欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

在りたい日々へ辿る道 夢の像と進捗

綺麗な光が差す午後の部屋。窓から覗く淡い青。優しい日の光だ。辺りは美しい世界になった。命の始まりを感じる。まだまだ春までは遠いけれど、そこまでの中休みを与えられたよう。これは素晴らしい。胸がいっぱいだ。春や夏が待ち遠しい。

それなりの体調にそれなりの塩梅。現状維持と言えば良い表現でも、やはり停滞している。すんなりと右肩上がりにはいかない。

でも、現状維持がなされているのなら、よくやれている方ではある。それはそういった指標にはなる。少しは自分を褒めて良い。

ただ、やはりフラストレーションが生まれてしまう。それが喫緊の課題だ。フラストレーションをやり過ごすのは慣れているけれど、実際は看過できない歪みがある。それを満たさなければ抑圧に繋がる。

適度にエネルギーを発散し、心身に栄養を行き渡らせないといけない。でも、それがどうにも上手くいかない。

 

詰まるところ、本質的な養生をするしかない。それは普段から記していることであり、それをする他ないけれど、やはり行き詰まってしまう。待ったなしに進めるべきでも、容易に動かせないことがある。

環境が特にそうだ。落ち着ける場所と、心地よく刺激を得られる場所が必要だ。これはわがままな欲求に映ったとしても、自分はそのように折り合いを付けなければいけない。そこを何とかして変えないといけない。

周りの人に理解を求めないといけないし、自分も自分を理解しないといけない。自己において改善をしたり、周囲からもケアをしてもらうこと。

それが上手くいったらどうなるだろう。今でも取り組めることは、刺激を減らすこと。落ち着ける環境に身を置くこと。それは自分次第でなんとかなる。それを現実に落とし込んで考えると、可能性の選択肢はある。そこを選択していきたい。全ての土台を先に整えること。

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最近は、途切れ途切れのぼんやりした夢を見る。ぼんやりと見ているなかで、夢の中の主観では確かな意識と行動があった。それらの像や行動は、自我が心の隅に追いやったものだろう。理想であり、叶わぬ夢であり、それでいて現実的なものでもある。最近は、どこかリアルな夢を見る。

覚えていない夢もたくさんある。起きた後に思い出せない夢もある。そのなかで印象に残っているのは、祖母の家に居る夢。その夢は、楽しい気持ちのような、苦虫を噛み潰したような夢だった気もする。

直接的なメッセージは感じられないけれど、そのなかに家族だったり、食事だったり、捉え直しで把握したフラストレーションが現れていた。振り返れば腑に落ちるものが多い。日頃から抑え込んでいた感情が、夢の中で自由に発現されている。祖母の前で料理を無理して食べたり、苦しい思いで誰かと過ごしていたりしている。家族との食事で過去の痛手が繰り返されたり、フラストレーションからくる理想が現れていた。

家族と距離を取りたい気持ちがあるけれど、団欒を過ごしたい気持ちもある。それに自分は苛まれている。そして終わり際には、理想的な幸福な世界があったりする。そんな夢だった。

 

最近の睡眠はよく取れている方で、目覚めた後でおぼろ気に夢を思い出したりする。強烈でおぞましい夢は少ない。不可思議な夢や、ほんの少し笑えたりするような夢があったりする。

祖母宅が夢に現れるのは解りやすい。そこに目星を付けているからだ。そこなら緩衝地帯をはっきり設けられる。以前からそこへ引っ越すことは決まっていて、それを今すぐにでも実現したいと考えている。

でも、それが叶わない。祖母のこともあるし、どうにも現実的ではない。それに反してその選択が一番の現実的な手段となっている。願望との背反。そうやって忍耐をしている間、在りたい気持ちは水面下に押し込まれる。それが夢で現れる。

 

そこが何とかなれば良い。刺激を抑えられる場所に身を置く。感情は必要な養分でもあるけれど、抑圧を引き起こすネックにもなる。煩わしい感情が入ってこない場所が必要。

そして、感覚的にも刺激が入ってこないようにする。それらを遮ることは、生活を支える基本だ。そこを整えることが何よりも大切。だから、そこにまず取り組む。それが全ての始まり。

好きなように生活をデザインしたい。衣食住を好きなようにカスタマイズすること。生活のQOLを上げたい。いずれは自立して、根本から夢を叶える。そのために一から作り上げていきたい。それは見るだけの夢になるのか。

衣食住を整えることや、物を手に入れることに始まり、人とどのように接するか、どのように社会に溶け込むか、これらの壁がたくさんある。まだまだ何も伴っていない。どうなるだろうか。時に追い付くのだろうか。

どうしても無為に過ごしてしまう。この文をせめて記しているけれど、どうにも空虚だ。殊勝に考えてはいるものの、行動を変えるには至らず、ジャンクな刺激に入り浸る日々。愚鈍に横着してしまう。刺激追及の意欲が大きく関わっているけれど、それを思ってもどうにもならない。

精神に張りが出れば良い。「これに費やせば身体が沸き立つな」と、そう感じられる何かがほしい。それにこの文は入っているのか。それが何とも言えない。

やはり人と会うことだろう。それがある。夢がそう言っているし、それしかない。

 

食事を美味しく食べ、家族と仲良く過ごすこと。誰か親密な人と過ごし、気持ち良く床に付いて、気持ち良く目覚める。そして大切な作業や仕事が待っていて、それに取り組んで人生の糧を得る。そんな理想がある。そして好きに生活を創る。物も、人も、環境も、心が指差すところへ行く。

自分なりに一花咲かせたい。そして世界へ感謝できるようになりたい。満足してこの世に別れを告げたい。そこに辿り着くために生きているけれど、どうなるのだろう。

今日のこの自分だったり、過去の痛みながら歩いた道のりの過程を、未来の自分は軽くけなしていてほしい。恐らくは、実際にそうしていると思う。「今が楽だから振り返る必要はない」と、適当に扱っていると思う。

ただ、やはり振り返って慈しんでほしくもある。そのように思えるのは、全てから解放された時だろう。高みの見物でいられた時。それらどちらも思ってほしくある。とにかく存分に楽しく過ごしてくれたら良い。

振り返って感慨に更けることもなく、そんなことをする必要もなく、未来で日々を充実させていてほしい。ひたすら今を楽しく生きること。何だかそう思った。

どうなるだろう?

 

また明日。

 

参考書籍 :