欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

現実との兼ね合いと理想 在りたい願望

今日は体調が落ち着いている。夕べの食事、睡眠、今朝の食事、便通、これらが快適だった。それが揃えば快適にいられる。こういう日は意欲が湧いてくる。

そう朝から快適でいられるのに、やることがない。それが苦しい。意欲のはけ口がない。暇は大敵だ。何かにエネルギーを費やしたいのだけれど、それに向かわせるものがない。

それは健康のために用いたいけれど、抜本的に改善させるのはむずかしい。社交の場に出るのは大変だ。病的ではあるけれど元気ではいて、そんな水準で過ごすしかない日々。

 

体重も中途半端な塩梅。余裕があれば楽にいられるけれど、バランスが乱れる時もある。具合が悪くなる日は病人だけれど、そのなかでエネルギーが余る日もある。そこで出来ることを積み上げたいけれど、それがなかなか難しい。

心から感情が動くことがない。この文は大きな財産であるけれど、そこから得られる感触はいまいちだ。それは生活における動機や、フラストレーションからくる動機があるから苦しい。どこかで見返りや成果を求めている。

理想としては、ただ面白いという感触を追求したい。そうしていける作業があれば良い。その部分に魅了されて、自分の中で完結する過程を経ていきたい。文であれば、書きたいという純な気持ちで続けたい。

 

自分は人に見られたい。リアクションが欲しいし、褒められたい。それを糧に続けたいと思っている。だから動機が不純物で濁る。人を意識して書くから、心の底から溢れた文ではなくなる。

文は自分の最後の砦だけれど、自分の全てを昇華させられるものなのか。それがよく解らない。解らなくなってくる。情熱と動機、下心と理想

余った時間を有意義に使いたいけれど、結局は楽をするように過ごしてしまう。自分は今、何をすれば良いのだろうか。

「自分の時間をより有効で探索的な投資の時間に解放すれば、それは自分の富へと繋がる」

そう記されていたことを覚えている。自分は何に向いているのだろう。もしタフに生きられるのならば、何をしていたのだろうか。

人の心に触れることや、まとめて伝えること。それが鍵となると思うけれど、どうなのだろう。何がある?現実の職とマッチさせる?それとも自分で価値創造をする?

出来ることと、向いていること。そして世の中の需要。主に在宅で生きていくのであれば、やはりクリエイティブをするのが近道か。どうだろう。

 

現実での軸か、バーチャルな世界での軸か。仮に現実で満足を得られたとすると、どうなるのか。その先にあることは、現実社会への適応か。ソーシャルな場所と繋がり、そこで実社会を生きるスキルが身に付けば、普通に生きていく必要がある。

それはごくごく自然なことだけれど、自分はそのように生きていけるのか。社会に適応し、まともに自立をしていけるのだろうか。

その不安がある。かといって、バーチャルな世界に浸っても満足は得られない。絶えず中途半端だ。身体心も中途半端。病的でありつつ、元気でもある。

 

ソーシャルな場には出つつ、やれることで何かを生み出せたら良い。内に籠りすぎず、疲弊しすぎない程度で外へ出ること。

でもらそれをこなすのは大変だ。その前段階を踏むのも大変だろう。今はそこへと進めず、進歩がなくて宙ぶらりんだ。

やりたいことや出来ることをライフワークにし、それで糧を得て生きていく。それが出来たら良い。

糧を得るには至らなくとも、日々積み上げていけるライフワークがあれば良い。それは自分の中の軸になるだろうし、それを継続するなかで、洗練されて何かの成果を生むかもしれない。

 

それが難しい。それもないし、結局は安楽な過ごし方をしてしまう。無為で生産性もなく、空費してしまう。どうにも悔しい。

noteかはてなか。はたまた別の場所か。まったくの井の中の蛙が思うことは、取りあえず文に思いを込め、温めて育もうということ。

 

また明日。

 

参考書籍 :