欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

変わらない検証の過程 やるせないエネルギー

今日は晴れ。朝は冷えたけれど、そのぶん突き抜けるような青い空が広がっている。雲は一つもない。近所を歩くだけでも爽快で、壮大。大自然に身を置くということは大切なのだと記されていたけれど、その事がよく解った。それだけでも胸が一杯になる。大きなリラクゼーションだ。

でも、そんな自然を胸一杯に感じながら歩いていても、少し複雑な気持ちになる。焦燥だったり、無念な気持ちが浮かぶ。今日は、それがじりじりとした気持ちではなかったけれど、やはり在りたい日々へは遠いな、と感じた。

もっと豊かに生きていたい。健康へ、自立へ、自己実現へ。その意思はずっとある。それが行き場を失っている。

快適な衣食住を整え、人の心という中身のある刺激を得ること。そして、社会的な意義を感じられる作業にいそしむこと。それを日々の中心に据えたい。今の日々ではほとんど整っていない。叶えたい気持ちは全く叶っていない。それが悔しい。

夕べは何だか心地よく居られた。その時に、"お腹さえ空いて、気持ちよく満腹になれたのなら、それだけで幸福でいられるのだろう"と感じた。何だか思った。

ただそれだけで良いのではないか。それで心は豊かになり、散歩をすればより感動できる。そのためには複雑な前述の要素が欠かせないのだけれど、今の生活であったとしても、それさえ感じられたら楽に居られると思った。それがやはり欲しい。何よりも。

 

でも、今の日々ではどうにもその要素が足りない。満足が出来ない。健康がないという事は大きい。必要な要素を得て健康になり、そこからやっと事を始められる。世の中に太刀打ちできる。

それが満たされないうちは、そこを満たそうと好ましくないやり方で踏ん張ってしまう。どうにも始まらない。それがなくなれば良い。

確かな感触が必要なのだろう。ずっと考えていること。それしか解決策はない。そこを避けていても始まらない。

 

在宅時間が長いライフスタイルを選ぶ人も居るだろうけれど、自分はそれ中心では満足できない。健康がない。どうにも厄介すぎる。

まず、社交の場へと進み、人と会って親密にならなければいけない。そこを経ないと始まらない。特にそのような性質で生まれついたのだろう。因果な性分だ。

いつまでも同じことばかりを繰り返すのです。変わらない。変われない。日記帳にも同じことを繰り返し記している。繰り返し記している、という事さえもまた同じように記している。

日々は全く変わっていない。細かな体調の変動があるだけで、それを記して詳細を検証しているのみ。それも同じ着地点に行き着く。行うべき事は同じ、という結論。「日々を変えないと」とか、「必要な要素が」と繰り返している。もう嫌になってしまう。

 

バーチャルに置き換えるか、精神性を変えるかの二択くらいしかない。今の日々では健康にも遠いし、自立へは更に遠い。満足など出来ない。何も得られない。健康という原資の土台さえ整えばなんとでもなる。ただ、ゆっくりと静養していても良くならない。外側との接点が必要。

バーチャルへの置き換えや、些細な感触を幸せに思おうとしても、結局実のあるものではない。どうしても逃れられない必要なものがある。

 

体力付ける事が一番の脱却の術。そのために得るべきものを得ていかないといけない。田舎住んでいようが、都会に住んでいようが同じ。

最悪、学を積めなくても、車も運転できなくても良いとする。でも、少しの満足を得て、体力を付けることはどうしても欠かせない。ソーシャルの場へは行かず、アウトプットに賭けようとしても、その大前提は離れない。引き算だけではプラスへと傾かない。それがはっきりしている。

 

今日も暇になり、宙ぶらりんに時が過ぎる。何かを積み重ねたいのに、何も始まらない。近所の図書館に行くか、フリースクールに籍を戻すか、そのどちらかしかない。図書館に再び行くのは恥ずかしく、フリースクールは刺激が多い。この思考が駄目なのだろうか。

すべての前提として、病めるなりに誰かと関係を築くことが肝要。今の生活で、外向感覚(感情)を働かせ、プラスの感触を得ること。捉え直しで解っている大きな鍵。

 

どこにも誰も居ないのです。誰も。見渡す限りでは。自分から人のいる場へと働きかけたりしないといけない。人など訪ねてはこない。それは悲しい現実だ。

旧知の人たちとは、かれこれ10年くらいの空白がある。隔世の感だ。周りとはスピードが違う。変わらない残像の皆と、成長した皆。違う生き物に見えるくらい。そもそも近くに居ないだろうし、自分から行える事は限られている。

 

バーチャルに求めたって、そこの空虚な刺激に依存的にはなりたくない。本当の満足を得て、社会的なパーソナリティーとしてその世界とマッチさせれば良いだろうけれど、そうはいかないだろうな。心の隙間を埋めようとするだろうから。

現実でエネルギーを満たす事が大切。そうでないと、欠乏を満たすために延々と刺激に触れてしまう。やはり本当の心との接触が必要。親密に居られ、自分の恥ずかしいことも何もかもを共有したいと思えるような人でないといけない。

夕べの夢では、家にある女性が訪ねてきた。主観の自分は、その人に対して、初対面の態度をとっていた。その人は、かつての知り合いのようだった。自分を心配してくれているようで、熱心に話しかけてくれる。自分は、戸惑いながらも内心喜んでいる。その人はお土産を残して帰っていく。そんな夢。

自分が普段とっている外的な態度から閉め出された面、それが女性像として現れるらしい。

人を避けてしまいがちな自分。それと、自分が抑圧している劣等なものがそれを映したのだろう。感情と、外的事実。それは、やって来るものの場合だったり、自分が追いかけようとしていたりする。

追いかけていた夢から、向こうからこちらにやって来る夢になった。これは何を意味するのだろう。劣等機能が重荷で、追う際の歩みがぎこちなかった時から、気が付くとそれが向こうからやってきていて、そこと向き合う。

 

恐らくは、捉え直しによって、自分の劣等機能が自分の近くにやってきたのだという事だろう。それを近くに認識するようになった、ということ。願望の実現を現しているのではなく、機能自体が人物化されたのだと思う。その機能がもたらすものがやって来るという訳ではなさそう。

そうだとしても、その女性像は慈悲深いような人だったと感じた。意味を探っていけば、それを劣等機能によって近くに辿り寄せることが、事を進展させる鍵になるのだろう。自分のエネルギーバランスを満たしてくれる人。多分そうだ。それは普段から巡らせていることだ。

ただ、詳細はよく解らない。劣等機能が、劣等機能から働きかけてくれた、ということだろうか。これは何を意味する?その劣等機能が自分に話しかけてくれる。普段の繰り返しの思考が反映されたのだろうか。それとも、劣等機能によって人が招かれるのだろうか?

余計なことは考えず、まずは初歩を考えるべきなのだけれど、その初歩をこなせない時はどうすれば良いのだろう。それが苦しみ。可能性が近くなっただけに苦しさがある。

余裕があれば、この生活を着実にやっていくしかないと思えそうだけれど、そういかなくなっていた。何とかしたい。進み出したいという意欲はある。

 

また明日。

 

参考書籍 :