欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

身体の原資を得られるまで 身の丈に合う水準

今日も快晴。厚着した身体で散歩へ行く。風がなく、日陰に居た方が快適なくらいだった。小春日和を越え、もはや春だった。命の終焉はどこへいったのだろう。

いつもと同じ散策路を歩く。元気が有り余っている訳ではないけれど、十分外へ出たくなるような水準だ。大体二十分くらいの散策。もう少し身体が上向ば、気持ち良く帰宅して過ごせるはず。今は軌道に乗せるための散歩。こうやって身体が付いてくれば良い。

 

家に籠りきりの頃、その時に夢に出てきた場所を歩いている。近所のよく通る道。図書館があったり、公園や同級生の家があったりする。

その家に近づこうとしたけれど、結局自分が遮ってしまった夢を見ていた。そこを実際に通る時、そのことが浮かんでいた。やはり皆に会いたくなった。会って話をしたい。そう思った。そのことはやり残したくない。その悔いだけは残したくない。

近所でだったり、図書館の中で実際に会ったりしたことはある。でも、その時は怯えてばかりだった。その時も遮断し続けてしまっていた。学校へ行けなくなった当初から、ずっとそうしてしまっていた。

数年前には実際に話をしたり、最近会った時にも相手から話かけてくれたりした。そこで少し話をした。でも、自分はやはり癖が抜けておらず、回避的な態度でいてしまった。それがあり、そこから進展はなかった。それをずっと悔やんでいる。

 

今はきちんと向き合い、過去の事を清算したいと思っている。皆と交流を取り戻したい。向こうは自分の事を忘れずにいてくれたのだ。また機会があるのなら、それに応えるようにしていきたい。

でも、通例の人生のステップのなかで、周りはそれぞれの方向に歩き出している。もう周りとは遠くなりつつある。誰かと交わる切っ掛けがない。自分は求めているけれど、一向に現れない。そこがもどかしいところ。

身体はまだまだな塩梅。食事量が上向かないと、変わらない事がやっぱりある。ただ、それを気にしすぎると抑圧に傾く。過程が大事だけれど、なかなか難しいものはある。

今の年代や身長、栄養不良による生理的反応、そして食事の絶対量。食事が滞る困難なところと、慢性的な刺激の感受。そして溜まりやすい疲労。それらのバランスがあるなかで、今の身体はある。

微妙に均衡は保たれつつも、やはり病的な水準にいる。やはり食事量だろう。もっと摂れたら良いのは確かだ。

 

なるべく疲労の種は消していくことだ。ベーシックな要素を生活に足し、土台を造る。センシティブさを緩めていき、心地よく食事を摂る。そしてある程度の体力をつける。そこから身体が上向くように要素を足していく。

運動、食事、睡眠、対外活動。これらが噛み合えば良い。その好ましい過程を経て、あとほんの少し上向けば良い。そうやっていけば、何でも出来るだろう。

 

自分は疲れやすいし、刺激によってセンシティブになりがちだ。ネックはたくさんある。それに足を取られないように日々の土台を造り、その上に健康を創る。

自分の身の丈に合う日々が創れたら良い。それで良い。タフネスパーソンのようにはなれなくて良い。だから、あとほんの少し上向いてくれたら良い。それが望み。

今はセンシティブさが緩みつつある。後はHSSの意欲が満たされることだ。それがあれば上向くと思うけれど、どうなのだろう。バランスを整えることは難しい。

でも、着実に進んできている。日々の捉え直しによって反省点を拾っている。大切なフィードバックは出来ているはず。病院が近づいているけれど、かなり良い感触がある。日々に進歩はある。

夏頃は新しく病院へ罹り、そこで気分が上向いて調子づいたため、上手く要素が噛み合った。良い時は大抵そうだ。気楽に考えられると、抑圧をせずに乗り越えられる。

 

絶えず苦しいことはない。終わりはある。何かの切っ掛けはある。それは苦しいものでも、自分が生み出したものでもだ。進展はある。そう思う。

今は生き方全体を考えている時。人生の土台を強固にする時。そしてそれが完成した後も、そこから築くべきものがあるのだろう。それは生涯を通して取り組むもので、一朝一夕には変わらないこともある。

でも、大切なことは醸成されてあるはずだ。そう信じよう。

今日も終わりゆく。

また明日。

 

参考文献: