欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

ソーシャルとの一線と内的世界 こもる日々の展望

夕方の部屋から見る曇り空。窓から見る向こうの世界。それなりの日常にそれなりの心音。平凡に過ごすことが出来たのなら、それだけで十分良い日だ。何事もなく、平穏で暇がある日。そういう日が一番良い。

それは贅沢な話で、「やる事がないなら羨ましい」と思われるだろうけれど、自分はそうもいかない。どこかが辛い。悪い夢を見たりする。

終日こもる日が続く。やはり人は、誰かと会って話をしたり、社会的な活動をすることが欠かせないのだろう。

 

人間の欲求は5段階あるらしい。生命活動の安全を確保したいということや、生理的な欲求を満たしたいということが土台にある。その上に友好関係や愛着関係、所属の欲求がある。そして自尊心や尊厳の欲求があり、それらの上に自己実現欲求がある。

快適な衣食住を営める環境があり、そこに安心があること。それが最優先になるのだろう。HSPは、まずこういった要素を整える必要があると思う。タフネスパーソンよりもその必要性がある。

住環境としては、やはり一人で居られる部屋が必要だ。自分と周囲との境界線。形としてのバリアだ。精神的なバリアとしての、物体によるバリア。自分の感情が外側で使われるのなら、それとバランスを取るための時間をつくり、自分の感情を大切にする必要がある。それを怠れば、穏やかな心でいられなくなる。

温度や光、騒音からもガードしたい。他にも、食ではカフェインなどが刺激になることがあるし、「衣」では肌触りが気になって仕方なくなることがある。

 

それらが整えば、そこからソーシャルの欲求の段階に進む。ここからは生涯の重荷との付き合いになり、大変なことが多い。

個人的には、今までの短い歩みの中でとことんつまずいている。学校も早々にドロップアウトして、通っていない期間の方が通っていた期間を上回っている。

 

小学校生活からのドロップアウトよりも前に、幼稚園時代から兆しはあった。自分だけが入園式で大泣きしていたということを母親からたまに話される。

いま振り返ると、それは一時的な神経の高ぶりだった。この時から生粋のセンシティブさが発動されていたのだろう。

そう考えると、何だか自分に対して優しい気持ちが湧いてくる。愛着が湧くというのか、もう諦めても良いだろうと思える。肩肘を張らず、自責感情からくる恥の感覚も拭い捨て、身の丈にあった人生を切り拓けば良い。「もう大丈夫だろう」「十分だろう」と。

小学校に入学した時点で通例のステップは求められ、世の中の"普通"が押し寄せてくる。無神経で鈍感で、テレビのポリュームをどんどん大きくするような人達と横並びになり、同じように過ごしていかなければならい。

そのなかでダメージを負っては、「自分は傷物なんだ」とか、「まともには生きていけない」と、そんな風に思ってしまう。自分を責め、落ち込んでは厭世的になり、不信感が募っていく。みるみる悪循環のどつぼにはまってしまう。

そう思ってしまうのも半ば必然に近いこと。これはどうにも避けようがなかった。自分も誰も責められない事だ。どうにもならない重荷がある。

以前はソーシャルな場へと出掛けていたけれど、それもフェードアウトしていった。それは学校もそうだった。何かの理由があって行けなくなったのではなく、細かなことが募り、身体が蝕まれてしまった。

今は身体の水準も低く、ソーシャルのスキルも抜け落ちている。そういう集まりに再び行ったとしても、同じような結末があるのだろう。どうすれば良いのかと悩んでいる。そんな日々が続いている。

 

人と会って話をしたり、精神的な願望や悲願が叶えなければならない。そうしなければ、ジャンクな画面の中へと向かっていくのみ。パーソナルな気持ちを持ち出し、健全ではない刺激を得ては、連続して悪いサイクルにはまってしまう。本当の面白さではないけれど、面白くはある。その瞬間でしかない世界に入り浸るばかりだ。

ここから脱却したい。好循環のリズムを生みたい。生の感触を得たい。

人は、自分の存続を確かにしてくれる活動に惹かれていくらしい。"ある活動がどのように自分の調整や適応を可能にしているか"が日々を生きるためには必要だそう。

ストレスへの対処は、人生そのものと言える。その対処能力を身に付けることは、いわゆる成長か。

 

生きているという実感があればいい。生活の実感があり、喜びや人生の中心に据えたいものへ真っ直ぐに進みたい。

例えば"書くこと"などだ。失敗のなかの課程を記していけたらいい。成長していなくとも、成果が得られずとも、その歩みや過程に自分なりの成果を見出だしたい。

 

今日も曇天で終わりゆく。それなりの日が終わりゆく。

 

参考書籍 :

ひといちばい敏感な子

ひといちばい敏感な子