欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

それなりの進展とやるべきこと 日々の昇華

昨夜に体重を計ったところ、少しだけ数字が増えていた。最近は微増が続いていて、一段階上の水準へと上がったような数値になった。現時点ではそう。わずかに余裕が生まれた。でも、それは微々たるもので、全く頼りないものだ。それくらいの増加。本来の適正体重からは、20kg程少ない。小柄な女性の体重より少ない。その水準の中でわずかに増えただけ。ただ、以前までは内心歓喜していたけれど、昨日はそうでもなかった。それは、身体を頼りにし過ぎていないという表れなのかもしれない。どうなのだろう。

 

やるべきことはよりクリアになっていると思う。以前までは苦しい状況を抜けだそうと踏ん張っていたけれど、それが少なくなってきた。多少は精神性が変わったのかもしれない。

 

以前はフラストレーションのやり場がなく、精神的にも身体的にもエネルギーが余っていた。それは今も続いてはいるけれど、それが少し和らいでいると思う。やるべきことをやり、工夫をするなかで、また新たな認識を作る日々。

 

プライバシーのある日々の中で、インプットをし、内省をして、表現をする。内向直観をフルに活かそうと試みている。それが何かに繋がると信じてやる。何か出来る事がないか試してみる。読書、インプット、内省、アウトプット、表現。これらに時間を割いている。それがやるべきことだと信じてみる。

 

そのなかで欠乏を埋めることをしなければならない。フラストレーションは看過できない。それは内側からくる刺激となり、長期的に続いてしまう。やがて長引く神経の高ぶりとなり、ストレスとなる。それに内向直観を下支えする資源を得ることも必要。それはフラストレーションの中に同じように込められているもの。外向感覚(感情)による刺激を得ること。無償の肯定。それが全ての下支えになり、歯車を回す第一の切っ掛けとなる。それを求めること。

 

それが満たされれば体力にも繋がり、そこから次に表れる高次の欲求を満たしていけば良い。それによって自ずとより豊かな健康へと繋がっていく。低次の基本的な欲求を満たすことが出来れば、段々と活動の上限は上がっていくはず。

 

それらを整えること。それが今の日々のやるべきことだと思っている。この認識でいることでフラストレーションが減っているのかもしれない。欠乏欲求は依然として強くあるけれど、それなりの日々を構築しつつある。やれることをしつつ、どこかで欠乏を満たすこと。同時並行で進める。それが肝要。

 

 

 

欠乏を満たすことが出来ている人間は強い。大体は、低次の欠乏を満たすための人生を送ってしまうのだろう。そのなかで、より高次の動機に動かされて生きる人は豊かで健康的。生き生きとしている人。人生の価値を知り、その喜びによって導かれる人。自分の成長のために生きている人。

 

高次の欲求は、何らかの職業や、仕事に対する献身、没頭という形で示されるそう。高次欲求を中心に生きる人々は、すでに満ち足りたエネルギーを仕事に打ち込み、生産活動をすることによって新しく何かを創造している。仕事に傾倒することにより、新しい価値の創造に喜びを見いだす人たち。その仕事を苦行とは感じておらず、特別な愛着を持ち、自分が存在する意味を持つ仕事として受け止めている。

 

仕事のなかに喜びを見いだす人は、仕事は遊びであり、遊びが仕事だという。遊びも、何も活動していない訳ではなく、休暇で自由な時間であっても、そこで何ら外からの拘束を受けず、自分の活動に熱中し、何か価値のあるものを生み出したとすれば、それは立派な仕事といえるそう。

 

 

自分の今の日々が、このようなものになっていれば良いけれどな。病めるなりに創造的に自分の可能性を活かすこと。向かうべき道のりを歩むこと。今までに示唆に富む情報を得ているけれど、どうなのだろう。

 

普通の人生を歩めなくとも、各自で出来ることを積み重ねていけば、それが何かに繋がる世界なら良い。

 

小学校を4年でドロップアウトした人間は、これから学び舎へと出戻りに行けば良いのでしょうか。自分は無理だと思っているし、そこに挑む必要もないと思う。それにその気持ちもない。もちろん、自分に可能性があるかなんて解らない。そこに挑むのは博打だけれど、そこに挑むしかない。他に成れるものなんてない。そう思う。自分なりの人生を歩まなければいけなかったのだ。今までがそうだった。それはある。それがずっとあったのだった。それは、これからもそうなのではないのか?万人に似通うものが少ない人間。与えられたものも、思考も、経験も、周りと過剰に違う人間。そんな人間は、過剰に違った人生を歩むしかないのではないか?そんなことを思う。

 

創造的に生きること。与えられたものを知り、それを活かす。それが良いのではないだろうか。いや、それしかない。その気しか持てない。

 

それが実のある思考かは別としてください。

 

 

創造的な人生の道のり。自分の成長をもたらす価値に委ね、それに導かれる人生。生き生きと周囲の人に影響を与えられる人間がそうなのだろうな。創造的な業績はあれど、その業績を生むにならしめる人格がある人間。それが自己実現者。業績は、喜びを追求していくなかで発生したもの。二次的な随伴現象。

 

そういった人は、自分の満足や喜びを追求し、その結果、自然と人を助けることになる。人のために動いた時は、自ずと報酬を得る。そして、自分もまた満足する。そんな超越的な人。仕事と遊び、利己と利他、それらの二分法を越えるような人。そうそう居ないだろうけれど、どこかに居るのだろう。

 

文を記す時も、そのように書けたら良い。自分の成長のために書くこと。既に欠乏が満たされていれば、自己の成長とは、価値や喜びを追求すること。他人事ではなく、自分事。他人に依存せず、独立している。そして、自分の事を追求すれば自ずと人のためになる。これもまた超越的。

 

よく「自分のために書けば良い」と聞く。それはこのような意味があるのかもしれない。自分を救う文章が、誰かを救うものにもなっている。自分のために書きつつ、どこかでその価値を込めたものになっている文。

 

そのような意味合いを込めて、このHSP/INFJフィードバックブログを記している。INFJ性向の持つ価値観は、他者を支援することにある。他者に共感し、傾聴し、学びを促し、幸福を促す価値観を信頼すること。

 

それらを込めて記している。自分自身が勉強をし、原因を掴み、繰り返し過程を検証をし続けること。そこにある本質的な救いを感じてほしい。己の力で治すこと。勉強をして変わること。フィードバックをすること。

 

段々と人に見てもらえなくなっていたけれど、本来あるべき書き方で居られるようになった。本来のスタイル。信奉する価値のもと、それに促されて導かれること。これで良い。それで良い。自分が満足すれば良い。

 

皆さん、そう生きましょう。そうしましょう。届けたい人には届いていないかもしれないけれど、そう記しておきます。

 

日々勉強。日々変化。日々努力。

 

 

また明日。

 

 

参考書籍: