欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

心の不養生と抑圧 折り合いのその先

身体の水準が落ちている時の抑圧は、段々と理解が進んでいると思う。でも、根底にある抑圧の癖は抜けていない。

日々の中で不都合な事があれば、奥底へ自分の感情が封じ込められてしまう。それは身近な人の感情が引き金となってしまうため、それが難儀なところだ。

 

感情型の人間は、個人的な経験や、大切に思う人にとって良いことかどうかで物事を判断する。そのような自分は、感情を外側で使ってしまいがちだ。日々の過ごし方についての判断を、周囲を喜ばせられるものか?などと考えてしまう。

いわゆる「自分軸」とか、「他人軸」と呼ばれるようなものだ。普段から他人軸で生きてしまう。これは感情を察知する事に長けているということだし、対人関係などにはプラスにも働くだろう。それは十分何かに生かせるものだ。

でも、他人軸として使われ、それに好ましくなく使われていけば、いずれはどこかで歪みが現れてしまう。自分はこれが強く現れている。病的に現れているし、二次的、三次的なセンシティブさがある。複雑な辛さがずっとある。

 

体調を気にしすぎるという呪縛、体調至上思考。それは近しい人から与えられた自分の生き方。生き延び方だ。困難が降りかかるなかでは、自分は抑圧をして立て直そうとしていた。それは今もそうだ。

元来ある特質と、過去の痛手。そこを掻い潜ろうとする自分の生存戦略。生き方次第での苦しみから、トラウマや不信からくる二次的な苦しみ。入院や誤解。

体調さえ良ければ。入院させられた時、自分は苦しい思いをした。それがあり、身体に対して丁寧に接するのではなく、「無理をするしかないのだ」というプレッシャー思考が生まれてしまった。「身体さえ元気であれば不自由は起こらないのだ」と、そう感じていた。

そのように自分の中で揺れ動いた。それがずっとある。その思考は未だに抜けていない。

体調にまつわることはたくさんある。生活のリズムや生活水準、食事など、身体は生活の一番の原資だ。その思考が色々な抑圧の種になる。

「食べなきゃ」  「起きなきゃ」 「 寝なきゃ」

それを思ってしまうのには、あるトリガーがあるから。他者の感情であり、それは親の感情だ。それがあることにより、自分の内なる声が搔き消されていく。

特に自分は、HSS(=新奇追求)の意欲もある。これがあると、日々新しいことに触れたくなる。そして変わり映えのない日々を過ごせば、フラストレーション感じてしまう。それが内的な神経の高ぶりを引き起こし、ストレスとなってしまう。

 

そういった苦しみから脱却したいという気持ちが強くある。でも、それは一朝一夕には満たされない。そこで何とかフラストレーション晴らそうとし、ありのままの声を抑圧してしまう。

そうやって辛い状態から抜け出そうとしている。足りない要素を補おうと、誤った努力をしている。身体を上向かせようと鞭を打ってしまう。

身近な近しい人へ感情が持ち出されると、無理のしすぎへと繋がっていく。頑張って食事を摂ったり、無理に活動したりしてしまう。安心安全が失われている場合、そうやって存続を確かにしようとしてしまう。

そこへ至らないためには、周囲との緩衝地帯設けたり、心の養生がする事が必要になってくる。

 

人と会うこと、話すこと、外へ出ること。それと同じ時間一人になり、バラスを取ること。コアな欲求やニーズを、意識の段階へ引き上げること。それを叶えること。

抑圧の蓋はすぐ外れていくから、そうならずに事を進めていけたら良い。

何気ない日々に幸せを見つけたいけれど、それはなかなか難しい。進捗がない時にどうやって気持ちを満たせば良いのだろう。難しい。心の養生の意味はここにある。

その日その日で充実感があれば良いけれど、今の日々に成果や刺激ない。満足ができず、空虚に日々を過ごしたと感じてしまう。そういった場合にも、強いフラストレーションが募ってしまう。

 

何気ない日々にも充足があれば良い。本を読んだり、音楽を聴いたり、散歩をして綺麗な景色を見たりすること。そういったことに満足があれば良い。

でも、それはなかなか難しい。一番は身体が元気になることだ。それが大きな自信となる。いや、そう思ってしまう。自分はそれを渇望し続けている。それが大きい。それを満たすことが一番の事だ。

でも、そこに強く依存しては駄目だ。目指して得られるものではない。それは抑圧の元になってしまう。

そうならないようには、本質的な養生をすること。刺激を得るなどし、フラストレーションやストレスを減らすことだ。

確実に調子が良くなる過程を拠り所にしたい。脆い認識の立脚点を生まないこと。

 

「体調が良ければ何でも出来る」そう思ってしまう。それが無ければ何にも出来ないのだ。すべての原資であるのは確かだ。

それがあれば、気分も生活も上向いてくる。本も、音楽も、景色も、すべて素晴らしいものに見えるだろう。そこへ届けば何とでもなる。

その理想と、鳴かず飛ばずの現実。身体を上向かせたいという気持ちが、幾度となく抑圧を許してしまう。良い時も悪い時も、身体を底上げしようと無理をしてしまう。これがなんとも悔しい。その引き金が家族となのもだ。

着実に身体を上向かせ、適切な好ましい刺激を得ること。外の世界へ踏み出すことだ。その内的な仕事を完遂させ、内と外のバランスがとれた時、ようやく「普通」に近付くのだろう。

感情に、家族に振り回される因果な性分。傷つけられて助けられて。避けたくなって避けきれなくて。

でも、良くも悪くも自分だ。これで生きていくしかない。これがありのままの自分。他の誰の何でもなく、取っ替えたくもなく、これが自分だ。「この性分で生まれて良かった」「またこの自分で生まれ変わりたい」そう思えるようになるしかない。それが唯一の幸せの実感。そう思い続けられるような日々へと進むしかない。

 

いつか時がくる。時機が来る。天が味方をする。そう思えるような切っ掛けは現れる。自分がそれを求めて目指し、歩めば辿り着ける。全ては自分次第だ。

この世界に感謝できる人間になりたい。感を謝しながら最後を迎え、この世界から押し出されていきたい。

 

また明日。

 

参考文献: