欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

代わり映えのない日々のエネルギー 意欲のやり場

快晴の日。雲ひとつない晴天。日の光に照らされて辺りを歩く。今日はいつもより歩いた。ただぼんやりと歩く。それが在りたい日々へ繋がっていく要素だと信じて進む。平日の早い午前。

いつかの皆は何をしているだろう。そんなことが浮かんだ。相も変わらず同じ道を歩む。晴れ渡った青い空と、いつまでも同じことを繰り返す自分。

通っていた小学校の側を歩く。住む世界の距離も何も変わらないな。時が止まったままだということを示しているよう。同郷の皆はどこへ行ったろう。わからない。何年間で一人。部屋の中一人。気がつけば一人。

 

実質的に孤独な気持ちは見過ごせないものになっている。身体は蝕まれているのだろう。症状とはそういうもの。病的な痩せ。外的な刺激にとにかく過敏。それらはお互い複雑に絡み合っている。

どちらが先に生まれたものかは解らない。悪循環に陥ればそうなる。何がというものは見つからない。ただ、悪い流れが自然と生まれてしまう。

素敵な人が居れば良いけれどな。人が集まるところなど、どこにあるのだろう。それに自分は何も伴っていない。学も、仕事も、生活力も、懐には何もない。

仮に出会いがあっても、物珍しさでしか見られないのではと思ってしまう。仲良くなるとしても、同じような境遇の人間同士の哀れみ合いしかないのではないかと思えてくる。それはそうなるか、あるとしても仮の話。同情してくれるならそれだけでもありがたいことだろうけれど。

 

パートナーが居てくれたら良い。心と心を通わせられる人。でも、こんな人間には遠い話。それはタフネスパーソンであっても難しいのではないかと思う。どこか皆、満たされない気持ちはあるはず。何かに代用して、酔いしれるしかないのかもしれない。

健康、愛情、友情、才能、人、もの、場所、成果。周りの大人たちには立派な本分があるから何も口は出せない。自分だっていつでも追い求めているし、本当の満足はなく、どこか空虚だ。

病める身体には病めるなりの本分があり、良いことも悪いこともある。ある程度の水準があればそれを隠れ蓑のようにして世を忍んでいるようにもなる。

でも、本当の自由はない。生きていく力はない。守ってくれる誰かを失えばすべてが崩れていく。病める身体を癒すというために、時間だけはある。それだけがある。それを活かすしかない。それが本分。健やかになること。

 

何かが欠けていても仕方がない。それは看過ごせないものだとしても、やりくりするしかない。生きているという状態を維持させすれば良いのだろう。食事にありつける事や、ストレスにならない刺激レベルで維持すること。

それが生きとし生けるものの求めるものだろうな。それだけのもの。でも、それは健やかにでないといけない。折り合いをつけていくこと。

 

些細な要素だけがあれば良い。その中身は色々とあれど、欲を出さずに思い巡らせれば、健康のための要素だけあれば良い。感情と刺激。それくらい。

小さな人生を生きていく。それだけで良い。やれることも、叶えられることも限りがある。励んで頑張った方が良いことと、諦めないといけないこと。

そして、喜びのある社会的な作業があれば良い。それを通して自己に充実感を充満させていけたら良い。確かな感触。自分の存続を確かにしてくれる何か。それに出会えたら良い。

全く別個のパーソナリティーによって自分の得意なことを活かせる何かに費やすか、あるいは、情熱や志に導かれるような何かに費やすか。

 

自己実現の道を歩むしかないというのは辛くなるな。それしかないという事ではないけれど、見える未来の像はそのようなものしかない。典型的な大人になれるのか?社会通例的なステップを踏んでいけるのか?

とにかく日々歩んで積み重ねるしかない。病めるなりの得られているものもあるだろう。そもそも一般的に生きる気なんてない。これもまた諦めがつく。

病める分のその状態なりの立脚点を得られている。それで良いし、それしかないだろう。周りとは背中合わせになったのだ。それで良い。別々の道のりで良い。その道のりを迫られたとしても、諦めがつく。在るべき場所へ向かうしかないから。どこかに定まっているはず。

 

とにかくさ迷っている。どうすれば落ち着けるのか、それが大問題。早く自分の存在を確かにしてくれる何かが欲しい。職業の肩書きでも、学生のような本分でも、何かをしていたい。

何か費やせるようなものがない。自分から手を伸ばして掴めるようなものがない。社会の既存のものから選びとる力がない。となると、自分なりのものを生み出したくなる。自分で自分の出来ることに色々と投じてみる。才能の有無、場所、感触、刺激。

 

闇の中から掴むのは困難だ。自分がどこに居るのかもわからない。自分の煩わしい気持ちしか感じられない。

拓けたところはどこだ。何をするにも中途半端。宙ぶらりん。病んでいるのか、廃人なのか、それとも活動できるのか?

病めるなりに積み上げたいものに励めない。本を読んで勉強するにも、全く身が入らない。気を散らすのは、「つまらない」という気持ち。安直に他の事へ移行している。情けなく思う。

 

今の状態で行えることは一つしかないのだろう。煩わしいことを晴らすこと。そうしないとエネルギーが身体から離れてしまう。向かうべきやり場は決まっているはず。

それが病人の本分でもある。身体を癒して、エネルギーを建設的に用いる。エネルギー手持ち無沙汰にしてはいけない。まずエネルギーを内へとどめ、そこから外で発散する。それがないと症状へと繋がる気持ちが募る。身体を改善しないと何かに費やせない。

学生なら学生をすれば良い。働くのであればそうすれば良い。誰にも口を出されない。安直に刺激を求めても良いし、学びを深めても良い。自分にはそれがないのです。それが苦しい。病めるなりの本分も何も果たせない。

最近読んだ本の中に、「成長しつつある子供が生き生きとした現実感を獲得するための要素」という事が記されていた。それは、二つの要素があるらしい。

一つは、経験を積み重ねていく自分自身の独自の生き方が、自らの属する集団アイデンティティの中で成功した一事例として認められている、という自覚。もう一つは、そうした自分独自の生き方が、集団アイデンティティの求める時間=空間やライフプランと一致している、という自覚の二つ。

自分のストーリーが集団から認められるか、という事と、自分のストーリーや技能が集団の求めと一致しているか、という事だと思う。利害関係がなく、集まりから認められるか、あるいは、組織の一つの目標へ向けて役立つ存在であるか、という事だと思う。成長しつつある子供にはてはまるとのこと。

成長した大人にも同じことが言えそう。自分がよく言う、「自分の存続を確かにしてくれる作業、感触」は、こういったことなのだろう。組織の中で自分の何かが役に立つか、在るがままの自分自身を組織が認めてくれるか。

 

確かにそれがあれば良い。豊かになるはず。立派に生きている大人は、そうやって生きている。そうやって活動をして世界が回っている。だから、自分もそのように過ごしたい。

そのようなものからは逃れられないし、逃れる気持ちもない。その願望に導かれたい。そのような感触に触れたい。

noteやはてなに置き換えれば、確かにそのようなものを求めているのだと感じる。自分の書くことが認められるか、ということ。自分のナチュラルな部分や、生み出せるもの、エネルギーの向かう先が集団にとって受け容れられたり、評価されたりするのではないかと思って期待してしまう。

そうだ、ずっと思っている。でも、結果は芳しい。自分は続けていて満足できているけれど、それは人から見て、果たしてどのような価値があるのだろう。自分にとって、人にとって。

 

結局自分はお金が欲しいのです。確かな感触によって対価が欲しい。人との繋がりを求めたいという事よりも、人からの評価。自分から需要に答えることは出来ないから、価値があったりしないか、と、そんなことを思っている。馬鹿らしくも。

自分のエントリーが表示されているのを客観的に見たけれど、ぞっとしてしまった。自分はこんなことをを書いていたのか、と。人から良く思われたいという欲求と、個人の中の自分に対する評価が行き違っている。人の目に触れるところへ掲示していたいけれど、客観的に見てしまえば、自己否定感覚が自分に向かう。それしか持ち合わせがないから。

 

ものを創るには、見えないところで創るのが良い。創作は人力車。見えない所で自分なりに走ってみて、そこでスピードがつけば良い。前提が整う。自分らしい表現を何の不純物がなく創れることが一番。

そのなかで人の居るところへ出ていければ良い。少しづつ客観的な視点が得られたら良い。何の欲も無しに走ってみる。

最初は恥ずかしくとも、好意的なリアクションを示してくれる人が居たら自信になる。有益なものなのかもしれない。そんな素晴らしい表現が見つかれば良い。後はずっと走るだけ。注目が集まれば良い。走り方も自信もついているはず。信じて自分の創作をし続ければ良い。

noteは見られて、はてなは見られない。どちらも辛い。良いことは、待っているだけでは舞い込まないのだろうな。能動的に動いていかないと。

自分はとにかく評価が欲しい。それ含めて確かな感触を求めさ迷っている。SNSはどうなのだろう。ああ、見られたくもあり、見られたくない。

 

どこに何があるのだろう。確かな場所。

 

また明日

 

参考書籍 :