欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

救済への仕事 価値が導く副産物

午前中にマズローの本を読んだ。とても良質な知見を得られた。豊かなインプットであり、勉強でもある。その時間を取ることは大切。それをし、内省をする。そのための糧にもなる。それらがフィードバックにも繋がる。それを日常の中心に据える。日頃の体調や、フラストレーションもその糧になる。新しい気づきと日々の過程。それらを繰り返し検証し続けていく。自分で設定した日々のやるべきこと。それらをやっている。

 

無為に過ごしてしまわないように、自分なりに工夫をしてやってみている。自分の可能性を最大限に活かせる環境を作ること。無理のない範囲に身を置き、自分の出来ることをする。それなりの日々を送る。

 

それが何かに繋がれば良い。

 

マズローいわく、真面目に働くことや、自分に運命付けられた天職を何としてもやり遂げようとすることが救済に繋がるのだそう。自己実現をもたらす仕事や義務の副産物、それが救済なのだそう。幸福も、善き行いに対して間接的に与えられる副産物だそう。

 

自分を成長へと導いてくれる価値に委ねることだろう。喜びに従い、その行動の結果として得られるものが救いだそう。

 

与えられた天職とは一体何だろう。壮大な問いだ。誰も教えてはくれないし、周りの誰も知ることのない問いだ。前の世代の人たちは、こういった答えを残して去っていく。生を与えられた次の世代の人間は、それを生まれながらに背負わされ、向き合わざるを得なくなる。

 

自己実現をもたらす仕事は、自分にとっては文筆によるもの位しか浮かばない。その他には何があるだろう。自分の可能性を最大限発揮することが自己実現。成れるものに成るということ。それは、羨望や嫉妬からくる衝動によって輪郭が見えてくると思う。自分の在りたい日々は、内省をして、表現をしていきたいという事と、それが叶う前提を構築すること。それ以外の人生の目標はない。その欲求がある。

 

それをすれば何かが生まれるのだろうか。フィードバックをやり抜けば、それで何かが得られるのか?救済として、欠乏が埋まっていくのだろうか。今の自分の足りないものはそのこと。欠乏欲求がまだまだある。それにより健康が阻害されているまま。それがある。結局はそこから逃れられない。そこを埋める必要がある。

 

最近の日々は、この内省と表現に多くを割いている。勉強やインプット、内省と表現、義務と遊び。自分に出来ることとして、これらに費やしている。喜びやほんとうの価値に委ねようとしている。その先に何かがあると信じてみている。

 

これで何かが生まれたら良い。実際に欠乏が満たされたら良い。所属と愛、承認と尊重。ずっと求めているものはこれらだ。それらが文筆によって得られたら良い。正の感情は現実で得て、社会的な存続の意義はバーチャルの世界で得る。そんな願望。

 

これらが満たされた暁は、健康で居られるようになるのだろう。それを満たした後で自分らしく過ごせるようになれば、それは自己実現が叶った日々だろうな。最大限の日々。自立自活をし、確固たる根を下ろして生きていく事が出来る暁。そんな日々。

 

それがやってくれば良い。そんな理想。

 

創作をすればそれが出来るのだろうか。在宅で過ごすのみで完結させてしまいたい、と、そんなことを思いつつある。現実で誰かと関係を築くよりも、バーチャルの世界で欠乏を満たしてしまえば良いのでは?ということ。そんなことを思う。

 

今の食事の摂り方でそれなりに力が付けば、それなりに生きていける。あと数キロだ。ほんの少し上向くだけで良い。それだけでも十分だ。更にそこからまた数キロ増えれば文句無しだろう。自分の体質を鑑みれば、十分健全な水準。そこを目指している。

 

それなりの体力があり、生活のスキルも構築できて、バーチャルの空間で認められていること。そんな日々があれば、主に在宅で過ごす日々であっても、人生は完結しそう。それが出来たら良い。そんな夢を思ったりする。

 

でも、結局は欠乏があり、胸にぽっかりと穴がある。それにより、身体は一回り病的な水準のままだ。暇でフラストレーションがあり、それによって身体に負荷が掛かってしまう。それが看過できない。多少の長引き刺激に見舞われた場合、途端に脆さが表れる。

 

ある程度は外で人と会わなければならない。でも、人は居ないし、人の居る場所へ行くのは気が重い。そんな日々だ。結局は欠乏が看過できない。それを改めて思う。刺激が少ない日々が続くと、それがありありと解ってくる。

 

内的に過ごしてばかりでは、心のエネルギーが枯渇してしまう。そのエネルギーを満たすことが重要。それが出来た時、新たに局面は変わるのだろう。

 

そんな日が待ち遠しい。やって来るかはわからないけれど、そう思ったりする。ただ、そうなってしまえば、フラストレーションがなくなり、書きたいことがなくなるかもしれない。そんな想像もしてみている。ただ、それは無用で不要な思考。

 

 

誰かを必要としているもの同士で成り立つのが社会だそう。マズローの本に記されていた。確かにそうだ。必要としてくれる人さえ居てくれたら良い。そこでの結び付きさえあれば良い。

 

創作でもそうだろうな。届けたい気持ちがあり、届けたい人にだけ届けられたら良い。そこでやり取りすれば良い。立派な価値が生まれる。そこにさえ到達できれば良い。そのための認知を広げる過程で、届ける必要のなかった人にまで届くかもしれない。届いてしまうかもしれない。でも、それは気にしなくても良いものなのだろうな。本質的な目標は、そこではない。そこに足を取られても仕方ないのだろう。必要としてくれる人に届けば良いし、そこでやり取りをすれば良い。それだけで良い。

 

プロとして認知を広げようとすれば、そういった事が起こるのだろうな。才覚のある人は特に。

 

自分の事は隅に置いています。自分の事ではないです。ほとんど叫びは届いていません。これは欠乏のせいでもある。刺激が少ないために、人の感情に敏感になりすぎている。公衆の面前へと表れていって初めて成り立つことだから、それをすることが出来ない。耐えられなくなってしまう。

 

 

ただ、一人くらいは読んでくれている。数字としてではなく、人として数えられる、その人が居る。

 

その人に声を届けるために書こう。それで良い。それだけで良い。そこから始めるべきだな。それが全てなのだから。

 

言いたいことをただ言える人が強いな。創作のエネルギーをずっと内に持っている人。ただ単に作りたいことや、信頼している価値に導かれている人がそう。自分の中で完結している人。人からの感情を欲していなし、それを頼りにしなくてもいい人。欠乏が満たされていて、純な動機で喜びに従える人。そんな人は良い。そういうことも記されていた。

 

「強い」という表現が出てくる辺り、まだまだ自分は欠乏欲求に支配されている。表現のエネルギーには、不純な動機も混ざっている。

 

 

まだまだ勉強です。繰り返し本を読みます。

 

現実を生きるべきなのでしょう。そうやって満たされること。

 

偉大な先達の知見が得られて良かったな。その人たちの後の時代で良かった。そんなことを思う。自分はとても恵まれている。

 

 

日々精進。

 

 

また明日。

 

 

参考書籍 :