欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

成れるものへの道筋 正しい方向の焦点

最近は、もっぱら刺激がない日常が続く。それなりの日々の基盤はありつつも、定期的な身体の乱れが出てくる。頭の中の思考は、いつも同じだ。停滞する局面の同じ思考。やるべき事は常に浮かんでいる。でも、なかなか満たせない。踏み出せない。自己完結で済む期間は終わったのだ。やるべき事をするしかない。それが出来ずじまいだ。

 

その中でも体調は落ち着きつつあって、体重も増えていた。ただ、今度はそれを加速させようとしてしまう。いつもの同じ轍を踏んでしまう。それを経て捉え直しをするけれど、結局は同じ考えに行き着く。日々繰り返しているフィードバックは、認識の刷新にはなっているけれど、根本は変わらない。やるべき事の本質は定まっていて、それはもう解っている。それを確かに感じる。それでも、またやるせなく過ごしてしまう。

 

 

親の力を借り、コンビニへプリペイドカードを買いに行った。内的な日々の基盤には、勉強が欠かせないだろう。ただ、自分の力だけではそれも出来ない。自分の力ではそれを買いに行けない。田舎のコンビニは、交通量の多い国道沿いにしかない。自転車に乗るのは怖く、家と行き来する体力も心配。それを乗り越えられない。

 

「自分の力で買いに行け」

 

そう言われる。ごもっともでしかない。日々なんとか工夫をしているのだけれど、どうにもだ。丁重に感謝をして、今は自室に居る。せめてもの償いとして、自分なりの出来ることをしようと務める。勉強をし、アウトプットもして、表現をする。最低限の務めをしているつもり。内的に過ごすのが一番であるのなら、内的な時間の結晶を残す。病人であっても出来ることはある。これが務めだと信じる。

 

自分の年代であれば、周りはとっくに車など運転しているのだろう。自立自活をし、個人的にも社会的にも務めを果たしている。きっとそう。着実に進んでいるはず。こう言うと、自分の発した務めという言葉とリンクする。情けない。自分は、未だ世界からドロップアウトした頃のままだ。心の成長が止まったまま。同年代の皆は、圧倒的に大人だ。

 

少し前にその旧友の顔を見た。気になって検索をしてしまっていたのだった。親しかった何人かの名前を打ち込んだ。すると、どうやら本人のページらしきものが表れた。自分は、それを開いてしまう。

 

楽しげな集合写真が目に入った。複数の知らない顔の同級生達が居た。それを見てしまった。

 

同じ歳には見えなかった。同じ時代を、同じ速度で歩んだのだと思えなかった。隔世だ。動かしがたい何かを感じた。怖さがあった。長く直視できなかった。不気味に思ってしまった。じっと凝視したあと、急いで画面を戻した。

 

 

孤独は、よかれあしかれ特異な体験を呼び起こす。検索をしたことはそれではないけれど、今までの日々がそうだ。連綿とそう過ごしてきてしまった。自分は、孤独で居すぎたのだ。いや、それは絶えず続いている。今の時点でも既にそうだ。十分な時を費やしてしまった。そろそろ糧にしていかないといけない。そう思う。人生の潤いなど、すぐになくなるのだろう。一番若い日を無為に費やし続けている。

 

かれこれ長い月日を消費してしまった。そんなことを思う。不可逆に進みすぎては不幸になる。ただ、それに気付いても何になるのだろう。何にも繋げる事が出来ない。何にもなっていない。

 

 

自分は、一体何に成るべきなのだろう。どうすれば平穏に暮らせるのだろう。

 

成りたいものに成るのではなく、成れるものに成るしかないのだそう。画家であれば絵を描き、詩人であれば詩を書くこと。自分自身が最大に平穏であるためには、自己を存分に発揮するしかないとのこと。自分らしく居るしかない。そこから逸脱してしまえば、欠けているものがどこかで現れる。身体や心に。そうだ、今の自分がそうだ。

 

 

陳腐な事を言えば、全ての出来事には意味があるのだと思う。今までの出来事と未来の出来事は、相互的に紐付いているはず。意味がきちんとあると思うし、それらから何かが読み取れると思う。あるいは、何かを読み取るしかないのだと思う。全ての結果と原因は、どこかに通じている。いや、どこかに通じるためにある。そこへと通じるしかないのだと思う。

 

人間的な想像の次元で言えば、神様が全て決めているのかもしれない。後から振り返れば、それは定められた道筋を辿っていたと感じるかもしれない。一人一人に介入し、賽は投げられ、その定められた道筋を辿るしかないのかもしれない。

 

自然現象には自然現象の理があり、生き物には生き物の理がある。それは誰も超越することが出来ない約束事。宇宙の原初から始まり、緻密で巧みな法則が生まれ、それが連綿と続く。

 

この世界は、約束事の集まりだと思う。それは、神か何かか、誰が創ったのかは分からない。それを置いておけば、全てが何かの説明のつく世界だと思う。理で全てが支配されている。全ての結果には、何らかの原因を見つけられる。神が法則を作り、その法則を神のように捉えるのが人間の思考かもしれない。あるいは、神が全ての約束事を仕込み、それだけでこの世界から消えてしまったのかもしれない。

 

その理は、誰かが巧妙に仕組んだかのように思える不思議。その理の設計が少しでも狂っていれば、このような世界には繋がっていなかったのかもしれない。遥か遠い先の事を見越し、それも定め、そこへと辿るように仕組まれてあったとも思える。人間の存在や繁栄も、すべての原初からの道程は、それらのためにあっただとも感じられる。後から振り返ればそう思える。動かしがたい何かに突き動かされ、定められた辿るべき道があったのかのように思える。

 

一個人に置き換えれば、それは顕著にあるのかもしれない。全ては決まっているのかもしれない。運命であり、天命で、宿命。すべてはこの世界の約束事に倣い、あるいは従って進んでいるだけかもしれない。

 

そう考えると、そこには自由意思がないのか、あるのか、それはどうだろうか。自分は、そこにはあると思う。自分の運命は決まっていて、その中で、抗うか、抗わないか、それを決定する事はできると思う。ただ、それを知るか、知ることが出来ないかは分かれるのだと思う。自分はどちらだろうか。

 

いずれにしろ、運命を自らで選び、切り開いていく他ないのは確かだと思う。後になって振り返れば、過去の出来事は変えられない。ただ、未来は変えられる可能性がある。未来にとっての過去は今だ。それは変えられる。向かうべき場所へと向かうこと。その先で振り返った時には、運命的な揺るがしがたい道のりを歩んだと感じるのだろう。

 

自分の力で切り開く他ない。あるべき状態へと近づく他ない。課されたもの、成るべきもの、全ての約束事を知り、それらを見定めるしかない。あるいは、すべてをそう思い、そう決定していくしかない。そう思う。

 

まだまだ勉強不足だ。とどのつまり、純なスピリットあるのであれば、純な運命に従うしかない。成るようになる。自然な成り行きに従うこと。その中で、自分の力で成るべきところに成りに行くしかない。そう思う。

 

 

自分のような人間は、一体何に成るべきなのだろう。何に相応しくなく、何に相応しいのだろう。何に不適応を起こし、何に適応が出来る?それを見定めるしかない。そのために学ぶことだ。繰り返し学ぶこと。繰り返し結果を検証し続けること。

 

 

ただひたすらに、ひたむきに歩むこと。

 

それだけですね。それしかない。

 

 

 

 

自分は、内的な適応を重点的に生きていくべきなのだと思う。社会とある程度の距離を取り、独立して生きていく。そんな人生を歩んでいけたら良い。内的な基盤というのは、そういったことを表すものでもある。今の日々を磐石に送っていけたらいい。内的な人生へ昇華させること。

 

ただ、内的に費やしてばかりだと、外的な適応が疎かになってしまう。それが問題。由々しき身体の問題が起こる。内的に過ごすためには、外との接点を失わないことが鍵。

 

 

一般には、男性の場合、人生の前半で男性的なパーソナリティーを構築することが大切になるそう。男性としての期待に応えるペルソナ(外的な仮面)を作ることが求められる。その後、人生の後半にかけて、女性的な部分や劣等な抑圧されたもの(アニマ)を開発していく事になるそう。

 

ただ、例外として、芸術家や宗教家、心理療法家などは若い時からアニマの問題と取り組まなければならないそうだ。その宿命を背負っている特殊な人であるそう。

 

この事は、外的な適応と内的な適応と紐付いてくる。一般には、先に外的に適応する場合が多いけれど、その反対の人もいる。始めから自身の劣等な部分と向き合わざるを得ない人がいる。

 

自分は、そのようなタイプなのかもしれない。内的な世界に対していかに適切な態度をとるか、つまり、弱さとどう向き合うかだ。それが求められる人間。劣等な機能をうまく使うこと。それが先に求められる。それが欠かせない人間。それは、外向する感覚であり感情だ。それらを用いること。そのために外側へと向かうこと。それが内的な適応だ。

 

改めて認識を更新しつつある。成るべきものを考え続けている。

 

 

アニマが肯定的に働くとき、それは、生命力や想像力の根源となるそう。多くの芸術家は、その内なる永遠の女性像を求め続け、努力をしている。

 

内的な日々を送ることが出来ている暁には、フィードバックも豊かになっているのかもしれない。ただ、心から満足がいけば、記したいこともフィードバックする事もなくなるかもしれない。ほんとうの満足を得て、一般的なペルソナの構築へと進んでいるかもしれない。普通の人生だ。

 

ただ、その日々は遠そう。しばらくは書きたいことが浮かびそうだ。それなりに欠乏を満たしつつ、文筆へと気持ちが向けば良い。

 

少しだけ世界と関われたのなら、それだけで良いのかもしれない。そう思う。でも、いつか文筆よりも一般的な人生へと復活するのかもしれない。欠乏を満たす事が出来たらのこと。そんなことも思う。問題なのは、体力と、生活能力と、自活力。

 

初歩の欲求から始めること。そこからが始まりだ。その先の事は考えなくても良い。そこが満たされたら事は進んでいく。自然とだ。それだけを考えるしかない。それだけで良いし、それで良い。

 

 

いずれも財産になるはず。この文章も、どこか未来と繋がっているかもしれない。

 

直向きに、真っ直ぐ進むこと。横道にそれないこと。

 

 

また明日。

 

 

参考文献: 

ユング心理学入門

ユング心理学入門

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 1967/10/01
  • メディア: 単行本
 
無意識の構造 (中公新書)

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