欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

それぞれの気質の辿る道 生まれついて宿ったもの

それなりな身体の調子。大きくつまずくことは少なくなりつつあると思う。淡々と日々のルーティーンを繰り返していれば、身体は落ち着いてくる。そこで焦燥やフラストレーションがあれば抑圧へ傾くけれど、原因の捉え直しが進んでから少なくなっている気がする。

ただ、停滞はしている。抑圧や苦痛がなければ快適に過ごせるかといえば、そうはいかない。それが厄介な所。刺激追求の意欲が邪魔をしてくる。

どうやって生きるかという問題が立ちはだかる。健康にはなりたい。そのためには必要な要素を知り、それを集めることが先決だ。

でも、その先には何があるのだろう。実社会に適応しに行くのか?それとも刺激をバーチャル空間に置き換え、自宅でそれなりの生活を創る?自分の人生の意義は何だろう。

何のために生まれて、何をして喜ぶ?それが分からないまま終わりたくはない。せめて生まれついたからには目標かあっても良い。原始的な欲求を上回るものではなくとも、何かが必要だと思う。高度な文明下であっても、ただ生存のために生存していくのは苦しいはず。自分は何で満足をするのか?

 

人は程よい刺激を求める。絶えず暇では命がしぼんでいってしまう。現代ではそういった状況が生まれてしまうと思う。安全や生活の基盤がある人や、その期間はある。人生の終盤ではこういったことが起こっているはず。周りを見てそう思った。

生涯に渡って携える喜びがあれば良い。何かに己を費やすこと。「それは喜びに従うことだ」と、アーロン博士の著作に引用されていた。自分の成長や、適応を感じられる何か。それに目掛けて励むことが必要なのだと思う。そういったことを考える余裕などなく、ただひたすらに生計を立てざるを得なくとも、そのことは奥底に眠っていると思う。

自分は今のところ、生活が切迫しているということはない。だからこういった悠長なことが言える。それはあるのだけれど。

 

父や母のように、「働かないと生きていけないから働く」というのは、本人は苦しくとも素晴らしいことなのだと思う。それが一番尊いと思う。

普通の大人になることが一番だ。それが賢くて立派なことなのだと思う。その人たちが世の中を回してくれている。そのなかで適性と仕事の内容がマッチすれば良。自分のエネルギーが何かに活かされていて、それを感じられたら最高なのではないか。

需要のある部分と、自分の出来る作業。自分には交わるものがあるだろうか。才覚や適応を感じられる環境とが交わる場所。そこに喜びがあって、それを見つけて己の価値を世の中に組み込ませることが出来れば良い。

それは世の中の仕事(需要)から見つけ出せば近道になるだろう。でも、自分はその道のりを歩めなさそうだから悩ましい。既存の社会体制へと挑めば良いのだろうか?

振り返れば、近所の幼稚園へ通っていた時ですら刺激に圧倒されてしまっていた。その時から始まっていたドロップアウト生は、どうすれば良い?いずれは親も余裕も何もかもを失う。自分で自分の価値を生み出そうとすることは、恐らく相当難しい。才能の世界。出来る出来ないは、はっきり別れる。

 

自分の人生は何に費やす?生まれたことに何の意義があり、何のために成長していく?その中心にあるような、自分を育んでくれる喜びは何?。どうすれば充実し、どんな生活を送るべき?どうやって生きていく?

ここで検証していることと組み合わせたい。それが出来ていないのだけれど、その喜びも見つけられたら良い。何のために生まれて、何をして喜ぶ?どのように日々と向き合うか。

最近読んだ書籍に気になる部分があった。

「人類が現代に適応できていない理由」というところ。

人類の進化というのは、「太古の過酷な環境を生き延びた個体が子孫を残していく」ということだそう。進化は鮮烈に起こったのではなく、生き残りに長けていた個体が存続し、選別されていくといった事。

ただ、そういった元来のこの世界に適応していくための性質は、現代の暮らしとでは反りが合わなくなってしまった。

身体の生理的なシステムは飢餓に耐えられるようになっていて、それは野性時代の飢餓で亡くなってしまうような頃の名残。しかしその性質は、現代では肥満や2型糖尿病が爆発的に増えることに繋がってしまう。現代人は過体重になってしまい、大半は食べ過ぎで命を落とす。

 

他にもそのようなことは、身体だけではなく、精神面でも同じように起きている。

周囲への危険を常に感じ、危険を避けるために入念なタイプは、それによって生き延びる確率を高めてきた。多くの人が怪我で亡くなってしまったり、動物や他の人間に仕止められる野性時代では、それは有利に働いたと思われる。常に周囲を確認し、異常なほど活発で、すぐに他の事に気を取られる。かつてはそんな性格のおかげで、危険を速やかに避けることが出来た-。

これらはまさに、HSPやHSS(刺激追求)、ADHDだと思われる。ADHDはそうだと記されていた。周囲の刺激に対して敏感で、目新しいものに惹かれていく。そうやって生き延びてきた原始時代の習性の名残なのだろう。ヒトにも動物にも危険だらけの野生時代で、ナイーブなくらい用心をし、異常な程活発で注意散漫。常に移動をして暮らし、身体を動かしていた。

ただ、そういったものが有利に働いた時代と今とでは、大きな差が生まれている。生活のリスクは高度に軽減され、約束された安心がある。同じ場所に定住し、注文をすれば手元に品物が届く。これらの環境が、かえってストレスを招くのかもしれない。

精神的にも、存続のリスクや破滅を想定して行動すれば、それが現代の対人関係では恐怖症や鬱を生む。日頃ここに記しているようにナイーブになり、刺激を求めてフラストレーションが溜まったり、代わり映えのない日々に飽き飽きしてしまう。それは生物的に考えればそういった原因があるのかもしれない。

 

やはり、それらは正常な特性だと確信できる。ただ、そうなるとあることを疑問に思う。何故そんな優秀な個体は、現代では少数派なのだろうか?生き残りに長けていて、子孫もそれを受け継いでいったのでは?人間社会への見えない養分を与えられる存在は、なぜ少ない?

理解に足りない頭では解らない。そして、その少数派は、現代でラベリングされ、分け隔てられて理解されていく。タフネスパーソンとの一線は、なぜこうにも生まれる?何の因果でこうなったのだろう。

それらの性質に対する現代の理解も相応しいものになれば良い。でも、どうなのだろうか。生理システムは解ってくれなくとも、人間は認識によって理解することが出来る。それが相応しくなれば良い。HSPの研究は、そのような価値観の偏りを正すために生まれたのだった。

ただ、既に社会のシステムは構築されているから厄介。中心の指標は多数派の性質によって自然と形作られる。学校や職場、集まりでの価値観、性別での価値観、敏感に対する偏見や、敏感さと性別についてなど、これらに圧倒されてしまう。それに左右されていく少数派は、何に適応すれば良い?そんなことを思った。

 

自分が普段ここで考えていることとリンクした。学校や職場、何かの協同体へ迎合すれば良いのか?それともバーチャル空間に没入して気を保つか?

そうか、こういった性質は、集まりに適応しづらいから孤独に命を落とすことも多かったのかもしれない。それは今も昔も変わっていないのか?どうなのだろう。どこか病みやすい体質なのだろうか。

ただ、集まりに適応し、真価を発揮できれば何にも替えがたい存在になっていたのだろう。だから程よく存在しているのかもしれない。そのことは、アーロン博士の著作にも記されていた。タフで時に攻撃的な存在が社会を引っ張っていくなかで、建設的に社会のエネルギーを導くタイプが必要。それがHSP。その役割は必要。危険が近付けば警鐘を鳴らし、未然に防ごうとする。

人を育て、物を育む。争いを避け、見えない養分を社会へ届け、多数派が見えない視点を立ち止まって提示する存在。それは潜在的ではあれ、確かにそこに存在する。

 

やはり、何だかHSPの向かうべき場所はどこか定まっているように思える。どこかそれぞれに適した場所はあるはず。そう思う。それぞれの気質の程度の差の中で、自分を知り、自分にしか持ち得ない素質を獲得して生きていく。独創的な日々であれ、一般の賢明な大人として生きていくかであれだ。

HSPは、自分は、どうすればだろう。極端なセンシティブさを持ち合わせているのであれば、大きな自己実現の道を辿る方が良いのかもしれない。それか、それを選ぶ他ない人生なのかもしれない。それぞれが何かの役を落とし込めれば、どこかで実を結ぶのかもしれない。

社会の中の大きな意義のある作業を見つけて、自分が育み続けたものとが合致すれば、それは人の役に立つということだろう。他の誰でもない、自分に生まれて良かったと思える日に辿るのかもしれない。

 

撒き続けた苦の種は、いつか豊かな実を結ぶのかもしれない。その時を思い描いて種を育もう。光を浴びに行き、水をやる。その実がいつかの日の楽の実になれば良い。

自分は、あなたは、どこに適応すべきで、どう適応していく?自分はどうだろう。難しい。この原始的性質をどのようにコントロールしていくか、それが求められていく。

豊かな心音を保てる環境を見つけること。それは生涯に渡る仕事。自分の存続を確かにしてくれる作業とその喜び。それをこの性質がある身体で見つけていくことが必要。

自分は、気が付けば社会の通例のステップをこなしていけるなんてことはなかった。実際にそういったタイプだった方は、今この瞬間にも世の中を回していって下さっているだろう。だから、自分は自分で今やるべき事に励もう。それが良い。それで良い。懸命に努めれば良い。

 

自分のやれること、出来ること、満足のいくこと、生まれついた意義をどうやって見付け出すか。考えよう。それがこの文章の意義。繰り返し繰り返し結果を検証し続けること。それはこれからも含まれる。

 

また明日。

 

参考書籍 :