欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

在るべき所へ成りに辿る 命運を司るもの

昨日は病院へ行った。病院の行程は、午前のうちにすべて終了した。それはとても有難い。極端に混雑しないことは、とても助かっている。今の自分は、まだまだ刺激に脆い。スムーズに診察も終わり、負担はほとんどなかった。感謝感謝。

ただ、行く時にかなり緊張した。道中の車の中で、手汗と口の乾きに襲われた。生唾を飲み込み続けてしまい、吐き気もして少しパニックになった。かなり焦った。時々あるようなパニックの感覚に襲われていた。

病院へ付き、すぐさま問診票に記入することになったため、そこからリラックスできた。それはラッキーだった。ピークは車の中だった。緊張の対象とへ向かう直前に、緊張のピークがあった。到着すれば、すぐに楽になっていった。この流れは何度も経験しているけれど、今回も同じようになっていた。かなり緊張していた。

 

恐らくは先月の病院以来、ほとんど外へ出掛けなかったからだろう。実際は歩いたり、買い物へ連れて行ってもらったりしたけれど、人混みへ行くことはなかった。病院へ向かうくらいの時間で、病院以外の日に出掛けてはいなかった。

それが原因だろう。先月は出掛けていたけれど、今月は出掛けていなかった。それは自分でも予期せぬ事だった。

やはり外へ出ないといけない。これがある。刺激回避の人生設計では、いつか歪みが現れてくる。健康にもなれないし、在りたい願望も叶えられない。

まず実際に生きていけない。もちろん、あまりにも刺激を受けてしまうのも良くないけれど、隠とん生活をしても一向に解決しない。それは自己実現にも付いて回ること。向き合わないと。

先月から変わりなく過ごしていたので、診察は何事もなく終了した。体調のチェックとアドバイス。現実的なアドバイスを頂いて、とても有難い。

体重へは触れられなかったけれど、身体の事についてアドバイスをもらった。運動と活動の指針。食事は上向いてきたため、それで良かったのだと思う。後は自分次第なところだと思う。食事、運動、睡眠、活動、徐々に歯車は噛み合いつつある。自分なりに工夫してやっていければ良い。

 

家族と過ごす帰りの道中。以前までは、自分がこの時間を劣悪にしてしまっていた。病院で巻き起こる感情はたくさんあり、その都度家族に負担をかけてしまった。

でも、今は父親も母親も笑ってくれることが多い。自分もその輪の中に入っている。そのささやかな感触がある。現時点においても、親を安心させられつつあると思う。少なくとも、落ち着いたところを見せられているはず。これから立派になれたら良い。

大切なことはいつも同じ。やるべきことも同じ。最近の捉え直しで見えつつある。でも、まだまだな事もある。自分なりのマニュアル、カリキュラム作りの期間が続くのだろう。そう考えれば、まだ成果を得られる頃ではないのかもしれない。

やるべきことや向き合うべきこと、それらをきちんと知り、土台を造る期間。検証と反省の繰り返し。今はまだ、上手くいかないこともある。

 

運命の分かれ道があると思う。自分が何者なのかを知り、それを体現する未来か、あるいは何者になれるのかも解らず、早々に朽ち果てていく未来か。そのどちらかだと思う。

苦の種を撒き続け、それらを自らの意思で温めた結果、楽の実を生み続けるか未来か、あるいは全てが事切れてしまうのか。それらの分かれ道があると思う。

もがき続け、何か生きた証を得ようとするか、自己実現による確かな生を形にするか。そのどちらかだ。どちらかしかない。悲惨に終わるか、魂を自らで弔うか。

自分は後者の人生を生きていきたい。今はそれがあり、それが一番の夢だ。それを果たすまでやり抜きたい。自分で自分の命運を切り開き、歩んでいきたい。それがある。それが根底にあったために、絶望の淵でも耐える事が出来たはずだ。

過去に報いるために、恥のないようにやり抜きたい。それがどこかにずっとある。センシティブパーソンのやるべき仕事をやり通すこと。気構えは一丁前だ。

自分はどこへ行くのだろう。どこに辿り着くのだろうか。

自分は生かされている。そう思う。何の因果かがあるか分からないものの、見えない何かに生かされている。ひょんなことがあれば、とっくにこの世から押し出されていたかもしれない。そんな命だ。今であっても、この水準で生きていられることは奇跡に近い。

生まれてきたことも、辿る道筋も、運命というものもはすべて決まっているのだろうか?決められているのだろうか?

 

この世界を動かすのは、万物の理。自然の摂理であり、生物の理。そのなかで、結果には何かしら説明のつく原因がある。物事は、在るべきところへ成りに辿っている。そう思う。

では、そこに自由意思はあるのだろうか。そんなことを思う。最初から才覚も、思考も、環境も、すべては仕込まれているように思える。生まれてくる環境や、命の誕生における性質の決定も、サイコロを振って決められたことのように思える。その時すでに、人生の道筋は決められているようにも思える。

親の人生もそうで、元を辿れば何もかもがだ。それら外部による決定的要素があり、そのなかにちっぽけな意思決定がある。でも、その意思も万物の理、生物的な要素で生まれるとしたら、そこに意思はあるのか?

すべては最初から決まっていて、ヒトの意思は介入出来ないのでは?

宇宙の原初からすべては決まっていて、仕組まれていて、その揺るがしがたいことに倣い、時に流されていくことが、この世のすべてかもしれない。物理的因果決定論

なぜ生きる?なぜ死なぬ?いまこの瞬間も、大体の決まっていることも、すべては神が俯瞰して視ているのだろうか。あるいはこの世界の約束事を設定し、どこかへ去っていったのだろうか。

それぞれがストーリーを背負わされ、歩む、この人生は何なのだろう。すべては自分の手で選んで行けるのか?命運を人生を創っていけるのか?それとも、すべては個人の範疇を超えた空間で力が働いているのか?

 

自分のセンシティブパーソンとしての結果や原因、そして生物学的な考察を知って、これらのことからそんなことを思った。運命とは?人生とは?課されていることや、やらなければいけないこと。決まっていることと、動かしがたいこと。

人間は、スピリットは、何を辿る?成るべきところへ成りに辿るのか?自分は、あなたは、どこを辿り、何者に成り行くのだろう。どんな場所を辿り、どんな縁があるのだろうか。

すべては切り開くものか、それとも大きな動力がどこかで働いているのか。あるいは運に生かされ、運命が創られるのだろうか。

切っ掛けを求めれば変わる。これはどうだろう。どこにはまる?

幸せになれるのだろうか。ただそれがすべてのことです。

やるべきことも、またひとつ。

 

また明日。

 

参考書籍