欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

内なる教師の声 特質を支える劣勢意思

昨日、また少し体重が増えた。何百グラムの行ったりきたりから、その桁の横の数字が一つ変わった。一キロずつ刻んで考えているから、それだけでも次のステップへ進んだと思っている。

もし、それが中身のある結果ならそれだけでも快挙だ。でも、たった二日続けて上向いているだけ。それも数百グラムでの話。

 

つい最近、在るべき心の持ち方を認識したはずなのに、またそこにすがってしまう。大した手応えもないのに、滑稽にも一喜一憂してしまう。ただ、何だかそういう時に数値は上がっていくことが多い。きちんとした成果なのだろうか。

下がっていったとしても、やることは同じ。ナチュラルにご飯を頂くこと。抑圧をせず、無理をせず、何も意識せずに食べていくこと。そうすれば自ずと結果が出てくるはず。

 

そのためには土台を整えること。病的にセンシティブにならない事と、ご飯を受け入れられる態勢を整えること。

病的なセンシティブさは、もうない。捉え直しで随分良くなった。闇雲に無理をして健康な身体という拠り所を掴むことはなくなった。やるべき事を認知できている。

 

そこから身体を整えることが大切。身体的、精神的に養生をすること。身体で言えば、運動をする。外へ出て身体を動かし、日の光を浴びる。それだけでもかなり違う。気分も変わるし、食欲が出る。そうすればエネルギーが得られる。

そうなれば食事が変わる。すると、睡眠も変わる。睡眠が変われば食事が変わり、食事が変われば身体が変わる。身体が変われば運動が変わる。等々、好循環の入り口に立てる。

そうすれば、胃袋の上限を上げていける。意識して腹九分目を意識すれば良い。それが持続すれば後々で変わってくる。

 

これらの必要な作業は、条件が整わないと行えない。それが身体と心の養生。もっと抜本的に、それは心での養生が必要だけれど、ある程度の体力を付けるのには、ひとまず運動などから始める。そこからでも歯車は回っていくはず。

以前は病的に無理をしてばかりだった。それでは何も変わらない。大切なのは、学ぶことだった。認知を得れば認識が変わる。認識が変われば行動が変わる。行動が変われば日々が変わる。

 

これが良い循環を生めば良い。安定はしている。そこから停滞しつつあるけれど、これらの事を意識して、且つ無闇やたらに頑張りすぎなければ良い。睡眠、食事、運動のリズム。これらが噛み合えば良い。

母親によく言われる事がある。

「自分で買ってこれるの?」

という一言。この前の喧嘩のようになった時、いつにも増してこう言った。そこまで言うなら自分で物を買ってきてみろ、という事。

今はそのように自立できるような日々へと努力をしている最中で、何とも無知で腹立たしくなるけれど、母親の本音だろう。心配して言うのだろう。せめてそれくらいの事は出来てくれよ、と。

田舎は恨めしい。痩せっぽちでなくとも大変なのに。生活圏が広い。店もない。病院も数十キロ離れた町に罹り付け病院がある。生活圏にそれらがあれば良いのに。バスで移動でき、役所にも病院にも罹れ、そこで小さな人生として完結すれば何にも替えがたいものなのだ。少ない適応でやっていけたかもしれないのに。

父親とそのような話をしている、ともうっすら言った。我が家はいずれ引っ越しをする。その先の事を想定しての事だった。いずれは祖母の家へと引っ越しをし、その家を建て直せば良いのだ、と、そう言ったらしい。そうすれば、○○が暮らしていける、と。

時の流れは早い。早いというよりも、どんどん年代が迫ってくる。自分は何も成長していない。生きていく土台が整備されてもいないのに、一般的な年代ではとっくに大人をやっていく頃になっている。それが恐ろしく感じる。自分は何も伴っていないのに。健康もない、ソーシャルスキルもない、生活力がないのに。

親は老い、世代交代が迫ってくる。親の力を借りられるのはいつまでだろう。土台を造る工程までは親がいてくれないとやっていけない。いや、生きていけなくなる。それが現実。それが情けないし、悔しい。

親はもう、それくらい先の事を考えているのだな、と、感じた。それで怖くなった。どのようなトーンで言っていたのかが解った。それが真実かはわからないけれど、老後を越えて、死後の事を考えている。もうそれくらいなのか、と、痛感した。

 

自分の胸の中は、小学生から変わっていない。あの頃の、一般の通例から脱落して以降、何も育まれていない。ナチュラルなパーソナリティーは小学生ぐらいの幼稚なものだ。何も変わっていない。

皆が一様に成長していくなか、自分は立ち止まったままだった。それどころか骨身が削れていった。通院、入院、誤解、誤診。恥、もがき、あがき、病的な無理のしすぎ。

これから自分は成長していくだろうか。時に追い付くのだろうか。そんなことを思って気分が落ち込んでいた。ほんの少し。その後はいつもと変わらない日常が変わらずあった。でも、それはいつまでも続いていく訳ではない。冷静に振り返ってみて少し怖くなった。

でも、やるべき事はいつも同じ。今は引き続き勉強する事と、ある程度の身体の土台を造ることが大切。それがすべての基礎になる。それが叶えば大きな第一歩になる。もう後退することはない。大きな大きな財産だ。何にでもなれる。在るべき場所へと進んでいける。

 

後は、些細な要素があれば良い。心身のバランスを補うエネルギーを得ること。それがあれば、それさえ満たせたら良い。内なる声、内なる教師が導く先の未来。

その要素は解っている。普段からここに記している事だけれど、それが改めて必要なのだと、最近、頭の中で発火するようして点と点が繋がった。日頃抱えているフラストレーションと、そこからくる問題点。それを解決するための道筋と、新たな問題解決のための認知。

内と外とのエネルギーを適切に分配し、それを維持すること。人は、自分にとって使いやすい特性を持っている。普段はそれを自然と使いこなしていて、最大限活かそうとしていく。でも、そればかりを過度に使っていると、やがてエネルギーが枯渇し、バランスを崩してしまう。

バランスを崩した時には、普段の自分が意識的に使うことのない、弱い部分からのメッセージが出される。それを受け取り、従い、育むこと。それが大切。

自分の強い部分が効果的に発揮されている時、それを支えているのは弱い部分だ。得意な特質の対になる部分。右利きの人だと、それは左手。左手の支えがあって右手が機能する。右足でボールを蹴るためには、左足が軸足になっていないと強く蹴ることが出来ない。強い部分の反対にある、なかなか上手く使いこなせない性質。それが鍵になっている。

 

強い特性を使用してばかりだと、うまくいかない場面が増え、それどころか全く機能しなくなることがある。強い特性だけを過度に使用した場合、必要な資源が得られなくなる時がある。

自分の場合、外側から曖昧なものを感じ取り、内省しようとすることが優位に働く。それは、外側から確かな情報を得てこそ成り立つ。

でも、それを煩わしく雑多に感じ取ってしまい、外側の確たる情報が得られなくなる事がある。刺激を避け、回避的になりすぎる時がある。そうなれば無闇な妄想に陥り、病的にセンシティブになってしまう。人の物笑いの種になってしまうことがある。そして、やがて心のバランスが乱れ、必要なエネルギーが失われてしまう。

 

必要なものは、外側の事実。それは主に感情。人の感情を、少ない事実の一点だけで曖昧に内省することは、特性なり得る。でも、何らかの原因で外側の事実(感情)を受け取れなくなれば、病的になる。

人を調整し、導くものは弱い性質。疲労困憊の時や、ストレスに曝された時、アルコールを飲みすぎた時などには、普段の自分が無視し続けてきた弱い部分が現れてくる。強い特性が闇を見てしまっている時、そこに光を当てようと、バランスを取るために弱い部分が現れる。それをしようと支配する。

そのようにバランスを取るのは、それをすることが出来るのは、相互的に結び付いている対の性質だ。弱いところに支配される時は、心に欠けたエネルギーがあり、それを補うことが必要だと知らせているのだ。

 

でも、その弱いところをないがしろにしたら?内に籠り、刺激を避けようと、極度にセンシティブで、妄想的な人間になってしまう。それは心のエネルギーバランスが狂ってしまっているから。

自分は、その枯れたエネルギーを補おうとして、闇雲な抑圧に陥っていたのだった。心地よく家族の感情を得ることが出来なくなっていた。HSP的なネックがあったから。そのなかで無理のしすぎへと繋がっていった。

快適さが失われ、外へ出ることが出来ず、内に籠りすぎていた。そのなかで失われたエネルギーを補うために、抑圧をし、とにかく身体を上向かせて外の世界に太刀打ちしようとしていたのだった。

 

感覚的に物事を知り、考えることが大切だった。そこにアーロン博士の著作から得た認知があった。それを他の人に理知的に伝え、他の人から好ましい感情を受けと取ることが重要だった。

家族との関係性が変われば、病的なセンシティブさは緩んでいった。そのなかで身体が好ましく上向きつつある。

 

今の自分は、内側に居すぎている。センシティブになりすぎて、外側の刺激が未知のものになりすぎている。そうなると刺激の少ない生活になる。

すると、一番使うはずの特性のエネルギーのやり場がなく、妄想に陥り、心のエネルギーが欠けて、ただ消耗してしまう。だから心の養生が本質的な必要。それが根本的な解決策になっている。

何が言いたいかと言えば、人と会わなければいけないということ。ここで普段からずっと繰り返していることだ。その理由が解ってきた。

心を通わせないといけない。ブラスの感情が必要。そうすればHSSのフラストレーションも晴らせて、神経の長期的な高ぶりが収まり、身体が楽になるだろう。抑圧をして不確かな拠り所を手繰らなくても良い。

 

誰か心音を感じさせておくれ。ということ。それで良い。それが良い。今の生活は刺激が無さすぎる。HSSの意欲は対人関係にほぼすべて向かっている。でも、その刺激に弱く、でも、刺激を求める。

だとすれば、次の局面は、ソーシャルの場で豊かな関係性を築くことが大切。そこでエネルギーを得れば、消耗していくばかりのエネルギーが満たされ、本質的な心身の養生に繋がり、抜本的に身体が上向く。HSS(刺激追求)のフラストレーションも低減され、ストレスも減っていく。

徐々に外側の刺激に慣れていけばソーシャルスキルが身に付いていく。普通の生活を送れる日々が近くなるだろう。そしてそれは、在りたい日々へと導いてくれ、いつかの自分の大きな財産となるだろう。

 

実生活においても、バーチャルな世界においてでも、これらの要素を手繰り寄せ、育むことが解決への鍵となるはず。

実社会での活動や、ソーシャルな場所での関わり、はてなやnoteでの心持ち、日々の消耗とフラストレーション、これらの根底にあることは、そういったものだろう。そこに取り組めば、世界は拓ける。

 

快適な場所で、自分の辛いことや、恥ずかしいところを受容してくれる器のある人と出会いたい。愛情でも、友情でも良い、それを糧にすれば何でも出来る。身体が整う。

そして、自分の適応を可能にしてくれる場所に出会えたら良い。自分自身の独自の生き方を認めてくれる集まりがあれば良い。

いずれその弱いところを活かして健康になり、強い特質の本当の使いどころを見付ければ良い。

 

自分の存続を確かにしてくれる作業、人、集まり。人の感情の曖昧なところをまとめる。伝える。導く。育む。

建設的で生産的な本来の特性の使い方を知り、それを活かすことが出来れば、それがその人の生まれた意味となるだろうな。運命であり、天命。健康と、この世界への感謝。何のために生まれて、何をして喜ぶ?

 

また明日。

 

参考書籍 :