欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

日々の欠乏と可能性 特性が活かされるまで

体調は、些末な変動がある。それに一喜一憂したり、振り回されたりしてしまう。そこで抑圧をしてしまったりもする。

同じように、身体の事を考えても仕方ないよな、とも思う。これもいつもの周期。定期的に繰り返される思考。結局は、今ある生活を気楽に楽しもう、という考えにも行き着く。これもまたいつものこと。

そのような考えを行ったり来たりしている。抑圧をしないように、とか、新しい要素が、とか、今ある日々でも丸儲けだ、など、同じ轍を踏み続け、回り続けている。

 

直近で言うと、そこまで辛くはない。落ち着いてはいる。それなりには過ごせている。ただ、日頃から書き連ねているノートにエネルギーが向く。本当の満足はない。大きな欠乏がある。日々の充実度に反して、日記帳が充実していく。

日常そのものこそが最高の生活記録だ。存分に生き、存分に眠ることが一番。在りたい日々へと遠い今、まだまだ自然な形とは言えないな。

 

SNSだって何だって、その人が開示しているのは、ほんの一部分だけ。ペルソナ越しのパーソナリティーだったり、時々気の向くままに記していたり、微細な部分が垣間見えるだけ。生活の実のある充実が第一だろうな。

でも、日記帳は、ありのままの砦だ。そこは自分らしくいられる場所。そこで偽る必要性はほとんどない。そこで思考を整理し、日々の足跡を記す。それまでの歩き方の中で、その日の歩き方が分かるように書く。だんだんと勢いが付けば、次の歩みへの糧になるだろうな。

今は、生活の目に見える進展がないから感じられないけれど、そのような意味もあるだろう。書かない日は少ない。日々を記し、思考を整理すること。無意識にそこへとエネルギーは向いていく。大切なものではある。

マズローの本にこう書かれていた。人は、「自分がなりうるものにならなければならない」と。人は、自分に適応していることをしていない限り新しい不満が生じてくるものだ、と。

これが自己実現の意味だろうな。成るべき所へ成りに辿るべきなのだろう。辿り着くべき場所は、誰もが決められている。そこに辿り着くことが人生の課題であり、生まれた意味。

日々の変化の全ては、そこへ向かおうとするコアの部分の意思だろう。運命や定め、宿命に命運。生き物の向かうべき場所と、それを理解する人。角度、術、学問。幸福論や、運命論ともとれるような哲学。それを思索し続けた知の巨人たち。心理学を通し、それは人の役に立っている。

 

最高に平穏であろうとする限り、それぞれの本性に忠実にならなければならないそう。音楽家は音楽を創り、美術家は絵を描くこと。

自分は、何をすべきなのだろう。日々のライフワークに何を据えるべきだろう。そのエネルギーが向かう敬愛すべき価値とは何か。どこに可能性があり、何を信頼し、何を育むか。

自分にある、決定された道筋は何だろう。今の日々の道のりは、どこへと繋がっているのだろう。それを知ることに興味がある。それを探求し、深めたい。

 

それらは、日記帳に記す意味にもなっていると思う。普段のエネルギーと自分の適正、限度、愛する価値。文に向かう理由は、何かが隠されているのかもしれない。

自分は、いつか病める人を支援したいと思っている。かく言う自分自身が歴とした病人なのだけれど、そう思う。

ただ、それは自分の体験によってその意思が作られた部分があると思う。病める人を救えるのだ、という誤信の部分もある。自己を病める他人に投影しているだけで、自分にしてほしいことを代わりに他人にしてあげようとする働きがある。

自分の目の前に現れてほしい救世主を、自分が演じているだけ。それは、満たされない気持ちによる代償の動機だ。それがある。だから、まずは自分を助けることが一番。

 

でも、それをしつつ、その過程を記してみてもいる。書くということに意味があると信じてみる。自分はここに居るのだ、と、叫んでみる。生活とその声の一部を、こうして記してみている。日々のインプットと内省を組み込ませてみる。生活の中核を、このような形で記してみている。

自分自身を救えるのは自分のみ。それがある。自分にとっても、どこか向こうの誰かにとってもそうだろう。だから、安易なアドバイスは出来ないし、直接の励ましの言葉も記せない。

自分の救いになったものがあったとしても、人には伝えられない。効果があるかはわからないし、下手な事はしたくない。自分は、誰の発言も、行動も、深く浸透しなかった。何の効果もなかった。それがある。

 

人を支援したいという気持ちはおこがましいけれど、何かをしたい。病める人間に好ましく接せられる人間になりたい。そう思っている。教師やドクターへの不満があったから、そう思う。

そのために、まず自分を救う必要がある。その日々の検証の過程を記す。それが直接誰かの役に立つのであれば良いけれど、それよりも、他のメッセージが届けば良い。繰り返し学ぶこと。それが伝われば良い。

それが幸せになる切っ掛けになれば良い。それが自分の信頼する価値。それと、日常の中核にある文を融合させられたら良い。

 

勉強をし、インプットをし、内省すること。そして、それを仕上げること。文を記す。日々の確かな足跡を知り、未来への道しるべを得ること。それが文の意味なのかもしれない。そう信じたい。誰かに見られた時、何かを思ってくれたら良い。

日々が充実していなくとも、自立へ程遠くても、これだけはやっていようと考えている。病めるなりにやれることとして、やる。

 

そう考えると、それなりの日々さえあれば十分なのかもしれない。やるべきことをやっている。体調も、多少の凸凹があっても仕方ない。それなりであれば良い。

そのなかで、日々をライフワークに費やし、低次の欲求から高次の欲求を満たすこと。欠かせない要素を知り、それを得ること。そうすれば、自ずと健康になる。自分の定められたものを知り、そこへ向かうために舵を切ること。

 

それは絶えず続いていく。検証は続いていく。自己を記すことができる場所は、常に必要。ありのままの砦には、何かがあればすぐ戻るだろう。そのような日々が少なくなれば、幸せに過ごしているのかもしれない。

現実世界で自分らしく居られ、書くことがなくなるような日。そんな日が来れば良いけれど。来るのか、来ないのか、どうだろう。

自分は、あなたは、どこを辿り、どこへ向かう?

 

また会いましょう。また明日。

 

参考書籍 :