欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

本当の刺激と成長 弱点の示す可能性

"体調の変動は、時の運"。以前にそう記していた。些細な体調の変化があった時のこと。どうしても体調に変動はあり、そこからリズムが乱れることもある。

自分の体調の感覚でさえも、内側からくる刺激となってしまう。それがどうにも厄介なところ。無理をしすぎることもあるし、抑えに回って体重が減ることもある。

 

看過できない状態で居てしまっている分、それは起こりうること。それが今回も起こった。いつもの周期といつもの感覚。すぐに回復していくだろうけれど、どうにもそこに足を取られてしまう。

何も進展していないのだな、と、打ちのめされる。自分の意識の外側で起こっているような事に思えて、そこに介入することなど難しい。それをするには、しっかりと物事の原因を知り、好ましい生き方をしないといけない。

でも、それが出来ていない。それは仕方ないけれど、やはりずっと病的な水準にいる。

 

そこまで憂鬱な気分に襲われてはいないけれど、それを思う。未だ身体のリズムにはでこぼこがある。

普段のフラストレーションは、本当に大きいものなのだろう。それがあるだけで存続に支障が出る。ちょっとフラストレーションがあるだけ。

それは、人と会えないだけ。それだけでも相当きつい。気の合う人間と過ごせなくたって、日々をこなし続けている人はたくさんいるだろう。でも、自分はその人たちと同じように生きていけない。

その人たちにある前提がない。取りあえずの健康がない。何も始められない。甘えではない。身体が苦しい。

 

一般的に生きることは許されていないのだろうか。中途半端な状態では過ごしていけず、きちんと弱いところと向き合う必要がある。より豊かに生きる必要がある。半強制的に自分の可能性、弱いところに向き合わされる。ノイローゼの人間は、そこを伸ばさないといけないらしい。

弱い部分がネックになる場合、その裏側には特性が隠れている。その特性がやり場を失うと、心身にダメージを被る。そして、その特性を支えるのは弱い部分だ。

使いこなせない弱い部分を、意識的に用いること。それによって必要なエネルギーが得られる。まだ見ぬ可能性だ。そこを伸ばすべきで、逃れられなくて、その事を推奨される人間はいる。

 

学校は辛かったな。画一的な教育の施しは、個々の成長を支援するのではなく、一通りの学問と経験を積ませるくらいしか意義がなかったと思う。

教育に繋げる選択肢は、学校に通う以外にもあるのだ。先進技術があれば可能になる。可能性のある人間や、ネックが大きい人間などは、様々な選択肢のなかで人生の下積みをすれば良い。大人が創造的に生きているのであれば、子供もそうすれば良い。

 

自分を情けない気持ちにさせる部分が、自分の優れている部分だそう。優れている部分を支えるのは、弱い部分だ。右手なら、左手だ。左手と右手を使い分けることを知らなければならない。強いところの用いかたと、弱い部分の用いかた。対人関係にネックがあるのなら、対人関係にこそ救いがある。

その可能性が閉ざされた場合、一般的なステップを経ていくことが出来なくなるのだろう。より高次の体験を経ていく事が出来るのに、そこを歩むべきなのにそれを閉ざしているため、身体の調子が狂ってしまう。自分の自己に向き合わざるを得なくなる。

 

一般的なステップを歩むことが出来た人が羨ましい。自分なんて、何年もまともに食事が摂れない。ちょっと消化の悪いものを食べれば、とたんに消化不良を起こす。

対人的な刺激に弱いから、外食も厳しい。何年も行っていない。でも、そもそも消化の関係で、外でご飯は食べられない。こうなると、自立どころか友人をつくることさえ出来ない。

まともな人間として、地に足付けて生きていくことが出来ない。仮に誰かに助けてもらうのであれば、特別に同情されて優しくしてもらわないといけないだろうな。全くの初対面の人と関係を築くのは、なかなか厳しい。

 

小学校から、中学校、高校、大学、就職試験まで、一本筋が通っていれば良かった。なんの不自由なく経ていけたら良かった。そんなことを思う。

健康な身体という全ての原資があれば良かった。それがほしい。それさえあれば、なんとでもなっただろうな。可能性を活かすことが出来なければ、可能性はなかったようなもの。

 

安定という停滞、と記していた。それが一番良かった。取りあえずの体力を得て、そのなかで運動をし、気晴らしをして、バーチャルの世界で気休めをしていれば良い。それにも意味はある。それで良かった。時を稼ぐことだろう。それなりに過ごせたら良い。

でも、結局フラストレーションに蝕まれてしまうから厄介。同じところに立ち返る。看過できないものはある、と。

 

人に会うのは、時々で良いと思う。静かにインプットをし、それを題材に何かを吐き出す時間が大切。そういう時間を第一に据えたい。時々人と会ったり、数時間話せたりしたら良い。

外にもあまり出掛けたくないな。直近で言えばそうかもしれない。なんだかそう思ってきた。目新しいものに触れたい気持ちが強かったけれど、弱まった気がする。

今は、ほんの少し人と会うことと、インプットと内省を豊かに発展させたい気持ちでいる。人と、賑やかさと、自然。バーチャル空間で面白さがあればな。

 

でも、それだけだと依存になる。四六時中画面に張り付いていては健全ではない。欠乏感ばかり満たそうとしても駄目だろう。満たされない心を、空虚な刺激で満たそうとしても際限がない。

本当の幸福感に繋がる欲求を満たすべき。欠乏感は解消しつつ、消え去らない幸福感と成長を追いかけるべき。気休めではない、自己の成長に伴う本当の刺激を得るべき。それが、現実で人と会うことだな。

 

都会に住んでいたい。インプットに成果があり、猫か人が近くに居れば、それが確たる土台になるのではないだろうか。生理的な安心安全はあり、社会的な立ち位置も感じられる空間に居ること。所属、承認、尊敬。

都会で賑やかさを感じ、日常で四季を感じて、後は家で内省をする。そして、人に会うことが出来ていること。それらのピースが集まれば、晴れてめでたく自己実現なのだけれどな。遥か遠い先の先の先。

 

それまでは耐えるしかないな。それか、叫び続けるしかない。鳴り響け   君の街まで。

 

また明日。

 

参考書籍 :