欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

脆い拠り所を振り払える日 一喜一憂を拭えるまで

今日は晴れのち曇り。雲間から光が差したり、陰ったりしている。遠くの山並みの紅葉は、すっかり樹木から抜け落ちてしまった。黒っぽい山だ。色のない風景が広がっている。もう辺りは晩秋の頃。それでもまだ、本格的には雪の降らない頃。散歩をしてそう感じた。

最近は、センシティブになっている時は少ない。心穏やかに過ごせている。もちろんフラストレーションはあるけれど、少しづつ日々を積み重ねている。抑圧に至ることも少なくなっていて、このまま右肩上がりで進んでいけば良いと思っていた。

そのなかで、ほんのわずかに体重が上向いた。これが好調を生んでくれたら良いけれど、やはり一喜一憂しているのはある。この結果に依存したくはない。

日々の積み重ねにより、好ましく過程が伴っているのだとは思う。でも、やはり結果を重点的に見てしまう。それがあるために、抑圧へ陥りがちだ。好ましかった過程を経て、更に良いところへ辿るようにしてしまう。

そろそろ通院の日が近づいてくる。先月は、先々月の反省を活かして抑圧に至らないようにしていた。それを経て、今月もそれなりの結果でいられそう。特に重苦しい気持ちはない。そうやって病院が近付いてきている。ドクターに良い報告が出来そう。

先生は審判を下そうと診断はしないだろうけれど、個人的にそのような基準を設定してしまう。それは好ましくないのだけれど、ひとまずは安心が出来そう。

 

外向感情が周囲の感情やトラウマとリンクした場合、それを想起するような感覚を拾ってしまう。すると過剰にセンシティブになりがちだ。親の接し方やドクターとの出来事、これらは自分には刻まれている。DOESの特性としてのセンシティブさと、鋭敏さとは違う別個のセンシティブさ。痛手からくる感覚。それが抑圧に繋がる元だ。

身体とトラウマがリンクしている。日々の生活や、身体の内側からくる感覚をセンシティブに拾ってしまう。一喜一憂もこれから起こる。そうならないようにしたい。

 

刺激との緩衝地帯は、段々と完成しつつある。精神的に複雑なセンシティブさと、それらを周囲の感情とを合致させてしまうのがネックだった。そのなかで、今は穏やかに家族と接することが出来ている。見えない壁はなくなりつつある。不信からくる遮断が大きかったけれど、それが緩和されつつある。

「認知が変われば認識が変わる。認識が変われば意識が変わる。意識が変われば行動が変わる。行動が変われば日常が変わる。日常が変われば生活が変わる …」

こういった言い回しの言葉があったと思うけれど、自分に置き換えればこうなる。認知行動療法と呼ばれるものだと思う。好ましくない認知の歪みを直し、行動を変える。

こういうシンプルで地味な作業にこそ、根本的で重要な切っ掛けがあった。HSPの気付きを経て、少しづつ変化をしている。

日々つまずくことはあっても、そこからきちんと捉え直しをし、適宜修正をしていく。少しづつ切っ掛けを掴みつつある。

文を記したいという動機は、そこまで身体の調子が上向いていない時に湧く。でも今は、落ち込んだエネルギーによって記すよりも、「前向きにどうやって日々を創っていくか」という考えが浮かんでいる。

HSSの意欲によってやりたいことが浮かび、それを実践に移したいと思う時間が長くなっている。その意欲が出てくるのは好調の兆しだろう。良いサインが出ているのだと感じる。

それに加え、今は身体が上向きつつある。そこと上手く融合させていければ良い。

食事、運動、睡眠、対外活動、これらが噛み合う時はやってくるのだろうか。やはり、人と会うことが大きな栄養になると思う。活動して刺激を得たり、心の養生をすること。そして、それと同じバランスで内側と外側を整える。外へ出ることと、内に居ること。そうやって、身の丈にあった日々を構築すること。

そこへ辿るためのステップは踏みつつあると思う。頭を捻ることと、行動を好ましく変えていくこと。

このまま上向き続ければ良い。そんな欲が出てくる。

改めて日々努力。

 

また明日。

 

参考文献: