HSP/INFJセルフフィードバック

日々の気付きと過程の記録

自律神経と呼吸 調整の再設定

今日も晴天だ。昼間には雲が多くなったものの、夕方の今は西日が眩しい。暖房要らずの日和になっている。体調と合いまって散歩に行きたくなった。

夕べはよく食べられ、計測ではかなり増えていた。格段に食べられた訳ではなかったけれど、増加の角度が大きかった。

食欲はそれなりに安定していて、消化力もついてきたかもしれない。それは消化酵素の力なのか?特段の意識なしに上向くのであれば、それは真に好調の証だろう。実際にそうなってくれたら良い。 

基本エクササイズを怠りがちだけれど、そこまでその影響はないか。理知的な摂取もしている方だし、それで安定しているのか。あるいは消化酵素の底上げがあるかだ。ほんの少し胃の持久力がついた気がする。

ただ、今晩の計測次第だ。昨日もまだ腰回りはすかすかだった。ひとまずは大台に戻りたい。

呼吸は自律神経系に直接働きかけられる経路だそう。自律神経系は常に代謝要求に反応し、呼吸を調整する。一方で、自律神経系の調子を整える意図をもって呼吸することも出来るそう。

呼吸に注意を向けるだけでその速度は早くなり、息は深くなる。呼吸の仕方、速度、呼気と吸気の割合を変えることを通し、心拍数と脳へ送られるメッセージに影響する迷走神経経路に影響を与えられる。

一般にゆっくりした呼吸、長く続く呼吸、抵抗をつけて呼吸することは、副交感神経系を活性化する。感情と呼吸も関係していて、ゆっくりとした呼吸をすることにより、効果的に鬱を抑制できるそう。苦しいときに意図的に呼吸を遅くし、深くすることは、腹側迷走神経系の制御を復活させる。

ため息は生理的・心理的欲求のどちらにも応える、調整の再設定と考えられる。それは健全な肺の機能の一部として、一時間に数回起こる。安堵のため息をつくと、緊張感から解放される。 *1

 

自律神経系は常に調整をもたらしている。その事に理知的に気づくことが大切だ。呼吸についてを認識することは、「自分の自律神経系は何とか機能している」と自信を取り戻すのに役立つ。

ただ、クライアントが初めて呼吸に注意を向けると、危険の合図を感じてしまい、交感神経系か、背側迷走神経系の活性化が起こることがある。

それでも、一ヶ月から三ヶ月に渡って練習をすると、次第に副交感神経系の安全の状態へ移行するそう。あるいはため息から始めることにより、恐れを感じずに進められるかもしれない。*2

 

ため息の効果は意外だった。それは否定的に思われているため、良い効果があると伝えたい。ポージェス博士も長く息を吐いたり、長く話すことの効果を記していた。*3緊張しているときのケアとして用意しておこう。

今日も記したいことや表現したいことがない。半端に元気があるからだろう。どこで見つけたのか、起業やネットビジネス、マーケティングの書籍を読んでいる。本質論としては良い認知があった。でも、事業を興すなどは無論できない。

好きなことがないし、表現したいこともなくなった。もう終わりなのか?まだぎりぎり習慣が残っていて、勉強から表現している。早く自活へ繋げたいけれど、肝心のその種が尽きている。セルフフィードバックに価値があるのか、他の体験にそれがあるのか。

セルフフィードバック、体験、書籍の販促。それくらいしかないだろう。当初からもっと気楽に記せば良かった。続けるなかで練度を増していき、承認から価値を見つける。そこで信用を貯め、何か対価を貰えるようなコンテンツを生む。そうすればどうにかなっていたかもしれない。

セルフフィードバックの貯蔵はあるけれど、それは全て評価を得るためのもの。それをいざ海に放れば高ぶってしまう。近親者に見られる用意もない。嗚呼。勉強と称しつつ、何も表現に繋がらない。ただ貯蓄が減っていっている。

 

また明日。

 

参考文献:

*1:セラピーのためのポリヴェーガル理論185~188P

*2:セラピーのためのポリヴェーガル理論187~190P

*3:ポリヴェーガル理論入門194P~

生き残りの至上命題 認知の力

今日は爽快に晴れている。もう完全な春の日和だ。散歩では手袋をせずに済み、空気の匂いに香ばしさを感じた。緑や土、日光の匂いだろう。いつか触れた小説やアニメを思い出す。午後の部屋は暑いくらいだ。

昨日の昼食では一口をはやったものの、スポーツドリンクで丸く収められた。基本エクササイズもしたため、その効果もあったかもしれない。夕方には気分的な食欲があった。

それで大体の最良量を食べられる。一膳より後の延びが薄かったものの、悪くはなかった。そこで抑えたため、入浴後に間食を摂れる。十分な摂取だっただろう。

体重を追い求めても仕方ないのだろう。背側迷走神経系の過度の活性化、あるいは交感神経系のそれがある。でも、必要最低限の摂取は出来る。無理さえしなければそれを収められる。

体力や余裕、自立への願望が強いものの、今の状態でも生きていける。だとすれば、その範囲に収まっているのが良いか。それで何とか自活が叶えば、後は移動のサービスを利用できれば良い。

 

明けて今朝の胃に負債はなかった。朝食は余裕をもって理知的に収められる。量も摂れたなかでそれが出来た。

また午前の早い時間に空腹になる。飲み物くらいは飲むべきか。そこで血糖値が下がっているはず。それによるきつさはあった。

昼食もよく摂れる。早期膨満はほぼなく、いつもより満腹の上限が上がっていた。そこでぎりぎり無理を抑えたはず。間食をすぐに摂ることが出来、スポーツドリンクを飲めた。

夕食に負債は残らないだろう。あるのはまた食間での空腹か。遅れて消化酵素が効いてきたのか否か。そうであるなら良い。あるいは基本エクササイズの効果なのか。

誰もが生き残りの追求を至上命題にする共通の自律神経系システムに沿って生きている。でも、トラウマサバイバーは常に自己批判を続けてきた。

それでも、誰でも特定の状況下において、自分がしてきたような防衛反応をしてしまうものだ。それは理知的に理解できる。そうなれば、自分に共感する余地が生まれる。

自律神経系と仲良くなり、寄り添うスキルを身に付けるということは、調整という次の段階に進むための基礎を形作ることでもある。それだけでなく、神経系の反応の仕方自体が変化し始めるそう。

それは防衛反応が和らぐということか。あるいはそれを制御できるようになる。ポージェス博士いわく、ある種のトラウマや問題を体験しても、認知の力を使って再び機能を回復することも出来るそう。脳に情報を送り込み、文字通り自分で自分の親や教師、セラピストになることも出来る。

 

自分にも思い当たることがある。生死にまつわる不調コンプレックスは和らいだ。それは理知的に事実を取得し、不確定な心象を取り除いたため。それと同じように、好調コンプレックスにも影響できるかもしれない。

ただ、好調であれば活路が広がるのもまた事実。だから理知の力が届いていない。それはあるだろう。そうであったとしても、まだ諦めず工夫をしていきたい。理知的に自尊心を保つ。それは自活や自立をしなくても存続が守られると知ること。

 

そういった世界はどこかにないのか。在宅で過ごす人生であったとしても、十分な刺激と満足を得られる日々。それは現実で欠乏を満たさないといけないのか。それと自活による結果も必要なのか。

社会交流がもたらす健康と自立。そして厳然なる自活の力。社会交流は協同調整であり、画面の刺激はそれに含まれない。そして労働力を提供できる時間もない。大層な意欲は創造的な価値の産出に向いている。健康にもなれず、一円の自活にも繋がらない。嗚呼。

母に大見得を切って説伏したものの、何も実になっていない。そのための環境すら整えられていない。勉強と言いつつ、誰に何を感謝されるのか分かっていない。そのための反応も得られず、半端な快癒がある。もう糧がなくなったか。

そもそも発信したいことなどなかったのか。何か評価されたいこともなく、情熱がある趣味もない。フィードバックに価値はあったのか?それは分からないけれど、もうその種が尽きた。

あるいはやる気が出ない。もう種もなければ意欲もない。習慣の束縛はあっても、尽きるものが尽きてしまった。今朝に読んだ『セラピーのためのポリヴェーガル理論』をまとめても良いけれど、それはセルフフィードバックにならない。要約するなら主の内容がないといけない。

そもそも体調についてほぼ考えていない。もうかなり楽になった。自活をしたい意欲が強く、そのためのインプットをしている。でも、それは何の表現にも繋がらない。意見も、技術も、価値観も、承認も、何も浮かばない。どうしたら良いのか。

更新の頻度くらいは変えたいものの、絞り出せば何かは出てくる。まだそれに期待しているところだ。体調、気づきとフィードバック、思い。それらが三位一体となるのか、邪魔になってしまっているか。その良し悪しも分かっていない。

 

また明日。

 

参考文献:

最低限の生存 軸と表現

今日は曇ったり雨が降ったりしている。直近においては冷えているか。午前に通院へ出掛けた時は寒く感じた。

今朝の目覚めは良く、食欲もそれなりにあった。朝食は無理なく収められる。直近のリズムを保てた。体力は十分で、緊張も薄かった。

 

診察は体調の確認といったところだった。ドクターからの質問は、メンタルの調子についてくらい。身体の調子は自分から話した。体重が少し上向いたことと、あまり消化酵素の効き目を感じないこと。

それでも体力の安定はあり、それを告げるとドクターの雰囲気が和らいだ。無理をしなければ問題は薄く、その無理を病的にはしていない。以前は歩けなかった距離を歩けている。それは大きいだろう。

服薬の布陣は変わらずこのまま。抗うつ薬を減らしたくはあるけれど、なかなか言い出す流れがない。いや、それでも良いか。体調の好転もないし、去年の春はそれを飲んでいなかった。

 

それで診察は終わる。体調が悪化していない確認で済んだのだろう。「無理せずに人に慣れた方が良い」というアドバイスが一つ。以前の好調時も同じ話があった。それは良い証と見て良いのか?とにかく気掛かりなのは体重。その余裕がないと始まらない。

「図書館の近くを通る」ということで人慣れの話があった。でも、自分は社会復帰を目的にしていない。仕事は在宅でも可能だろうし、就労に縛られる必要はない。それに最低限の体力さえ携えれば、移動サービスを用いることで生きていける。

その体力のネックはあるものの、今は消化酵素の力を待っている。体重の天井さえ突き破れたら、あとは自活くらいになる。やはり社会交流は現実的でない。最低限の生存を保ちつつ、この町で自活と自立をする。もうそれしか考えていない。

そういった話をしていきたい。でも、ここ何ヵ月も体調の単調な確認で終わっている。それが歯がゆいところ。もっと質問があれば良いものの、初期のやり取りが原因となっているのか。時間は余っているだろうし、いつか本腰を入れて話したい。

 

昼前に帰宅する。道路状況は良くなっていて、混雑していなかった。買い物をして薬局に寄る。往復で緊張はほとんどしなかった。やはり基本エクササイズのお陰なのか?

発信することがなくなってきたか。生活にあるのは体調の塩梅、勉強で得た認知、日々のフラストレーションなど。義務感や習慣として続けているものの、全く先が見えない。

セルフフィードバックもなくなってきた。勉強はまだまだ出来るものの、それと絡めた文章が出てこない。それなりに楽になったからだろう。あるのは煩わしい不定愁訴のみ。セルフフィードバックに価値があったとしても、恒常的な産出になっていないか。

 

自分が簡単に出来ることと、人の役に立つこと。あるいは好きなものを誰かに伝える。それらが発信というものだろう。自分には何があるだろうか。

勉強は欠かしていないものの、表現になるものが減ってきた。創作をすれば良いのか、情熱を表せば良いのか。娯楽を生みだせはしないだろう。ペースと内容と場所。とにかく工夫が必要だ。

 

評価されたいこと、表現したいこと、人の役に立つこと。これらは発現しないと見つからない。評価されるまで工夫したり、届けたい相手に届くまで工夫する。あるいは有益な何かがあるのかもしれない。

クオリティなど意識せず、ひたすらそれらの軸に基づいて表すしかない。最初から成果なんて得られない。何の価値があるか分からないし、あっても表現力を身に付けないといけない。

自分に表現力があったとしても、発信する内容の種が薄い。続ける過程で価値を精錬しておきたかった。セルフフィードバックの貯蔵はあるのだけれど、それを使えるのだろうか。あるいは価値を拡大し、廃れない物を留め置いておく。それが働いてくれたら良い。

 

場所を変えてセルフフィードバック連載し、そこで価値があったものに働いてもらう。そうした方が良い。ただ、もう病苦やフラストレーションは薄い。でも、引き続きフローで生み出さないといけない。それをどうするか。フローはフローメディでしつつ、有益なものをストックすれば良いのか。

自分の評価されたいこと、簡単に出来ること、表現したいことは、果たしてこのスタイルのものだろうか。とにかく自活をするために始めたものの、内容が内容だった。セルフフィードバックは悪くないものの、ありありとした独白が過ぎていた。

ここでの更新のスタイルをどうすれば良いか。それも考えないといけない。フローはフローで良いのか、ストックするならどんなものにするか。まだまだ勉強と作業が待っている。

 

また明日。

 

参考文献:

健全な発達と自然 副交感神経系の誘い

今日は思いっきり晴れている。朝から雲一つない晴天。今朝は冷えていたため、放射冷却が起きていたか。かなり日差しに温もりを感じる。すっかり春めいきた。

昨日の昼食後の収まりは良く、夕方の前に空腹になっていた。まだこの調子を維持している。もっと間食を摂りたかったけれど、状態は上向いているだろう。

夕食もよく食べられる。意識していなかったけれど、かなり丁寧に咀嚼していた。そのためか、食べ終わるまで時間がかかったものの、早期膨満はほぼなかった。それでとてもよく食べられる。

ただ、少し食べすぎていたか。余裕を持たせた認識でいたものの、思いの外きつくなってしまった。それで間食を摂れなかった。調子としては無理になっていなかったものの、胃の持久力を超える摂取となったのだろう。好調なだけにそうなってしまったか。

 

明けて胃に負債は残らなかった。夕べのきつさは無理によるものでなかった。朝食はよく食べられる。よく食べられつつ、余裕をもって収められた。それでまた早い内に空腹になる。

昼食もよく食べられた。量は微妙だったかもしれないものの、早期膨満がほぼなかった。感触としては良い方。間食もすぐに摂れる。夕食は負債なく迎えられるだろう。ここ直近だと理知が働いている。珍しい。

胃の持久力の天井はまだ抜けないか。消化酵素が少しずつ効いているのかもしれない。いや、それは微妙なところか。体重は微増しているものの、抜本的に調子が変わってはいない。まだ食欲と満腹の限度は不安定だ。

 

明日は通院日。今日の計測ではどうなるかだ。昨日の数値で言えば、先月よりも五百グラム増えている。ただ、それもここ何日か直近の話。たまたまに過ぎないのではないか。

それでも、ここ何日間でほぼ通院の意識がない。ほとんどコンプレックスが湧かなかった。ここ何ヵ月かでは珍しい。当日も行程でも緊張せずに済む?そうならば助かる。

基本エクササイズという手段を身に付けたため、今月もそれを出立前にしよう。先月はそれで上手く和らいだと思う。寝付きや歯軋りには効いている方だし、画期的なものだと思う。日中のそれは怠りがちだけれど。

ウィルソンは、健全な発達を遂げるためには、自然との触れ合いが不可欠であると論じましたが、それは真実であることが証明されつつあります。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P156

自然環境は元気を回復さる。一方でその要素の欠落は、ストレスをもたらす不和や不調和を作り出すそう。自然を眺めることは副交感神経系の反応を誘う。

自然が豊かな環境にいることは大切。アーロン博士もそう記していたし、あるブログでもそうまとめられていた。木々や川や湖があり、動物と鳥が生きている広々とした景色。美しい景色を楽しむことは、人類共通の至福の体験だ。

それは普遍的に体験される、腹側迷走神経系の体験でもある。興味深いことに、自然の景色に気づいて窓を眺めるだけでも効果があるそう。窓のない部屋であったとしても、プラズマスクリーンで自然を眺めていれば、自然の風景が全くないよりもましになる。これは意外だった。ストレス負荷の前に自然の景色を五分眺めただけで、自律神経系の回復が早くなった報告があるそう。

 

そして水の要素も欠かせないそう。人間が生きていくためにそれは必須であり、そのために水を愛し、大切にするという傾向性を持っている。

水のない景色よりも、それがある景色から肯定的な影響を感じるそう。それが元気を回復する。波や川の流れる音など、水の音を聴いたり、思い出すだけでも良いそうだ。

この前に海の家を営む方のドキュメンタリーが放送されていて、それを思い出した。健康長寿のために取材されていたのだろう。その方のご子息は、「この海が長生きさせてくれているのかな」と仰っていた。それはあながち間違っていないと思う。将来は都市に住みたいけれど、田舎にも利点があるよう。

最後に発信について。発信するにはインプットがないといけない。そして何で評価されたいかを定めること。その二つが揃わないと始まらない。価値観、意見、趣味、技能やセンスなど、インプットがあるものを軸にすること。発信の種が切れたら続かない。

それを明確にし、ひたすら数をこなし続け、クオリティを上げる。何で人気が出るかを理解し、試行錯誤を続ける。それが大切。日頃から高めているインプットを見つけ、それを表現していく。その種類は上述のものがある。

 

自分は何があるだろう。何のインプットがあり、何で評価されたいのか。人気を得たり、人の役に立ったりする。引っくるめると芸か。アイディアで勝負したり、何かの芸を通して魅せる。それは究極の価値の取引だ。一方では無用の産物で溢れている。

市場性の高い場所に移るのもそうだけれど、もっと恒常的な産出がないといけない。何か情熱があったり、好きなことがある人は強い。それでインプットが高まっているから。後はそれを表現すれば良い。多趣味で受信ばかりだと話にならない。何を生み出せるか。

市場性の高い場所に身を置き、生み出せるものを生み続け、人気を理解していく。何で評価されたいのかを軸にし、そのためのコンテンツを生む。その試行錯誤の先に結果がある。下手な努力をしても意味がない。

 

評価の軸やターゲットは定まっていて、そのためのインプットも構築しつつある。となると、後は市場に出ていくだけか。芸も文章なら身に付いたはず。

居場所を移し、絶えず勉強と表現を怠らないこと。価値を探し、体現し続ける。その道のりが必要。その先にまとまったコンテンツがある。それを有料で留め置いたりする。

方向性は定まったか。後はもう少し面倒な作業をし、市場に打って出れば良い。そう決意しているものの、行動に移すかは分からない。移さなければ何年もこのままだろう。嗚呼、嗚呼。

 

また明日。

 

参考文献:

自律神経系と体験 ちょうど良い挑戦

今日も晴れたり曇ったりしている。午前に散歩へ出掛けると、乾いた風が吹いてきた。湿った草の匂いがして、季節が変わったのを感じた。四季折々の風情が好き。時間毎でも変わるから面白い。最近は夕方のそれを感じられていないか。

昨日の昼食ではやはり無理があった。その後に間食を摂りたくなったものの、収まりは微妙だった。前日と比べれば、明確に状態が良くなかった。

ただ、夕食はそれなりに食べられる。必要最低限は食べられた。それで収まる調子だったのは解る。でも、計測では昨日より減少していた。やはり一挙に上向くことはないのか。

 

よく食べられてはいるのだけれど、少しでもはやる気持ちがあるといけない。意識的に腹八分で収め、それをそれなりに連続させること。そうやって状態を収め、満腹の上限を上げないといけない。

そこからも意識的に無理を抑え、徐々に胃の持久力をつける。その前提がないと始まらない。腹八分で収めるにはそれが必要。胃の状態が悪ければ、腹に半分たまっただけできつくなる。そうなれば八分・九分もすぐにやって来る。まずはなるべく空腹を整えること。

ただ、それにしても最低限の摂取しか受け入れられない。消化と吸収もそうだろう。これが交感神経系の優位、あるいは背側迷走神経系の活性化か?最低限の量だけを収め続ければ、いつか自然と上向いてくる?今度はそのネックもある。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』に「ゴルディロックス・ガイド」というものが記されている。ゴルディロックスの効果・原理とは、両極端な空間の間にある、ちょうど良い空間だそう。

この原理は多くの学問分野で適応されている。幼児学分野でのゴルディロックスとは、赤ちゃんが視覚的・空間的な合図を含む、驚きと複雑さの刺激がちょうど良い状況を好むということを示している。これはアーロン博士もそう記していた。刺激追求と適度な興奮。

自律神経系の反応をトラッキングし、自律神経系から見てちょうど良い体験を探すようにすることが肝心。それが多すぎると交感神経系の過覚醒に苦しみ、少すぎると背側迷走神経系の崩壊と孤独を感じてしまう。ちょうど良い量の神経系のチャレンジが必要で、それを理解するためのグラフが書籍にある。

自分にはちょうど良い体験が足りていない。それは恐れなき可動化と不動化か。遊びとリラックス。それが上述の摂取を変えるはず。生存確率を上げるために、哺乳類同士で安全の合図を交わし合うこと。

 

自活のために全てを割こうとしても、そもそもそれに繋がっていない。その習慣を固持するよりも、健康になるために割けば良い。それが理想ではある。

ただ、神経系は常に移動していく。流動性が大切だ。それが恐れなき可動化・不動化でもある。リラックスとアクティブ。

自律神経系を二分法で語るのならば、その二つで考慮すべき。それらと恐れのある可動化・不動化の並列でだ。三つの階層からなる神経系と、それらの混合。

昨日も記したけれど、フラストレーションはかなり薄くなった。体調の変動と勉強による認知、それと変わらない思考を記すのみ。セルフフィードバックも済んでしまったか。

別のコンテンツを考えても浮かばない。アイデンティティーの展開か、時代が求めるものを提供するか。そのどちらも浮かばない。

でも、アイデア次第でコンテンツは成立するはず。アクセスを集めるのに奔走する人もいれば、自分らしさを展開する人もある。

 

自分は市場で役立つスキルを身に付けたくない。仮にそう努力しても、元気に労働する時間は提供できない。ニーズから考えたとしても、そのスキルに創造性を感じない。病を癒すための努力が日々の中心であり、それによって高まったものを活かしたくある。

市場性の低い場所にいるのが駄目だった。メディアはソーシャルをしないと伸びないし、似たような人が見つからない。もっとフィードバックが得られていたら、有益なものを作れたかもしれない。

そして発信の種も尽きつつある。セルフフィードバックは大方を終えた。そうなれば書評をするくらいしかない。自分の何が役に立つのだろう。それが全く分からない。ビジネスをすれば良いのか、アイデンティティーを発現すれば良いのか。どこに何がある?

 

とにかくアイデアを捻り、何かをしてアクセスを集めるしかない。もちろん、そこにアイデンティティーの軸はあるべき。パーソナリティーや意見・価値観を明確にすれば、後は試行錯誤して工夫すれば良い。それだけでも何かに繋がるはず。

エッセイ風味が何にもならないのならば、方向転換をしないといけない。その時期がやって来ているのか?それがここにいると分からない。ひたすら暗中模索だ。記し始めて一年と半分が過ぎるけれど、未だに何も定まっていない。

 

また明日。

 

参考文献:

体験の新しい見直し 気づきと名づけ

午後の今は曇っている。午前の早い時間は晴れて鮮やかだったものの、段々と雲が多くなってきた。辺りは白く無機質な色合いになっている。たまに風が強く吹き、そうなれば身体は冷えてしまう。寒の戻りか。

昨日の昼食後の収まりは良かった。意識的に食べすぎないようにしていて、その効果があった。夕方前には空腹になっていて、夕食までがきついくらいだった。

夕食はよく食べられ、計測では昨日と同じ高止まりだった。腹は少しまともな厚さになっていた。ただ、入浴後は間食を摂れなかった。それは明確な摂取の仕方によるか。調子が良いのは上手く食べた時。

 

満腹を知覚するまで食べるといけない。そのぎりぎり手前であると認識していても、時間差で満腹となってしまう。かなり余裕を持たないといけない。でも、そうなると摂取量は低くなってしまう。それに耐えられないのが今だ。

消化酵素の力は薄い。満腹に近くなってしまっても、そこでその補助があれば助かる。もっと食後感が良くなれば、次第に天井を突き抜けられる。それには頼らざるを得ない。

でも、無理のしすぎであるのなら変わるか。それは意識の力で抑えるべき?気分が悪くなるまでは食べていない。腹に溜まりだし、少し嫌な感じになると止めている。いや、そこからまだ食べ進めているか。

腹六分以上の容量が狭い。急に満腹が強くなってしまう。そもそも食欲は強くないし、むかつきがある時が大半。そうなればその容量にもなるか。食欲をもたらせば良いのか、無理をなくせば良いのか。どちらが始まり?鶏が先か、卵が先か。

 

明けて朝食はまた意識的に抑えられる。「ここでやめれば良い」と浮かび、はやることがなかった。そして午前の半ばあたりで空腹になる。やはりそこで間食を摂るべきか。

でも、昼食では少し食べすぎた。朝食のようにはいかず、数口をはやる気持ちがあった。やはり、規定の量をどうしても食べたくなってしまう。

そして間食を摂れそうにない。ここ最近は昼食での食べすぎがネック。それをなくし、もっと間食を摂りたい。朝昼晩に摂れたなら、かなり摂取カロリーが増えるはず。食事の回数を増やすより、一食毎に踏ん張らず、常に軽い摂取を続ければ良い。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』にあるエクササイズでは、彫刻や動くことについても記されている。

ただ、それはまた魅力的に感じない。自律神経系の状態を理解するのに合っているのは、個人的にマッピングと書くことだろう。それだけで良いと思う。独学で学んでもいるし、理解は済んでいる。

クライアントが自律神経系の気づきとつながっていないと、皮肉なことに、彼らの自律神経系の状態が、すなわちその人そのものになってしまいます。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P137

自分の活性化を違う視点から見直すことは、再評価と呼ばれるそう。自分の体験を新しい視点から見直していくことが大切。肯定的な再評価を行うと、循環器系の機能が改善し、脅威にばかり注意を向けてしまうことが少くなっていくそう。

習慣的な反応パターンを遮断するためには、自分の自律神経系の状態を正確に、かつ予測可能に特定する能力を獲得する必要がある。そのために「気づき、名づける」というステップがある。身体を感じ、どの状態にいるか気づき、名づけ、好奇心を持つ。そしてその瞬間の自律神経系の状態から学ぶ。

自然に出来るようになるまで練習するそうだけれど、自分はもう出来ているか。自律神経系の状態は把握しているはず。とにかく捉え直しは終わっていて、後は社会交流だけが必要。もうその局面にある。

今日も読書、スクリーンタイム、音声、そして何の成果もない表現に費やしている。これだけの日常だ。家事もせず、用事も生まれず、作業という名ばかりの仕事をするのみ。

目に見える進展はない。一年の四分の一が終わったそう。焦燥と空虚を感じている。それは年の始まりからの思い出がないから。特に記憶が何もないとそうなる。

 

読書と知的な刺激を得るのははかどっているものの、それが何にも繋がらない。繋げようとしているけれど、全く繋がらない。振り返れば膨大に積み重なっているはずでも、何の成果もない。

叫ぶ場所が悪いのだろうし、似たような人も見つけられない。もっと気楽に表現したいけれど、半端に楽になってしまっている。ただ体調の記録をし、書籍の引用と要約をして、最後に振り絞ったフラストレーションを記す。それは面白いのか。エッセイ風味のコンテンツが薄れている。

場所を変えれば世界は変わるのか?いや、もしそうなったとしても、それだけで自活は叶わない。もっと他の道を探さないといけない。あるいは品を変えて叫び続けること。

工夫したいのだけれど、評価にさらされたくはない。一から発信をするとなれば、一体どんなものにするだろう。それもあまり浮かばない。やはりこのスタイルしかないのか?それで良いのか?

 

また明日。

 

参考文献:

自律神経系の探求 客観的な語り

今日は雨模様だ。今は降っていないようだけれど、午前はそれなりに降っていた。歩かず部屋に居て、色々と内的に費やしていた。晴歩雨読の日々。他に情熱のあることは見つからない。読書をし、何か知的な刺激を得るばかり。これが何かに繋がるのだろうか。

まとまったコンテンツにするとしても、書籍のような形にするくらいか。それだと薄利多売になるはず。そもそも、それによる収益だけでは厳しい。でも、他に何かを作れそうにない。

メンタルヘルスドロップアウトについて考えていて、捉え直しや価値観を構築している。慢性疾患を抱えている人や、似た境遇の人と繋がりたく、アーロン博士やユングマズロー、ポリヴェーガル理論、MBTIを学んでいる。

価値観を教育し、それをもたらすための技術を売ること。自分だとどうなるだろう。やはり書籍のような形にするしかない。それ以外では何を生めるのか。情報は無料で公開されているし、有料でどう経験をまとめれば良いか。嗚呼、やはりこの場所では難しいか。

 

昨日の昼食後は満腹感が強く、収まりが悪かった。夕方には空腹になっていたものの、胃酸が出てむかついていた。一食をなるべく食べてしまい、その後に間食もしてしまったためだ。

漢方を飲んでも状態は上がらなかったけれど、夕食は悪くなく摂れる。ゆっくりと食べただけで支障が出なかった。そして何故か腹が膨らんでいる。計測でもかなり増えていた。

それは早食いをしなかったからか、消化酵素が効いたからか。あるいは基本エクササイズの効果か?ふと午後にそれをしていた。それらのどれもありそう。

早食いをせず、塩分を控え、腹八分で収める。最低限の摂取で良いと決め、ゆっくりと食べ進めていた。それが状態を整えたのか。基本エクササイズをし、服薬の布陣を変えず、摂取の鉄則を守る。それが今の最善の方法か。

 

今朝の胃に負債はなく、朝食は余裕をもって収められる。午前の早くに空腹になったけれど、間食を摂れるまでではなかった。その空腹の時間がネックだ。昼と夕方もそうで、夕食から朝食までも長い。

完璧に腹九部で維持できたら変わるか。健康ならば軽く食べても問題ない。一食の量も多くなり、それでいて間食も摂れるようになる。その状態が正常ならば、確かに食べられていないか。一膳できつくなるのでは仕方ない。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』では、エクササイズが記されている部分に到達した。美術、音楽、動き、書くことを通し、自律神経系を探求していく。

それに気付くことが出来れば、自分の身体に落とし込まれた物語を理解できるようになる。自分は自律神経系によっていかに生きているか。それを知ること。相互作用をするのか、孤立をするのか。それらのあらゆる選択の理解が深まっていく。

 

描くことで右脳のイメージが具象化されるようだけれど、自分の性には合わないか。それに関連した箱庭療法というのも、あまり魅力的だと思わなかった。

やはり、自分には書くことが合うはず。身体に話してもらい、自律神経系と繋がり、その時にどのような状態だったか情報を集める。それは周囲の人に共有すると良いそう。

調整不全の時であれば、その状態について書くことにより、客観的に語り手として観察することが出来る。書いているうちにニューロセプションに注意を向け始め、自律神経系の体験を表す言葉を探すようになる。

 

それは今までの過程でもある。それが自分のアイデンティティーであるかもしれない。書いて思考をまとめる。そのための洞察を助けるのが内向直観。内と外の心を深く感受すること。そうするのが良いと思う。

ただ、全ての人にそれが合っている訳ではないそう。それはもちろんそうだ。ただ、前述のものが向いていない分、自分はそうなるということ。書くことによって明晰さを得る人もいる。それは様々なのだろう。

発信についてふと思ったのは、以前のような不調からくるエネルギーが薄れたということ。生死やドロップアウト、可能性についてあまり記さなくなった。

それは生活が落ち着いてきたからか?発信を始めてからの過程を記せば良かった。でも、はてなには記しておいて良かったと思う。セルフフィードバックが終わりに近づいたのか、そんなことはないのか。トラウマや発達障害についてはまだまだ学べる。

ただ、苦しみに絡めたフィードバックは減っている。社交をするようになった暁では、フィードバックにおいては尽きてるだろう。まだ気が早いけれど、そんなことを思う。実際にそうなればどうしようか。自分のコンテンツはどうなるのか。

 

このエントリーを使い回せば良いのか?知見の結晶はあるだろうから、それを掘り起こしてみたり、刺激を受けてまた表現したりする。それで書籍のようなコンテンツを構えれば良い。いや、それだけでまともな生活はできないだろう。もっと別の形で価値をつけないといけない。

有料で何かを販売する。販売できる何かを見つけることだ。自分にしか持ち得ない体験、見解、技術や芸、それらを形にする。人から褒められたり、簡単に出来ることで誰かの役に立つ。

それを創造的かつ構造的に展開する。自分は身体や時間を差し出すことが出来ない。誰にでもあるそれがないのだから、とにかく頭に投資するしかない。それで何かの価値を生むこと。日々こつこつと積み上げ、何かの知識や技能を見につけないといけない。

何かの油田を見つけること。それを見つければ、毎日の生活が豊かになるはず。遊びは義務となり、義務は遊びとなる。好きなことと喜びが合致し、仕事と遊びの二分法は超越される。それは生き甲斐をもたらす。そんな日々を迎えてみたい。

 

また明日。

 

参考文献:

自律神経系と適応行動 不適応と恥の払拭

今日は曇っている。風は強くなく、少し生暖かさを感じられた。午前に散歩に出て、図書館の脇の道を通る。冬場はそこを迂回していて、今シーズン初めてそこを通った。もう春だ。歩いた時間は十五分くらいか。それくらいなら楽に歩ける。

昨日の昼食後の収まりは微妙だった。それでも、ぎりぎり夕方には空腹になったか。漢方もあまり効かなかったものの、夕食は案外よく食べられる。

一膳はしっかり盛っていて、おかずも一品弱、味噌汁も一杯弱を食べた。一汁一菜に近かったと思う。意外と以前より食べられている。客観的に見られてそう感じた。でも、肉付きは全く良くならない。

 

基本エクササイズは寝る前にしかしていない。日中にするのが面倒になった。ただ、寝る前にはしている。その時にするのは効果があると思う。歯軋りをあまりしなくなった。直近では寝付きも良くなった気がする。

椅子に座ってするのも良いはずだから、そのようにしてみようか。ただ、去年の好調時にはそれをしていなかった。それが引っ掛かる。先月はそれで好調になったかもしれないけれど、すぐに尻すぼみになった。

 

夕べは満腹感が強かったけれど、今朝に負債を持ち込むことはなかった。朝食で最良の量を食べつつ、余裕をもって収められる。これは消化酵素が効いてきたのか?

昼食では早期膨満が薄かったものの、これまたなるべく食べようとしてしまう。嗚呼、気がつけばいつもそうなっている。これも解離のようなものか。自尊心を何とか保とうと、ひたすら身体だけの原資を頼ってしまう。

 

ただ、先月からほぼ毎日のように散歩へ出ている。胃がきつくて参ることは少ない。病的な無理はほぼなくなっている。その安定が実はある。あるのは余裕をもちたいコンプレックスと、好調コンプレックス。

摂取量は安定しているものの、かといって体重は増えない。もっと快く食べられる必要があるけれど、もう少し何とかならないか。最低限は食べられているはず。それは本当に最低限でしかないのか。

社会では、特定の基準を一律にすべての人に適用する傾向性が見られます。

(中略)

自らが抱えている自律神経系の状態のために適応的な行動が取れない人がいます。このとき、自律神経系のレンズを通して人々を理解しないと、彼らに不適応の烙印を押してしまいます。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P87

これもとても重要な話だ。人と関わるか否かは、自律神経系が行っている。それは安全の合図を感受できているかによるだろう。その基本的な真実が考慮されず、社会の組織はシステム化されている。

更に、何をもって安全を感じるかもそれぞれ違う。特定の基準に順応することが当然であると期待され、その価値観は臨床の世界でも同じ。何をもって行動に問題があると見なしているのか。

脳と遺伝子だとすれば、現場のドクターに出来ることは少ない。それが真実なのか?基本エクササイズが記されている書籍には、臨床診断のグレーゾーンが登場する。生理学的な状態をもっと考慮すべきだ。

それが本質かは分からないものの、とても重要な認識だと思う。薬物治療が主になっているのも、これまた旧態の自律神経理論が元になっている部分がある。

 

自分で問題を解決するしかない。でも、過去の自分も薬を選ぶしかなかった。いや、選ばされたとも言いたい。臨床のドクターがもっと鋭敏だったなら、診察の現状を疑わずにいられなかったず。

そんなドクターは日本に全くいないだろう。ごくごく稀でしなかい。まともな洞察がある人なら、医療の限界と本質に悩まざるを得ないはず。そんな人は見たことがない。今も多くの人が苦しんでいる。嗚呼、この言葉も届かないし、常識が覆るなんて何年も先だ。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』では、神経系のマッピングとナビゲートが中心にある。直近で「パーソナル・プロフィール・マップ」などを作成してみた。

「パーソナル・プロフィール・マップ」は、自律神経の気付きの中に入り、言葉のないニューロセプションの体験に知覚をもたらす方法をクライアントに提供します。76P

自律神経系は、自らに影響を与える合図によって様々な状態の間を移行する。ニューロセプションはこうした合図を察知するものの、意識はしていない。

腸の感覚や心臓が教える感覚などから情報を得て、安全と生き残り反応の間をスペクトラムに沿って動かしている。ニューロセプションとは、刺激を与えてくる合図を明確に意識することなく、意志決定や行動を選択する判断に影響を与える身体的な信号と考えられる。

マップは、個人的リソースと互恵的リソースにバランスをもたらし、不足しているところにリソースを作り出し、腹側迷走神経系が優位な、安全な状態に効果的に戻ることを可能にするリソースを形成することに役立ちます。

102P

自律神経系は 、 私たちの個人的な監視システムともいえるので、 危険を警告しながら、 同時に安全を追い求めます。 このシステムは、 生理機能を通して情報を送り、 私たちを人、場所、 物に向かわせたり、遠ざけたりしながら、関わりをサポートしたり、断絶を作り出します。心理的な物語に深く入っていくにつれ、自律神経系の反応であることが忘れられ、「誰がなぜそうしたのか」という物語に置き換えられます。

104p

マップの記載は控えるものの、どのような刺激によって神経系の階層が動くか理解できる。それが腹側迷走神経系の更なる調整に繋がるそう。そして自分の行動に恥を持つことなく、習慣の本質を理解できる。

腹側迷走神経系の微光を感じられ、防衛反応をもたらすトリガーは解消し、リソースが作り出される。するとマップが変わってくる。階層の上の安全の場は、その存在が理解されることで、治療における効果的な道具として役立つそう。

勉強と並行している別の読書では、オンライン上での文章術と発信について読んだ。非常に有益な認知が得られたと思う。

ただ、いざどう落とし込むかと考えれば、全く道が見えない。今までとはスタイルを変えざるを得ないだろう。そうなれば、やはり場所を変えるしかないか。

好きに創造的な発現をするか、読者ありきのセールスをするか。好きな発現をしつつ、それでいて経験に価値をもたらすことも出来るそう。

もし読者がいれば、何かの価値がついたのではないか。必要なのは読んでもらう工夫か。でも、オンライン上で似たような人を見たことがない。それがネックだ。

 

また明日。

 

参考文献:

↑基本エクササイズはこちらの書籍に記されています。

自然とペットの効用 人間以外のセラピー

今日は朝から爽快に晴れている。薄い青が一面に広がる空。午後の今は暖房が要らないくらいだ。散歩をすると風は冷たかったものの、日差しに温もりを感じた。もう春がやってきている。

昨日の昼食後の収まりは最良でなかったものの、夕食前には空腹になっていた。漢方を飲むと収まりがよく、良い状態で夕食を摂れる。それで最良の量を食べられた。

ただ、またもなるべく食べようとしてしまった。腹は膨らんだものの、間食は控えた方が良いと思った。それで無難にスポーツドリンクで収める。計測で増えていたのは良かった。ただ、脂肪は格段に増えたわけでない。

 

明けた今朝は朝食の収まりが良かった。たまたま腹八分の感覚を掴んでいて、それ以上は食べることがなかった。ふと内部信号を受け取っていた。食後感はかなり良かったと思う。

すぐに空腹になって困るくらいだった。それなりに腹に溜まったと感じたら、そこからより食べない方が良い。やはり無理がなければ調子は上向く。気楽に考えられたら良い。あるいは時間差で消化酵素が効いてきたのか。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』にもペットや自然と触れあうことの効用が記されていた。それは腹側迷走神経系による反応をもたらすそう。犬によって飼い主の心拍が調整されたり、自然の中ではコルチゾールの値が減少し、ストレスが低減したということ。

特に人間関係が調整不全の原因である場合、自然に触れることが腹側迷走神経優位な状態を作り出す道になるそう。これはあるブログで記されていたこと同じ。そこで記された情報の出典を確認していて、それはこれから読む予定だ。ペットよりも自然なのか?

今日は川縁を歩いてみようかと思った。久しぶりに近所の猫も見かけ、何事も変遷していくのだと思った。季節が変わり、時が経つ。人間にも何かの変化がある。思考が変わったりしていて、少しは課題が和らいでいると感じたりする。

 

変わらず読書をし、インターネットで刺激にを求め、何かを記してみる。日常はほぼ変わらない。そのぶん思考やインプットが変わっているか。でも、それだけだと面白いものにならない。どうすれば良いのか。

少し前に母親へ啖呵を切って話した。自活をするために必要な環境と、一般的な皆と自分の可能性。在宅で完結する仕事はあるし、創造的な仕事を作ったりも出来る。必要なのは未来への投資。機器と知識、技能へ費やすしかない。それを熱弁してしまった。

でも、全くもって進捗がない。ディジタル機器で既存の仕事をするでもないし、このエントリーを見せつける訳でもない。創造的な仕事と言いつつ、親類縁者には全く知られたくないもの。どうしたものか。この文言でさえも見られたら困る。

 

価値を生もうとしていたのが間違いだった。そんなものはどこに転がっているか分からない。可能性としては好きに自己を展開させるだけ。それを楽しくこなせば良い。それが箸にも棒にもかからないならば、時代が求める価値を提供するしかない。

そのどちらにも振りきれていない。何が好きで、何が出来ることで、何の役に立つか分からない。それを堀当てるにはどうすれば良い。このままで良いのか?何も分からない。

暗中模索。日記とセルフフィードバックに価値はないのか、工夫次第で何とかなるのか。勉強に費やしているのは何かになると思う。その望みを失わないようにしよう。

 

また明日。

 

参考文献:

自己の発現 第一の目標

今日は曇りのち晴れ。日が陰ったり差したりしている。風が強く吹いていて、午前に歩いた時は呼吸が出来なくなる瞬間があった。

朝食の量が微妙だったため、あまり遠くへは歩かなかった。ただ、二口ほど食べられなかっただけだから、歩こうと思えば歩けた。また五分ほど歩く。

やはりもう少し体力がほしい。少しでも調子が傾くといけない。本当に最低限度のものしかない。調子が良い時であっても、長くて二十分しか歩けない。これはどの程度のものなのか。

昨日の昼食後の収まりは良かった。一昨日の滞留感は食べたもののせいだったか。夕方までに明確な空腹になる。夕食はゆっくりと食べ進め、いつもの量を食べられた。一昨日のようなきつい満腹感はなかった。

ただ、入浴後に間食を食べすぎたか。「もう一口」というところで深追いしてしまった。それが時間差で腹に溜まる。寝るまでに収まりが変わらず、翌朝に響くと悟った。摂取の良し悪しはその前の摂取による。

 

今日の昼食でも食べすぎの気があったか。食欲がそれなりにあって良かったものの、なるべく食べようとしてしまった。調子が良い時に限ってそうしてしまう。勢い良く食べ進めてしまった。

やはり無理がネックだ。それがなければ摂取は安定し、体力も落ち着く。そしてより食べられるようになるかもしれない。これが本質だろう。でも、いつも腹九分で抑えた気ではある。そこに消化酵素の力があればだ。

また新たな気付きを得たため、それを記す。

孤独な人間は、不幸せを感じるだけではなく、自律神経系の防衛システムを活性化させ、『安全ではない』と感じます。慢性的な孤独は、絶えず『危険』のメッセージを送り、私たちの自律神経系は『生き残りモード』に固定されたままになります

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P59~60

これが逃走反応による交感神経系の活性化だ。防衛システムの活性化。特定の場所を避けるのも逃走反応になる。すると背側迷走神経系の健全な働きが阻害される。孤独であるのなら尚更だ。横隔膜下の内臓は最低限しか働かない。

 

都会に住み、パートナーやペットがいて、移動サービスを使って自立する。最近はそれだけで良いと思っている。友達や所属先は要らないはず。

これは強がりなのか否か。自分ではよく分からない。内的に費やし、親愛なる関係の相手と安全を交わし合う。それだけで良いと思う。仕事や刺激はオンラインで得る。

ただ、内的な作業で満足できるかは分からない。そして自活が出来るかも分からない。それがありつつ、その他の望む生活は浮かばない。内的な作業が役割になるのか、それとも別にあるのか。

情熱のあることや、簡単にできることが見つからない。作業をするのは価値を生みたいから。それは簡単でも好きでもない。ここに記してきたものに価値はあるのか。

 

簡単に出来ることで人の役に立つ。それが自活や生きがいになると思うけれど、それがなかなか見つからない。オンラインに発現しているけれど、誰にも評価されない。

簡単に出来るものは、好きなことに通じていると思う。好きで続けていることがあれば、自然にインプットが膨れ上がっている。では、自分の好きなものは何だろうか。

読書は義務的に頑張っている。習慣を取っ払えば分からないものの、書籍を読み砕くのは簡単でない。それをまとめたり、情緒的に記すのも楽しくはない。そうやって生きていきたいかと問われたら、うんともすんとも言いがたい。

 

別の再読している書籍から刺激を得た。仕事論についてのものだ。

検討すべきは、「そんな生活で食べていけるだろうか?」ではありません。確認する必要があるのは、「そんな生活を、本当に自分は楽しいと思えるのか?」ということです。

それさえできれば、他のことが満たされなくても(=たいしてお金が儲からなくても、世間から褒めてもらえなくても)幸せで楽しいと思えるのか、ということです。

大事なことはただ、「それは、誰に評価されなくても、経済的な見返りがほとんどなくても、やり続けたいと思えるほど好きなことか?」という点だけです。

未来の働き方を考えよう  Kindleロケーション2009~より

アウトプットや創造が価値を生むかは、誰かの目に触れさせないといけない。この場所は人が通らないけれど、数ある通りに出る努力もしていないか。いや、そもそも親類縁者に見せられるものでない。

嗚呼、どうすれば良いのだろう。何とか自活をしていきたい。そのためには役に立つ技能を身に付けるか、既にある何かを見つけるかだ。インプットを見つけて役に立つ。そうしたいのだけれど、どうにも変えられない。

 

何が人の役に立ち、何が簡単に出来、何が好きなのか分からない。まずは習慣を壊すべきなのか。今は生活に切迫がないのだから、好きに自己を発現できる。それを自在に展開すれば良い。そうすればよいけれど、価値中心に考えてしまう。

早く自活をしたい。欠かさずセルフフィードバックをしつつ、自活のための労力を割く。それを簡単に済ませ、後は生理学的状態を整えたり、インプットを高めたりする。実働の時間を少なくし、かつそれを好きなことや簡単なことに置き換える。

すると遊びは義務となり、義務は遊びとなる。生活の全ては繋がり、磐石な生活が確かになる。協同調整や遊びをし、短い時間で自活をして、後は学びを深める。それが第一の人生の目標だ。一番目のライフステージはそれだろう。

アウトプットの場所を変えたいけれど、評価にさらされるのは怖い。そして現実での人格でしないような表現をしている。それが評価されたとしても、とても身内には見せられない。何がどうなっているだろう。

フィードバックやエッセイがどんな価値を生むかも想像がつく。この活動に限界はある。では、どうすれば良いのだろう。他に出来ることや好きなことが分からない。何で人の役に立てるだろう。

 

また明日

 

参考文献:

生理学的な本質 答えの探索

今日は午後になって青空が見えてきた。今朝方までは雨が降っていたものの、今は光が強く差している。午前に歩いた際は、道端の雪が減っていたのを感じた。雨でかなり溶け出している。風もあまり体温を奪わず、平気でいられるようになった。

昨日は昼食後の収まりは微妙で、夕方までにまた滞留感があった。それでも食前の漢方で状態は落ち着き、何とか食べられそうな気がした。

そこでゆっくり食べ進めたものの、今度は単純にきつい満腹になった。昨日と同じ感触で、早期膨満と違う溜まり方だった。胃が小さくなった感じではないものの、満腹感が強かった。

それで昼夜ともに間食を摂れない。計測では微減していた。多少は食べられているはずでも、最低限の体重しか維持できていない。体力もそうで、本当にぎりぎりだ。

去年はなぜ調子が良かったのか。これが単独で稼働する背側迷走神経系の働きか。家の中に腹側迷走神経系はおらず、家が朽ちない程度にライフラインが保たれている。

それでも、今朝に負債を残すことはなかった。そこまでの落ち込みがないのは救い。それで最良の量を軽く収め、昼食もよく食べられた方。今日は間食を食べた。夕食までに負債は残らないはず。

今日はいつもの散歩の時間に雨が降っていて、その時に歩くのをやめた。でも、一時間ほどすると曇りになり、そこでちょうど歩きたくなった。身体にエネルギーが満ちていて、それを発散したくなって歩いた。

家の近くを少し回る。十分程度で、このくらいがちょうど良いのだと思う。身体に良い刺激となった。以前も同じようになっていて、改めて運動の習慣を捉え直した。それはぎちぎちでなくて良いと思った。

新しく得た認知を一つ記そう。

精神は、神経系が教えてくれることに従って世界観を形成します。

セラピーのためのポリヴェーガル理論 P44

とても興味深い。病気の全てが脳と遺伝子由来ではないということか。それはポージェス博士が記していた。活性化、抑制、反応といった、一連の生命活動を柔軟に操れないこと。それがメンタルヘルスの大半ではないか。

精神科医が様々なメンタルヘルスを解説していたものの、いまいち釈然としないような口ぶりをしていた。個人的に勉強した病気では、トラウマが原因となっていたり、ポリヴェーガル理論によってパラダイムシフトが起きていることを知った。

臨床のドクターが全てを把握しているわけではない。メンタルヘルスの領域だと特にそうだろう。そもそも化学的な根拠や、生理学的な根拠に基づかない診断が多すぎる。問題が顕在化しだした症状を、簡単なチェックリストに基づいて診断している。

そしてそれは、脳や遺伝的に問題があるとされている。いつかそれがひっくり返るのではないか。脳や遺伝子に問題がないのは、生理学的な状態、つまり新しい自律神経理論によって覆されつつある。そのため、本質の理解が容易くなっている。

 

日本が遅れているだけなのか、しがらみばかりなのか。好ましくないラベルに不満があったり、ドクターの診断が好転をもたらさないとすれば、もう自分で解決策を探るしかない。自分はそう主張したい。根拠は自分がそのように努力し、かなり回復があったからだ。

答えはこの世に生まれているかもしれない。常識が間違っているのかもしれない。上述の意見こそ誤りかもしれないけれど、自分はそう思っている。あるいは、解決不能の問題に見えたとしても、どこかに解決策が埋まっているかもしれない。そういうことだ。それをここに記しておこう。

別の思考していることを記す。発信に関するものだ。ある人物いわく、「インフルエンサーは価値観を売っている」という。それを評価経済や、読んだコラムを元に考えてみる。

価値観を売っているというより、価値観を教育しているのだと思う。もっと嫌らしく言えば、価値観の洗脳であるかもしれない。偏った価値観、立場を明確にし、自分が代わりに意見を持つ。それを発信するのが肝ではないか。

価値観を持てないような人、言い換えれば、意見や正解を求めている人に影響している。自分で腹を括るのは簡単でないから。その人たちを教育し、何かを売っていく。

価値や立場を叶えるための技術をまとめる。それを購買に移す影響力。それがインフルエンスというものか。これが価値観を売るということ。

価値観を叶えるための実績や技術が必要で、それを本人が持ち、その人の成長を共鳴した人に再現させる。これがその商売の実態。

 

評価経済の概念と照らすと面白い。それは洗脳競争社会でもあるそう。評価が高まれば、それによって貨幣経済を抜け出すことができる。あるインフルエンサーは、色々な人からの物資の提供を投稿していた。

色々と不意にインプットになっている。インターネットを興味深く眺めていると、関心が色々なところで繋がる。それはとても面白い。様々な知見を吸収するのは刺激的だ。何人もの人生分を吸収できる。

吸収した人の意見にも多くの人生が詰まっている。つまり、何年何人の人生や歴史がどんどん蓄積する。それが勉強だ。先人の失敗を吸収できる。それはあまりにも優位になるのではないか。きっとこれからそうなるはず。

 

また明日。

 

参考文献:

調整とめり張り 評価と期待

今日は列島全体が荒れているそう。午前の早い時間は静かだったものの、散歩の時間に近づくと風が強くなった。それで今日は歩かない。特に歩きたくなかったし、昼食は問題なく摂れた。晴れなければ無理をしなくても良い。

昨日の昼食後の収まりは良かった。夕方までには空腹になっていたと思う。ただ、食前の漢方はあまり効かなかったか。水の飲みすぎには注意しているものの、よくこうなってしまう。これは仕方ないのか。

それでも夕食はよく食べられた方。意識してゆっくり食べ進め、十分な量を収められる。ぎりぎり満腹だったけれど、量は申し分ない。計測では微増していた。

壊滅的ではなくなったのだから、もっと増えてほしい。でも、そうなるにはもっと食欲が必要か。爽快に食べられるのは少ない。欠乏があればそのようなものだけれど、もう少し変わらないものか。

 

明けて朝食と昼食はよく食べられた。夕べの負債は残っておらず、朝食はフラットに食べられる。最良の量をちょうど収める。少し前はこれよりも食べられなかったから、調子は上がっているはず。

昼食もよく食べられた。早食いを抑えたため、早期膨満はほぼなかった。でも、少し食べすぎの気はあった。なるべく食べようとしてしまったか。それでぎりぎり満腹となってしまう。その後に間食は摂れていない。

スポーツドリンクで収めたため、夕食までにはフラットになるはず。以前のパターンを思い出したため、多分そうなると踏んでいる。無理がいけなかったのか、不定愁訴のせいなのか。どうにもよく分からない。

『セラピーのためのポリヴェーガル理論』ではこう記されていた。

対人間神経生物学を提唱するシーゲルは、精神的な問題は、すべて神経系が過覚醒か、低覚醒のいずれかと診断されることであると述べています。

セラピーのためのポリヴェーガル理論P21

可動化は過覚醒で、不動化は低覚醒だそう。これは初めて知った。背側迷走神経系が介入する時は、システムを動かすのに十分なエネルギーがない時。この時のシステムは消耗し、クライアントは麻痺している。

交感神経系の反応が起きている時は、システム内にエネルギーがありすぎて、クライアントは興奮しているそう。それが過覚醒だ。自分はどうなのだろうか。

 

他にも同じ書籍から引いてみよう。

他者とつながり、コミュニケーションをとることに失敗したとき、自律神経系は腹側迷走神経優位の安全な状態を離れ、交感神経系の「闘争/逃走反応」を始めます。交感神経系が優位な状態では、「危険」を回避し、腹側迷走神経系による調整が取れた安全な状態に戻る試みとして、対立回避の戦略を取ります。

セラピーのためのポリヴェーガル理論P40

自分もコミュニケーションに失敗し、逃走反応の方が起こっている。そして回避をしてばかりだ。それが背側迷走神経系の健全な働きを阻害している。

自律神経反応の階層の状態には、社会交流、可動化、不動化の三つがある。あるいは、安全、危険、生命の危機と名付けられている。

自分の生理学的な反応を理解できたら、独特の状態にラベルを貼るように勧めるらしい。自分の場合は、愛情、危機回避、絶望の三つだろう。危機を回避し続けず、愛情を得ること。逃走を抑え、社会交流をして安全を得る。それが胃腸の病を癒すのだろう。

アウトプットの形について色々と考えている。場所を変えたいのだけれど、今度はそこでの評価が気になってしまう。どう発信すれば良いか見失っている。

発信とネットビジネスには色々ありそう。スキルを身に付けるか、影響力を身に付けるか。娯楽を生み、広告枠を売ったり、グッズを課金してもらう。

これが好きなことで生きることか。世の中は娯楽社会。疫禍で打撃があったのもそこだろう。同じ趣味やキャラクターをもつ人がいれば良い。そのようなファンを持つこと。

あるいは自分の商品を売ったり、誰かの商品の販促をする。自分のコンテンツ(ノウハウ・コラム)を生み出し、役に立とうとするもの。問題解決や意見の表現。その感謝代が対価。これにも影響力やファンからの課金がある。

 

好きなことを売るか、簡単に出来ることを売るか。それともノウハウを売るかだ。娯楽を生み出すか、誰かに感謝されるか。

あるいは評価経済圏でも作ってしまうか。コンテンツ、コミュニティ、キャラクターを構築する。出来ることを与え、同類で集まり、いい人の評価を得る。

ファンは少なくても良いそう。一部の人が課金してくれたら、それだけで賄えることもある。コンテンツや出来ることを提供し、コミュニティの皆に好かれる。

息の長い田舎の飲食店は、クオリティのある食物を提供しつつ、人柄で地域に密着している。そこでコアなファンを獲得がある。そのまとまった人数があれば、それだけで商売は回る。コンテンツ・コミュニティ・キャラクター。

 

ただ、そのために何をするかだ。娯楽を生むか、コンテンツで役に立つか。どんなものをどんな頻度で表現しよう。

どんな価値があるのか分からないのだから、適当にウェブ上へ存在を残せば良い。それ自体が報酬になれば良い。表現するのが苦にならないはず。いつか何かになるかもしれないし、誰かの役に立つかもしれない。評価が高まることもあるか。

もっと気楽にそうしていたかった。そして市場性の高い場所に身を置くこと。それが重要だった。かつて駄目だったのは、評価を期待していたこと。それが負荷となってしまった。

 

以前に試した場所へ移りたい。それはこれからも難しいのか?そこで継続していればどうなっていたか。どうにもなっていなくとも、結果を確かめたかった。今のこの場所にいても意味はあるのか。

ただ、その場所であったとしても、形態はここのエントリーをまとめるくらいだろう。この場所とやることは変わらない。どんな評価になるか分からないだけ。別の価値を生む努力はしていない。その場所でのことを夢想しているのみ。

コンテンツの内容、その投稿の頻度、作業の簡略化。これらのネックが大きい。何のために続けているのかが分からない。それをするための日常になっていて、それ以外に時間を費やしたくなく思ってしまう。

腹側迷走神経系が働いていれば、日常生活は有機的、計画的で、自身を大切にし、遊ぶ時間を取り、他者と一緒に何かをし、仕事での生産性を感じ、ほどよい調整感覚と管理感をもつそう。

誰かと遊んで生理学的状態を整え、仕事で創造をし、適度な興奮や刺激の状態を維持していく。個人の時間と家族の時間、そして仕事をする時間。そのめり張りがあってこそ、人生は豊かになる。それを整えるのが人生と言っても良い。

創造的な仕事とパートナー。これが必要だ。仕事はオンラインでしたいため、上述の要素を考えるに至った。どうやって満足のいく経済を整えようか。そのためのフローやストックのアウトプット。何で対価を貰えるだろうか。

 

また明日。

 

参考文献:

接点と奇遇 まともな人生

午後の今は晴れている。午前は雲が多かったものの、今は薄い青が広がっている。光が強く差していて、かなり暖かい。暖房はほぼ使っていない。流石に春がやってきたか。散歩の道中ではまた土の匂いがした。

昨日の昼食後の収まりは微妙で、夕方まで昼食の滞留感があった。それでも、食前の時間ぎりぎりには空腹になったか。漢方がそれなりに効いたと思う。

夕食はほぼ問題なく食べられる。変わらずゆっくり食べ進め、早期膨満はほとんどなかった。腹は昨日より膨らんだものの、計測ではほぼ変わらなかった。

夕方にした基本エクササイズの効果はいかに。総合的に見れば、徐々によく食べられているはず。一膳分はしっかりと摂れている。それを軽く収め、そこから余裕をもってもっと食べられたら良い。

 

明けて今朝の摂取は良かった。昨日に引き続いてよく食べられる。やはり入浴後の間食で無理がなかったからだろう。「もう少し食べたい」という気持ちがあっても、そこで無理をしないことが大切。

食べたいという感じであっても、それに呪縛が含まれていることが多い。「なるべくもっと食べておこう」という思考は罠だ。その時はかなり腹に溜まっている。

昼食はそこまで食べられなかったものの、その後にすぐ間食をし、スポーツドリンクを飲む。それで今の腹はきつくない。腹も凹んだ感じがしないし、そこまで悪くないと思う。これくらいで良いなら良い。夕食の摂取と計測がどうなるか。

新しく『セラピーのためのポリヴェーガル理論』を読む。その序文はポージェス博士が記している。そのポージェス博士は、場面緘黙、吃音のある子供、早産児などの人たちと交流を行なっているそう。

これは今までの書籍に記されていなかった。背側迷走神経系について学んでいる時、場面緘黙のことが浮かんだりした。やはりそれと関わりがあるのか。凍りつきにまつわるのだろう。この書籍も役に立ちそうだ。

 

その『セラピーのためのポリヴェーガル理論』によれば、副交感神経枝には背側迷走神経経路があるそう。初めてはっきりとした記述を読んだ気がする。そうなのかと合点がいった。今までの書籍では明確に認知できなかった。

学術的に神経回路を理解するのは難しい。凍りつきや擬死、胃腸障害に気を取られるけれど、背側迷走神経系が横隔膜下の内臓を整えている。それは副交感神経系の経路の一つだ。交感神経系がそれを抑制すれば、内臓のために使われていたエネルギーが可動化に使われる。

 

同じ書籍には、自律神経系の統合の理解のために、家の比喩が用いられている。背側迷走神経系は、家の基本的なライフラインを運営している。全てが滑らかに運営されていると、身体機能が自動的に働く。

ただ、腹側迷走神経系の影響を受けていなければ、空の家の運営となってしまう。それでは家の中が快適にならない。全ては最低限の設定に下がる。空気を循環させ、パイプを凍結させないよう保つのみ。人間の身体で言えば、それは生命を維持するのにぎりぎりの節約状態。

 

これがまさに今の自分だ。代謝の生理学的な変化が起こっている。消化と吸収は最低限になっているのだろう。それに逃走反応も加わっていて、前述の生理学的反応が起こっている。これもまた厄介だ。何重にもネックが重なっている。山奥へ逃走して冬眠しているようなものだ。

また認知が刷新された。背側迷走神経系が横隔膜下を支配するものの、それは腹側迷走神経系にコントロールされないといけない。恐れなき不動化が必要で、それによって健康、回復、成長のためにエネルギーが使われる。内臓の機能は元に戻り、代謝も適切なものとなる。

やはり社交が必要だ。何度でも記そう。嗚呼、近所に誰かいてくれたら良い。気色の悪い話かもしれないけれど、先日の新聞に公務員の異動が載っていた。そこに同級生と思しき名前があった。母親がそう見つけていて、それを自分は告げられる。

短期大学を出て帰ってきたのか?自分はその年代だ。この春から役所の職員になるらしい。きっと車の免許もあるのだろう。もうそんな歳になったのか。つい最近まで十代だったのに。

そんな出戻りの面々がいれば良い。もっと近所にいないのだろうか。地域に残るのが少数だとすれば、その皆で集まれば良い。田舎に暮らして面白いことはあるのか?自分はずっとない。会う人も出掛ける場所も遠い。だとすれば、居残りの人間同士交われば良い。

いつもの散歩道には同級生の家がある。今日もそこを通って思った。いま何をしているのだろう。誰かが車を持っていれば、お互いに行き来できる。もしそんな奇遇があれば、人生が変わるかもしれない。

そのためには行動も必要か。また図書館にでも行くべきか。そこへ行く体力は安定している。そこくらいしか交流の場はない。そこで一瞬でも接点が生まれたら、あとは自分が積極的になれば良い。既に好機を逃したのだから、いくらかは工夫が出来るだろう。

もし社交が成功すれば、理屈の上では健康になれる。その過程を記してみれば良い。似たような悩みを持つ人間が救われるかもしれない。まとまったコンテンツを置き、ファンから対価を貰ったり、検索から来た人の問題を解決する。それで収入を得られたら良い。

勉強を続けつつ、コンテンツも生み続ける。健康と自活が磐石になれば、まともな大人として生きていくのかもしれない。そうなれば良いけれど、それは夢想か?

あるいは自己実現による天職でも見つける?病める人やペットを救いたい。ペットと触れ合い、発信では文筆で誰かにメモを残す。文筆家であり、ペットのセラピストである。それはそれは面白い未来だろう。

社交とアウトプットの簡略化・仕組み化。それが今後の課題。もっと人に役立つような形でアウトプットしたい。あるいは既に価値があるのか?色々と思考中だ。

 

また明日。

 

参考文献:

簡単な認識 勉強の奏功

今日は曇りのち晴れか。午前は晴れていて、その時に散歩へ出た。今は曇っているものの、光が強く差している。

あまり気分は落ち込まない。廊下の温度がかなり上がっていて、季節が進んだのを感じられる。歩いた時には風が乾燥していた。ほんの少し土の匂いを感じた。

昨日の昼食後の収まりは良かった方。それで夕方にはそれなりの状態となる。食前の漢方はあまり効かなかったけれど、ゆっくり食べようと意識していた。

その効果か早期膨満はなく、よく食べられた方だった。ただ、計測では昨日より微減していた。確かに快い満腹ではなかったか。やはり食欲がないといけないし、早期膨満もなくさないといけない。

つい先日の夕食では、気持ちの良い食後感を感じていた。たしかその時は基本エクササイズをしていたか。不調なのはそれを怠ったため?

午前にそれをしなかったけれど、昼食は問題なく食べられた。一体どうなのだろう。毎回やれば良いだろうけれど、どうにも面倒に思ってしまう。先月の診察前もそれで傾いたのか?よく覚えていない。

 

明けて朝食は理知的に食べられ、その後の収まりも良かった。軽く最良の量を食べられる。夕べの入浴後の摂取で無理がなかったためだろう。

その後に散歩へ出られ、図書館の回りを一周する。それで少し疲れたものの、その後は読書に費やせた。昼食でもよく食べられ、早期膨満が薄かった。

基本エクササイズをしていなくてこれだ。実際のところはよく分からない。やれば良いだろうけれど、読書に費やしたくなってしまう。ここ最近はとにかくそれをしている。

 

ふと気付いたけれど、ここ何ヵ月かは無理のしすぎについて記していないか。それによる苦しみは減っているのか?死にまつわる不調コンプレックスはほぼない。あるのは余裕をもって自立したいコンプレックス。

親の感情と合いまる無理はなくなっている。それが病的で盲目的な無理のしすぎ。死の恐怖によるものと、自尊心コンプレックス。死なないようにするものと、親の干渉を防ごうとするもの。

最近は不定愁訴だけに囚われているか。食欲と早期膨満だけに振り回されている。局面は変わっているのかもしれない。

残るコンプレックスは自立にまつわるもの。自活や自立をし、自尊心を保ちたいというコンプレックス。そこに体力の余裕が必要で、その部分で身体へのコンプレックスが残っている。

 

それだけに不定愁訴が収まれば良い。とにかくそれだけで良い。まずはそれが必要だ。それを恒常的に維持できるのなら、後は移動と自活が出来れば良い。その壁も大きいけれど、生きていくには身体が全てだ。

引き続きポリヴェーガル理論入門を再読している。胃腸に関する認知はまだまだあった。

この新しい哺乳類特有の迷走神経系がよく機能している場合、横隔膜下では、交感神経系と副交感神経系は、それぞれが建設的な機能を果たし、自律神経バランスの絶妙なダンスを踊りながら恒常性を維持しています

ポリヴェーガル理論入門 P171

社会交流とリラックス・アクティブのバランスが大切だろう。社会交流によって恐れなき不動化・可動化をもたらす。程よく好ましい不動・可動が欠かせない。

それがリラックスとアクティブ。休息や回復には前者が必要で、親愛なる人の腕に収まり、そこで不動化をする。成長には後者が必要で、適度な興奮が自信を持たせ、成果をもたらす。

自分は逃走反応ばかり起こしている。やはり社会交流が必要で、特に恐れなき不動化が必要だろう。背側迷走神経が横隔膜下に繋がっているのだから、それを抑制することが大切。その形態が恐れなき不動化。

自分も遊びではなく、温かな凍りつきを求めている。そこの辻褄は合う。それがきっと健康をもたらす。

 

もうそれだけの認識に至った。フィードバックの終わりがやってきている。もうパートナーを見つけるだけで、それ以外には何もない。

都会に住み、哺乳類のペットを飼う。ペットと安全の合図を交わし合い、欠乏を満たしてしまえたら良い。それで健康になれば、後は自活をすれば良いだけ。移動のサービスは使うことで慣れていけば良い。

好きに社会交流をし、好きに読書をする。そこから自活が出来たら万々歳。完璧な人生が整うのではないか。誰にも責められず、寂しくもない。好きに内的な創造をし、それでオンラインに経済を作る。

叶うのはペットを飼うくらいか。祖母宅へ引っ越した暁にあるかもしれない。都会に越すのは難しそう。この実家から近い祖母宅へ住み、ペットと両親とで暮らす。

そこで何かの下積みをし、自活を叶える。それが磐石になれば、生活の束縛がなくなるかもしれない。すると高次の欲求が湧いてきたりするか。絶えず勉強をし、内的に作業し続ける。それは好きなことだろう。簡単にも出来るはず。それで誰かの役に立てば良い。

ブログをとにかく積み重ねているけれど、大切なのは誰かの役に立つことか。コンテンツであるのなら、人に何かを提供しないといけない。それがなければただの日記。原初はそれで良いかもしれないけれど、それが有利に発展するとは限らない。

コンテンツを展開するのか、キャラクターを展開するのか。良いキャラクターでありつつ、簡単に出来ることを与える。そこでコミュニティが生まれ、更に経済まで生まれたら良い。そんな本を読んだ。

 

認知の取得やセルフフィードバックをしつつ、社会勉強や技能の取得をする。アウトプットもしたりして、それが何かに繋がれば良い。家庭には温かさがあり、それらの行き来を循環させる。

友達は要らないし、これで良いと思う。社会交流がペットで済めば良いけれど、一体どうなるだろう。なおさら体調の安定がほしくなる。

勉強は功を奏すると思う。それで無理も減ったし、どのように生きていくかを確かにしている。これは必ず何かに繋がる。全てが隆々と高まるのではないか。悪くない生活でもあると思う。

 

また明日。

 

参考文献:

逃走と繋がり 限度と理想

午後の今は曇っている。午前は気持ちよく晴れていて、春の日和だった。それに誘われて散歩に出る。気のせいなのか、晴れた日はためらいなく歩ける。たまたま作業を詰めていなかっただけなのか、本当に体調が良くなるのか。とにかく自然は大事なはずだ。

昨日の昼食後は間食を摂れなかったものの、スポーツドリンクを飲むとちょうど収まった。それで夕方までにフラットになる。そして昨日とは違い、夕食前の漢方で状態は変わらなかった。

夕食では早期膨満が薄く、十分によく食べられる。ゆっくり食べたのも効いただろう。腹も膨らんでいて、計測では増えていた。前日よりもかなり増えていて、増加の曲線が一気に上がる。尿量の誤差は少なかったはず。

 

前回に捉え直したように、やはり無理をしなければ上向いてくる。なるべく無理を減らしつつ、それなりに胃の持久力を上げる。その流れがあれば変わってくる。

理想はここで消化酵素の効果があれば良い。直近では時の運で食欲が変動する。その影響が最小限であるのなら、総合的には上向くはず。もっと満腹の許容範囲が広くなれば良い。それを助けるのが消化酵素であればだ。

次に読む書籍はまだ届かないため、ポリヴェーガル理論入門を再読している。概念は大まかに理解しているものの、再読でより簡単に理解が深まった。一部を要約してみる。

 

人間は防衛に入ると、代謝のための資源を防衛に使う。交感神経が活発になれば血圧は上昇し、酸素が取り組まれ、肝臓が余分な糖分を放出する。

背側迷走神経が活発になれば、新陳代謝を減らし、酸素消費も減らし、食欲を減らす。これは爬虫類の時代の名残。これらが生存確率の下がった際のストレス反応。

これらの過度の活性化、つまり恐れを伴う可動化・不動化が問題。これを取っ払うのが社会交流で、それによって安全の合図を感じないといけない。すると恐れなき可動化・不動化が起こり、代謝は適切なものに変わる。そして健康、成長、回復が促進される。

可動化のシステムが高度に活性化すると、防衛反応が引き起こされ、不動化の回路を抑制するそう。胃や腸に問題を抱えているのなら、それは背側迷走神経による恐れを伴う不動化があるのかもしれない。ただ、交感神経の可動化が背側迷走神経の働きを抑制している可能性もある。

どちらにせよ、恐れを伴う可動化・不動化を抑制するには、腹側迷走神経による社会交流が欠かせない。交感神経による逃走反応には、特定の場所を拒むものもある。不動化か可動化のどちらが活性化されていても、問題なのは安全の合図を感受できていないこと。恐れを伴わない不動化・可動化が必要。

 

自分は凍りつき反応を起こしている訳ではないはず。胃腸に問題が出るとすれば、凍りつき反応か闘争・逃走反応によるもの。それはやはり、逃走反応がネックだろう。それを抑えなければいけない。

代謝が冬眠状態になっていても、移動のサービスさえ使えれば良い。自分は慢性疲労状態などではない。凍りつきではなく、交感神経による反応や、代謝の変化があるだろう。それが胃腸の機能も落としている。

 

そのなかで、今の生活は許容できるものだろうか。今日も散歩へ出られたし、体力は壊滅的ではない。近くに店や居場所があれば良いだけ。ただ、不定愁訴の影響は大きい。体力は安定しても、上腹部のきつさはしょっちゅうある。それを抱えて生きていけるのか。

扶養や世話がなくなった場合、一人で生きていけるだろうか。それがネックだ。移動サービスの利用はあっても、身体そのものを移動させないといけない。なるべく体調の安定はほしい。

いや、それは抜本的な治癒に繋がるか。本質的に社会交流をすべきなのか。でも、それが出来ないなら現実を見るべきだ。自宅で自活をし、移動サービスを使って生きていく。それが現実的な限度。

嗚呼、だから最低限の余裕さえあれば良いのに。それくらいは薬物の力を頼りたい。なぜ去年はそれが上手くいったのか。とにかく必要な余裕さえあれば良い。慢性的な状態で推移すれば良いだけ。そして上述の生活をする。

 

それが上手くいくなら良い。でも、やはり本質的な治癒が必要なのか。近くに居場所や人はいない。公的な場所が出来ることはないだろう。あるなら何かの繋がりを取り戻すこと。この思考がいけないのだろうか。これが逃走反応でもある。

自分はとにかく勉強をしたいし、友達は要らないと思い始めた。求めているのはパートナーだけで、家庭の時間にしか割きたくない。個人の時間に勉強をし、家庭の時間でリラックスをして、インターネットで存在を発信する。

そこで人となりを表し、誰かと繋がる。所属や承認を求め、出来ることをしていく。そうやって生きていたい。それで良いのだと思う。もう同年代とは人生が交わらない。それに不満足はない。親愛なるパートナーかペットがいれば良い。そう思っている。

今日も勉強と表現のみだ。何かで自活が出来ていたり、公的・個人的な扶助が得られていたらどうなっていたか。そうなれば、本当に好きなことを好きに出来る。

それでコンテンツや技術を身に付け、キャラクターを発現させ、コミュニティに属す。そこで貨幣経済から脱出できれば良い。そんな本を読んだ。

フローやストックの更新に縛られることなく、好きにインプットを高めたり、アウトプットをしたりする。たまに人と会い、ストレスを溜めないようにする。評価経済で土地と人を乗り越えること。それが出来たら面白い。

 

また明日。

 

参考文献: