欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

必要な刺激の資源 歯車を回す初歩的な鍵

今日も同じようなルーティーンで一日が始まり、そして同じように終わっていく。本当に大切なものを得ることが出来ないのであれば、生活が満たされていくことはないなのだろう。改めてそう思う。

必要な要素を少しずつ集めていかないといけない。それも決まった順序があるのだろう。自己実現の最後のゴール目掛けて何かを始めても空虚だ。心のどこかに歪みがあるうちは、そこから始めないと。適切な原因の認知から、やるべきことを弾き出さないと。

これからも勉強だ。それをしなくても良い日はないと思う。生涯勉強。学ぶことがなくなる日なんてない。

メンタルの事は特にそうだと思う。生き方の問題。自分で自分の事を学び、自分で癒していくということが大切なのだろう。自分は、プロに傾聴してもらっても何も変わらなかった。内科医に見てもらっても何も変わらなかった。必要なことは、自分で自分を知ることだった。学ぶこと。必要な処置を知り、必要であればカウンセリングを受けたり、科学治療をお願いするのが良いのだと思う。

マズローの「欲求の階層」についての書籍を取り寄せた。以前から気になっていた人物の本だった。

それを読むと、やはり必要なステップには順序があるのだと改めて感じた。階層の優先順位は、固定的とは限らないと記されていたけれど、大体は低次の欲求から満たそうとするのだろう。満たされている階層が多いほど、その人は健康であるという。自分は、初歩の段階から欠けているものが多い。

生理的欲求の欠如は病気を生む。安全が失われていなければ病気は防がれる。所属と愛があって病気は治る。

この辺りは自分の現況と重なる。やはりそれが必要。それを満たしてこそ、自立や自活へと進み、それを構築することへ努められる。今は、その前の段階。

 

どれほど未来を不安に思っていても何も変わらない。無為に時が過ぎるのみ。必要なことは、困難の原因を知り、適切な始めの一歩を踏み出すこと。何かを手に入れられた暁があったとしたら、それを得られるような日々は、始めの一歩から着実に積み重ねた先のものなのだろう。

闇雲に焦って先走ったとしても、中身のある成果は得られない。やがてつまずいてしまう。そして、半ば強制的に弱い部分と向き合わざるを得なくなる。

自分のエネルギーがどこへ向かうべきなのかを知ること。在るべき場所に辿り着くための必要な要素を手繰り寄せなければ。

 

自分で自分に対して偉そうに説法を垂れてみる。内省としてまとめてみる。どうにも難しい。言うは易し行うは難しだ。

道筋は解っている。後は、それを手繰り寄せるだけ。切っ掛けを求めること。うじうじ考えていないでやるべきことをやれば良い。簡単に動かせないことはあれど、個人努力でやれることはある。せめてそれを行ってから嘆けば良い。

内なる声の赴くままに進めば良い。不安に思っても仕方ない。先の未来の可能性を考え続けても、現実との差異に嫌になってしまうだけ。せめて初歩のステップを踏めば良い。

 

そうは思ってもなのです。空から降ってこないか。天から救い人が。思い巡らせている人や心がそばに現れてくれたら良い。

でも、そんなことは起きない。自分から求めない限り。人へ能動的に働きかけないと。

未来の不確定な要素は、ネガティブにもポジティブにもある。きっとそう。良くも悪くもみな変わっていく。

 

健康への一つ一つが要素は、複雑に絡み合っている訳で独立して存在する訳ではない。少しずつ取り組めば、徐々に歯車は噛み合っていくはず。

外向感情による心の刺激を得て、それが心身の養生になれば良い。今の生活でそれを得る必要がある。フリースクールや、一般の学校へ通う前の前段階でそれを満たすこと。

親密な関係を構築し、そこでエネルギーをやり取りする。そこで心身が健康になってから次へ進める。それが病気を治すまでの前述の階層に当たる。それを経てでなければ、自分の価値を社会的に認めてもらったり、在りたい日々へと積み上げていくことは難しいだろう。

今の生活を大きく変えることなく、人と会う。それを持続させること。それで身体が満ち、欲求が次の高次の段階へ進めば、バーチャルな世界に承認を求めても良いのかもしれない。

日々が満足しているのであれば、余ったエネルギーを、高次の階層欲求の赴くままに用いていけば良い。そうなれば、進学をしたりしている未来があるのかもしれない。ささやかな満足のなか、社会的な免罪符があり、在りたい日々と下積みの期間を送れば良い。

 

今の日々は刺激がない。一日の中心作業として求めているものがない。画面の感触も、探査的探索も、内省も、表現も、運動も、生活の中核に据えられる要素ではない。細かな刺激の要素でしかない。

生理的な欲求から安全に関わる欲求を満たし、そこから所属や愛の欲求までへと進みたい。それが承認の欲求へと繋がり、自己実現による至高な体験へと繋がる。そのように連続していく何かの要素が生活の中心にあること。それが大切。

 

そのために、まずは初歩のステップから。人と出会い、親密になること。まずはそこだけを目指すべきだ。どれ程未来を不安視しても仕方がない。

でも、この田舎町に誰が居るのだろうか。いや、過去に縛られても仕方ない。求めるしかない。でも、なかなか果てしない問題だ。かなりネックはある。小さなチャンスを逃せない。

病めるなりの満足を、人と親密になるなかで得る。ストレスで身体や命が削られるような段階を脱すること。そこでもまだまだ病める身体ではあるだろうし、社会的な精神的ネックは山積しているはず。病める状態な中で、家族に生活を支えてもらい、代わりにやるべきことをやってもらっている間、自分は出来ることを積み上げれば良い。

 

やがて、経験を積み重ねていく自分独自の生き方を、所属する集団から認めてもらえるようになること。自分のエネルギーを何かに活かすこと。それが大切。そこに至るようなものを、束縛のない間に育むこと。それが仕事。身体を癒すということも同時に進める。

外向感情(感覚)を働かせていけば、やがてそれが基礎を創り、やるべきことを推し進めていけるだろう。社会的存在の存続をバーチャルにも求められるかもしれない。

自分の対人関係でのネックは、内向直感が好ましくなく作り出した認識、迷妄によって生まれると思う。

「この人は自分を否定してくるのでは」

「人の機嫌を損ねてしまったのでは」

「自分の論証は間違っていたのでは」

「自分の能力の可能性は、理想への道筋は、閉ざされてしまったのでは」

根拠のない結論は、少ない曖昧な情報から導き出されたものが多い。外側の事実を感じ取る時間が少ないと、普段からよく用いる内向直感が妄想のような心象風景を移してしまう。それが真実だと思ってしまう。外向感覚を好ましく働かせられなくなるとこうなってしまう。

それは、現実の親密な相手から肯定的なエネルギーを受け取ることが出来た時に解消されるのだろう。

 

プラットフォームにおける相互的な関係性に苦しくなった時も、そのような心理が働いていたのだろう。

自分は理想があり、それを信じ、完遂するために行動を起こす。でも、それは誤った思考であったのでは、と感じられるような事実を感知した場合に自己否定に陥る。すると恥が付きまとう。

他者からの肯定的なエネルギーが足りていない場合、自分の中には自己否定感情の持ち合わせしかない。それを少ない曖昧な情報だけに結びつけ、他者がこちらにその感情を向けているのでは?と、思ってしまう。

 

理想を叶えるための行動を支えるのは、心身に満ちた正の感情であり、無償の肯定だと思う。その持ち合わせがあれば、他者の目線に対して気にしすぎることもなく、過度にセンシティブにもならず、自信のある人間になるのだろう。

となれば、身体は元気になっているであろうし、更に次のステップへと進んでいるはず。高次の欲求へと。より豊かな健康へ、自己実現へと。

 

詰まるところ、立ち返れば、個々人同士の会話が必要だ。自分の存在を確かにしてくれるような人や、その会話が必要。それがあれば、大きなストレスは消える。何もかも変わっていく。人生が変わる。マズローの唱えた「自己実現者」になりたい。

この世界から押したされてしまう日は、いつやって来るかわからない。だから、早く最低限の日々の満足と、前進の感触を確かに感じたい。

でも、まだそこに手が届かない。時間は限られているかもしれない。ただ、焦っても仕方がない。健康を手繰り寄せ、自己実現をする。衣食住を整え、自活し、自立する。これらを満たす日々。

自分らしく生き生き過ごせる人生か、それが出来ない人生か、その両極端のどちらかしか歩めない人生なのだと思う。自己実現する他ない人生なのだろう。それが出来なければ、何も満足することが出来ず、朽ちてこの世から押し出される。早いうちに自暴自棄になり、破滅的に生き、消滅していく。

 

それは嫌だ。どうしても嫌だ。諦めは悪いのだ。正に執着し、今ある身体で幸福に辿り着きたい。人生がある程度続いていけば良いけれど。どうなるのか?

 

また明日。

 

参考書籍 :