欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

些細な満足感の一点 すべての転換点

今日も雨。青空が見えるような日から少し遠ざかっている。心もいまいち晴れない。もうそろそろ美しい光を見たくなる。それは大きな養分になる。せめてそれくらいは身の回りにあってほしい。それだけでも大きなリラクゼーションだ。

壮大な美しい自然を感じ、そこに特別な人が居て、社会的な存続を感じられる何かに打ち込みたい。それが必要だ。もう少し健康になりたいし、そうなるべきなのだろう。

高次の欲求の赴くままに生きていくこと。それがより健康へと繋がるし、自立へと繋がっていく。そうしていきたいし、そうしていくべき。自然な流れに倣っていけばいい。

 

日頃からノートに思いの丈を記しているけれど、最近は内容が変わらない。同じことばかりを繰り返し記している。体調が安定しているとも取れるけれど、同じようなフラストレーションがずっと募っている。

問題の解決策が見えてきただけに辛くなる。以前は、この辛さはどうしようもないのだ、と諦めていた。その分、今と比べれば苦しさは少なかったかもしれない。

でも、今は後少しのところで進展していかない。それが悔しくて苦しい。以前と状況はさほど変わっていないかもしれないけれど、苦しい。どうにも難しいのです。

 

日々のために働かなければいけない、ということはない。それは幸せで、楽に居られるのだろうと思われるはず。それはそう。本当にそう。確かにある。それは享受している。それは感謝しないといけない。

でも、その分辛いことはある。健康がない分辛いし、身動きが出来ない。それによって大きなフラストレーションがずっと満たされない。好きに人生を歩む切っ掛けは掴めるかもしれないけれど、その先は未知数。

一般的に生きていくことが一番賢明だ。社会集団に慣れ、学を積み、その資本を元に生きていくことが一番。自分自身に価値や才覚があるかなんてわからない。それを信じるのは博打だ。

 

それに、極度に健康がない。それは崩れやすく、構築しにくい。どこにプラスやマイナスの要素があるのかわからない。いつ良くなるのかもわからない。ごくごく平凡に、一般の通例的なステップを辿ることが出来ない。

自分らしく生きていくしかなく、それを迫られているようなもの。では、そうすれば良い?いや、一般的に生きるのが一番だ。でも、今の自分は何の糧もない。資本もない。それを得ようとしても前へと進めない。

家に居ても身体が上向かない。大きなネックだ。では、一般の通例なステップへと戻れば良い?もちろんそれは大切なことだ。でも、適応していくには限度がある。それをどう捉え、それを現実でどのように叶えていくかが難しい。

 

その中で導き出した道筋は、今の生活のまま、親密な相手と関係を築き、そこでエネルギーを満たすこと。そして、ソーシャルの場へと進むか、バーチャルに居場所を求めるか、そのどちらかを選ぶ。

ただ、ソーシャルの場へと進んでいっても、その先で一般的に生きていくことは難しいだろう。それが現実的な見込み。そして、そのような生き方をする気持ちはなく、諦めている。

呑気に愚鈍に生きている分、苦しいことはある。健康にはなれず、この生活は、やがて限度の日を迎える。時限爆弾のようにいつか限界点を向かえる。

現実的な理想ではあるけれど、自己実現の理想を叶えるなんて途方もないことだ。難しい。

 

それもとにかく初歩のステップから。それによってプラスの変化が起こった場合、そこで初めて次へと進められる。なにも始まっていない現在地点でどうこう考えても仕方がない。不確定要素でいっぱいだろう。一歩踏み出して状況を変えられたら、そこでまた未来を考えれば良い。

今は、未来のことをよく考える。でも、今考えても全く意味がない。

今の日々であっても、看過できない程のストレスがなくなれば良い。それが初歩の一歩による変化ではあるけれど、何らかの要素によって満足が出来たら良い。心理的に枯渇した資源を確保すること。

それは、外向感情(感覚)によるエネルギーのやり場を見つけること。HSS(刺激追求)のフラストレーションを晴らすこと。主に対人関係へとそれは向かう。

その他に、目新しい日々を過ごしたいという欲求もある。それは、フラストレーションを満たすことが出来た時、それも満たされているのだろう。

 

抜本的に改善しなくとも、自己実現ほどの健康的な日々でなくとも、それに近い日々になるような要素を得たい。それがあれば何にでもなる。何かの代替により、ある程度の満足がほしい。今の日々で元気になれたら。

でも、それもまた難しい。それを目指しているのが、かれこれずっと過ごしている今の日常だ。エネルギーは満たされず、本当の健康がなく、一喜一憂に陥る日々。変わらない日々の、同じことを記すばかりの日々。

最高の理想は、家で家事をし、内省をして、探査的で有効なインプットの中から表現をする。文をしたためる。社会的な空間から、自分独自の生き方を認めてもらう。それが大きな仕事。身体と心に負担がないような日々を創る。

それを中心に物事を考える。身近にパートナーが居たり、誰かと心を通わせられて、それでエネルギーを得る。その中で外側との緩衝地帯を設け、内向する時間を尊重してもらい、社会的な活動をしていく。賃金を得られるまで励む。

そして、自然や心と触れあえ、目新しい刺激とも出会え、元気に満足感があれば良い。

 

これが一番の至高体験自己実現。でも、暫くは到達できないだろう。それ程のものは、叶うとしたって人生の後半にかけて叶うものだろう。その間に起こる身体の由々しき問題を、なんとか低減したい。

自分は、些細な満足感では本当の満足は得られない。その間に身体はじりじりと傷んでいる。それを何とかしないといけない。

 

働いている人は、働いた時間分と同じだけ自分の時間を送り、エネルギーを充電していると思う。自分も、ある程度の健康さえ得られたら、社会的な仕事に励み、それを完成させた後に自分の時間を送りたい。それをいつか構築したい。

今は、不健康だし、後ろめたい。それが苦しい。でも、そもそも意欲はある。この現状を抜け出して、立派に自立していきたい気持ちだけはある。

本当に、まずそこに進みたい。そのために、まずは身体を楽にすること。お金にならない生産活動なのだとしても、何かをしていたい。そのために、ある程度の身体の健康と、心のエネルギー充電が必要。それを得ることだけを考えれば良い。

 

ああ、一体どこに転換点があるのだろう。何も変わらず、取り敢えず申し訳程度に運動をし、こうやって文章をまとめているくらいだ。ああ、悔しい。

人だ。やはり人しかないのだろう。ああ、どうすれば良い。どこに接点がある。いや、自分から助けを求めないといけないのだ。ああ、恥ずかしい、恥ずかしい。

これから何かを変えられるだろうか。可能性のある期間は終わったのではないだろうか。一生このままの生活が続く日を考えてしまう。親の居なくなった日々のこと。

 

それを抑えて、初歩のステップをこなせば良いのだと記していた。ああ、どうなるのだろう。時間は、接点は、限られている。

機を逃さないために、十分準備だけはしておこう。それで良い。未来はすべて不確定だ。自分の意識次第。自分次第。

 

また明日。

 

参考書籍 :