欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

過去の残像とエネルギー 回顧と内省

前日に少し出掛け、今日はゆっくりと過ごしている。休養の日としているけれど、暇に過ごしている。やることが立て込めばきつくなってしまうため、バランスを取る日は必要だ。今日はそのような日でもある。

落ち着いた日ではある。とはいえ、やはり暇になっている。退屈しすぎるのも良くない。適度に活動しなければならない。休みは中一日くらいで良い。今日はやることがない。

 

今は、マイナスの水準をゼロに引き上げる段階だ。無理をしなくても良いけれど、多少はエネルギーがある。それをどこかへ向けたい。そう思っているのだから、そうしなければならないのだろう。

エネルギーにやり場がなければ、それはフラストレーションを生む。やがて内面での長引く刺激となり、ストレスになってしまう。

 

ソーシャルな場は、あるのはある。ただ、病的な時にその場へ行っても意味はあるのか?身体の限度はあり、それを上回ってしまう可能性が高い。

でも、その考えを却下すれば、全く選択肢がなくなる。そうなれば、一体どこに切っ掛けがあるのだろう。それがわからない。

社会との接点が得られず、切っ掛けがない日々。

昨日は、親と車で30分程の所へ出掛けた。2時間ほどの外出。今はそのくらいが丁度良い。それは体力的な限度でもあるけれど、そのように考えなくても良い。この水準であっても十分な進歩はある。それを感じていた。帰りの車中では、母親が嬉しそうに「充実した」と言っていた。

 

最近の事ではあるけれど、少し前までは体調がとても悪かった。そのなかで必死に日々を生きようとした結果、余裕が失われていた。何とか落ち着いて過ごそうと試みたけれど、それは誤ったものばかりだった。親に負担を掛けていた。一人で居たがったり、近寄ってほしくない雰囲気を出していた。

それは疲れているというメッセージで、一人で過ごしたいということだった。後から振り返れば解るけれど、その時は解らなかった。振り返ればそういった真意があったのだった。

 

ずっと自分の不調について理解できなかった。自分でも解らないし、他の人も到底解らなかった。もちろん、親に相談をしても何も得られなかった。「罹りつけのドクターへ相談しなさい」とか、「またちゃんと相談しよう」という一点張りに終始していた。

それが辛かったために、全てを閉ざし、遮断して何とか踏ん張ろうとしていた。それが前述の行動に繋がっていった。

 

それが限界を迎え始めた頃、新しいクリニックへ罹るという時に両親とぶつかった。自分は、そこで泣きながら話をした。親はこう言った。

「家族なんだから話をしてほしい。好きな物も買うし、行きたい場所へも連れていくよ。だって親だから。母さんと出掛けている間、一人で死んでいたらおかしいでしょ? それは嫌だから」

父親と話していて、そのうち母親もその場にやってきた。自分は嗚咽のなかで、どうしようもならない呪縛についての事や、ありのままの感情と感覚を伝えた。

しばらくして打ち解けた後、それまで集めていたHSPの情報を詳しく知るため、アーロン博士の著書を通販で買ってもらった。

 

そこから少しづつ事態は変わりだした。歯車が噛み合ってきた。その後、新しい病院へ通い出し、今は丁寧な先生に助けられている。とても有難い。

少しでもタイミングがずれていれば、すべてがどうにかなっていたのかもしれない。何とかタイミングが繋ぎ合わさったのだと思う。

今もきついのはあるけれど、以前より格段に変わっている。見えない面で進歩しているの。きっとそうだ。そう思っている。

出掛けた際、以前通っていたフリースクールの近くを通った。そこでかつて通っていた時のことを思い出した。そこはやはり刺激が多く、通い続けるなかで体調が乱れていった。やがて一時的に神経が高ぶり、そこでまた痛手を被ってしまった。

自分は何年もそうした解決を試みていた。でも、それは誤った努力の仕方だった。歪んだ行いは身体に現れ、最後は駄目になってしまうのだった。学校も何もかも、外の世界との交わりは、とことんつまずいてしまった。

これからは、自分の唯一無二の人生を切り開けば良い。そうしたいし、そうするしない。その決心は付いている。闇雲に努力する必要はない。やるべき事を定め、それに従えば良い。

そのためにも勉強することだ。絶えず学ぶこと。HSPの気づきを経て認識が変わった。

 

十年ほど前に周りと枝分かれをし、今までに色々あった。平気でいられた年もあったし、入院した年もあった。快復してフリースクールに通っていた時もあり、生活も体調も酷かった時もあった。我慢の限界の際と、そこから現れた切っ掛け。そこからの選択、そこからの変化。

すべてが今の日々に繋がっている。今までなんとか生きてきた。ただ、それはまだ続いていくのだろう。そんな気がする。ここから峠に入っていくかもしれない。

正念場だ。まだまだ始まったばかりだ。そう思う。きっとそうだ。忍耐と鍛練。あと少し。

対人的な初歩のステップを踏んでいきたい。そのための場所はないだろうか。今の状態から始められる場所がほしい。

今の時代であれば、在宅で仕事をすることが出来るかもしれない。でも、それだけで人生は完結しないだろう。対人関係やコミュニティとの関係は切り離せないはず。それは切り離したくないし、やがて必要となってくるだろう。いつかは誰かと交わりたいし、その行動こそが快適な日々を創る。それは必要なものだ。

そこから逃れたくはない。自分は幸せになりたい。

 

生者の内に自分の魂を弔うこと。満足してこの世を去ること。亡くなってしまえば、全てが無になってしまうだろう。それを考えると、生者の内に無念を感じることが一番辛い。亡くなった魂は無に帰るとすれば、どれだけ周りの人に供養されても、生者の内の魂は満たされない。一番は、生きている内に満足すること。そうやってこの世を去ること。

この世に生まれた以上、全てを受け容れ、楽しむ他無い。生があるのなら、誰しも幸せを望むはず。それを得るしかない。生きている内に、それを全力で得ようとすること。

可能なら、充実した人生を振り返り、そうやってこの世から押し出されていきたい。

日々忍耐。

 

また明日。

 

参考書籍 :