欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

目指すべき日々に導くもの 小さな人生

以前は夜中に歯ぎしりをしていた。今もそうだけれど、少し前は強めに力が加わっていた。あさ起きた時に、まず痛む歯を感じる日が多かった。今はそれ程ではなくなったけれど、時々そのような日がある。夢の中でもその感触があったりする。夢で動き回るなかで、痛む歯の感触があった。

ここ一年から二年の辺りで大分歯が削れてしまった。どうにも改善していかない。難しい。その理由は解っている。やはりストレスだろう。それは万病の元。

確かに一日が終わる時、床に就いてもじりじりとしたフラストレーションが残っている。それは看過できないのだろう。今の生活で衣食住や安全は確保されているのに、どうしてもストレスがある。それはどうすれば良い?答えは出ているけれど、どうやって実践する?

 

センシティブパーソンのネックが立ちはだかる。ただ刺激に弱いのではなく、長引く刺激に対して神経が高ぶりやすいということ。そのところで脆くなってしまう。

どこかでそのサインが出ている。自分だと歯ぎしり、胃の働きの低下、これだろうな。この段階で手を打つことが大切だけれど、どうにも難しい。

家の中に長引く刺激はない。となると、内側からくる刺激がネックになっているだろう。捉え直しの段階は済んでいて、フラストレーションがあるのを理解している。そこでフラストレーションを晴らそうするのだけれど、それが叶わない。そこでまたフラストレーションが生まれてしまう。それが刺激だ。

意識の上ではそれを感じていて、それを何とか満たそうと工夫をしている。でと、それに効果はない。バーチャルの世界に置き換えても、お金が得られても、幸せにはなれないと思う。

住み良い家があり、刺激は抑えられ、自活が出来る。好きに食事を取り、好きに物を得られて、好きに過ごすことも出来る。そんな場所があったとしても、本当の満足はないのだろう。バーチャルに委ねて成果があったとしても、何か必要な要素は欠けたままだ。それを見つけ出そうとさ迷い続けるのだろう。何かが足りない。

 

ナチュラルな自我や、ありのままの声は取り残されたまま。幸せにも健康にも届かない。内なる声は、身体や心に現れ続ける。

それをどのように解決していくか。身も心もどこかが蝕まれている。歯や目など、消耗して不可逆的にもなるだろう。在るべき生活はある。それを始終願っている。だとすれば叶えるしかない。

後は進むだけなのに、何も出来ない。個人で行えることはやりきっているはず。今までの文章がそうだ。捉え直しによる原因を突き止める作業。それを行い、自分の人生のマニュアルとカリキュラムを創る。大まかな目途を認知し、認識していく。それを実践して実際に学ぶ。そのなかでも絶えず結果を繰り返し、検証していく。

 

今は以前と比べれば、より精密な原因が解ってきた。看過できないものを見つけている。そこに向き合ってこそ何かが得られる。

生きていく上での糧。自分にしか持ち得ない資質。それを得ること。それを用いて生きていく。成るべき所へ成りに行く。少なくとも、この家の中で生きていても変わらない。ではどうする?それが厄介だ。

アーロン博士の著書に、「精神的なアンバランスを示すサインを発したら、もっと遊ぶように自分を仕向けよう」と、記されていた。自分で言えば、歯ぎしりが起こったり、胃の働きが落ち込むことがサインだろう。

自分の遊びとは何だろう。誰しも忙しすぎては参ってしまうし、暇すぎても苦痛になる。バランスを取ることが大切で、その中にリラクゼーションの遊びがあるのだと思う。それはいったい何だろうか。

 

恐らくは人と会うことだろう。それがずっとある。ここにも記してきたし、心の声はそこを指している。看過できないものはその要素だ。

これもアーロン博士の著書に記されていたことで、いつも自分を情けない気持ちにさせるものを観察すれば、それが自分の秀でた機能だと解るらしい。その機能は四つある。自分は感情に秀でていると思う。今まで生きてきてネックになったものは、HSPの性質があった中の「感情」にまつわることだ。

 

幼稚園時代にさかのぼって考えれば、入園式の時点でそれらが現れていた。いきなり刺激の濁流の中へ押し出された自分。ひたすらに泣きじゃくっていた。刺激に圧倒されてしまっていたため、そのように表現する他なかったのだろう。それを母親がたまに回顧する。

その調子で小学校に入学しても、根本の性質は変わらなかった。これといった理由はなく通学することが辛くなり、フェードアウトしていった。一時的な刺激の増加でパニックになってしまった。

周囲のクラスメイト達の視線が怖くなった。それでまたパニックになってしまう。その対象がクラスメイトとなってしまい、痛手とリンクしてそこを回避しようとしてしまった。うつや不安感に覆われ、そこに通うことはなかった。その後は別々の道を歩んだ。自分は痛手に足を取られ、まともに生きられなかった。

 

家族と過ごしていたってそういったことが起こる。過去の痛手とのリンクが大きく占めているけれど、やはり刺激にとことん脆い。刺激に慣れたとしても、無理をしてしまえばすぐに駄目になる。外食や会食、遠出をしたりするのは厳しい。学業も仕事もすることが出来ない。

見えない何かに覆い尽くされてしまいそうだ。いつまでもこの生活を続けてしまうのか?親はいつまで健在で居てくれる?この町で自分はどのように生きていく?健康になるためにどうやって病める身体を癒す?どんな手段がある?この身体でどうやって切っ掛けを掴みに行く?

 

やるべきことをしないといけない。成されるべきだったことや、これからすべきことを知る。良くも悪くも感情だ。そこからは離れられないのだろう。

遊びは細かくはある。それを楽しむことは出来る。でも、じりじりとしたフラストレーションを解決はしてくれない。それを実際に解決しないといけない。

ストレスの低減でどこまで進んでいくのだろうか。それに進歩を委ねてみる。命を建設的に巡らせていくことが必要。そのための基礎的な体力を生む要素が運動だけれど、それで現実的な改善策になるだろうか。そこで身体が上向いてくれば良い。

 

小さな人生」で良いから、そのような日々を送っていきたい。自分なりの喜びを確かに感じられて、出来ることで世の中の歯車になること。エネルギーの行き先を知って、それだけを満たすことが出来れば良い。

そこにほんの僅かの健康とがあれば良い。自活をして、ストレスに蝕まれることなく満足をしていく。

でも、自分は何をすれば良いかが解らない。何をもってして喜びとなる?これが"遊び"にも繋がると思う。画面の中でもなく、自然相手でもなく、音楽でもない。自分に欠かせない大きなピースは何?健康へと辿る道は?幸せとは?満足とは?

 

運動や何かの喜びで満たされたい。それで生きていけたら良いけれど、どうにも難しそうだ。現実的なことでもあり、非現実的なことでもある。自活が出来るのか?外の世界へと出ていかなくても生きていけるのか?

いずれにせよ、どちらにも限度はあるだろう。外に行きすぎても、内にこもりすぎてもだ。自分なりの好ましい人生でないといけない。思い描いている未来は、それはそれできつい。では、外の世界へと適応しに行く?

どこに快適な場所があるのだろう。不健康の中で世を忍び、切っ掛けが湧いてくるまで待ち続ける?抜本的な改善が遠い日々を送る?受動的でいる?

 

自分の力では動かせないことばかり。ストレスを感じず、美味しくご飯を頂けて、仲間と騒げたら良いのだろうな。生の感触がある日々を送ることが出来れば、それが生き物のすべてだろうな。

少しづつでも進歩があれば良い。はてなやnoteを始めたのはそれを求めているから。せめてそれがあれば変わってくるけれど、そんな夢みたいな話はない。目に見えての成果はなかなか得られない。

自分の年代では、立派に実社会へ歩みを進めた人もいれば、まだモラトリアム期間でいる人もいるだろう。ただ、後者の人であっても学業が本分だろう。自分もそのようなものかまほしい。

はてなのような成果のないものを立脚点にするのは難しい。自分なりに励んでいるものではあるけれど。

 

病めるなりに文などで成果が上がれば、それが本分になる。生産にはなっていないけれど、自分なりの生産活動をしている日々。積み上げているものがあれば良い。そうなれば、無為に日々が失われていないと思える。

小さな人生で良いから、それを満たすための要素が欲しい。自分なりの小さな日々。自分なりに出来ることをしていって、それなりの健康のなかで満足を得る。人にアプローチしてみたり、ソーシャルな場へと出たりする。

喜びを見つけ、根本から健全になる日まで積み上げていけたら良い。病めるなりに励み、それが自分なりの人生へと進んでいて、自己実現を迎えて幸せになっている。そのような日々を送っていきたい。

 

ほんの少し、ほんの少しだけストレスが低減されたら何とでもなる。基礎的な体力が得られるの環境を作りたい。そのなかで小さな人生へ向けて積み上げる。

特別に親密な人が数人居れば良い。身近にだ。話を聴いてくれて、温もりを感じられて、感情型の喜びやフラストレーションが満たされること。それだけで良いと思う。結論はそう。

健康と自活。捉え直しと日々励んでいること。

いま課されていることは、まだ捉え直しの段階なのだろうか。心が入れ替われば、ひょんなことが切っ掛けになったり、切っ掛けを逃さず捕まえられたりするのだろうか。時機はまだなのだろうか。

とにもかくにも努めて励まないとな。

 

また明日。

 

参考書籍