欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

本当の価値と成長 つまずきの意味

今日も曇天。最近は同じような日和が続く。心もいまいち晴れない。それなりの意欲は湧いているけれど、生活の限度によって打ち消される。同じルーティーンの中で同じような体調の循環があり、その場しのぎの刺激に甘んじるしかない。中途半端に生活の安全がある分、高次の欲求が湧いてくる。でも、そのエネルギーにはやり場がなく、空虚で満たされない。悔しいし、なにも進歩が感じられない日々。

 

雪に白く閉ざされた国は、解放を迎えた。また春が来るよ。自然の景色は変わっていく。人もまた、違う環境に身を置くのだろう。今までとは違う景色を見るのかい?命が萌える季節にどんな景色が見えるかい?変わらない景色に、よぎる同じ顔。自分は変わらずここに居るよ。愛想を尽かさず僕に触れておくれ。言葉では伝えられないということが、伝わっていたら良い。

 

いつもの同じ曲を聴き、同じ道のりを歩く。変わらない道のりと、変わっていくもの。そのなかに居る変わらない自分。待っていても、その時に限ってやって来ないのです。それが解ったようで、わからないままの気もする。自力が試される時なのだろうな。生活の限度など、誰かに決定されたものではない。自分が決めたものだ。

 

君子危うきに近寄らず。自分の中のどの意思が君子なのだろうか。コアな自分の感情か、理知的な意思か。嫌な思いをしたから、とか、不慣れだったから、といった過去に起きた事で意志が閉ざされている。世の中では生きていけないのだ、といった思考が出来上がる。その思考により、隠とん的な限度が作られる。そして、看過できないものが表れてしまう。でも、その嫌な思いをしてしまったのには確かな理由がある。理屈の上では限度がある。それがある。どちらに進んでも限度がある。

 

ただ、そう思っていても、何も始まらない。それを強く思う。それがある。挑戦をすることなく可能性を狭め、受け身のままで居てしまう。そして、何も変わらない。その生活には限度がある。

 

難儀な人生です。難儀な性分なのです。内と外の折り合い。刺激のバランス。一人で得ようとする刺激なんて、中身がない。まやかしのもの。ほんとうの幸せになんか繋がらない。それは解ってはいるけれど。

 

中途半端です。絶えずそうです。

 

 

全く同じような日々を過ごす。言いたいことも、やりたいこともたくさんある。これ以上後悔したくない事もある。それらは、どんどん不可逆的な方へと力が加わり続けているのだろう。今もずっと。すべては人のこと。人がすべて。

 

待ち人は来ず、誰も助けてはくれない。後者の事とはなんとか格闘してきたけれど、自分の行いだけでは完結はしない。自我の力だけで変えられる期間は終わった。

 

初歩の壁が一番大きいだろうな。人生のすべての問題がそこに詰まっている。対人関係、仕事、生活の構築、人生のすべての課題がある。初歩の欲求から、高次の欲求までの歩み。欠乏欲求を満たすことが一番の壁。所属と愛、承認と尊重。

 

生活の限度、病気と健康、特性と弱点、これらを総合的に統合した先に幸せがある。普段からずっと考えていることが整った後の世界。

 

何かの可能性があるのかもしれないけれど、その特質を支えるのは、対にあたる普段使いこなせない性質だ。光の当たらない弱いところ。それが大きい。それが大きなネックとして表れてしまう。その存在によって初歩的なことでつまずかされる。そして、そこと向き合わざるを得なくなる。自分の可能性を狭めるような環境に身を置いてはいけないのだ、と。可能性を活かせよ、と。適切な可能性と限度を知り、それを活かせ、と。それをしなければならない。

 

タフな人は、あまり起伏がなく通例のステップを歩めるのだろう。初歩で行き詰まる人間は、創造的な独自の人生を歩まなければならないのだろう。過剰に人と違うのであれば、過剰に人と違う人生を作るべきなのだろう。それは唯一の道のりで、絶対なのだと思う。

 

マズローは著書でこう言っていた。

 

「ショッキングにいえば、自己実現する人は、自己を受け容れ、洞察力をもつ神経症者ということさえできると思う」

完全なる人間   アブラハム・H・マスロー 著 上田吉一訳

 

自己実現とは、自己の未発達からくる欠乏の部分や、神経症の問題から脱却し、人間生活の現実の問題に立ち向かい、これに耐え、取り組むことができるようになること、だそう。

 

人間性の「欠陥」を否定しようとするのではなく、これと立ち向かい、勇気をもって受け容れ、これに甘んじて楽しみさえ見出だすこと。

 

自分は、自分の事を隅に置いておけば、自己実現者を現す素質が、センシティブパーソンの持ち得る素質としか思えない。そのような純度の高い無垢なスピリットは、センシティブパーソンを表しているのだと思う。神経症者の構造をマズローは洞察しているけれど、その中の欠かせない要素には、センシティブな気質というものがあると思う。それを取り上げて研究してくれたのが、アーロン博士。素晴らしい功績を残してくれた方だ。

 

そして、その「欠陥」、または「弱点」、あるいは「特質」に向き合わざるを得ないのがセンシティブパーソンなのだと思う。素晴らしい特性に向き合うべきな人間で、その中で、その内的な過程を楽しめる素質も持ち得ているはず。

 

そことしっかりと向き合うこと。そこからが始まり。自己実現という目標へと繋がっていくか、名も無き人間として朽ち果てていくか、その両極端の歩みしかないのだと思う。中間はない。

 

ほんとうの価値を追い求められるのがセンシティブパーソンなのだと思う。純で崇高なスピリットは、人間にとって一番美しい価値を求めようとする。そのために与えられた必要な素質が、センシティブさなのだと思う。それによって苦しめられるけれど、大きな財産となる。

 

自己に向き合うことなく人生を歩んでいく場合、ただひたすら欠乏を埋めようとする空虚な人生になりかねない。その中で人生を構築してしまうと、かえって問題が起こるかもしれない。本来の成長欲求や、自己充実への欲求が閉ざされたままで、そのような欲求不満の欠乏を満たそうとする動機だけで生きることになるかもしれない。

 

一度半強制的に立ち止まらざるを得ないけれど、それによって本来の可能性を活かす方向に進めば、他の人には成し得ない人生を歩めるかもしれない。ほんとうの価値を知り、成長のために生きること。基本的な低次の欠乏を満たし、そこからほんとうの価値を求めて成長すること。他者に依存的になるのではなく、自分事として、自分の成長のために人を求めること。自分の喜びの先に、他者の喜びがあること。

 

 

このまま変わらない景色を見続ける人生を歩むか、創造的で可能性を存分に活かすような人生を歩むか、その分岐点がある。十分そこに近づいてきたはず。後は行動するだけ。自分から求めるだけ。ゼロからイチへ。そして1から新しい人生を築き上げること。悔いもミスも受け容れて、初歩から始めること。

 

 

心の雪解けも進んでいるはずだけれど、まだまだ開けないな。曇りが続いて光が差さない。光と、水と、栄養が必要。弱点を癒し、満たしてくれる養分が欠かせない。いつか自然と日が差せば良いけれど、どうにもその時は来ないな。

 

それは、自分から求めるしかないからだろう。大きな欠乏がある。それを満たしてこそ、より高次の人生へと土台を築ける。ほんとうの価値を得ることを中心に日々を創る。

 

そのために、まずは初歩。

 

改めて、思考は巡る。

 

 

また明日。

 

 

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの