欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

内側でのステッブと根本作業 外からの栄養

辺りは今までと一転し、一面が銀世界に変わった。小雪だった去年のような冬を期待していたものの、やはり雪は積もる。厳しい北国の冬に変わった。

日差しは少なくなっている。外へ出ることが億劫になりがちな季節。冬の風情も好きではあるけれど、身体に応える寒さだ。

冬のイメージとしてあるのは、雪や寒さ、暖かい部屋や厚着した身体、それとこたつがあるようなお茶の間、そしてクリスマスと正月。凍えるような中に温かみがあったり、過ぎ去りし日々のイベントが浮かんでくる。

 

今年もだけれど、ただ時が過ぎていくだけの日々になるのだろう。それが一番ありがたいことではあるけれど、どこかそのことが浮かぶ。

後から振り返れば、それは掛け替えのないことだと思えるだろう。でも、どこか空虚な感じがある。懐には何も携えていない。その感覚がある。空虚で無為だ。

ただいつもと変わらない日が、相も変わらず過ぎていくだけ。年中そうだ。生産的に生きている人を伏し目に見て、自分は病人の免罪符を持って生きていく。何かに費やしたいけれど、ただ無為に時に流されていくだけ。

その身体とメンタリティを持ってしまっている。それを拠り所としているような自分がいる。病人ではあっても元気がある。活動したいのだけれど、その場所はない。

いや、そもそも自分には勇気もないのだろう。すべては生煮えの気構えなのだろうか。

身体は停滞しつつ、なんとか高止まりの水準で維持している。それは自分なりの水準ではあるけれど、夏場の上向いた時に近い水準になってきた。

実際ところでは、あまり結果に繋がる過程を感じていない。でも、日々の心掛けは成果に繋がりつつある。直近では抑圧はあまりない。十分に落ち着いている方だ。

 

活動を支える土台を整え、外へ出てフラストレーションを満たすこと。身体を整えることと、抜本的に上向かせていく養生。その二つがある。これらを整えること。

その要素の狭間に体重という指標はある。それに一喜一憂しないでいたい。体重への意識よりも、本質的な養生に意識を向けるべきだ。余計な刺激を減らし、抑圧のないなかで身体を満たすこと。そして身体を動かしていく。

でも、それが難しい。活動もしたいけれど、一人で出来るのは散歩くらいだ。唯一、図書館へ行くのは自力で出来るけれど、それをどうにも避けてしまう。それはもう自意識の話だけれど、未だそこを選び取れていない。

 

もう少し身体を上向かせたい。その安全策を取りたいものの、それもなかなか難しい。そればかり考えても仕方ない。いつかエネルギーを晴らさないといけない。

かれこれ何年も通っていた場所。不登校学級の間に通い、そこを修了した後も通っていた場所。未だそこへ行くのが辛い。恥ずかしい。

去年から身体が辛くなって、振り返れば一年はそこに行っていない。「自分は未だそこへ通うのか」と思ってしまう。誰も興味なんてないだろうし、悪いようには思われないだろうけれど。

 

自分の力で出来ることは、それくらいだ。いずれは行くことになると思うけれど、どうなるだろう。身体が抜本から上向けば、かなり変わってくるのだろう。図書館に行くか、それともフリースクールまで足を運ぶか。

今後はソーシャルの場へ出られるのだろうか。いや、そもそもまともに生きていけるのか。実生活で必要なスキルが全く身に付いていない。身体を整えることが第一であっても、自分には何もない。手の平には何もない。

どうなるのだろう。わからない。切っ掛けを求めていても、何もない。自分から変わらないといけない。それがある。意識を変えることは大切でも、それは今までもやってきたこと。そこからまた意識を変えないといけないのだろうか。どうだろう。

新たな意識とは。行動を変えること?自分から能動的に働きかけること?

 

どこにあるのだろう。心身の栄養になること。そのための場所。外へ出て身体を動かし、人と会うこと。そして話をし、話を聴いてもらうこと。

身体を下支えする土台を整え、基盤となる身体を創る。刺激を減らし、身体と精神の緩衝地帯を創ること。そこから得られた体力で、意欲を外へ向かわせる。活動するなかでフラストレーションを満たし、心の養生をしていく。感情型として人と会うこと。

徐々に刺激を経験していくこと。新たに得た意識・認識を糧に、外へ出るなかで糧を得る。病める時には持ち得なかった素質を得るこも。それを基に人生を創っていくこと。

今は遠い。どうにもこうにもだ。今は忍耐の時。

 

また明日。

 

参考書籍 :