欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

不確かな心象と深層の意欲 切っ掛けを掴むまで

今日も散歩へ行く。1日のルーティーン。それを行わなければ引きこもりになってしまうと思っている。いや、既になっているか。最近の外出は病院くらい。ソーシャルの場に近いところで言うと、それくらいしかない。

いや、病院がそこへ入っているのはどうなのだろう。店には連れて行ってもらったりはしているけれど、社会的なパーソナリティーを用いる外出はないな。それが問題。そこから抜け出したい。引きこもっていても、隠遁的になっても幸せにはならない。

 

まだまだストレスの根は深い。依然として顎に力が加わっているのが解る。寝る前がそうだ。布団に入ると、がくがくと力を込めたくなる。布団の中に入れば、段々と自分の匂いが感じられて心地良くリラックス出来る。

でも、どこか胸の中にすきまが空いている。それを埋めなければ、と、どこかから力が加わっているのだろう。何かのエネルギーが余っている。活動するには力が足りていないけれど、精神的にはエネルギーが余っているという感じだ。

運動をして、食事も心地よく腹に収まったとしても、本当のエネルギーは満たされていない。あるべきエネルギーは欠けたままだ。別の方向へと得られた力を使おうとしている。そう感じる。

 

それは夢にも現れてくる。過ごしたい場所と、過ごしたい人達。こうあったら良いなと思っていた世界や、自分のナチュラルな感情が発現されていく。

欠かすことの出来ないものはある。それを求めようとしている声は、意識のレベルへと上がってきている。でも、やり場がない。

バーチャルに求めても意味はないのだろう。今の自分が求めている必要な要素は、そこにはない。前提を整えてから挑めば良い。順番が逆になっている。

人の確かな心を感じ取ること。それが肝要。それが心身の栄養になり、養生だ。いつであっても必要なのだ。

過去に元気だった時は、この要素を得られていたから健やかだった。最近それに気がついた。原因の捉え直しが更に進んだ。心身にエネルギーを補給出来れば、やがて健やかにもなるだろう。

 

常に周囲からの曖昧な情報の意味を探り続けても、やがて疲れる。意味がないものもあるし、直観とは異なる事実がある場合もある。

特に自分は、周囲の人の感情を求め、その意味を求め続けるのだろう。何らかの理由により、その感情を求めることが阻まれた時、よりセンシティブになってしまう。その前段階で人と会うことが出来なくなっているのだから、より内にこもってしまう。

内側で過度にエネルギーを用い続けていれば、その間に外へ向かう意欲やエネルギーはないがしろにされている。それがフラストレーションとなり、内側からくる刺激となる。これが由々しき問題を生む。

とにかく個々人同士の会話が必要。少なく狭い関係性の中で過ごすこと。不特定多数の群集の中に居れば、煩雑な情報にまみれ、曖昧な心の感情を求める内向直観がパンクしてしまうだろう。人にどのように思われるか、嫌われないだろうか、それらは果てしなく重要な事柄だ。

でも、その曖昧な心の真実を確認するまでには至れない。身体が悲鳴を上げ、パニックに陥り、真実の確認よりもその刺激を再び感じないようにしてしまう。となると回避的になり、病的に身体が蝕まれ、別個の新たな問題が発生する。

 

人との接点は、自分から求めないといけない。でも、どうやって求めれば良い?出来ることが限られている。学校や、アルバイトをすることは出来ない。一般的な社会的接点を持つことが出来ない。まだまだセンシティブだし、身体が極端に痩せている。力がない。その場所へは、刺激への耐性がないから通えない。

だから、その前段階としてのエネルギーを得られる場所が必要。それを求めている。でも、それがないから困っている。そこしか求めていない。そこだけで良いけれど、それ以上の場所を求められない。そのせいで見つからない。

少ない範囲で、個々人同士でエネルギーを通わせること。でも、その場所がない。とにかくその場さえあれば良い。身体が整えば、何にでもなれる。可能性が拓ける。それがすべての前提になる。

それをバーチャルに求めても意味がない。社会的なパーソナリティーのための接点であれば良いけれど、必要なのは、現実での確かな感触。確かな心の真実が必要。

そこを得てから、好きに本来のエネルギーを、本来の好ましい使い方で用いていけば良い。人の心を、外の心を感じてまとめれば良い。どうすれば良いのだろう。

 

可能性としては、唯一の人の行き来がある場所がある。そこへ行くことが、少ない切っ掛けを掴むのに行うべきこと。

ああ、自分は何も変わらないのだな。行うべきことが周りとは違うのだ。周りは社会への順応だろう。順応性を集団生活の中だったり、画一的な指標で高めること。

自分は、とにかく自己との折り合いをつけること。ああ、何年間もそこに足を取られているのだな。病院、入院、痛手、病的。成長や人生はまだ始まっていない。何年も、何年も。

 

でも、その基礎を創る段階とは言える。すべての基礎を創るために時間を与えられたとも捉えられる。その基礎を磐石に造り出せたとなれば、過去の自分には持ち得ない素質を得られるのだろう。何にも替えがたく、自分の大きなエネルギーを活かすことが出来れば、大きな価値を生む。

全ては折り合いを付けることで決まる。そう感じる。喫緊の課題だ。少しの要素を得られれば、歯車は回る。そこにさえ辿り着けば、日々を無為に空費することはなくなる。素晴らしい未来のために進んでいると感じられる。それがほしい。

 

今はやはり、準備期間なのか?早く進んでいきたい。在りたい未来へと、生き生き過ごしたいのです。

健康を手繰り寄せるのは果てしなく難しい。でも、それさえ満たせたら、後は簡単な気がしてくる。後は内なる声に耳を傾け続ければ良い。健康にまつわる内なる声に耳を傾けられたのなら、その先は、直観の赴くままに進めば良い。

楽しみではある。このカリキュラムを学びきる気持ちだけはある。どうなる?

 

また明日。

 

参考書籍 :