欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

過去の歪みと好ましい立脚点 捉え直しの日々

曇天の隙間から青空が覗ける午後。それだけで心にも光が差す。精神的に辛いことがあったとしても、光が差して青空が見えたら楽になる。

好きな音楽を聴くことが出来、身体が楽であれば平気だ。それくらいであれば、取り敢えずは何とかやっていける。その場しのぎのリラクゼーションは細かくある。それを試すことにより、少しは楽になったりする。

でも、いつかは根本から楽になる必要がある。その時を迎えないときつい。

ただ、その時まではじっと忍耐することだ。音楽や自然によって持ちこたえよう。

最近は、HSSによるじりじりとした焦燥感はない。この性質があると、穏やかに過ごせる環境を築いても辛くなる。やがて内側から刺激が発生してしまうのだ。退屈しすぎても神経が高ぶってしまう。

外の世界に出ても神経が高ぶりやすいし、内に籠りすぎても同じように高ぶってしまう。日常に飽きてしまえば刺激になるし、外に出たい気持ちを却下しても刺激になる。内的なHSSのネックもあるし、外的なセンシティブさのネックもある。

どちらにも振りきれない。その中間の快適に居られる幅が狭い。極端に狭いのだ。

 

内と外の困難さ、複雑さ。一朝一夕に劇的に変わることはない。それは生涯に渡り挑み続けるものだろう。今は根底ある基礎を築く期間。焦らず焦らず。

相も変わらず病的なままだ。食事や体調にまつわるセンシティブさがある。それはあり続ける。奥底のにある体調コンプレックスが発現し、表層の意識を乗っ取っている。自分のナチュラルな気持ちや感覚、欲求は取り残されたままだ。

とにかく刺激を受け取りやすい。それを持続させてしまえば、やがてフラストレーションが溜まる。それは抑圧に繋がり、本来の反応や感情は取り残されていく。次第にバランスが取れなくなり、身体や心へ支障を来たす。それを防ぐには、外側にある刺激から自分を守る緩衝地帯が必要だ。

過去の親の残像に縛られ、奥底にある誤った思考や、呪縛のようなものが意識を作ってしまう。抑圧に至らないために、まずは緩衝地帯が必要。それが叶えば、抑圧された声は意識の段階へ上がってくるはず。

周りの環境によって抑圧に陥るのならば、生活環境の中で区切られた場所が必要になる。

 

でも、それが難しい。親を安心させようとしたり、喜ばせたいという気持ちが絶えずある。それは苦境を脱却しようというする生存戦略でもあり、より強力なものになっている。過去の人を喜ばせ、それによって自分の安全を確保しようとしてしまう。「痛手を克服するには無理をするしかない」と。

確かだった苦しみと、好ましくない誤った認識。先細る身体と、心配する親。根底にあることを解ってもらいたかった自分と、弱る身体を対処しようとする親。得体の知れない処断と、それに対しての足掻き。掻い潜ろうとして得た立脚点。

「体調さえ良ければ」

周囲の顔色や、現況を評価する数字の基準、食事の量やその塩梅など、それらに敏感になってしまう。高い水準を自分に課し、盲目的に頑張ってしまう。自分を痛め付けるようにし、ありのままの感覚や反応は抑圧されていく。それらはすべて封じ込められてしまう。

一喜一憂の連鎖であり、嵐だ。絶えず自分に振り回され、落胆し、逆に安堵したりする。結果的に根本から好転せず、禍根はくすぶり続けるままだ。

気楽にいられ、マイペースにもいられたら良い。自分のテンポで生きていきたい。そのように生きていける人が羨ましい。そんな人はいると思う。それは人間の自然な営みだろう。

自分について勉強し、捉え直しを日々し続けること。抑圧された声を聴くために努力する。それを用いて生きていく。それで生きていけるように、現実との折り合いをつけていく。

そして試練の道は続く。

 

また明日。

 

参考書籍 :