言葉を引いてみよう。

私たちの社会では、少しでも違う刺激が加わると、行動面で、あるいは内臓面で敏感に反応してしまうことは、「悪い」ことであり、欠陥があるとして扱われます。こうした道徳観は、発達的に「障碍がある」、精神的に「遅滞がある」、または注意力に「欠如がある」というレッテルをつけることでさらに強化されています。社会は、子供たちは自発的に行動を抑制できるものだと考え、それができないなら欠陥があると見なされます。

ポリヴェーガル理論入門   225~226P

社会全体が個人の神経系の違いを尊重するのであれば、子供たちの発達の過程が改善されるでしょう。

ポリヴェーガル理論入門 215P 

自閉症自閉スペクトラム症ADHD、各メンタルヘルスの病態に関連する本質。この新しい自律神経理論で大勢が救われるだろう。最新の医学や通念も後に覆されるかもしれない。人間の主義には偏りや誤りがある。ポージェス博士もそのような言及をしていた。

 

後は自活をするだけ。一人の時間で技能を身に付け、オンライン上で仕事をする。やることは簡単だ。そして移動のサービスを用い、必要な用事を済ませるようにすること。それだけで人生は完結する。

誰にも責められず、自活と自立をする。金銭を確保し、健康的で文化的な生活をする。そこに社交があれば理想だ。そうすればもう、誰にも何も言われない。社会にも個人にも、ラベルも何も必要ない。一人で生きていける。

これもやることは簡単。迫られたらやるしかない。ただそれだけのこと。人生観を築いた分、何かの利点もあるかもしれない。とにかく長生きし、後で時間を回収すれば良い。もう何も考えたくない。ただやっていくしかない。

 

また明日。

 

参考文献:

自活と健康 必要な認識

今日は荒れた天気だ。夕べは珍しく強風が吹き、怖さを感じる程だった。建て付けの悪い我が家は音がしてしまう。その荒天がまだ続いている。

それで今日は歩かない。もちろんのことだけれど、冷静に考えられたと思う。午前の隙間に落ち着いた時間はあったけれど、気が乗らなくて歩かなかった。

それで良かった。昼食の食欲には全く影響しなかった。いつも歩くのは親の目があるから。積極的に歩くことでこもりすぎをごまかしたい。特に意義はないのだし、無理をしなくても良い。

 

公的な扶助は得られなかったけれど、自分は働けないのが明確。だから公的・個人的にも暇は得られている。それで良いだろう。まずは自分が認識を整える。自分に必要なラベルはもう得ている。今の神経生理学的な状態も学んだ。

だから理知の上では自尊心を堅持しなくても良い。それとは何も関係がなく、まず責めを負ってはいけない。必要なのは今を有り難がること。今が生存と存続に役立っていることを知ること。それは責められるものではなく、自分が責めなくても良い。

だから楽にしていれば良い。扶助は得られなくとも、歴とした病気はある。貯金なんていつか食い潰せば良い。そうなったらありったけ胸を張って役所に行こう。

 

それで良い。身体は周囲や世界へメッセージを出している。それが立派なコミュニケーションだ。そしてそれは生存をもたらしている。だから、それをより磐石にし、後の生活のために積み上げれば良い。

何も気負うことはない。これが自分の世渡りで良い。生き残ったなら良いだけだ。生存を確保して努力できるようにすること。それが肝要で、その環境さえ手に入れてしまえば良い。

いつか幸せになれるだろう。全てに意味はある。今の出来事は相補的な未来に繋がっている。後はその地点を見つけて辿るのみ。それで良い。

 

ポージェス博士の言葉をまとめよう。時に神経系は、命を救うために機能的に意思を裏切るということもある。ただ、発達過程においてある種のトラウマや問題を体験しても、脳から内臓へ働きかけることは可能だそう。認知の力を使って再び機能を回復することも出来る。

脳に情報を取り組み、文字通り自分で自分の親、教師、セラピストになることが出来る。これはアーロン博士が記していたことと重なる。新しい情報を取り組むことが出来ると、行動や思考を修正することが出来る。解離の書籍にも同じようなメソッドがあった。

 

子供時代に何かが欠落していたからといって、必ず人生に失敗するといった運命論に支配されたトラウマ治療を行うのは好ましくない。人間はより高い回復力を持ち、柔軟で適応的に生きることが可能だ。

過去において傷付けられた出来事の多くは、悪意のない無意識の適応行動によるものだったと理解できる。それが始まりなのだろう。自分をケアした人に悪意がなかったなら、その人を責めても始まらない。だからといって、自分を責めるべきでもない。

あるのはただ生理学的な反応だけ。それが生き残りを助けたという事実。ひたすら理知的に勉強し、運命を切り開くしかない。過去の傷から逆算し、在るべき未来へと辿ること。

夕べはそれなりに食べられた。ただ、それもやはり最低限の摂取に過ぎないか。それは体重が維持される程度のもので、実際に計測では変わっていなかった。

全く余裕のない水準だ。あと五百グラムは確保したい。そこまで底上げし、そこを維持すること。そしてやがては大台に戻る。

でも、それは今の状態では難しいのか?頓服の効果が現れない。それが効かない体質にでもなったのか。だとすれば恐ろしい。もう手段がない。

 

朝食と昼食はよく食べられた方。ただ、これもやはり最低限でしかないだろう。明確な調子の変化がない。「気が付けばよく食べられた」くらいでないといけない。

それを全く感じない。そのように肥えれば良いけれど、一体どうなるだろうか。無理なく食べ続けることで変化があるか。ここ直近では落ち着いて食べられている。それで上向けば至高だ。夕べの計測でどう傾くか。

セルフフィードバックの目処を考えていた。それに繋がる認知はトラウマについて。後は不安などのセルフケアか。それ以外にも何かあるだろうか。手を広げれば無尽蔵でも、必要なのはそれくらいだと思う。

となると、向こう半年でそれを終えられそう。後は気になったものをつまんだり、マズローなどを再読すれば良い。直接のフィードバックはなくなるはず。

ずいぶんと暇になるかもしれない。そこで社交の機会があれば理想だ。健康と執筆。嗚呼、ここに扶助があるのが予定だった。無情だ。

 

セルフフィードバックは軸が多すぎる。エッセイ、コラム、記録・闘病記。検索流入と反りが合わないし、交流するのにパーソナリティーが定まらない。

誰かに受信してもらって価値を見つけたいけれど、それが難しい。でも、自分でそれなりに把握は出来る。テキストコンテンツで勝負するか、情報をまとめることで勝負するか。そのどちらかだろう。

エッセイを中心としてファンになってもらうか、コラムや問題解決として人の役に立つか。前者は直接の課金で、後者は販促によるマージン。

どちらを選ぶかだけれど、どちらも選べるだろう。セルフフィードバックは煮詰まり、まとまったコンテンツになっている。その価値は置いておけば、次の局面で情報をまとめる作業が出来る。

ファンを生みつつ、誰かの問題も解決する。かつてと同じような悩みを持つ魂を救う。自分が普段から簡単に出来ることは、情報を集めること。それが面倒だと思っている人からすれば、役に立つかもしれない。同じ悩みがこの世にもあればだ。

 

もっと交流がしやすい場所へ行く。市場性のある場所でないといけない。そこでテキストコンテンツをまとめる。それでどうなるかだ。それが完成すれば、情報をまとめることに移る。検索の流入に合うことをする。

でも、儲けることはなさそう。それは価値があったとしてもだ。そしてそれがない可能性もある。あるブログの方も収益は少ないそう。やり方の工夫で何とかなるのか、そうならないのか。よくは分からない。

昼食中に書留が届いた。それは自分の基礎年金の通知だった。どきどきしながら封を切ると、書類の下の方に"棄却"とあった。

嗚呼、溜め息ばかりだ。色々と整理している。ドクターを信頼できなくなるようなラベル・認識と、誤ったラベルによる汲まれなかった不自由。嗚呼、医学とは、通念とは。本当に馬鹿らしい。

いや、それをずっと前に感じたからここまで学んだ。今のドクターにそう診られても仕方ない。どんなドクターでも同じだろう。それをパーソナリティーに組み込んではいないのだから、使えるだけ使い倒せば良い。

いや、それが出来るなら良かった。それが使えないことが解った。だったら何のために貼られ倒してきたのか。全ては公的な扶助のためだった。あるいは関係者に理解されるための印。

でも、それは必要ないだろう。扶助がなくても免除があれば良い。そして対人関係ではニーズだけ伝えれば良い。特に問題はないはず。

後は自活をして健康になれば良いだけ。今日もそうやって考えて記した。そのためにずっと学んでいる。多少は習慣にも意味があるか。もうそれで良いだろう。

こう記したエントリーの価値は何だろう。ただの人生哲学くらいか。情報は特になく、あるなら病める同類を引き付けるものか。それが実際にあるのなら良い。それで何とか拓けてこないものか。嗚呼。

 

また明日。

 

参考文献:

自活と技能と健康 才覚の発見

今日は曇っている。昨日の雨は夜まで降っていたものの、今朝になると止んでいた。午前の早い時間に散歩に出る。いつものコースを歩こうかと思ったけれど、そこまで力は満ちていなかった。曇りもあって気分も乗っていない。

そんな時は無理をしなくても良いと思った。直近の生理学的状態と自尊心の捉え直しが浮かんだ。歩くことで調子が変わることはない。それは気が向いたらで良いはず。今は冬眠をしているようなもの。

勉強の体力さえあれば良い。それがあれば外出も出来る。移動の足はサービスを利用すれば良い。部屋の中でも苦しくなるのが問題。そうならないのなら、無理をする必要はない。悪しき習慣の束縛だ。

夕べは微妙に食べられなかった。食欲が強くなく、早期満腹も少しあった。腹に溜まったのなら箸を置けば良いけれど、それがどうしても出来ない。

ひたすら感覚を殺して食べてしまう。いつもきつい腹を抱えて振り返る。いつもより食べられないのが嫌で、とにかく痩せたくない。それがとにかく怖い。

頓服の効果がなくなったよう。またも通院後のブーストがない。明らかに調子が変わらないと肥えていかない。何の胃の感覚もなく摂取が出来ること。それくらいでないと変化はない。

ノイローゼ下であってもそんな時はあった。でも、そう調子が変わることはないのか。体力さえ落ちなければ良いけれど、身体に余裕はない。それはあって困るものでないし、それどころかないと困る。摂取が低調なのか、代謝の問題なのか。

 

明けて朝食と昼食はよく食べられる。どちらも無理はなかったはず。食欲はそれなりにあり、最低限は食べられた。そこまで悪くはない。ただ、それは体重維持が可能になる程度か。

一時的には状態が上向く。だから、後は無理さえしなければ良い。満腹が無理にならなければ良いけれど、消化酵素の力は弱くなっているか。

よく食べられるのだから、そこでその助力があれば良い。それは腹九分でないといけないのか。理想は消化酵素に頼りたいけれど、やはりそれにも限界があるか。徐々に変わっていけば良い。

今日は特に記したいことがない。セルフフィードバックもなく、日常のイベントもない。思考して得たアイデアもない。そう思うと、このフローの更新も手放してみたい。誰も読んでいないため、価値の創造や発見に繋がらない。好きなことや出来ることでもない。

発信するなら受信してもらわないといけない。そうならないと価値にならない。そのための努力が必要か。手探りにもなっていない。それなのに欠かさず記すべき思ってしまう。何の成果にも繋がっていないのに、やり続けないといけない束縛。

「日々の全てはアウトプットのために費やすべきで、それ以外のことは全て無駄。何事も全てを昇華させないといけない」と、そんな風に思ってしまうため、習慣を越えるのが堪らなくなる、創造が崩れると思うものの、特にそれに価値はついていない。それなのに努めて励んでしまう。

 

今日の午前は少し読書や思考した後、色々と手続きをしていた。オンラインでの手続き。それに手こずっていると、ちょっとしたかんしゃくが起こりそうになった。

貴重な時間を無駄にしていて、後で創造に回収できそうにない。それが堪らなくあった。でも、それはたった一時間を読書と思考に費やせないだけ。いつも通りに生活が出来ないだけだ。それに堪らなくなる。嗚呼、あるラベルの臨床的グレーな診断が下りそうだ。何故こうなるのか。

習慣化が付いて回る気質なのだろうか。『八つの気質』という書籍があったはず。その一部と頑固たる欠乏の代償か。お金さえ稼げるようになるか、あるいは公的な扶助と暇を与えられるか。そのどれかで身を固めないといけない。

そうなれば、後は気楽に日常を営める。好きにイン・アウトプットが出来る。外部からの束縛がなくなれば、その状態でし続けられることを見つければ良い。

それで誰かの役に立つこと。自分が簡単に続けていることで、何かの才覚が身に付いている可能性がある。それは人の面倒や問題を解決するかもしれない。

 

自分はやはり、勉強によって得た知見が膨らんでいるはず。他の人は簡単に真似できないかもしれない。でも、自分は楽に続けられる。半分は辛いけれど、そうする意義を強く感じられる。だから毎日のように続けている。

自分が簡単に出来ることは、人にとって簡単でないことがある。集積した才覚をどこかで役立たせる。知見や意見をまとめること、順番に書籍を紹介すること。成長の足跡を辿らせてあげれば良い。

 

そのために発信をする。そうすれば楽しめる気がする。それが足りていないのだと思う。楽しく楽に続けること。そのための試行錯誤が足りていない。そこに暇と扶助があればなお良し。

問題はもうひとつあって、あまり大々的に発信はしたくないということ。親類縁者に見られることを想定していないため、いつか難しくなるかもしれない。内容にセンチメンタルな独白が多すぎた。それが評価されても打ち明けられないはず。

発信と擬似的な束縛。理想の究極形は、まず公的な立場を確保し、才覚を見つけて仕事を創る。自分が簡単に出来ることで役に立つ。

これが叶えば、仕事と私生活を分ける必要がなくなる。日常は遊びに費やせ、それを仕事に昇華させられる。これは幸福なことだろう。

これで習慣や無理がなくなれば良い。そして誰かと愛着を築くこと。それによって健康になり、自立をする。そうなればもう完璧だ。自立と自活は完成し、生活の健康と満足も得られている。

 

仕事と健康のための下積み。技能の獲得と人生観の確立。技能は健康を得ることと重なり、積み上がっている。

人生の序盤とすれば、十分に有意義なのかもしれない。いつか幸せになり、それを羨ましがられたらそうなるか。どうなるだろう。

 

また明日。

 

参考文献:

解決の足跡 存続と未来

今日は午前の半ばから雨が降っている。いつも早くに散歩へ出るため、ちょうど降るまでに間に合った。

インターネットで雨雲の予報を見ていて、実際に予報通りに降りだした。雨が降ると季節が進むのだったか。それは秋から冬の話か。よく分からない。

昨日の昼食では無理をしてしまったものの、その後に間食でも無理をすることはなかった。それは良かったと思う。それで夕食への影響は少なく済んだ。

夕食はよく食べられた方。ぎりぎり満腹の手前といった感じ。ここが許容範囲になったら有難い。体重は微増していた。触っても脂肪が確認できた。

寝るまでに間食は摂れなさそうに感じたものの、案外すぐに楽になった。やはり程よい満腹ならこうなるか。いつもは満腹を感じた後にも食べている。それさえなければフラットな胃が続く。

 

明けて朝食と昼食はよく食べられた。どちらも無理はないと思う。昼食後の今は間食を摂れた。間食でも定量を食べていない。満腹や無理の手前で止められた。

それくらいの気楽さを意識していた。それで良いだろう。消化力や代謝は決まっている。無理をしても意味はない。現に体力は落ちていないし、それで体重が維持されるのなら問題ない。

今晩の計測がどうなるかだ。無理をしないとどうなるか。変わらないのならそれで良く、増えるのならば万々歳。そこで好調コンプレックスを潜在させたいけれど、いま考えることではない。

昨日のブログに記したけれど、今の境遇には意味があるのだろう。神経生理学的に見れば、それは交感神経系や背側迷走神経系の活性化による、言わば冬眠に近い状態だ。ストレス反応と代謝の変化がもたらされている。

その変化は環境に誘引されたもの。よって自尊心とは全く関係がない。だから無理をする必要はない。無理をする方が逆効果で、かえって体調が悪くなるだろう。

奇しくも自尊心コンプレックスと捉え直していて、それは理知的に矯正したいところ。健康から逸脱しているということは、それが生存を助けているのだ。それを理知が理解すること。それだけでも効果があるようだ。

 

十分な体重と体力が得られないのは許容しがたい。でも、それによって公的・個人的な暇と扶助は得られている。これも生存を助けるもの。

そして勉強や内的な時間を設けられる。これが未来の存続にも関わっている。だからとても有意義なのだ。そう思える。無理をして活動することもない。今は今の仕事をすれば良い。未来は相補相互的に繋がっている。

 

食事についても理解やナラティブ(物語り)を変えたい。食欲や消化量が極端にない訳ではなく、病的に無理をすることも減った。あるのは好調コンプレックスのみ。

最低限の摂取だけであっても、死の際に立たされることはない。それで生活の体力は賄える。だから無理さえしなければ良い。その認識でいたい。

好調コンプレックスが湧くのは自尊心が満たせないから。でも、自尊心が下がっているのは環境のせい。それを満たせないのは仕方ない。

ただ、だからといって全てが無惨ではない。この今は生き延びるのに必要。やはり人生の下積みをしている。在るべき未来に成りに辿るため、人生の時間を回収すること。

 

過去の自分に面会できるとすれば、今の自分は何を言うか。それをふと考えたら、特に言いたいことはなかった。「そのままで良い」と言う。言うとすれば、「その時は辛いだろうけれど、ただ耐えてくれ」とだけ言う。

その経験の意味は未来で作る。未来の自分が意味を持たせる。未来によって求められた出来事は、未来の自分によって納得するだろう。人生は奇妙なバランスがあって、それは一本の道の上を通る。

 

ポリヴェーガル理論に基づくセラピーの書籍には、サバイバルをしている野生動物の話が引かれていた。

チーターは最速の脚力があるものの、燃費が悪く、柔軟な旋回力がない。草食動物に脚力はないものの、小回りの利く旋回力がある。

後者はそれを活かして逃げれば良い。全力で追ってくるチーターをかわす方法はある。それぞれに持ち物があり、それぞれの物を用いれば良い。人間もそうで、そうすれば十分に幸せになるだろう。

何事も無い物ねだりに思える。それぞれに何かはある。差が現れるのは知恵の有無だ。勝負があるとすれば、それを身に付ける自己の過程にある。

発信やビジネスについて考えたことを記す。自分の時間や未来、代替可能スキルを売るのではなく、別の物を売る。何らかの商品や価値のこと。それらの仕組みを拡大していく。

発信によって娯楽を生む人もいるだろう。そのアクセスによって広告を貼ったり、グッズを作ってファンに課金してもらったりする。

他にも人の役に立つ発信がある。ノウハウを持っている人は、自分の成長の足跡をまとめる。そしてかつての似たような境遇の人に再現させる。そのためのメモや法則を売る。

あるいは販促をし、人を集めて物を売ることもある。これも人の役に立つもので、情報をまとめることに価値がある。

 

この中に自分が出来ることはあるだろうか。娯楽を生むか、人の役に立つか。ビジネスならやることは定まるだろうけれど、もっと創造的なことをしたい。自活を迫られることはないし、その環境を活かしたい。

昨日に記したことから考えれば、好きなことやしたいことを中心にするよりも、簡単に出来て役に立つことをすれば良い。人の粗を見つけられたり、人に驚嘆されるような継続していること。それらを中心にしていく。

 

そこで浮かんだのが一つ。まずは"いま抱えている問題を解決する"ということ。それに専念すれば良いと思う。そういった成長をするだけで価値になるはず。

それにより、同じような悩みを持つ人を助けられる。これも大切なスキルではないか。それをメモとして発信し、インターネット上に存在させる。すると、それが誰かの役に立ったりする。その感謝として対価をもらえるかもしれない。

これは影響力のある人に共通するのではないか。それは勉強しないと叶わない。一人で作業が出来る環境を整え、黙々と勉強していく。そうやって抱えている人生の問題を解決し、インターネットテクノロジーを駆使して発信していく。

 

人の役に立つ発信はそれがあると思う。ある人の成長は、今その悩みを消えている人の解決に繋がる。その足跡を追ってもらえば良い。

どこに価値が眠っているか分からない。普通の人は劣勢なのかもしれないけれど、普通の人が世の中の大半。だからその人の成長は、大勢の問題解決にも繋がる。

 

誰からも救われなかったのであれば、自分が自分を救わないといけない。自分で自分を救うものを作る。自分がほしいものを作らないといけない。

そして次は誰かを救わないといけない。役に立った書籍があるのなら、それを順に置いていけば良い。問題を抱えた人がそれを見れば、唯一の道のりを手に入れられる。どんな環境の何が役に立つかは分からない。

あなたには何かがある。何もなければ死んでいた。でも、今もこうやって生き延びている。だから何かがある。それを見つけるしかない。あなたはライオンなのか、草食動物なのか。どちらだろう。人と比べても仕方ない。勝負は自己の中にある。

一日にほとんど変化はないものの、何かが動いているだろう。今の生活と思考、状態には意味がある。派手に進展がなくても良い。時が来ればその時は来る。それを掴む用意はある。

 

また明日。

 

参考文献:

暫定的な生存 境遇の意味

今日は晴れている。午前と変わらず明るい午後。春の日和といったところ。もう季節が戻ることはないだろう。幾分と過ごしやすくなった。

ほんの一週を境に雪解けが始まった。今年の春はどう迎え、どう過ごしていくのか。良い気分を良い身体で味わいたい。

昨日の昼食はやはり食べすぎていて、夕食に影響してしまった。最低限は食べられたものの、腹はよく膨らまなかった。そこで無理することはなかったものの、これでは太らないと思った。

そして計測では痩せていた。そもそも脂肪が削げていて、よく食べられていても変わらなかったか。頓服を常用して三日経つ。上向いているはずでも、無理によってブレーキがかかってしまう。どうなるものか。

 

明けて朝食はよく食べられた。そこで無理をすることはなく、昼食までにフラットになった。夕べは無理をすることがなかったため、入浴後にすぐ間食を摂れる。そしてちょうどよく眠れる。その効果があった。

ただ、またも先程の昼食で食べすぎる。よく食べられるだけに食べすぎてしまう。これは呪縛なのか否か。一汁一菜に達しているものの、そうなるときつくなってしまう。また夕食に影響するか。

散歩では二十分近く歩ける。そうならば十分なのではないか。家の中で辛くなることはないし、死に直結している訳ではないはず。だとすれば、程よく摂取していけば良い。無理をする方がかえって逆効果だ。

 

それを意識していても変わらない。丁寧で真面目な暮らしの束縛。きっちりと三食を摂り、定時に眠りに就くこと。自立と自活もし、身の回りのことは自分で済ませる。

もっとだらしない生活をしても良い。その方が楽だろう。心身ともに弛緩させたい。もっと本能的で原始的に行動して良い。

今日もやることは変わらない。各種メディアから情報を収集している。読書、Webページの閲覧、音声。過去に読んだ書籍を再読した。これも気楽に進めれば良いのに、努めて励んでしまう。

ポリヴェーガル理論入門も読み進め、残りは半分となった。本質は大まかに理解したはず。午前に読んだところで触発もされた。色々と書き留める。

それをどう発信すれば良いものか。発信することで生まれる価値とは何か。ビジネスの観点からも考えていて、その収集もしている。セルフフィードバックは片手間で良い。

ポージェス博士いわく、「人間の祖先の自律神経は、亀のそれに近かったのではないか」という。亀が最初に行う防衛反応は、シャットダウンして頭を引っ込めること。

それは人間にも引き継がれている。爬虫類のシャットダウンは、心拍、呼吸、消化を大幅に減らす。人間にもこの代謝の変化があるはず。横隔膜下の迷走神経は、爬虫類、魚類、両生類と共通していて、横隔膜下で主に消化器官を制御している。

臨床的な障害が身体に大きな影響を与えると、「腹まで来てしまったか」と言うそう。自律神経系は系統発生な階層構造になっている。古代の防衛反応を使うのは、それ以外の手段に効果がなかったから。

 

腸や胃に問題があるのなら、それは不動化の防衛反応を引き起こす、無髄の迷走神経の働きによるかもしれない。これが背側迷走神経系だろう。

ただ、横隔膜より下の問題は、慢性的に可動化した闘争・逃走反応を使っている場合もある。無髄の迷走神経の働きが、活性化された交感神経系によって抑制される。逃走反応には特定の人や場所を避けることも含まれるそう。そう考えると辻褄は合う。

腹側迷走神経系は主に横隔膜の上を司る。それが社会交流によって安全の合図を受け取った時、交感神経系を抑制するはず。治療のための神経経路は、社会交流の神経回路と重複している。

 

哺乳類は社会的関係を持つ必要がある。爬虫類との差とは、適応のために社会行動をとることになったこと。

すると可動化と不動化という二つの防衛反応に加え、新たな自律神経の文枝が現れた。それは神経回路を活性化すると共に、二つの原始的な防衛反応の機能を制御する。いわば指揮者としての働きだ。

高血圧症、睡眠時無呼吸症および糖尿病などの疾病の合併が見られたら、それはその人の有髄迷走神経、つまり腹側迷走神経の機能不全があるそう。そのような疾病の多くは、しばしば精神医学および心理学と関係している。

 

他者から安全であるという合図を受け取ると、不調を抱える人は防衛反応に入らなくて済む。そうならないと治癒ももたらされない。

それは件のエクササイズの書籍にも記されていた。腹側迷走神経は、身体が安全であるという合図を受けた時にだけ使用可能になる。内臓の状態は落ち着き、温かな合図を出せる。

 

「トラウマについての理解は、遊びについてのより深い理解によってもたらされる」とポージェス博士は仰っていた。遊びは防衛システムと受け取られかねない行動に、社会システムが随伴している。遊んでいる時というのは、自分は安全であり、信頼しているという合図を顔の表情を通して伝えている。

それを声で伝えることもある。それは腹側迷走神経と繋がっていて、可動化を抑制する。遊びというのは、可動化と不動化の間を恐れなく行き来できるようにする、哺乳類特有の神経エクササイズだ。

物を使って自己調整をする人たちがいる。それは人間の相互交流の本質である、直に対面する体験がないもの。セラピーを必要とするのは、他者と共に共同調整できない人たち。

他者と共同調整ができないと、物を使って適応しようとする。それで健康や成長、回復が促進される生理学的状態に入ることは滅多にない。

ここでポージェス博士の言葉を引いてみる。

サヴァイバーは犠牲者ではなく、また、様々な症状は、神経による制御系の機能的な産物であり、それによってサヴァイバーは適応し生き残ってきたということです。

ポリヴェーガル理論入門   174P

自分は最近もずっと、何故まともに生きられないのかと思っていた。でも、ここを読んだ際にふと頭が回った。

通例の人生を半端に歩んでいれば、危険に放り出されていただろう。そうならなかったのは、明確な限度を迎えたから。身体が不調をもたらし、それと引き換えに自分は安全を得た。そうとも捉えられる。

これには意味があるだろう。それによって暫定的に生き残り、安全な場所で生存戦略を立てることが出来る。誤ったラベルを張られたりもしたけれど、それによって公的な暇や扶助を得られている。

 

今は考える時間だろう。人間の民俗的な考えをすれば、それを与えられたと考えられる。いったん俗世から離れられ、まず生き延び、生存を確かにして、不可侵の領域で再起を図れる。

つまり今の境遇には意味があるということ。生き延びたことに理由はある。より豊かに生きるために必要なのが今。ただひたすら不遇を嘆くよりも、そこに意味を見いだした方が良い。

幸せになりたいならそうだろう。そこに意味はあると思うし、それを見つけないといけない。過去の自分の時間を回収すること。在るべき未来に求められているのが今なのだ。

可能性を活かして生きるのに必要なのが今。ノイローゼ理論、ユングマズローの哲学、MBTI、豊富な時間の思考と創造。人生は奇妙なバランスがあるようだ。無い物ねだり。

 

また明日。

 

参考文献:

必要な努力 過去と成長

今日は曇ったり晴れたりしている。午前に歩いた時は薄雲が広がっていた。暗くはなく、光には鮮やかさを感じる。

予定はなく、変わらず色々と学ぶ日々。そして表現をしてみている。もっと認知されるようにすべきか、別のことをした方が良いのか。どうにもよく分からない。

束縛なく楽しく積み上げたい。今は欠乏を満たすべく、習慣に縛られている。それは楽しくないし、習慣の外に出ると堪らなくなる。生活の全てを作業や表現に繋げ、有益な創造に費やしたい。

でも、それは下手な努力だし、それを迫られる状況でもない。あるのはいったい何なのか。やはり焦りがあり、自活をして社会的な存続を保ちたいのか。それとも欠乏を満たすための適応機制か。

 

ずっとふわふわしているようだ。公的にも個人的にも煽られることはない。年老いた人と同じように、自立や自活が出来ないのを責められはしない。でも、それは形式上であって、家族とは死別が待っている。だから煽られるのはある。

そして自分にその気持ちがある。自立をし、健康に自活をしたい。その三つによって存続を保ちたいし、可能性を活かせないのは堪らない。

だからとにかく有益で生産的に過ごしたいと思う。そのための行いを見つけたら、それを徹底的に習慣にする。そこを外れてしまえば、無駄を思って唾棄したくなる。

 

習慣から解放されたい。それは何回も記してきたし、そのための方策も考えてきた。でも、日々は全く変わっていない。上述の三つは得られていない。

「体調にまつわる自尊心コンプレックス」とはよく言ったもの。体調が良ければ自立でき、自活もしていたかもしれない。今もそれを渇望していて、それに繋がらない日々はまた唾棄したい。これは資本主義の毒なのか、そんな大仰なものではないのか。

昨日の昼食後には間食を摂れ、その後の収まりも良かった。フラットな状態で夕食の漢方を飲む。夕食では早期膨満も少なく、昨日よりも何口か食べられた。

体重は百グラム増加していた。また同じように食べられたら上向きそう。無理をせず、早食いもせず、快適に満腹を感じる。それが続けば自ずと変わるはず。

 

朝食は最良の量を上回って食べられた。夕べは寝る前に何か食べたくなったけれど、夕食の収まりが悪かったため、そこで無理をすることはなかった。その効果で今朝はよく食べられたはず。やはり無理をしなければよく食べられる。

昼食もよく食べられたけれど、よく食べられるのがかえって悪く働いた。するする食べられただけに無理まで達した。嗚呼、これが自尊心コンプレックスか。身体さえ良ければ全てが良い。

消化酵素を常服しているけれど、その効果は得られるか。とにかく無理をしないのが理想。ここで消化の助力があれば、胃の持久力は上がっていくはず。でも、そこに無理はないようにしたい。

理想の生活スタイルは、家庭と過ごす時間が三割、社会活動・交流も三割、そして内的な時間が四割ほどだと思う。家庭でパートナーやペットと過ごし、仕事や刺激的な交遊をして、後は静かに過ごす。本を読んだり考えること。

このバランスが理想的だと思う。今は内的な時間しかない。それも束縛のある時間。それでいて生産活動になってはいない。必要な用事をするのも嫌気が差す。とにかく時間を有意義に使いたい。全ては生産のために。

 

改めて記すけれど、最近はフィードバックの種がなくなってきた。その勉強の配分も少なくなったか。もう結論は出ていて、後は社交をするしかない。

今はビジネスや発信、創造についての関心が湧いてきている。それと理想の生活についてだ。各メディアの活字や情報と睨めっこし、後は色々と考えている。それは有益だろうけれど、それも習慣の一部となっている。全てを早くそれに費やしたく思う。

あるブログに若者へのメッセージがあった。そこを運営されている方は、自立が出来て満足もいっているそう。六年前に記されていた。

どんな仕事をされているか分からないけれど、年月を経て変化があったのだろう。それは努力を迫られたからか。どうにも羨ましくある。自分もそのようになるのだろうか。

歳を取って経験と自活力を携えたい。そうなれば生きやすくなるはず。若さも取り柄ばかりではないはず。

 

その方が記していたことを含めて考えると、仕事はこう選べば良いと思う。好きなことを仕事にするよりも、自然に出来て人の役に立つことを仕事にすれば良い。

好きなことで人の役に立つとは限らない。人に「何でそんなことも出来ないのか」といわれたものが不得意なもので、その逆が得意なこと。「何で自然にそれが出来るのか」と、人に有り難がられるものが得意なこと。

それを人から伝えられるのが良いけれど、自分は早々にドロップアウトして経験が薄い。その場合は、誰かに思う「何でそんなことが出来ないのか」をしてあげれば良いはず。それは自然に出来て役に立つ。それを展開するのに苦は少ないはず。

 

自分には何があるか考えた。浮かぶのは"人の文章の粗をすぐ見つけ、直したくなること"だったり、"病める動物への好ましく接すること"だと思う。ただ、上述のようにそれで褒められたことはない。

もう一つあるのはこの蓄積か。勉強し、情報や知見を集めること。それをまとめて言語化したりして、人に教えてあげる。人に色々と講釈を垂れたくなったりする。色々なテーマで意見を持っている。それをアドバイスとして投げてみること。

世界には自分の何年か前の悩みを抱えている人がいて、その人は解決策を求めている。この僻地にいる自分が悩んでいることは、世の中にまとまった数で存在するだろう。だからその人を救うために伝えてあげる。

 

コンテンツを生み出すのは簡単ではない。必要なのは人間としての魅力だったり、誰かに役立つような知見だ。前者は不確定なものだけれど、後者は分かりやすい。ここ何年かで成長しているのなら、かつての自分に向けて発信をすれば良い。

過去の自分や悩んでいる人に発信する。そこで魂の共鳴があれば良い。仕事になるかもしれないし、共に人生を歩むかもしれない。

この発信もここ何ヵ月かの自分に役立つか。きっとそうだと思う。そして他者の役にも立っていれば、何かに繋がる可能性はある。だからやはり認知を広げるべきか。

また立ち戻ってしまった。これも下積みで、必要な努力なのか。

 

また明日。

 

参考文献:

安全と愛 代謝の変化

今日は晴れている。散歩の道中では手袋を外したくなった。風は冷たかったけれど、日差しに温もりがあった。分厚い上着を少し余計に感じた。歩く時の体調が良ければ、もっと身体に効いただろう。

昨日の昼食後の収まりは微妙だったものの、夕食はよく食べられた。昨日よりも軽く食べられる。満腹の限度が上がったと感じた。それでいて苦しくはなかった。計測では増えなかったものの、昨日と全く同じだった。悪くないと思う。

無理がなければ食欲は安定するだろうから、そこで消化酵素による底上げを期待したい。基本エクササイズは変わらずやっていて、生活のストレスは強く感じない。社交と自活だけを望む日々。それと発信について。

 

今日の朝食と昼食はよく食べられた。でも、食前の状態は最良でなかったか。僅かに食べすぎがあったかもしれない。満腹によって最低限の摂取を維持しようとしてしまった。

夕食によく食べられたとしても、体重は増えなさそう。それは昨日も同じだった。頓服の効果は遅効のものなのか。そうならば良いけれど、一体どうなるだろう。

直近ではそこまで言いたいことがない。昨日に記したけれど、病的な無理のしすぎはなくなったし、後は最低限の体力を携えて社交すれば良い。もうそれだけの局面に辿り着いた。

セルフフィードバックすることがない。変わらず不定愁訴を記し、フラストレーションや建設的な日々を思案する日々。

でも、身体はまだ病的なため、フィードバックの種はあるかもしれない。そう考えると学びが尽きることはない。ただ、内的に机に向かうよりも、実践に移した方が良い。学びは大半を終えたはず。どうしていこうか。

 

哺乳類は社会的関係を持つ必要がある。爬虫類との差とは、適応のために社会行動をとることになったこと。すると可動化と不動化という二つの防衛反応に加え、新たな自律神経の文枝が現れた。

それは神経回路を活性化すると共に、二つの原始的な防衛反応の機能を制御する。いわば指揮者としての働きだ。その新しく出来た神経枝は、社会的な交流をもたらすと共に、高次の脳とも接続している。

その高次の脳は脳幹部に指令を出し、自律神経系の古い部分が防衛ではなく、健康、成長、および回復を支持するように制御する。全く危険がないと判断されると、古い防衛反応の機能を制御する。

 

腸や胃に問題があるのなら、それは不動化の防衛反応を引き起こす、無髄の迷走神経の働きによるかもしれない。これが背側迷走神経系だろう。

ただ、横隔膜より下の問題は、慢性的に可動化した闘争・逃走反応を使っている場合もある。無髄の迷走神経の働きが、活性化された交感神経系によって抑制される。

無髄の迷走神経は、消化を含む恒常性の機能を促進するよう。そのように記されていると理解した。慢性的に可動化した闘争・逃走反応による問題は、それが無髄の迷走神経の機能を抑制しているから。

 

胃腸を司っているのが背側迷走神経系なのだろう。それを覆うのは腹側迷走神経経であるべき。哺乳類が進化すると、生理学的な状態を調整できない無髄神経とは違う迷走神経経路を獲得した。

新しい迷走神経回路は、交感神経を抑制する能力があり、代謝の資源や恒常性のプロセスを最適化し、社会交流を自由に起こせるようになった。それが腹側迷走神経系。社会的に交流していると、代謝の需要が減って建設的に使われる。

 

ポリヴェーガル理論を理解するということは、人類が哺乳類であるが故に、生き残るためには他の哺乳類や人類と相互に影響を与えることが不可欠だったと理解すること。

社会的な援助や行動の神経回路は、健康、成長、回復を促進する神経経路と共有していると説く。安全を感じるためには他者が必要。

他者から安全であるという合図を受け取ると、不調を抱える人は防衛反応に入らなくて済む。そうならないと治癒ももたらされない。それは件のエクササイズの書籍にも記されていた。

 

腹側迷走神経は、身体が安全であるという合図を受けた時にだけ使用可能になる。すると内臓の状態は落ち着き、温かな合図を出せる。社会交流システムを抑制すると、やがて臨床的な疾病に罹患し、様々な症状を抱えてしまう。

でも、一生そのままなのではない。適切な刺激を加えることで、再び社会交流が活性化される可能性がある。ここで基本エクササイズをすれば良い。一時的に社会交流へ底上げし、それによって安全の合図を受ける。

韻律に富んだ声を出し、相手からもその声を聴く。これは母親が赤ん坊をあやす時と同じ。聴覚的な合図はニューロセプションを整える。

それによって腹側迷走神経が活性化し、恐れなき可動化や不動化が起こる。顔と顔を見合わせて遊び、リラックスをする。それが社会交流による安全の合図だ。安全と愛が全てを癒す。

自分の食事の摂取は低調だけれど、一汁一菜を食べられたら最低限だと思う。でも、それでもかなり痩せてしまう。もっと効果的に消化と吸収がされても良い。

それを阻むのは外胚葉形のネックだと考えていたけれど、代謝の変化もあるはず。他にも交感神経系が活性化すると、肝臓から糖分が放出される。

その問題を解決するには、やはり社会交流による安全と確保が必要。そうしないといつまでも不調に見舞われる。

ペットか社交。ふと現れた二つの順番。画面越しの交流では合図を受け取れないよう。生身の人間と動物ではどちらに手が届きやすいか。とにかく人さえ居てくれたら良い。皆はどうやって人と会っているのだろう。

 

また明日。

 

参考文献:

最後の局面 自在な創造

今日は曇っている。ただ、そこまで寒くなく、風も吹きすさんでいない。路面はまた黒っぽく乾いた。流石にもう積もることはないだろう。これから晴れの日が続いてほしい。

夕べはよく食べられる。昼食後の間食がすぐに収まらなかったけれど、変わらずに食べられた。そこまで食欲は強くなかったものの、案外するすると食べられる。

それでいて収まりも良く、入浴後にはまた間食を摂れた。そして計測では少し増えていた。通院から一日で上向いているのか。

ただ、あまり気負わない方が良い。調子が上向くとそれを維持しようとしてしまう。無理さえなくなれば良いはずだ。

 

明けて朝食と昼食はよく食べられた。今朝の胃もフラットで、最良の量を余裕をもって食べられる。内的な作業もまとまって出来、散歩も図書館を一周した。十七分は歩いていて、「これだけの体力があれば良いだろう」と思っていた。

必要なのは最低限の体重。それは消化酵素の力で何とかなるのか、あるいは代謝の問題か。春頃は目立った社会交流もしていなかったし、薬の力で何とかなるのではないか。それを信じたい。

発信について興味が湧き、色々と勉強している。実際に発信しているのだけれど、していなくもある。個人的な発信の解釈は、誰もが閲覧できるよう、自分をウェブ上に存在させること。

それで犬も歩けば棒に当たることがある。自分に何の価値が埋まっているか解らない。稼ぐことにも繋がるだろうし、その手前で何かあったりするだろう。

ノウハウを勉強しつつ、試行錯誤を繰り返すこと。それが楽しそうに思えてきた。だけれども、何を存在させれば良いだろう。自分という人間に魅力や価値がないと始まらない。その現実はあるだろう。

でも、工夫するのは楽しそう。健全な自尊心の欲求を持ちつつ、面白いコンテンツを追求していく。そこに熱中できたら良い。

 

ブログは何のためにやっているのだろう。読まれたいけれど読まれたくない。願いとしては、似たような魂を持つ人にだけ伝われば良い。それが一番だ。変わらずそのために続けている。

だけれども、そのためにはそうでない人にも触れられないといけない。だから嫌になる。成長させていく方法は解っていても、なかなか実行に移せない。でも、楽しんでやっていきたい。その気持ちが湧いてきた。

 

楽に記していきたい。ただ自在に自分を存在させ、何らかの形で発展させていく。アイデンティティーを展開させれば良いのだろう。マズローはそう言っていた。片付けるのが好きな人もいるし、料理を突き詰めている人もいる。

自分は病と勉強くらいか。色々なアイデンティティーがあったりする。不定愁訴ドロップアウト、様々なラベル。それを展開させて発展させれば良い。それはやはり楽しくあるだろう。そのように積み上げたい。

 

発信はすぐさま価値になる訳ではない。自分は自活を迫られないのだし、好きに束縛なく積み上げられる。それを時間や余裕がある時にこなしていく。ビジネスならやることは定まっても、そうでないなら好きに創造をすれば良い。

では、何を目指せば良いのだろう。どんなものが面白いものかが解らない。病を記せば良いのか、知見をまとめれば良いのか。

そもそも認知されたら価値がつくかもしれない。十分に人の役に立つのではないか。もしかしたらそうかもしれない。

調子が上向いてきたからか、エネルギーを建設的に用いたいと考えている。束縛なく日々を暮らし、どうすれば自活なりが可能になるか。

やはり満足を先に得て、その後に暇とエネルギーを携えること。そうすれば健康と自在な創造が可能になる。

 

フィードバックすることもなくなりつつある。新たな認知は得られているけれど、フィードバックの種にはならない。病的な無理のしすぎはなくなったし、後は最低限の体力を携えて社交をすれば良い。それだけの局面に辿り着いた。

そうなればブログはどう記そうか。やはり人目につく所へ出ないといけない。そこで反応がなければ別をするしかない。もしあるのなら、そこから何かが拓けてくるだろう。

エッセイやコラム的なコンテンツ、商品の販促。あるいは直接的に支援されるかもしれない。犬も歩けば棒に当たる。そこに最低限の体力や満足があれば良い。

 

また明日。

 

参考書籍:

気楽な創造 満足と束縛

今日は通院日だった。今朝はよく眠れたと思う。最近ではいちばん早く目覚めたものの、きつくはなかった。

夕べの摂取は低調だったものの、その後に無理を重ねることはなかった。今朝の胃は落ち着いていた。それでほぼ最良の量を食べ、無理もしていなかった。

体調は万全で、車中でパニックになることもなかった。それは出発前に件のエクササイズをしたからか。それで以前に出掛けたときも平気だったから、効果があるのかもしれない。

 

病院に到着して待合室へ行くと、患者は誰も居なかった。すぐに自分の番がやってくる。

診察は簡単に終わった。先月の調子を説明するなかで、自分から薬について話を持ち込む。消化管運動薬は継続し、頓服を常用することになった。ドグマチールも引き続き飲むことになる。その話は出来なかった。

五分診察なのは気になったけれど、自分のニーズは薬の処方くらい。胃の調子の話をし、薬を以前の好調時と同じにする。もっと体調を共有したかったけれど、目的は達成されている。

 

帰宅して昼食をよく食べられた。さっそく頓服を飲み始める。直近ではほぼ毎食後に飲んでいたけれど、途切れずに毎食飲んでいけば変わりそう。

ここからブーストしてくれたら良い。望みはそれくらいしかない。好調時と今の生活はそこまで変わらないはず。変わっているのはその服薬くらい。何とか上手くいってほしい。

日をまたいでまた記している。夕べはよく食べられた。その前の昼食で食べ過ぎていたのだけれど、頓服がしっかり効いてくれた。それで大方の負債が消えたのは良かった。

食前の感じも悪くなく、比較的するすると箸が進んだ。満腹の限度は落ちていたものの、余裕をもってよく食べられた。そして入浴後に間食を摂れる。最良の状態だった。

 

今朝の胃は落ち着いていた。よく食べられつつ、また余裕をもって収められる。これは良い調子の証だと思う。良くも悪くも、変動する時は一瞬だ。

昼食でもよく食べられる。おかずは少し貧弱だったものの、一汁一菜に達していた。それでも余裕がある方だった。ここ最近と比べればかなり上向いている。

そして散歩にも長く出られる。自然と図書館を一周しようとしていた。道中では不安があったものの、そこまで辛くはならなかった。帰宅しても消耗はせず、腹に良い刺激となった感じがした。

 

望みは頓服と基本エクササイズ。本質的には社会交流が必要でも、まずは最低限の体力がほしい。そこさえ手に入れられたら、何とか自立に漕ぎ着けるかもしれない。あとは公的な暇と扶助があれば良い。

あるインフルエンサーのビジネス書を読んだ。個人的には面白く読めた。やはり既存の価値に基づく技能の獲得が重要だ。ブログはライティングの足しになっても、価値を生むものになっているのか。それは市場に置いてみないと分からないだろう。

こういう読書をフィードバックの勉強と並行して進めたくなった。書籍はまめに読むのが良い。集中力も持たないし、理解するために文字を追う必要がある。読みきることに集中しても仕方ない。

 

フィードバックブログはビジネス目的に傾いている。自尊心を保ちたいがための務め。稼いで物を手に入れたくあるけれど、精神的な立脚点も強くほしい。生活の免罪符だ。それがあれば好きに生きていける。誰かに責められることはない。

でも、公的な扶助が得られるかもしれない。それは自活を迫られずに済むもので、確固たる存在保証になる。あとは最後の扶助か貯蓄を用いれば良い。いずれにせよ、働けないのは確かだし、働かなくても良い。生活の現実的な問題があるだけだ。

でも、やはり義務的に務めてしまう。それは現代の染み付いた理なのか、精神的な呪縛なのか。欠乏を満たしたいがための擬似的な無理だと捉えたりした。

 

作業に追われる感覚があるけれど、それはビジネスや健康のためだ。公的な暇と扶助、そして満足があれば煽られる必要はない。それを得てしまえば、作業の義務なんて崩れる。生活の満足があり、かつ扶助もされる。

まず満足が先で、そうなれば好きに創造や勉強が出来る。もうセルフフィードバックによるマニュアル作りは完成している。社交による効果の確証は得られた。だから局面は煮詰まっている。

年金によって扶助と暇を得て、後は好きに勉強と創造、社会交流をする。稼げなくても良いのであれば、根を詰めて学んだり、修練を重ねる必要もない。稼げたとしても、勉強のスピードを緩められる。それで存続は保てるし、後は健康になれば良い。

 

勉強とは言うけれど、何のためのものかを明確にしたい。今はセルフフィードバックのためにしている。健康になるためのものだったけれど、ビジネスに繋げるためでもある。

はっきりビジネスに繋げるのならば、やるべきことは明確になる。そして何年間か継続すれば良い。セルフフィードバックのためのものなら、すぐに結果が出るとは限らない。既存の価値にアクセスしてはいない。だから全く実を結ばないかもしれない。

でも、続けると精錬されることもある。それもあるし、なんせ自分は自活を迫られることがない。つまり、すべきことは好きに創造することで、その土台に健康があれば良い。

 

時間や仕事の束縛をなくしたい。何かに追われることなく生きたい。好きに遊び、好きに学び、好きに創造する。時間や量に縛られることなく、気楽に進めていく。

欠乏があるとそれは叶わない。だから満足が必要だ。それを満たすのが先決。その後に公的な暇を得られたら万々歳だ。自活を迫られることはなくなる。何をして過ごしても良い。

そこで怠けたいのではなく、創造的に生きていきたい。それが束縛のない日々。好きに満足と創造が叶う毎日。そうしていきたい。

一日の作業と量を決めず、暇を中心に過ごす。今は積み上げのペースが崩れると堪らなくなる。その束縛をなくしたい。自活の目的は定まっていないし、公的な立場も得られるかもしれないから。

まずは満足と健康。公的な暇を授けられつつ、好きに創造に費やしていく。それがいつか自活に繋がれば良い。それはいつかの話で、実を結ばせるために励まなくても良い。

 

また明日。

 

参考書籍: