欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

身体のサインと慢性的な周期 持続するセンシティブさ

今日は雨が降っている。薄い灰色の雲に包まれた外の世界。窓越しに覗く外側。着込んだ身体と暖かい部屋。ストーブの匂いがする。一喜一憂してしまう出来事と、体調のリズム。段々と通院の日が近くなってきた。

 

先月は、通院の前に身体のことでセンシティブになってしまった。それによって体調が停滞した。それは今月にも繋がっているけれど、今は少し認識が変わっている。段々と違う対処が出来つつある。このままのペースで受診の日を迎えたい。病院は、変わらずセンシティブになってしまう要素だ。

通院やドクターとの出来事は、ひとつのトラウマになっている。それと現在の出来事が重なり、怖い妄想のようなものが浮かんでしまう。それは"体調が良くなければ悪いことが起こるのだ"という痛手から得た教訓があるから。個人的な感情においても、身内の感情においても、身体にまつわる刺激を敏感に受け取ってしまう。

病院では、ドクターから客観的に進捗を判断される。それに良いも悪いもないし、酷いことを言われはしないだろうけれど、やはり怖い。自信を持って上向いた状態を伝えたい。そのため、平気でいられるように頑張ってしまう。

それが先月のことだ。無理をしてしまい、抑圧が生まれてしまった。それは好ましくなく、的を射ていない頑張り方だった。それで身体のリズムが崩れてしまっていた。こういうことが何年も繰り返されている。

 

本質的に抜本的改善を試みなければいけない。そうしなければ変わらない。ただ、そうやって獲得したい拠り所や、進捗の成果がほとんどない。そのため、自分の存続を保つために、好ましくない思考をつくってしまう。

身体を上向かせようという思考だ。それが無理のしすぎに繋がってしまう。それが依然として呪縛になり、隙あれば顔を出してくる。

過去の苦しい感触や、その時の痛手が刻まれているため、同じことを繰り返さないようにしてしまう。親やドクターは、自分が思うような害意は持っていないだろうとは思う。でも、他の人が否定的に酷評してくるのではないかと怯えてしまう。それはやはり、過去の出来事を繰り返したくないからだ。

少しでも体調が滞ると、辛かった時の感触が蘇える。それが思い起こされるような言動が浮かんでくる。痛手からくる抑圧もあるし、事実を捉える感覚にエネルギーが向かわないという事もある。

人を喜ばせたい気持ちや、安心させたいという気持ちが厄介だ。体調が悪い時は、それがより働いてしまう。その状態を周囲に感じられたくないし、良い時は好調を加速させようとしてしまう。それにより、本来のナチュラルな感情は水面下に押し込まれてしまう。

日々の食事やルーティーン、体調の水準など、これらが常にセンシティブさとリンクし、自分の内側から生まれる刺激となる。すると慢性的に疲弊してしまう。体調のセンシティブさと抑圧。日常と体調。日常とHSS。

複雑なセンシティブさがあり、フィジカルの事ばかり気にしてしまう。それは人の感情とセンシティブさが反応してしまうためだ。

それが抑圧の引き金となってしまう。ナチュラルなペースをないがしろにしてしまい、無理のしすぎに陥る。そこから体調が乱れると、また更に体調についての情報が生まれ、その刺激が大きな波になって押し寄せてくる。病的にセンシティブになり、やがて見えない何かに押し潰されていく。

 

HSPのセンシティブさは、人によって程度の差があるという。二次的な問題の有無も、それまた人それぞれなのだろう。自分は、身体のケアに意識が向きすぎていることと、緩衝地帯が作れないことがネックになっている。

四六時中刺激は生まれる。それを常に受け取ってしまい、慢性的に神経が高ぶる。ノイローゼだ。こうなれば、身体がふくよかになることはない。終始誰かの監視下で生きているようなもので、健康からは遠のいてしまう。ストレスからは解放されなければならないのだ。

最近は、捉え直しによって原因の輪郭が見えつつある。ただ、結局は一喜一憂に陥り、不安定な周期をつくってしまう。

フィードバックをし続けることだ。外側から得た認知を、自分の生活に照らし合わせていくこと。常に勉強をし、考えること。そうやって解決策を見出だしていく。飽くまでHSPは概念の定義付けだ。

大事なのは、それを生活にどう取り入れるかだろう。どのように豊か生きていくかだ。その道のりと手段を知ること。汎用濫用されないでほしいけれど、詳細を知らなければならない当事者にとっては大事な認知だ。

 

自分でこういったことを勉強し、学び、自分の力で治していかないといけない。少なくとも、自分はそう痛感した。

HSPの概念は、医療ではどう取り入れられていくのだろうか。いや、そもそも取り入れられるのだろうか?教育はどうだろう?家庭ではどうなる?

 

抜本的に変われず、低調な日々が続く。悔しい。まだまだ忍耐の頃なのだろうか。

緩衝地帯を設け、一人の時間が常にあるところで過ごすこと。恐らくは、そうすれば自分のペースを掴める。そのなかで好きに食べ、好きに寝る。それが大切だ。

するとHSSによる刺激が生まれるだろうけれど、取り敢えずは病的な身体レベルを脱することが大切だ。その前提がまずは必要。それがあれば活動することが出来る。そこからすべてを始められる。

複雑なセンシティブさと、そこからくる更なる複雑さ。それが二層三層に覆い被さっている。

努力するしかない。

 

また明日。

 

参考書籍 :