欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

エネルギーの辿る道 欲求の導くままに

心地良い日和が続く最近。すっかり春めいた町を、良い意味で変わらず歩く。体調はかなり安定してきた。段々と平気で居られる時間が多くなった。散歩も段々と距離を伸ばしてみる。それでも負担なく過ごせるようになった。動けば動くほど、身体は楽になるらしい。

 

きちんと外に出て身体を動かし、ストレスを低減させる。それによって生活の歯車が少しずつ回っていく。それが大切。それをしつつ、やるべきことをやる。欠乏を満たすことや、出来ることを積み重ねること。日常をそれなりに費やしつつある。日々のスタイルが固まりつつある。フラストレーションがある日もあるけれど、ひたすら盲目的に病的な状態へと傾くことはなくなっている。それは大きな成果。

 

 

昨年は、今までで一番身体の調子が落ちていた。限界の際の際まで進行してしまっていた。家庭内でも孤立し、ひたすら身体が蝕まれてしまっていた。原因と対策が何も解らなかった時のこと。死にゆく人間は、こうやって病に打ち負けるのだな、と感じていた。この感触のなか、人間は朽ちて果てていくのだな、と、そう感じた。生きたいと渇望しながら死んでいく。絶叫しながら果てていく。押し出されていく。でも、変わらずこの世界は回り続ける。何事もなかったのように、世界も人間も続いていく。季節も社会も、当たり前のように続いていく。果てしない恐ろしさと悲しさがあった。

 

入浴することもきつくなっていた頃から考えると、十分元気になった方だ。自分で自分を賞賛しよう。誰からも言われないけれど、そう言ってあげよう。

 

体調が良くなってから外へ出だすと、近所に数軒の新築の家が建っていた。足を伸ばせばかなりの軒数の家が建っていた。それ程の隔世の時間を送っていたのだった。気が付けば僕は一人で、周りに置いてけぼりをされていた。そんなことを思っていた。それよりも複雑な心情だったかもしれない。いや、もっと単純な気持ちだったかもしれない。

 

ただ、それはもう思い出せない。思い出せなくても良いだろう。なんとも思わなくなりつつある。忘れられない記憶は、忘れては駄目な記憶だからだろう。忘れた記憶は、今に気持ちが向いているから忘れられている。そう思う。

 

「あの頃はたくさん歩いていたのに」

 

去年はそう振り返っていたけれど、今は同じように歩けるようになった。歩いていた道を、同じように歩いている。自分の力でここまで取り返した。これは進歩だ。十分なものだ。今は前を見ている。過去の事に興味が湧くことは少なくなっている。ただひたすらに、やるべきことをやることにしか気持ちは向いていない。

 

それをやるだけ。人生の下地を整え続けること。それがいつか資源となるはず。他に人には得られない何かに繋がるはず。それを携えて生きることだろう。自分にしか持ち得ない素質を得て、新しく人生を生きること。その先に辿るべき道筋がある。生まれた意味がある。本当の歩むべき道のりがある。そこを進んだ先で、至高の日々がある。何のために生まれ、何をして喜び、何をして生きるか、その定められた運命があるのだろう。好ましく生きていないから、好ましくない日々が続いている。

 

自分は一体何を辿り、何になる?どんな成るべきところへ成りに辿る?個性化の過程だ。自己実現。そこを目指しましょう。その気概だけはある。それがあったから、ここまでやってこれたのだった。いつか元気にいられる日を思っていた。

 

あと少し。ここまで来れば、後は行動に移すのみ。その一歩さえ踏めば良い。それだけ。

 

局面は変わる。絶えず人は変わる。変化をし続けている。何にアクセスをしているか、何を読むか、何を感じるか。いずれであっても、その全てに成長の糧が隠されているはず。

 

学びましょう。共に。

 

 

 

 

現実を生きていたい。不確かなものを頼りにせず、インスタントな代替策に甘んじず、成長と幸福の価値を手繰り寄せていきたい。それと、日々の限度と出来ることを交わらせる。どうやって生きていきたいか、だったり、何をして喜ぶか、それを大切にすること。その上で何をしたいか、何が出来るかを試す。

 

やはり在宅時間を基盤に生きていたい。大半は在宅で過ごし、そこで創造的に生きること。そんな日々を送れたら良い。

 

インプットと勉強。それと、内省と表現。それを外からの干渉なく、緩衝地帯を設けて過ごしたい。それを生活の軸としてやっていきたい。そこで報酬を得られて、尚且つ欠乏が埋められたら良い。内的に過ごしつつ、それだけの過剰な日々にはしないようにする。心身のバランスを取るために、心の養生もしっかりしていく。

 

日々を健康に送ることが出来、生活スキルも構築できている日々。そんな理想。でも、それは現実的な理想でもあるだろう。自分の限度を考えた場合、このくらいが一番好ましい生き方だと思う。それに加えて、出来ることもそれくらいしかない。その他に何に成れるのか?そう思ったりする。

 

 

人間は、自分自身が最高に平穏であろうとするのであれば、自分がなりうるものにならなければならないそう。

 

マズローの言う、"自己実現の欲求"は、"自分らしくありたい"という欲求だそう。音楽家は音楽を作り、詩人は詩を書かなければならない。アーティスティックな事でなくても、人は、「自分がなりうるものにならなければならない」とのこと。

 

そして、人間は誰しも潜在的に"持っているものを実現したい"と思っているそう。無意識的に自分の内面にある可能性を知っていて、その可能性を実現し、存分に自分らしく輝きたいと思っている。そう記されていた。

 

自己実現の欲求は、低次の欲求と同じように、生きていく上での欠かせない欲求であり、満たせると解っている欲求でもある、とのこと。食事を摂りたいという気持ちは、自分のしたいことでもあり、出来ることでもある。それは、欲求によって導かれる。

 

 

今の自分は、内的に過ごしていきたいと思っている。内省のために日々を送る。それは、遊びの中にもあったり、義務感であったりする。それで認められたい。社会的なパーソナリティーを用いて活動していきたい。所属と尊重の欲求を満たしたい。

 

上質なインプットをし、アウトプットをしつつ表現をする。それをする事が中心の人生を送りたい。出来ることなど文をしたためるくらいしかない。生活の全てが結び付くような、中心の高いところに表現があれば良い。今のフィードバックブログはそれがある。体調も、インプットも、黙って考えている時も、全てがここに集約されている。それ位しか出来ることなどない。欲求はそれしかない。文筆の力くらいしかない。そう思う。

 

以前は空虚に日々を失っていったけれど、今は、文を書くことによって気持ちが変わりつつある。インプット、内省、アウトプット、表現、それらがエネルギー性向における、意味のあるものだと思う。

 

きちんとやるべきことはやっている。そう思いたい。これも去年と比べれば、十分進展はある。

 

在りたい日々に繋がっていると信じよう。

 

 

今日も文を書いた。それで良い。十分満足だ。それで良い。それが良い。自分の成長のために記そう。

 

 

また明日。

 

 

参考書籍 :