欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

身体の水準とセンシティブさ ナチュラルにいられる日

今日は快晴だ。晴れはやはり良い。光と青い空の色。陰っていた日が差した時、部屋が明るくなる瞬間が分かる。これだけでも心に光が差す。重要な平穏を保つ要素だ。

休日と晴れと体調の水準。身体が軽くなれば、何でも素晴らしいものに見える。

今日はそこそこな塩梅の日。外へ出たいけれど、身体についての過保護さが少しある。元気があり余っているという訳ではない。その時その時の気分で外へ出れば良いけれど、"身体が悪くならないように"という思考によってためらってしまう。

いかんせん体重が増えない。何年も何年も増えない。先日の病院では、外へ出る方が良いと教えてもらった。でも、まだすぐ身体に障る水準だ。体力がまったくない。それがあり、ためらいが生まれる。

 

体力などの体調全般と、困難なセンシティブさがリンクしてしまう。エネルギーは絶えず使われていき、供給量とは釣り合わなくなりがちだ。そういった事を考えて神経をすり減らしていると、内側で生まれる刺激にもなってしまう。慢性的に神経を高ぶらせ、日々疲弊してしまう。

痩せていて恥ずかしいし、なんせ力がない。体力も社会的な部分も、自分には何もない。悔しいし、苦しい。そこを脱却したいという気持ちがずっとある。

気楽に考えていられないときは、それが絶えず頭をよぎる。そうなると、また病的な水準に下がっていく。

 

かれこれ一番初めにつまずいたのは、外的なセンシティブさが学校の場面で働いた時。そこで外傷を負った後は、学校の敷地外の不登校学級へ通うことになった。でも、そこでもずっと余裕がなかった。自分はそこで、不適切な言動ばかりしてしまっていた。

知能検査をさせられたりした。周囲は色々な手段で自分を理解しようとした。でも、自分について解ってくれる人は誰もいなかった。発達障害について考えられていたのだと思う。

そんな事がありつつ、身体はずるずるときつくなり、やがて入院することになった。いや、半ば入院させられた。

こういった原体験があり、何年経っても頭から消えない。それが由々しき状態を生んでいる。呪縛のように染み付いていて、それが意識に現れてくる。

最近は穏やかに過ごしている方だけれど、無意識下で抑圧をしてしまっている。そのトリガーは、親や周りの感情だ。かつて体調が悪かったことにより、恥ずかしさや苦しみなどが生まれてしまった。そういったことを繰り返さないために、体調にまつわる情報をセンシティブに感じ取ってしまう。

二次的なセンシティブさ。それがあり、そこに親が立ちはだかる。ドクターにもそれがあるけれど、日々密接に過ごしているのは親だ。親が一番のネックになっている。

寝るのにも起きるにも、常に親の感情がちらつく。ご飯を食べる時も親だ。それが浮かび、好調を維持しようと踏ん張ってしまう。親を喜ばせ、それによって自分も安全を得ようとしている。

どうにも緩衝地帯が作れない。それがあれば、もう少し快適でいられるのだろう。

 

センシティブパーソンであっても、余裕があれば刺激に耐えうることは出来る。でも、余裕がなければ無神経にもなる。すぐに限度を超えてしまいがちだ。

余裕がなくなった時が問題。食事の場合では、食べる時に誰かが居ればゆっくり食べられなくなる。無理して食べたり、急いで食べたりする。そうなると胃が気持ちよく膨らまず、すぐに満腹になってしまう。

病的な少食で、消費量に見合う食事量ではなくなる。そして痩せていく。

 

息をするだけで痩せていくような感覚だ。気を抜けば痩せていく。

こういったことについて深く考えすぎると、どんどん悪循環にはまっていく。またも身体を上向かせようとして無理をしてしまう。四六時中身体のことが頭に浮かび、離れなくなる。センシティブループだ。身体の水準にまつわることの情報が、大波のように押し寄せてくる。そしてナイーブになり、病的に痩せては無理をしていく。

 

この原因がずっと解らなかった。狂っているとしか思えなかった。

でも、そのなかでHSPの概念を知り、少しづつ良くなっている。間一髪で良くなりだした。この認知を得られて良かった。現代に生まれなかったら大変だった。アーロン博士のいる時代で良かった。インターネットがあって良かった。

でも、「もう少し早く知る事が出来たら」とも思う。

大事なことは、内なる声を聴くこと。それをきちんと受け取り、好ましく扱うこと。

時には刺激に慣れるために踏み出すこと。外へ出る際に「痛い思いをしたから嫌だ」という声があっても、その裏側には外へ出ていきたいという声もある。それらの中間に立ち、意識の理知的な面によって好ましく対処すること。意識が理知的に後押しをすれば良い。

それが一番だ。HSPという定義を理解し、それを踏まえ、現実と照らし合わせてフィードバックすること。

 

抑圧された声の意識化。それが出来たら良い。内なる声は複雑で、たくさんある。その他にも、周囲の感情によってもたらされる声もある。人を喜ばせようとか、満足させようしがちな声だ。それらは不純物であり、やはり自分のことを優先しなければならない。

人を助けるために、自分を助けること。ありのままの声を受け止めることだ。そうやってあるべき認識を持ち、折り合いを作っていく。その段階に進んだ時、やっと自分の道を進めるのだろう。

朝からいくつの声を無視していただろう。取り敢えずやり過ごすしたい。それだけでも十分だ。些末なことで苦しんでいる時が大半。苦しみの渦中ではそう思えないけれど、振り返ればそう思えたりする。

一旦休み、苦しみの原因を突き止めることだ。自分についてや、その周りのことについて知ること。

過去の自分に報いるように生きよう。自分へ。自分より。

 

また明日。

 

参考書籍 :