欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

退行的な現実の認識 エネルギーの狭間

病院へ行ってきた。親の車に揺られて一時間経つと、ようやく罹り付けの病院に到着する。そこから診察。やはり、都会に生まれていたら有利だったろうな、と感じてしまう。車の有無は生命線だ。未だ変わらず親に頼るしかない人間は、しばらく成長がなさそう。そう感じていた。いや、それどころか永遠に変わらなそうだ。そんな気がしていた。

 

先月の道中は平気だったけれども、今月は精神的にきつくなっていた。まだまだ心身は不安定だ。未だ抜本的な処置の段階に進んでいないまま。それを思っていた。どこかで果てしない限度を感じた。

 

車の免許を取得し、自分の力で運転をする。そんな未来があるとは思えない。やって来ないと思う。現時点から鑑みると、無理だと思っている。そもそも自分にその気がないのもある。全くその姿の自分を想像できない。

 

当分は、かなり当分はこのまま維持されていくと思う。その先で立派な人間になっているか、それとも廃れたままか、それはわからない。可能性はあるとは思う。ただ、頼りに出来るような日々の進展や自信がない。それらに全てが覆われているようで、好ましい未来はないと裏打ちされているように感じる。それらの感触は絶対的なもののような気がするし、それに打ちのめされたような気分になってしまう。

 

診察中にデイケアの話があった。先月からの間に訪れなかった事を言われてしまう。別に詰問されてはいないけれど、どこかが苦しくなった。未だに不確かな救済点を望んでいることや、現状を解っていながらも葛藤するのみで何も変化をしていないこと、それらの気持ちが入り乱れていた。

 

先月から少し体重も増えたし、それなりの食事量に近付いてきたけれど、やはり依然として不安定な状況のままだ。些細なつまずきに脆いし、身体に余裕はない。好ましくない水準のなかで踏ん張ろうとしている。本質的にやらければならないことは、メンタルのケアなのだ。心の養生だ。身体ばかり気にしていては無意味なのだ。

 

それは解っていて、その事がデイケアにも繋がるけれど、どうにも変えられない。そう思っているのであれば、尚更相応しい行動を取るべきなのだ。そして、それが目の前にはある。その選択肢は目の前に用意されている。健全で有難い仕組みはある。後はそこへ向かえば良い。進んでみれば良い。それだけのこと。進んでしまえば良い。

 

でも、足は進まない。どうにもこうにも。

 

恐怖感が膨大になりすぎているのもある。本来はそれは身を守るものだけれど、それによってかえって動きが鈍重になり、身動きが取れなくなっている。それはある。確かにある。君子危うきに近寄らず。本当の君子であるのなら、危うきに近付かざるを得ない場合もあると解るだろう。自分もその事は解っているのだ。解っているはずだ。

 

でも、その空間を少し覗いてみたところ、そこにはわりと多数の人が居たし、なかなか近付きがたい感じを見て取った。それを思う。それがずっと頭の中に浮かんでくる。

 

親の力でそこへ出向き、見知らぬ人とそれなりの関係を構築する。そのためのエネルギーを動員する。それに意味はあるのだろうか。そんなことを思う。個人的には退行的で恥ずかしいし、気軽に足を運べそうな場所に思えなかった。

 

結局のところ、一言で片付けてしまえば、恥ずかしいし無意味だと思っている。そう思ってしまっている。そして、愚鈍にも受け身のままで、身近に誰かが現れないかと期待をしているのだ。それだけのこと。

 

適応しに行くのであればフリースクールでも良い。ただ、そこは過去に失敗した場所だ。容易には適応できないだろう。そこと同じような場所だと思った。

 

 

心的なエネルギーの理屈をこね繰り回し、それによってもっともな段階を設けているけれど、そのステップを一向にこなしていない。理想であり、現実離れなのだろう。ただ、やはりありのままの声でもある。身近に誰かが居てくれて、そこでエネルギーをやり取りできれば良い。それが良い。それだけが良い。それが全てだ。そう思う。

 

同じ病める人間が居れば良い。でも、その誰かにアクセス出来ていないし、そもそもそんな人は居るのだろうか。いや、そうだ、そもそもアクセスしようとしていない。図書館が近くにあるのだから、せめてそこに行けば良い。そこで待ち人を待てば良い。それしか可能性はない。それしかない。せめてそれをするしかない。

 

でも、それにも頼っていない。そこすらも諦め、内的な適応ばかり気にかけている。なおざりにされた外へと向かうエネルギーは、内的に空回りを続けている。その全てを身体が受け止めている。自分の行いが、自分に返っている。本当は外に出てエネルギーを得たいし、刺激を得たい。やるせなく日々を無為にするのではなく、存分に満たしたいことを満たしたい。

 

でも、そう思っているけれど、どうにも変えられない。

 

変えられないのです。

 

 

静かに暮らすことが基軸にはなるだろうけれど、それは必要なだけであって、それだけで良いわけではない。刺激が少なくて生まれるフラストレーションがある。それはやがて内側からくる刺激となる。フラストレーションを溜め続けてしまうのは、外の世界へと出ていくには難儀なことが多いから。刺激にまみれる場面が多いから。それは確かだ。ただ、そう回避的になりすぎると、今度は刺激が少ない日々が続いてしまう。それがフラストレーションを生み、刺激となってしまう。

 

とにかく快適に生きていくことは至難の技であるのです。敏感すぎるし、それでいて刺激を求めすぎる。

 

静かに居られる基地がありつつ、刺激を感じられたり、フラストレーションを溜めないようにすること。これが永遠の課題。絶えずこの問題はあり続ける。

 

田舎に住んでいれば、地理的に不利な面が多いと思う。賑やかさはないし、近くに店も集まる場所もない。刺激を得ることが難しい。それに、この町だけで生きていくことは出来ない。この町だけで生活は完結させられないのだ。生活圏は何十キロに及び、それを支えるのが車の力だ。ハンドルを握る力だ。どうにも難しい。

 

刺激があることが大切。それだけで胸がすっきりするし、辺りの感じ方が変わる。スクリーンの見方も変わり、そこでの過ごし方も変わる。とにかく何にでも波及し、良い効果を与えていく。

 

毎日勉強をし、本を読み、内省し、アウトプットし、表現をすることは大切。それは確かな基盤だと思う。ただ、そればかりでは必要なエネルギーが尽きていく。それは明らかなこと。大切なのはバランスだ。そして、折り合い。それが可能になる適応をすること。内的にも、外的にも。

 

 

刺激を得て健康になりたい。そして、社会的な存続を確かにしてくれる何かに費やしたい。欠乏欲求を満たし、成れるものに近付くための努力をすること。それを積み重ねていたい。

 

欠乏満たすことさえ出来れば、後は自分らしさを存分に発揮すれば良い。そのための土台は整っているだろう。本当の自由を手にし、何の束縛なく自律的に居るのだろう。

 

それは満たしたいことであり、満たさなければならないこと。ちょうど重なっている。

 

欲求とは、満たせるものだそう。初歩の事が特にそう。低次の欲求は、誰にでも満たせるようなものであり、満たさなければならないもの。そこへ向けて努力するもの。叶えられるし、叶えるべきこと。

 

その理屈だと、待ち人を待つことはどうなるだろう。図書館へ行く?そこに人が現れる?病める人間同士が出会い、お互いに必要とし合う?そうやって談笑し、お互いが深い領域で信頼し合う?それによって歯車を回す?回していくことが出来るものなのか?その願いは叶うものだから浮かぶのか?

 

さあ、どうだろう。可能性はあるかもしれない。

 

 

また変わらない日々が続くのだろう。去年に比べれば進展はあるけれど、この先はどうなのだろう。わからない。

 

昔の縁を取り戻したい。そう思う。でも、もう生きる世界が変わってしまったな。何年間で遠く離れてしまった。

 

時に押し出され、何も携えていないのに年を重ねた。重ねてしまった。何も手元には残っていないよ。旧交も、場所も、時間も、人も、もう変わっていったな。

 

 

でも、それでもやっていくだけです。そうするしかない。目の前の未来をを信じてしまう以上、自我は何も介入出来ない。未来を信じていたからこそ、今の全てに繋がっている。ただ励むだけです。それしかない。

 

生きてさえいれば何とかなるかもしれない。せめてその考えを持つべきだろう。それがあれば、過去の悔いが活きるかもしれない。後悔は消えないけれど、それを無駄にせずに生きることは出来る。これからの可能性はある。未来は不確定だ。変化の可能性はある。励むことは出来る。いつかの未来から見た今日で、この考えによって良い選択をし、良い日々に繋げていくしかない。

 

そのためにも、切っ掛けを求めること。それを望むこと。その気持ちで居れば、どこかの小さな出来事が救いの切っ掛けになるかもしれない。そう映り、手繰り寄せられるかもしれない。

 

そう思おう。それだけは出来る。それで良い。それが良い。

 

 

また明日。

 

 

参考文献: