欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

確かなステップと焦燥 小さな歩幅の先

これといった感覚なく年越しを迎えた。家族や親族は帰省せず、みな集まって食事をしなかった。ただ平凡なルーティーンを繰り返した。

でも、結局これが楽なのだろう。一人でも家族がやってくれば、心身ともに落ち着ける空間は失われる。我が家はとても狭い。食事の時間はきつくなり、パーソナルな時間は減っていく。

自分は食事についてセンシティブになりがちだ。静かな時間を過ごすことは、人を喜ばせようとする気持ちよりも大切。それはそう思わざるを得ない。自分の軸を持つべきだろう。

 

2020年の最後のブログは、綺麗な締めくくりを意識して記した。でも、現実は何も変わっていない。元日から体調が停滞し、刺激追求のフラストレーションに覆われた。「今年はより進展があれば良い」と、そんなことを浮かべていたけれど、一体どうなるのだろう。

相も変わらず同じことに苛まれている。これからの自分が思いやられる。変わりたいけど変われない。変えようにも頑張りきれない。努力のしようがないと言えば怠けているようでも、個人で完結する作業はやり尽くしたと思う。

エネルギーを外へ向けて好循環を生み出したいけれど、やり場がない。無為に空虚に日が経つ。

 

フラストレーションのやり場もない。病気を癒すにも、対人関係を築くにも、自立をするのにもだ。それらに太刀打ちすることが出来ない。その前提を整えたく思っている。

一個人でやれることはやりきったはず。でも、それでは時に追い越されるままだ。もう十代が終わる。夢に現れているように、自分の中身は小学生の歳のまま。そこから変わっていない。周りは成長していくなかで、世界から置いてけぼりだ。

このまま孤立していけば、気が付く間もなく多くの時間を失うだろう。時間も人も、通例のステップもだ。実社会から遠く生きていくことになる。

諦めも大事だろうけれど、どうにも難しい。とにかくいま出来ることを積み上重ねたい。でも、それが出来ず無為に費やしてしまう。それが悔しい。

気が付けば老いて枯れていく。それは既に始まっていて、連綿と続いていく。終わりのその日まで時間は削られている。自分はその日まで、何も準備をしていない。

年齢に応じてライフステージはあり、それぞれで向き合うことは変わるのだろう。でも、自分には何も伴っていない。何も懐に携えていない。周りは勉強や共同生活をし、そうすることで生きる力が身に付くなか、自分はそれから逆行するばかりだった。

自分はこれから人生を始めないといけない。恥ずかしい。こんな自分を受け容れてくれる器の人がいてくれたら良いのの、そんな人はいない。

ずっと夢を見ている。そんな人を求めている。親がその役だったとしても、それは恥ずかしい。親だけでもいてくれたら、それだけで有り難いことなのかもしれない。でも、どうにも周りと見てしまう。そうやって比べては苦しくなる。大人になりたいからだ。立派に思われたいから。

自分の傍らにあるものは悲しい。そこには暇な時間もあり、実質それを謳歌して過ごしてもいるけれど、そんなことを思う。

 

気が付けば時の流れに飲み込まれるだけ。時間なんてないな。元気に自己実現をすることは、ある期間でないと実を結ばないのだろう。

人生の元気に活動できる期間は限られている。そこまでに自己実現や解放の時がやってくれば良い。ライフステージと噛み合み、充実した日々になれば良い。

どうなるのだろうか。取り返しのつかない不可逆的なことになりそうだ。絶妙にタイミングが噛み合えば良い。終わりが良ければ全て良くなると思うけれど、どうなるだろう。分からない。

 

自分の心には、柱のような軸が育まれていない。学校に通うだけでそれが作られるとは思わないけれど、到底そこは脆弱だ。自分は何年も、痛手を掻い潜るだけで精一杯だった。

自分には何もない。そこには苦しみしかなかった。人は悲しみや劣等感にまみれても、何とか生きていけるはず。でも、痛みがあれば生きていけない。まともに歩けはしない。

苦しみによって立ち往生するしかなかった。今もこれからも、そんな日々が続くのだろう。自分の弱いところをタフな人からから馬鹿にされたら、それはもう悔しくて仕方ない。自分は別のことで戦ってきた。それは仕方ないことだった。

 

自分の歩むべき道はどこにある?どこに繋がるだろう。明確に光が差したり、道しるべがあれば良い。

とにもかくにも歩むしかない。どうしようか。どうもないけれど、ひたむきにやるしかないな。

体調は抜本的には上向かない。やはり必要な養生がある。家で刺激追求のフラストレーションを満たそうとしても、何も得られはしない。

日も浴びず、身体も動かさないことがある。それではどうにもならない。人と会って共通の作業をするとか、そういった共同意識があれば良い。自分の内なる声は、そこを指している。

刺激を制御すること。雑多なものを排除し、良好な刺激は養分にする。これがないから不調になる。

 

フラストレーションがあれば抑圧に傾く。すると現状を何とかするために無理をしてしまう。それは身体についてのみで、身体をとにかく上向けせようとしてしまう。

時の流れがあり、体調の細かな変動のなかで、良い方に傾くことはある。でも、そのぶん悪くなることもある。そこに一喜一憂してしまう。

今は病的にセンシティブになることはないし、十分に落ち着くいているけれど、本質的には変わっていない。

 

対外的にどこかへエネルギーをぶつけたい。それがないから無為に時が霧散する。刺激に脆く、最適な刺激の幅が狭い。でも、刺激自体は求めたい。これがあると相当に厄介。

ましてや刺激のない日々でを過ごしているため、世の中の刺激が未知なものになっている。それが更に厄介だ。

 

どうにも巣籠もりするしかない日々。不調の種はそこらじゅうにある。安全地帯はあるのだけれど、適度な刺激を浴びたい気持ちがある。それが強くなるといけない。

どこに快適な場所はあるのだろうか。豊かな心音を鳴らせる場所はどこだ。それをこの世界で見つないといけない。自分なりに折り合いを付けないと、豊かに過ごすことなど出来ない。

これは贅沢なことでもあるのだろう。病人の盾を使える愚人。愚鈍に生きてしまうのを許してほしい。

優しい人がいてくれたら良い。男性にも、女性にもだ。挑戦すべきなのか、守りに徹すべきなのか。外の世界か、あるいはバーチャルの世界か。

自分はきっと世界と交わらないといけない。対人的なフラストレーションは強く、人と会って話をしたい。そのなかで精神を保ったり、励まされないといけないのだろう。画面の中に求めては無駄だ。それがある。

 

撒き続けた苦の種が実るとしても、それは長い先のことだろう。自分の出来ることを積み重ねるしかない。今すべきことを励むこと。そう実直に過ごすこと。

踏み出せないことがたくさんある。以前のコミュニティにまた戻りたい。学校やフリースクールなど、同級生に会いたい。でも、どうにも可能性がない。

そこを諦めて良いのか?それは辛いことだったと決めつけて良いのか?それはずっと思っている。逃げの意識では駄目だ。

 

自分の手で最適な環境を作りたい。衣食住から経済的なもの、対人関係や社会的なバーソナリティーまで。まだまだ何も整っていない。

どうすればそこへ辿っていけるだろう。それは解っているようで分からない。

今年はどんな年になるだろう。ひたむきに歩みたい。

 

また明日。

 

参考書籍 :