欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

自分の中の過保護な親 ナチュラルな反応と現実

終日家にこもる日々。体調は微妙な水準だ。悪いかと訊かれたなら、それは悪くないと答えると思う。ただ、良いかと訊かれても肯定は難しい。それでも、自分にとっての平均的なリズムではある。現状維持が出来れば、それだけでも十分だろう。

 

出掛けるにも身体を動かすのをためらってしまう。以前は無理強いをして散歩に出ていたため、その反省がある。そのようにする意味はなかったのだ。

気晴らしならそれは良いだろうけれど、「きちんと活動しないといけないのだ」という思考になっていないか注意すべきだ。かつては身体を強制的に動かそうとしていた。HSPの事を知る以前がそうだった。

今も抜本的には改善していない以上、ゆっくり過ごしても良いだろうと思う。でも、調子が上向いた時ですら動くのをためらってしまう。そうやって何もせずに終わってしまう日がある。眠くならずに床に就き、少しは動いても良かったと思ったりする。

身体や心の状態が病的であれば、その状態を改善するステップを踏まないといけない。それは自分の意思の力でだ。不安や恐怖、抑圧を取り払うための準備をすること。対外的な活動へ至るまでの段階を踏む。まずは身近なところからだ。

安心が出来る状態になれば、周りを探索したくなったりして、外へ出ていくための準備期間に達する。そうなった場合は、不安による働きがネックになったりする。絶えず「大丈夫なのか」とか、「悪いことが起きるのではないか」などの過保護な気持ち によって、刺激過多を引き起こしてしまう。

 

やりたいことをやれないという気持ちは、身体に由々しきダメージを与える。でも、それは過去に痛い思いをして得た教訓でもある。ただ、自分を守る大切なものではあるけれど、その保護が自分の歩みを止めてしまうことがある。

もう安心は得られつつある。それなのに、欲求を満たそうとしても過去の経験がよぎる。HSS(刺激追求性)の特性と、HSPのナイーブなところがせめぎ合う。快適で居られる狭い幅の中で揺れ動いては、消耗へ繋がってしまう。

 

外の世界の刺激は怖い。今はそれを強く感じる。刺激を避け続けている今は、特にそう思ってしまう。他人からすれば些末な出来事であっても、自分にとっては未知の刺激で溢れている。

ここからどのようにステップを踏むかが課題。HSPのナイーブなネックが立ち塞がる。

 

ソーシャルの場へ行くということは、慣れるまでに神経が高ぶったりするだろう。それでもそこへ行き続け、「さほど辛くないな」ということを体感できたら良い。そこから軌道に乗せ、自信をつけていくこと。小さなステップを踏み続け、徐々に慣れていく方式だ。

自分のコアでデリケートな反応に対し、あやすように接すること。保護が必要な時はそうして、周囲を探索したそうであればそれを後押しする。そのケアや加減を知ること。過去の人たちによる誤った接し方を拭うことだ。自分のコアな反応を知り、適切に対応する事が大切。

HSPの事など、自分の事をよく知り、それを経て対応する。それは今の自分なら出来るだろう。遅くとも出来る。それをやり抜くことだ。それをやり抜く気持ちがあれば良い。

自分が行える神経の高ぶりへの対策もあるし、「この人が居るから安全だ」というような安全材料もある。

 

最終的には、一般的な人達と同じようになりたい。刺激への耐性を付け、それに対処できるようになること。楽観的にいられたら良い。いわゆる普通になりたい。

アーロン博士はそれが出来るのだと記していた。それを一縷の望みとして信じたい。

成功体験を積み重ね、安心で居られる場所や時間を増やすこと。厭世的にも、傷物だとも思わないようにいること。自分を責めずに居たい。

 

ただ、そのソーシャルな場がない。フリースクールという場所は、ソーシャルスキルを身に付けるには丁度良いだろう。でも、病的な段階を脱するのには適さないと思う。

でも、どうにかして人と関わらないといけない。自分がそれを望んでいしるし、休み続けるのは休み疲れるのだ。

家族、学校、近所、コミュニティ、どこからが良いだろうか。社会との繋がりや、個々人との繋がり。どんな人や場所がある?

手探りの日々だ。どうなるのだろう。

 

日々鍛練。

 

参考書籍 :

ひといちばい敏感な子

ひといちばい敏感な子