欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

本来の自分とのずれ 水面下に押し込まれた気質

最近は、だんだんとセンシティブなループから抜け出している気がする。でも、生活が抜本的に変わっていくことはない。どこか宙ぶらりんな毎日が続く。何かに励みたいけれど、やはり身体が上向かないと始まらない。文を書くにも、本を読むにもはかどらない。それがある。

その一点はプレッシャーになっていないと思うけれど、日々の失敗の中で、やはり身体について気になってしまう。それが常にあるのだと思う。

一日の中でやりたいことが浮かんだり、HSS(刺激追求)の意欲が湧いてくるのならば、それは好調の証しだ。最近はそれがある。それを感じている。それがフラストレーションに繋がることはあるけれど、身体が絶好調ではない分、そのストレスはまだ弱い方だ。

身体や生活についてセンシティブになり、どんどんそれが鋭くなることは少なくなっている。このように日々の捉え直しをしていると、「この考えは好ましくない方面へ向かっているな」と思えたりする。良くない認識に覆われないように、捉え直しによって思い付いた認識を、意識へ引き上げられつつある。

表層の意識はそこまでセンシティブではない。冷静でいられていると思う。でも、生活の好転はない。その不満は停滞を生むため、何とか工夫をしていきたい。

 

それでも、以前はこういった流れから悪循環に陥りがちだった。そう考えると、少しの進歩を感じられる。

以前の日常では、快適にいられる状態が極端に狭かった。自分で劣悪な環境を作ってしまっていた。常に刺激追求の意欲があり、絶えずストレスがあった。フラストレーションが内なる刺激となり、外側へと感情が持ち出されたりもして、本来の自分のリズムが乱れてしまっていた。

「この状況を脱したい。楽になりたい」と、ずっとそう思っていた。本質的な原因が解らなかった時は、取りあえず抑圧をするしかなかった。それは苦しみから脱却しようとした、自分なりの頑張りだった。

 

「体調が良くならないと話にならないのだ」と思い続けていた。家族に対して穏やかに接したかったけれど、それまでの不信もあって遮断しがちだった。個人の努力で何とかしようと試みていた。

身体へ無理を強いて、何とか乗り越えようと踏ん張っていた。そうやって自分も周りも助けようとしていたのだった。それが無理のしすぎに繋がっていた。

そういった認知認識があった為に、本来の自分のニーズやありのままの感情は、水面下に封じ込められていった。言いたいことを伝えられなくなっていた。周りの環境や、自分が作り出す意識により、本来の自分から遠ざかってしまった。

 

今は周囲の環境を変えられつつある。自分が親を責めたのなら、親は完璧な養育者とはいえないのかもしれない。でも、親は自分の事を全否定したりはしない。今もそうだ。ずっと変わらない。良くも悪くも、ずっと見放さず養育してくれている。それが一番有り難く、運の良いことだった。

HSPの認知を得てから変わっていった。そこから作り出した認識により、家の中にいても、「この家は劣悪だ」と思うことがなくなっていった。

今でも抑圧の癖は有り続けているけれど、十分リラックス出来るようになっている。

時の流は早い。気が付けば、未来として描いたものが現実になっている。

今年は少し改善のみられた年ではある。いつかは満足の出来る日が来るのだろうか。それは自分で手繰り寄せなければいけないけれど、どうなのだろう。自分に付いて回る課された物事は、何かに昇華させる事が出来るのか。

 

病的な段階をクリアすることが出来ても、また一から人生を始めなければならないのだろう。ただゼロへ戻るだけだ。振り出しに立っただけ。

自分なりに取捨選択しないといけない。学校に通うような事とか、人との関わりなどについて新しく触れ、学び、自分なりの生き方を切り開かないといけない。

自分なりの癒し方、問題が発生していた時にはなかった素質を獲得すること。そうやって生きていかないと、また困難が降りかかる。

今年が転換点ならば、つまずきから十年の期間があった。そこから自分なりのマニュアルを作り、カリキュラムを得る。そしてそれを実際に学んでいく。何が必要で、何を避けるべきか。何からは逃れずに向き合うべかを知り、切り開いていくこと。

その認識は、考える時間がある今に生み出すものだろう。そう信じて頭を捻り続けよう。そうしている現状に進捗を見いだそう。

 

修練です。

 

参考文献: