欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

日々の満足に必要な場所 人の心との距離

最近、ほんの少し体重の上限が上がりつつある。ほんの少しだけ。でも、昨日は少し下がって落ち着いていた。それでも、少し前から比べれば増えている。毎晩の勝負。数百グラム単位の話だけれど。

でも、結局は殆ど変動はないだろうな。食事量はあまり伴っていない。結果は正直。結果には原因がある。成るべくしてその数値は生まれている。食事なんて大皿から一人用の皿へ移せば微々たるものだ。ご飯は茶碗へ移しているからわかるけれど、全体の食事量は悲しいくらいの量だった。

 

そう考えると一喜一憂する必要なんてないのだと解る。ナチュラルにご飯を頂くしかないと解る。でも、それでも考える。日々の拠り所なんて何もないから。暗闇の中では、ただ確かな感触がほしい。

身体という原資があれば、学校でもなんでも通える。それが今の日々を抜け出すために何としても欲しい。どうしても思ってしまう。

ある程度の体力は必要で、それを満たすことは一理ある。けれども、闇雲に掴もうとしてしまう。そうしてもつまずくだけ。抑圧をして無理をしてしまう。それでも頼りにしてしまう。

テレビでこんな事が放送されていた。

ある著名な方の朝ごはんが伝えられていた。その朝ごはんは、フルーツと白湯だけだった。それを見ていたタレントの誰かがこう呟いた。

「えー、お腹空いちゃう」と。

色々な事が頭に浮かんだ。なんだか浮かんだ。日頃の自分に向かって言われた気分になった。ナチュラルでリアルで、的確なトーンだった。

確かにそうだ、自分は意識して食べても量が少ないし、腹にたまらない。すぐにお腹が張ってしまう。

日頃の食事をタフネスパーソンに見られたら、同じような反応をされるだろうな。経験がないだけで、家の中に居てばかりで刺激がないだけで、そう言われてしまうだろう。人に見られないだけだけれど、見せられないな。そのタレントの言い方は、どこかに突き刺さっていて、ふと蘇った。その人はタフな方なのだろうな。そう感じた。羨ましい。

 

なぜ普通に生きているだけなのにうまくいかないのだろう。脂肪も付かないし、ストレスが付きまとう。隠遁生活をする他なく、刺激への感度もとことん鋭くなる。生活の様々な要素が複雑に絡み合っていて、外へ出るにも、内にこもるにも容易でない。学校に行く事や、仕事をするなんてとんでもないくらいだ。快適であるはずの家に居たって元気が損なわれてしまう。

外へ出なくてはならないのに、内にも居ないといけない。でも、内に居すぎては疲弊して、外へ出なくてはいけない。内に居なければいけない理由もあるのに、外へも出なくてはいけない。

体力はなく、人が集まるような場所がなく、そのような所があっても行く理由がない。学を積んで生きていく気もないし、そもそも無理なのだろう。かつてのように、わざわざ隣街まで行けば良いのだろうか。それは一理あるけれど、過去のフェードアウトしていった事にも理由がある。わからない。

 

ただ優しい人が居て、存続を確かにしてくれる何かをたぐって生きていけたら良い。恋人、友達、賃金の貰える作業、喜びを感じられる作業。これらの何かがあれば良い。成果のある生産活動と、無償の肯定。それだけで良い。生活を大きく変えられなくとも、そこが得られたら良い。

でも、結局ずっと変わらずこの調子で生きていくことになりそうだ。そんな気がする。全く変わらず、無為に無為に。

外へ出るということは難しい。でも、叶えないといけない。元気にもならない。一人で生きていく力が育たない。貯金も親も、いずれ失うのだ。自活力、生活力、パートナーと組織との出会い。あと一歩なのに。

 

煩わしい事から解放される日はくるのだろうか。そんなことを思う。アーロン博士の本には、人生の後半にかけて必ず解放の時がくる、と記されていた。いつかくるのであれば良いけれどな。その本のコンセプトが十分理解され、普通に生きていく事が出来る日は近い、とも記されていた。

あと少しなのにな。少ない人と特別な親密関係を築けたら良い。ナチュラルな自分を認めてくれるパートナーが居て、ナチュラルな自分を認めてくれる集団があれば良い。

センシティブパーソンの真価は、親密な関係下で発揮される。深く自分を理解してくれる人と共に歩む事が大切。

単純で画一化された空間に居るということは、辛くなると思う。下品に周囲との連帯を深める人物は嫌だな。そういうトーンの人物とは、真価を発揮できないだろう。そのような人物が組織を固定化するのだろう。一旦立ち止まるという事を知らずに。ほんとうに大切なものを見逃す。憎まれっ子世にはばかる。

 

noteかはてなで成果が出れば良いけれどな。目標としているクリエイターがいる。その人のようなパワーがあれば良い。自分は難しそうだけれど。そう思って始めている。

もの作りというものは、評価の海に曝される。それが耐えられなくなってnoteを中断している。

でも、はてなではリアクションが少ない。いや、自分が工夫すれば変わる話だけれど、変えられない。恥ずかしいから。人目につくところに貼り出せない。怖いから。否定されたくないから。

 

でも、良い風に思われるのではないかと信じ込んでいる。それが衝動を生んでしまう。

人と親密になりたいという事や、人からの評価を得たいという事。どちらも大事。欠かせないこと。そうやって生きていくべきだろうから。集団と共に生き、親密な人と歩む。その本能に導かれるべき。

でも、それらの要素がSNSと交われば辛くなる。自分が持っている否定感情を拭いきれていないから。良く思われたいという気持ちと、自分自身を強く否定している気持ちがお互いにぶつかり合う。その中間で、創作をしていきたい気持ちや、親密さへの欲求が振り回されてしまう。

 

今は、ずっと立ち往生だ。やるべき事を置き去りにしているから身体へ症状が出る。行うべき事がある。確かにある。

noteへHSPフィードバックを上げたい。引っ越しをしたい。かつての知人と連絡を取りたい。

今やり残していると思うことはこれ。それさえ出来れば良い。

 

良く言えば瞑想の世界は鮮明に描いている。

どうなるかな。

 

また明日。

 

参考書籍 :