体調はそこそこな塩梅だ。それなりに過ごすことが出来れば、それだけで良い方だろう。それで良い。それが良い。無理して生きていくのはもう良いだろう。
タフネスパーソンのようには生きてはいけない。だかは、身の丈に合う日々を創れば良い。それを創るしかない。
世の中の仕事には殆ど触れていないけれど、やたらタフな人はたくさんいると思う。ドクターや看護師の方々はそうだった。自分も同じようにその仕事をすれば、すぐに身体がおかしくなる。そのなかで、その仕事を楽しめる人すら居るのだろう。
もう、そういった適任の人にやってもらえば良い。その役割に喜びを感じているのであれば、尚更そういう方にその役を全うしてほしい。その人たちに社会を回してもらおう。
その代わり、そういった性格を持ち合わせていない人間は、別の立場で社会の歯車になること。そうやって努めること。
自分は自分の生き方で良い。自分に必要な役は何かあるはず。その役で役に立とう。
自分に必要なことは、自分に与えても良い。そう自分へ許す。その分、自分なりに努力する。出来ることをやろう。
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自分はとにかく神経が高ぶりやすい。長期的に刺激を受け取りがちだ。すぐに神経が尖り、それはストレスや疲労へと繋がっていく。これが慢性的に続いていくから厄介だ。
まずはネックとなる部分を改善することだ。その作業が必要になってくる。特質として活かしていくのは、まだ少し後だろう。
元来ある性質として、そもそも刺激を受けやすい。そして大体は体調が悪い。悪い中でたまに良い日があるくらい。胃腸へも影響を受けやすいし、二次的、三次的に身体応えやすい。そのなかに、病的な困難を生むセンシティブさがある。
そこをまず捉え直すことだ。それを改善して気楽にいられるようになること。その後に細かな刺激を受けないようにしていく。そして日々心の養生をする。一人で過ごしたり、遊んで心に触れたりする。身の丈にあった日々を創り、過ごしていく。それが大事。
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食事、睡眠、運動、対外活動、これらの絶妙な塩梅を整えること。そうしないと身体の調子は上向かない。快適に居られる幅は狭く、タフネスパーソンよりも狭い。だから、きちんと意識して折り合いを付けないといけない。そうしないと歪みが現れる。
これは日々ずっとあることで、些細なことで身体が揺れ動いてしまう。なかなか難しいことだ。
睡眠の質も揺れ動きやすい。夜の食事の摂り方で影響が出たり、体温や体勢、騒音などで起きたりしてしまう。日頃の慢性的なストレスや、身体を動かしている否かもある。
食事は自分の一番のネックがある。無理のしすぎだ。すぐに抑圧の入り口に立ってしまう。そうなってしまうトリガーは常にある。
運動と外での活動は、身体の調子と密接に関わっている。そのネックに加え、本来の外側でのセンシティブさがある。巣籠もりが続けば刺激に対して脆くなり、世の中が未知なもので溢れていく。二次的なセンシティブさだ。また厄介なものが増えてしまっている。
そして感情タイプとしての願望、HSSによる衝動もある。それらを満たさなければ強いフラストレーションとなり、内側で生まれる刺激になる。
それを満たしたいと強く思っているけれど、それを阻む過保護な自分もいる。過去に嫌なことがあったため、苦しいことを避けようとする気持ちが生まれてしまう。これにより、フラストレーションをぐつぐつと募らせてしまう。
これが内側での長引く刺激となり、敏感が故に刺激として受け取ってしまう。すると慢性的に疲弊してしまう。
少しずつ刺激に慣れることだ。そのステップを踏んでいく必要がある。それ行える場所に行ったり、人と会うこと。それはそれなりに体力がある今に行いたい。その局面には入っているのだろう。
内省による糧と、外から得られる栄養。これを確かにしていける場所があれば良い。でも、それはなかなか難しい。
これらの細かな要素がある。難儀な日々。いつか大きなリターンがあったとしても、日々厄介な事は多いだろう。
でも、これで良い。これで生きていく。そうやって生きていくしかない。未来はすべて自分次第。
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外へ出て行く必要はあるけれど、生活の為の別の要素としては、外へ出ない方が賢明こともある。刺激を受けすぎてはいけない。その限度はあるだろう。
身の丈に合った人生でなければならない。それは生活の大事な糧だ。その基盤はどこで得ようか。
HSPは、クリエイティブの才覚があるよう。自分はその線の人間だろうか。一体何があるのだろう。何に適性があるのだろう。
外へ出ていく必要性と、感情型としての人間。その中にあるやりたいこと、好きなこと。情熱のあることと、在りたいところ。どこに価値があるパーソナリティーなのだろうか。
人の役に立つこと。取りあえずこの文を継続しよう。それで良い。自分の為に書こう。過程が大事。
物作りは恐らく、人にどれくらい認知されるかの勝負だ。認知の母数次第だろう。それがなければ話にならない。でも、それさえあれば話になる。認知と価値。本当の価値。
なんてね思ってた。嫉妬です。深く感じてくれる人に届けば一番良い。それが良い。それが一番。それが叶うまでやり続けること。価値を生むための作業。ああ、大変だな。自分が創る唯一無二の価値、需要。
でも、誰かに読んでほしい。同じ感覚で、暗闇の中を足掻いている人に届けたい。その人を直接救う事は無理だとしても、何かの要素として届けば良い。奥深くへ浸透して、その人のフィードバックになれば良い。その一助になりたい。その気持ちで、自分のフィードバックを奥深くまで堀続けている。
「他の人とは過剰に違うのだ」という大きな劣等感。でも、その裏返しで、「自分は良くも人と違うのだ」とも思えてくる。臆病な自尊心、尊大な羞恥心。だからこうやって記し始めた。
そういう価値はあるのだろうか。やり続ける意味はあるのだろうか。
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自分の好きな表現と、その中の自己形成。そして在りたいところ、情熱を傾けたいところ。人の心に携わりたい。
大切なことはすぐには現れないですね。目にも視えない。日々精進。
また明日。
参考文献: