欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

日々の手応えと目の前の現実 感覚とその成果

最近は青空の覗ける日が多い。雪国の冬は中休みに入ったよう。路面の雪も消えつつあって、コンクリートが少し露になっている。

歩いているとその匂いがした。乾いたコンクリートの匂いや、土の匂い。ただ、空気は冷たく、依然として冬の日和だった。そこにほんの少しの綺麗な光が差し込んでいる。何とも言えない気持ちになってくる。春を感じられるからなのか、絶妙な心地がする。とにかく鮮やかで、安らいで、風情が感じられた瞬間だった。

最近になって意識的に散歩へ出ている。ストレスの低減を実際に試みている。これが効いてくれば望みも出てくるけれど、今はまだ変化はない。数値の上では何も変動はなし。落ち着いた状態ではあるのけれど、上向いてはいない。

ただ、感覚では良くなっていると感じる。食事の面でも手応えはある。でも、総合的に鑑みれば抜本的な成果はない。ほんの少し数値は増えてはいるけれど、そこから高止まりの水準で推移している。

 

朝ごはんは少ない。朝から胃は働けないため、軽く食べるしかない。ほんの少しの量だ。一般的な量と比べれば、5割から6割くらい。それでも良い状態の時の量だ。朝は前日の睡眠の質で胃の状態が変わってくる。仕方ない部分が大きい。

昼と夜はそれなりに食べている。散歩をすると気持ち良く食べられたりする。ただ、これも一般量の7から8割程度で、もう一踏ん張りが必要。そしておやつは食べられない。

 

こうなるとエネルギーは枯渇状態にある。身体は省エネモードに入っているはずで、ほんの少しのエネルギー余剰があれば少し肥えるくらい。

やはり、根本から改善しないと変わらない。胃の拡張がないといけない。朝昼晩の食事の上限が変わらなければ、闇雲な一喜一憂に陥るのみ。それを何とかしたい。それを託すのが運動ではある。

 

こればかりは身体の働きの影響が大きい。それはすなわちストレス。生きていく上での脅威がストレスであり、そのメッセージは発せられている。闘争か逃走。これも太古の時代の名残だそう。それに全勢力を傾けているから、食事は後回し。睡眠も後回し。身体の働きが鈍ってくる。その脅威を排除するのが先決だ。

現代ではそれらの問題に対処するのが難しいはず。人間関係や生活が関わってくれば、容易に動かしがたい事がある。そうなると長引く刺激が生まれる。それが刺激に脆いところと重なってしまう。

センシティブパーソンであったとしても、ある程度は刺激に耐えられる。でも、長引かせてしまえば話が変わってくる。さくっと回避できれば良い。それか抜本的に生き方を変えるか。

 

長時間強い刺激に曝された場合、うつや恐怖症へと繋がっていく。うつ状態というものは、脳が感情を使って気分を生み出し、危険のある環境から遠ざけようとしするものだそう。ひどく気分を落ち込ませて、引きこもらせるとのこと。

ここまで進行すれば少し厄介になる。自分がそうだけれど、世界との一線が膨らんでしまう。そうならないように、前もってストレスのサインを受け止めるのが大切。でも、それがなかなか難しい。

進行してもやることは同じ。とにかく身体の基礎的な体力を取り戻すこと。それがストレスの低減をすること。その後に適応へ向けて歩める。幸福に必要な要素を収めること。健康になること。

朝からやることはない。1日にやることの殆どは下らない暇潰しでしかない。意義のある事や、やりがいのある事はない。そして自分は不健康で、日々が行き詰まっている。どうすれば良いだろうか。有意義な事とは何だろう。健康に必要な要素は何だ?

恐らくは、人と親密になり、少数の特別な人やコミュニティで生きていって、どこかで自分が役に立ったりして喜びがあり、趣味などの内的な時間を大切にして慈しめたら良い。簡単にまとめれば、自分を活かせることで自活ができて、自分なりの衣食住の日々を創り、人と愛情や友情を感じられたら良い。まとまるどころかどんどん絵に描いた理想が膨んでいく。

特別に親密な人と絆を結ぶこと。共に日々を歩んでいくこと。現実の環境か、バーチャルの空間などで自分の存続を確かにしてくれる作業を見つけて、それに費やす。その糧で日々を創る。自然に触れて、心に触れて、音楽を聴き、外を歩く。本を読み、人の文章を見聞きして、自分なりの文をしたためる。

 

理想は理想として思い巡らせておこう。いや、でも、実際にこれくらいの要素がないときつくなるとも思う。実社会のタフな活動が求められる世界で生きていけるのか?いや、それが無理だということは解りきっている。周りの人達はそれを自分に望むという事がまずない。それくらい周りからも明らかで大きなネックが見てとれる。諦められているはず。

家に居たって快適な身体が整わない人間。安らげる場所や環境がない。いや、あるけれど、実質はない。内側にも外側にも刺激を生んでしまい、それに疲弊していく。フラストレーションは看過できない問題で、大きなストレスになり、日常生活の前提が失われる。身体の低水準。病的な痩せ。対人スキルの無構築。ソーシャルとの一線と空白。

 

ただ、もう無理はしなくても良いだろう。身体を上向かせること、無理をして自分を立て直そうとすること、それをしたって何も変わらなかったから。ただ傷がまた痛むだけ。

ひとまずは長時間刺激を避ける事だろう。そうしていくなかで自分なりの癒し方を知る。そして傷を癒すしかない。日が経てば自然と治るという事はないな。自分で治すという気概がなければ変わらない。自分なりのマニュアルとカリキュラムを創る。そしてそれを実際に学んでいく。

 

ある程度は病める身体の免罪符を持って生きても良いのではないだろうか。なんて自分でそんな事を卑しく思ったりする。

病める人や、職を失った人に対してその人のせいにはしないという時代になっている。有難い世界だ。その人たちが暴動でも起こさないようにするための介入してくれる制度。そこに頼っても良いのではないか。

というか、そこを頼っているし、これからも頼らざるを得ない場面があると思う。それは、頂けるとしても将来的に自立できるように与えられるものだ。生活を立て直して、努力して還元してもらうための制度。だとすれば、それを本分に生き、その間に自分の出来ることを積み上げていくというのが本分。そうやってチャレンジをしていけば良い。

それが見つかって実を結べば、世の中に還元できる。そうなれば全て良いだろう。その時のために励む。身体を癒すこと、出来ることを積み上げること。

 

健康という在りたい日々には遠い。自己実現をしなければいけないはず。取りあえずの形で世を忍ぼう。

明日は病院。

このブログも4ヶ月目に入っていく。意外に早いようにも思える。日々が凝縮しているからなのだろうか。少しずつ文の書き方のリズムが整っていると感じている。

まだまだな事がたくさんあるけれど、少なくとも自分が一番のフィードバックブログの読者ではある。それで良い。それが良い。この空間が充実した感触の得られる所なら良い。今はそうなってきた。ストーリーが続いていけば良い。これが何かになれば良いけれどな。

 

ある程度の一部の人がファンになってくれたら良いのだろうな。"創作は人力車"という表現を読んだ事がある。自分の才能や、自分の人生の時間を人力車に載せるのだろう。それは重く重くのし掛かる。大きな賭けに出るようなこと。これが人目を引くものかも解らないし、大きなリターンのあるものかも解らない。でも、やってみる。やってみてしまう。価値と人生を賭ける。何も生まれなければ独りでに恥をかいて失望してしまうけれど、それでも望みを持っていく。

その人力車は、最初は力が加わらなくて車輪が回っていかない。でも、ある程度力が加わりだすと弾みが出る。そうなれば少ない力で進んでいける。後は走り続ければ良い。

そのなかでこの無名の人間を見つけてくれる人が居たら良い。そのような人が現れるか、その人の胸の中に入り込めるか、その人を繋ぎ止められるかが大切なのだろう。作品へ深い気持ちを持ってくれるか。それを持ってくれたらどこかに価値があるのだろう。

そしてその人と共に走っていく。その後もそのような人を増やすために進んでいく。そうなっていけば、やがて大勢の群衆へ向けて走り出せる。少ない取り巻きが居れば、大勢の人達は気に留めてくれるかもしれない。そうなれば価値に応じてファンが増えていき、それが段々と大きくなって、やがて沢山の人へ影響を与えられるかもしれない。前段階が必要。プラットフォームでのリアクションは大切なもの。そのための気構えも整ってくるだろう。

そうなれば、後は初心に戻って同じことを繰り返せば良いはず。己の深い部分から溢れ出てくる文章を形にし続けていけば良い。

そこまでいけば自ずと大きな存在になっているだろう。何を書いても良い。人へ言葉を届けられる付加価値が伴っていれば良い。好きも嫌いも人それぞれ。同じ人でも時が経てば心も変わる。目まぐるしく変わっていくもの。だから、ただひたすらに自分の信じるものを書いていけば良い。それが恥ずかしさを覚えるものであれ、そこだけはやってみる。

 

見つかるか?見つからないか?ああ、ここまで書けば恥ずかしくなってくる。本当にそうだったな。博打なのです。評価の海へ投げ出すのです。それでもやるんでしょう。せめてそれくらいはやらせてほしい。何かの成果がほしいのです。己を確かにしてくれる何か。糧を得られること、精神的な糧を得ること、日々を無為にしたくはないのです。

また明日。

 

参考書籍 :