欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

冬ごもりの日々と展望 停滞の視線の先

今日は雨。冬の巣ごもりだ。散歩へは出ていない。外へ出たい気持ちもあるけれど、それは課した義務だったりする。内なる声に耳を傾けているのか、怠けているのか、よく分からない。気が向かないと言えばそうだ。それに何だか向かなかった。

晴れた日は進んで行きたくなるもの。冬場だからなのもあるか。でも、どこかに怠惰な自分も感じる。行きたくなかったらそれで良いだろうけれど、そうとも思えない。複雑だ。気負って意気込んだとしても、それを満たしていない自分。

 

何かで心を満たしたい。それがある。元気があればその自己実現に向かえる。まずは元気になるべきだ。よく食べられるようになって、そこから動く。そこからフラストレーションを満たしていく。それらの行程は色々ある。

でも、結局はぐうたらと息抜きしてばかり。どうにもやるせない。何をすれば良いのだろうか。

身体にもそこまでエネルギーは充満していない。余裕がある時には少し元気なくらい。まだまだ病的な水準だ。どうにもこうにも変わらない。

今日はクリスマス。何の代わり映えなく迎えた。強く嫉んでいるという訳でもないけれど、やはり素敵な日になれば良い。それは思う。

その素敵な日というのは、やはり絆を育んだ相手と過ごすことだろう。人間はそうだ。それもまたやるせなく過ごすのみ。また通りすぎていくだけ。時に追い越されるばかり。

 

去年もまた、同じように過ごしていたと思う。ただ、今のように思ってはいなかったはず。覚えていることは、その後の年末に姉が帰省した時のこと。テレビで特番が放送されていて、それを見て自分が笑っていた。すると母親がこう言った。「久し振りに笑った顔を見た」と。

どのくらい笑っていなかったのか。確かに具合も悪く、家庭での空気も悪くしてしまっていた。家族との関係も悪くなっていた時があった。

自分なりに悪戦苦闘していたため、剣呑な態度でいてしまったのはある。それは申し訳なかった。そして具合が悪くなり、病院に行けなくなるのはすぐ先のこと。

限界の際の際だった。何とか立て直せたから良かったものの、どうにかなっていたかもしれない。2020年はどん底があり、そのなかで救いもあった。

いつかその話を昔話にしたい。そう語れたら良い。

 

少し前までは、「あの頃は良かったのに」ということばかり振り返っていた。ずっと紙のノートで思うことを自問していた。2016年から17、18、19、何も変われず落ちていくだけだった。そうやってずっと悔やんでいた。

そして2020年。今年は転機があったと思う。それなりに過去の自分へ顔向けできる。「その時の自分の努力があったからこそ、この道に繋がっている」と、そう伝えられるはず。

これから更に努力して、磐石に過去を振り返りたい。すべてを愛おしく慈しみたい。

どうなるだろう。分からないけれど、やるだけだ。

暇なら暇を謳歌して、好きなことにエネルギーを費やせば良い。でも、そのやり場がない。エネルギーの向かう先がない。

朝からそうだ。頭ばかりを使い、精神的な部分で満たされてはいない。結局は無為だ。空虚な心と身体。どうしたものか。

 

田舎の町にはどこにも切っ掛けがない。でも、最近では積極的に外へ出ていない。だから可能性は端から閉ざされているのか。ただ、果たして何があるだろう。

現実で人と会う?何か有意義なことに心身を使う?それともバーチャルな世界で満たされる?

バーチャルでの刺激を得るのは容易い。かりそめの享楽はある。でも、それには中身がない。ただ、それでいて確かな刺激がある。それに触れ続けることが一番の刺激となる。継続してそこに接しようとしてしまう。本当の満足ではない。それはよく思っている。

 

人は何もせずに過ごす訳はなく、絶えず何かをしている。自分は画面の中に没入することが多い。それに多くの時間を費やしている。これがどうにかならないかとよく思う。

画面の中に何を求めているのか。恐らくは刺激を求める気持ちと、人との繋がりを感じたい気持ちだ。そして情報をインプットしたい気持ち。これらがある。

インプットは便利さの恩恵を受けられるし、良いことだと思う。でも、他の二つは厄介だ。そこを刺激するものは溢れてくる。それにひたすら時間が奪われる。時間があるような人間は尚更だ。

 

どうすれば抜け出せるのだろうか。現実での生きがいがあれば抜け出せるのか。存続を確かにさせるような作業。

そこへ依存できたら良い。健全な刺激を得られたら、それは健全な方向へ歯車が回る。その何かの感触があれば良い。何だろうか。

そういうことをこの今に見いだしたい。何の束縛もない今にだ。これが苦しさの種。自己形成のステップを踏んでいけるのに、足踏みをしてしまう。それが悔しい。なんとかならないか。

根底にあるものは、やはり人と会うべき性質だろう。そのなかで気持ちが満たされていくはず。組織や集まりに属すこと。そのコミュニティの中での立ち位置、役割、それが自信として立脚点になるはず。

自分には何もない。大きな立脚点があれば良い。地に足を付けて、手に職付け、普通に生きていきたい。

学校に適応するという、この社会での一番のサバイバル術は身に付かなかった。そこへ適応するのが一番だろう。ステップを踏むのが賢い生き方だ。自分の手の平には何もない。学も肩書きも、健康もない。

また今日が終わりゆく。

 

さようなら。また明日。

 

参考書籍 :