欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

欠乏を満たした暁 同じ轍を乗り越える時

直近では些細な体調の変動があった。それはいつもの事で、取るに足らないものだけれど、少し足を取られていた。矮小なつまずきだ。病院が近付くに当たり、好調を更に加速させようとしていたのだった。やはり病院に対する痛手というものも刻み込まれている。過去の出来事が、似たような新しい場面においてもリンクしてくる。体調が悪いと良くない事が起こるという原体験。それらがコアな部分に染み付いていた。最大限に好調を維持しようとしていた。

 

今までは、それが親や身近な人の感情とリンクする事により、抑圧をしてしまっていた。過去の人たちを喜ばせようとしてしまっていた。過去の人たちの好ましくない扱い方を受け止め、思い出し、それを身体で体現しようとしていた。周りは、身体ばかりケアをしようとしていた。自分も自分自身に対し、そのような誤りを繰り返してしまっていた。自分は、周りの望みを叶えようとしていた。それは自分の救いにもなると思っていた。

 

"体調が良ければ"という思考。良くなれば親の心配もなくなり、自分も真っ当にエネルギーを用いられる。恥ずかしいことも全て払拭できる。そう思っていた。それが"無理のしすぎ"に繋がった。身体を丁寧にケアするのではなく、プレッシャーを掛けて無理をしてしまう。何とか身体を上向かせようとしてしまいがちだ。

 

心というものは、過剰反応を起こしたり、償いとしてされたことの正反対のことをする傾向があるらしい。両極端の間を振り子のように行き来したり、人生の別の場面で極端に走ったりする。心のケアを怠ったままでカラダの調子を気にしすぎたりする事もあるそう。

 

好ましくない愛着関係が影響する事はななくなった。元々は親との愛着関係は良好だったけれど、そこに敏感な身体の問題が横たわっていたため、そこで歪みが現れてしまっていた。家族関係は一時期ぎくしゃくしていた。敏感すぎる身体の扱い方は、誰も知る由がなかった。

 

でも、そこは変わりつつある。平和な状態に戻っている。問題の原因を知り、好ましい生き方を学ぶ事が出来た。それにより、病的な無理のしすぎにおいては変わっている。周囲の感情とリンクする無理のしすぎは脱却している。

 

ただ、根本にある元凶は残されている。欠乏による無理のしすぎだ。病的な無理のしすぎがなくなったことにより、多少は体力が得られた。そこで問題になるのが、フラストレーションにまつわることだ。やり場のないエネルギーが問題になる。フラストレーションが満たされなければ、内的な長引く刺激となり、神経の高ぶりを起こす。それにより、その状況を脱却しようと踏ん張ってしまう。"体調さえ良ければ"という思考が顔を出してくる。欠乏欲求を満たそうとする無理のしすぎ。

 

人は、誰しも好ましい刺激を求める。適度に興奮をしたいそう。敏感であり、かつ好奇心旺盛なのであれば退屈しやすい。新しいことを求める気持ちが抑えられなくなると、慢性的に疲れてしまう。ただ、外側の刺激に対してもとことん脆い。好ましく刺激を得る事がとにかく難しい。最適な興奮の幅が極端に狭い。退屈しすぎては神経が高ぶってしまい、外に出すぎても刺激にまみれてしまう。

 

自分は、未だ敏感すぎる身体のケアの仕方を体得してはいないのだろう。そのやり方は知っているはずだけれども、まだ適切に施してはいない。それがずっとあるのだろう。未だにその呪縛からは逃れられていない。

 

好ましい身体の扱い方と、好ましい生き方を選択すること。それが欠かせない。当たり前の初歩的なことを構築しないといけない。前提を整えること。身体を退屈させてばかりではいけないし、活動させすぎるのもいけない。その中間を知り、そこを歩まなければいけない。

 

まだまだ課題は残されている。これをクリアしない限り、盲目的に一喜一憂をするばかりだ。今の身体の水準では、時の運によって微細な変動がある。そこにいちいち取っ組み合い、格闘し、気を揉んでしまう。それがまた体調の変動を生み、また更に負の連鎖が続いていってしまう。それがどうにも厄介だ。

 

意識のあり方によって変えられるようなものではないと思う。自分の病的なものは、気の持ちようでは変えられない。ある程度一段落した後でようやく気付く。何ら気に留める必要はなかったし、心が正常な人は身体に応えずに済んだだろうな、と。それはいつもの周期だ。同じ轍を踏み続けている。過去の轍は、同じ出発点に立ち戻る。それは延々と円を描いていて、そこに何度もはまってしまう。その連鎖に陥れば、なかなか悪循環からは抜け出せない。ただ、時の運で陥ったものは、時の運で良くなっていく。この一連の流れが繰り返れているだけだ。

 

日々の認識の刷新と、変わらない思考の循環。やるべき事は定まっている。後は、その事へ目掛けて進むだけ。それだけだ。

 

 

改めてアーロン博士の本を読んだ。社会生活の事よりも、初歩的な身体の扱い方が目に留まった。それが今の自分に重なった。現在のやるべき事は、まだ初歩の事なのだ。

 

でも、それさえクリアできれば、全てが回っていく。全ての土台となり、後は建設的にエネルギーを活かしていくのみ。健康になるための壁さえ乗り越えれば、後の問題は容易に克服できるかもしれない。十分その先のイメージは描いている。建設的な日々の事。正の感情を得て、外的な適応を可能にすること。その根本には、内的な適応がある。嫉妬から浮かぶ自分の可能性や、今までの教訓から得られる限度。その狭間を歩むこと。

 

まずは初歩の欲求から。自分の可能性は、まだまだ解らない。好ましい生き方を得られた場合、まだ見ぬ日々が待っているはず。今までになかった資源を得られているはずで、今までとは違う生き方を歩む事が出来るはず。この事も、アーロン博士の本に記されていた。

 

まだまだです。人生の二十年でマニュアルを得て、その後の二十年でそれを学んでいく。そうも記されていた。自分自身を存分に活かす事が出来る暁は、何にも替えがたい幸福が待っているはず。健康で、自由で、最大限完全な日々。それが待っている。

 

初歩でつまずく場合は、その可能性があるはず。それらの過程へと挑むための気概もある。内的な作業への適正もある。それが救いでもある。色々な面が、相補的に絶妙なバランスで保たれているのかもしれない。内向と外向、得意不得意。

 

 

気質の偏見や、そこからくるジェンダーの認知の歪みが好ましく矯正された社会になれば良い。いや、なっていれば良かった。そんな世界があったら良かった。そうなれば、圧倒的に生きやすくなると思う。そこまでいかなくとも、過度な痛手を被る事はなくなるはずだ。なくなるはずだった。そう思う。親、養育者、教育者、医療従事者、それらの人が相応しい接し方のマニュアルを知っていたら、かなり世界は変わる。未来の命やその可能性は、無知な暴力に閉ざされなくなるだろう。

 

相応しい人間が、相応しい生き方をすることが一番なのだろうな。親も、教師も、医師も、相応しい人がその職や役割に就いてくれたら良い。そんなことを思う。世界を変えるとすれば、それだけで済むのかもしれない。自己実現的人間や、欠乏を満たしている人間が聖職に就いてほしい。それが可能になる社会であれば良い。マズローの言うユーサイキアにも繋がる。

 

個人的な観察では、自己実現的人間は、HSPなどに一番可能性があると思う。人が憧れたり、羨む対象の性質には、HSPの特徴をよく見つける。純で崇高なスピリットがそうさせるのだろうな。自分の事を脇に置いておけばの話だけれど。

 

鋭敏で才気ある健康な人間が、社会を建設的に動かせば良い。社会を維持し、見えない栄養を与えられる存在が必要だ。病的なままで社会から取り残されていては、社会の大きな損失になる。ますます健全な社会から遠ざかり、それは自身の可能性が狭まることも意味する。

 

せめて社会全体に影響力を持たなくとも、その人たちが集まり、その人たち同士でコミュニティを作るのが良いと思う。内向指向の人間は、親しい環境下で存分に自分らしく居られる。それを拡大していけば良い。純なスピリット同士で小さな社会を作りたい。そこで英気を養うも良し、社会に声を挙げるのも良し、小さな社会を築きたい。

 

教育を施し、病める心身を導き、幸福の連鎖を生み出していく。そんな理想郷。桃源郷

 

 

そのためには、まずは身近なところから始めることだ。親密な関係を取り戻すこと。そこから始める。そこからだ。

 

親密な人と個々人によるエネルギーを交わすこと。それによって心身に資源が満ちる。それが欠かせない。それさえ叶えばなんとでもなると思う。外的な適応が整えば、内的なエネルギーを好ましく活かしていく事が出来るはず。それにより、本来の鋭敏さが生きるだろう。敏感すぎる部分は、敏感な人間が求められる分野において実力を発揮するだろう。それを見つけること。そこまで進展させていけるかが課題。

 

 

文を書くくらいしかない、と、そう思う。あるいは、一般的な活動によるエネルギーの用い方が適切なのかもしれない。既存の社会にある働き方や、仕事、それを目指すべきなのだろうか。どうなのだろう。

 

いずれにせよ、存分に自己を発揮すること。それしか道はない。形にはまらず、独創的に生きるしかない。限度と可能性を知り、その中で最低限かつ存分に生きること。そうしない限り、不穏な日々が続いていくはず。今までがそうだった。

 

 

色々な夢がある。あるいは嫉妬や羨望からもそれが読み取れる。誰かを羨んでいる時など、自分も同じように過ごしてみたいと思う事柄がある。それを経験してみたい。そこへといつかは挑んでいたい。

 

自分が成るしかないと思うものへと挑むこと。それと、やりたいことをやる。内的なエネルギーを昇華し、得たい刺激を得ること。それらに挑み、経験してみたい。そんなことを思う。

 

そのためには、親密さを取り戻す努力をすることだ。それをし、豊かに生きる。健康で、存分に自分自身で居ること。それが全ての歯車を回す切っ掛けになる。

 

そして、可能性を伸ばしていく。欲求は、満たせるものだから湧いてくるそう。そして、満たすべきものだから浮かんでくる。それを満たした暁は、胸一杯になる至高の体験が待っている。

 

文筆のエネルギーを、伝えたい人へ伝えるために拡大したい。パートナーと出会いたいし、旅行もしたい。壮大な自然も感じたい。衣食住を快適にしたいし、プライバシーのある家に自分だけの空間がほしい。そこで世界の教養を学べる本棚を一面に据えたい。病める人や動物に接したい。深い領域で関わり、共に幸福になりたい。

 

 

内にこもりすぎている場合、世の中にもっと出なければならない。外からの刺激を避ければ避けるほど、未知の刺激が増えてしまう。すると刺激に弱くなる。今の自分の表層の意識が、コアの反応に対してあやすように接しなければならない。何か新しいことにトライしようとしたくなったのなら、それを後押しすべきだ。やってみるのが怖くてためらっているようであれば、その恐怖を大きくさせないようにすべき。こうしなければ、新しいことにも挑戦できず、世に出て生き残ることはできないと感じさせてしまう。

 

今の身体は、安心が出来る状態でなら、外の世界へと出ていくことが出来る。これからは、過保護な気持ちが厄介になる。常に「大丈夫なのか?」というチェックが刺激過多を引き起こす。

 

これがフラストレーションの原因にもなる。これをどうクリアしていくかが課題。表層の意識が理知的に課題を知り、やるべき事をしていく事が大切。

 

 

欠乏さえ満たすことが出来れば良い。それは所属と愛の欲求だ。その満足は病気を治す。それより下の低次の欲求は満たしているはず。一番必要なのは、それだろうな。

 

バーチャルに満たそうとしても限界がある。内的な基盤だけを活かそうとしてもだ。

 

 

正の感情さえ得られたら良い。人を愛すること。それが結果的に必要なものをもたらし、心理的な自由をもたらす。

 

このブログを誰かに届けるのにもそれが必要。そう思う。

 

後一歩だ。

 

悔いなく過ごしたい。最後の日まで。

 

 

また明日。

 

 

参考文献: 

ひといちばい敏感な子

ひといちばい敏感な子

 
マズロー100の言葉―名言から読み解く人間性心理学

マズロー100の言葉―名言から読み解く人間性心理学

  • 作者:明, 中野
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本