欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

親密な関係と正の感情 全てを変える切っ掛け

同じフィードバックの繰り返しになるけれど、やはり親密な人が居なければならないな。内向指向の人間にとって、これが一番の救済の術ではないかと思える。

でも、これはタフネスパーソンであっても同じだろうな。親密な人と過ごすことによってエネルギーを充電するのは、誰であっても同じだろう。

 

新しい環境下では、自分はとことんセンシティブになってしまう。外向指向の人にとっては、その新しい場面において能力を発揮できるだろうけれど、自分はそうはいかない。

学校などの場所は特に負担のある場所だった。フリースクールでさえもそうだった。自分の慣れ親しんだ空間でないと、極端にセンシティブになりかねない。

内側の刺激に対する病的なセンシティブさはなくなった。でも、外側との接点を持つ場合、外側の刺激に対するセンシティブさがある。その刺激に向き合うとなれば、そこで本来のネックと組み合うことになる。

マイナスはゼロになっても、今度はゼロから建て直さなければならない。話はそこから。身体の推移は停滞している。向き合うべきことに向き合わなければ。

アーロン博士の著作に、「無理のしすぎ」か、「こもりすぎ」かのチェックリストがある。それを試してみたところ、こもりすぎの範囲に該当していた。

病的な無理のしすぎはなくなったと思う。外側においても、刺激の荒波へ盲目的に突き進んでいく事はない。その無理はしなくなった。

でも、そればかりでは刺激がなさすぎるという事がある。それによってフラストレーションが生まれ、それを満たせずにいると内側からくる刺激となる。それは長引くと、神経の高ぶりを起こす。

 

外側の世界に踏み出していく時は、いきなり刺激の多い所へ飛び込むのではなく、少しづつ刺激に慣れていく事が大切。学校に通い出したとしても、そこはどうにも適応しづらいだろう。それはある。せめて、まず緩やかに刺激に慣れること。

挑戦をしていくなかで、うまくいった経験を積むことが大切。自分のナチュラルな意欲に対してあやすように接すること。外の世界への興味は後押しをし、危うい場面では保護をする。その加減のなかで、無垢な身体は少しづつ刺激に慣れることができる。

好ましい行いを認識し、心理的な神経の高ぶりをコントロールする術を知ること。それを携えること。

 

そのために、まずは初歩から。親密な関係下でエネルギーをやり取りすること。これが心身のエネルギーになる。

内向直観は、外側から取り入れて内省しようとする機能のこと。その機能を無意識に用いている間は、内向直観の対にあたる性質が下支えしている。外向感覚(感情)だ。これによって得られる確かな情報が得られなくなった場合、人の感情を妄想のように受け取ってしまう。

痛手とリンクすれば、病的なセンシティブさに陥る。今はそのセンシティブさはない。となると、INFJ性向のセンシティブさがネックとなる。病的に至る前の本来のセンシティブさ。

 

内向直観と共に用いるのは、外向感情。この場合、特に人の感情に対して曖昧な意味を求めるのが常になる。それは優れた性質にもなるだろうけれど、感情を確かに感じ取れなくなった時はセンシティブさが増す。

自己否定にも陥る。その状態の内向直観が表す心象は、論証が間違っていないか、だったり、人の機嫌を損ねてはいないか、などの曖昧な可能性だ。新しい環境で、多数の群衆の中に居れば、煩雑な情報にまみれて内向直観が極端な心象を写す。親密な関係を築く間も無く、刺激の荒波に飲まれ、潰れていくだろう。

 

要は、外側の世界へとステップを踏んでいく前に、他者の肯定的な感情を得ることが必要。それがどうしても必要。欠かせない資源がある。

それがなければフラストレーションにもなり、大きなストレスにもなる。身体に由々しき事が起こる。前提が整っていないとそうなる。それを整えることが今の局面。

まず、親密な関係において刺激を受け取ること。それによって刺激に慣れ、体調が上向いた暁で外へ向かえる。その前段階のステップを踏んでいく事が大切。それがないから厄介。ソーシャルの場はあれど、親密な領域を築くまでに身体が応えてしまうことがある。

 

その場所へは、工夫次第で快適な空間にすることは可能だと思うけれど、やはり負荷は多少掛かる。負荷が掛かるような所へと行くのはどうなのだろう。そこへ行くべきか。

過去に嫌なことがあった場所を避け続けるということは、理にかなうものでもあるだろうけれど、そのままで居ては何も始まらない。これがネック。でも、負荷の掛かる要素はたくさんある。それが厄介。

 

ソーシャルの場へは出なければいけないのだ、という認識よりも、好ましい適応の仕方を知ることだろう。前述の方面から適応していけたら良い。親密な人と関わったり、初歩のステップから刺激に慣れていくこと。自分をあやすような精神的アプローチを知る。

ただ、誰も居ないのです。身の回りには。周囲の人を避けがちでいれば、周囲も自分を避けていくのだろう。ああ、気付かなかった。近所に同年代の知り合いなんて居ない。

皆遠くへ離れていってしまった。自分の消極性が悔やまれる。どうにも恥の感覚が拭えない。自力では無理だ。人から確かな評価を得ないと。これも内向直観に関わってくる。

 

低次の欲求のままに生きるしかない。ひとまずはそれだけで良い。そうすれば自ずと健康になる。そして、創造的で独創的な可能性を伸ばすこと。それをすることが出きる人間かもしれない。それに、その可能性に賭けるほかない。

それで良い。それしかない。無意識との調和を図ることが一番の期間なのだろう。それを完成させる気概だけはある。

 

また明日。

 

参考書籍 :