欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

理想的な像を掴むまで 劣等な意思を活かす時

通院の日から明けて二日が経った。また変わらぬ日々が続く。先月と全く同じ轍を踏んでいる。病院以降、刺激の少ない日々に立ち戻ってしまった。外出によってエネルギーは満ちたけれど、すぐにそれはなくなっていった。結局は刺激が得られなくなり、こもりすぎの日常を送ってしまう。無に帰すのみだ。

 

意欲が全くない訳ではない。意欲しかないような日々。そのなかで、とにかく行く場所がない。どこかにその場所はあるかもしれないけれど、どうにも見つけられない。自分がアクセスしていないせいもある。ただ、人が集まる所などあるのだろうか。あったとしても、そこに通うための自力がない。

 

病院も、学校も、福祉にも、自らの力ではアクセスが出来ない。この町に居てばかりでは何も変えられない。ここで過ごすだけでは人生が完結しない。物を買うにも、働くにも、学ぶにも、罹るにも、結局はこの町を出る努力をしないといけない。自分には、その力がない。

 

限度はある。明らかな限度がある。それは確かだ。その中で折り合いをつけることだ。内にこもりすぎてもいけないし、外に出すぎてもいけない。適切な興奮のレベルを保つこと。

 

今の状況では前提がない。日々の生活を営む上での資源が足りない。そのために、生活の基本的な事が構築されていない。他の人が当たり前に持っているバランスがない。自分は、初歩的なことからそれを見つけなければいけないのだ。その事に苦慮しているのであり、絶えず重点的に取り組むしかないのだろう。

 

恥ずかしく思っても仕方がない。それはある。それが少なくなったとすれば、問題の規模は小さくなるのだと思う。ただ、それにも同じ資源が必要。それにすら必要だ。心身のエネルギー。正の感情であり、肯定。その全ての前提となる資源は、全ての歯車の潤滑油になる。そして、自然と歯車は回っていく。

 

それらの流れに至るために、身近に小さなステップがあれば良い。些細なことでも良いから外に出て、何かしらの行動から始めたい。知り合いに連絡を取ってみたりでも、何でもしてみれば良い。関心の赴くままに踏み出せば良い。その根本には、人があるはず。人との接点があるはず。そこから始めれば良い。何でも良いのだ。

 

自分の場合は、創作をすることよりも、人と会うことだろうな。それは今までの捉え直しで十分に解っていること。改めて何かの切っ掛けを掴むために考えよう。医療か、福祉か、身近な人か、場所か、それともエネルギーか。それらの望みは捨てないこと。

 

 

人は絶えず変化をしている。そして、未来は不確定なもので溢れている。不安もたくさん生まれるけれど、それと同じくらい良いことが起こる可能性もある。不確実さには両面がある。今までを振り返ればそうだ。全てが破滅へと向かうことはなかった。振り替えればそうだ。そう気付く。そう気付くだろう。

 

だから、取り敢えず生きる。息を潜め、時が来るのを待つ。時が来なければ、その時はまだ来ていないのだろう。まだ反省すべきものがあると考えるしかない。過去と未来は、相互相補的に結び付いているはず。結果には原因がある。何かがある。在るべき状態に至らないのには、何かの要因がある。それはあるはずであり、あるだろうと考えるしかない。原因を理解せず、闇雲に生きるばかりでは暗い未来にも繋がってしまう。ただ、その逆もある。成すべき事をすれば、在るべきところに成りに行ける。そう信じる。

 

何かがあるはず。悔やんでも悔やみきれない過去に、何かがある。そう経験せざるを得なかった理由がある。その何かを感じるしかない。生まれや環境などで色々な方向に転がる可能性があったなかで、その一つの出来事だけが起こった。起きてしまった。環境的にも、個人的にも起きてしまったこと。それは、全て自分が選び取った出来事なのだと思う。あるいは、選び取ってしまった出来事だ。そう理解する方が良いし、そうするしかないと思う。自分の生まれついたものを理解するしかない。それを受容し、幸せになるしかない。

 

どんな環境の元に育ったとしても、何か共通する性質の壁にぶつかったはず。この星の元に生まれた以上は、いずれも似たような出来事に遭遇するだろう。根本の性質が同じ出来事は、それぞれに生まれるはず。

 

人は恐らく、真っ直ぐ普通に成長するなど出来ないのだろう。あるとしても稀だろう。何の痛みもなく、それが得られなかった人間など居るのだろうか。そうであれば、味気の無い人生を送ってしまうと思う。

 

どんな家庭環境であれ、親の得手不得手であれ、その結果には原因がある。それを探っていくしかない。そうすれば、いつかの辿り着くべき場所へ繋がっていく。幸せになるためには、自力で繋げていくしかない。

 

未来でも、そうならざるを得ない出来事が起こっていく。起こるべくして起きた過去のことと、それと同じようにある未来のこと。良くも悪くも何かが起こるのだろう。起こるべくして起きた今は、過去の出来事と繋がっていて、それは未来にも繋がっている。繋がっていく。悪い出来事に囚われていれば、いつまでも悪い時が流れる。その逆にあるものは、自らの手で運命を切り開くことだろう。

 

とにかく勉強をするしかない。まだまだ捉え直しをすべき段階にあるのかもしれない。そう思って励むしかない。その中で、時の運に惑わされないこと。時の運で変わるものは、いつかまた時の運で変わっていくのだ。実体験ではそうだ。その中で、運を掴むこと。

 

こつこつ積み上げれば、いつか相応しい時が来るはず。必然のように思える時機が来るはず。未来で振り返ればそう感じられるような時に、いつか届くかもしれない。まだ望みは捨てるな。そう言い聞かせよう。

 

 

 

 

晴れた日に、晴れない心で居ると辛くなってくる。平日の昼下がり。世の中が回っている間、自分はやり場なくエネルギーを持て余している。とにかく欠乏欲求を満たすことだ。それしかない。それさえすれば良い。今すぐにでもしてしまえば良いのだ。何とか機会を求め、動機に忠実であれば良い。

 

でも、そうはいかない。どうにもこうにも。そうはいかないという事しか言えません。絶えずそれが続いていく。それしか頭にない。それしか記せない。他にやるべき事などない。

 

いつかの晴れた日には、充実した日を送っていてほしい。そうしていたい。胸一杯に過去を慈しんでほしい。全てを糧にここまで辿り着いたのだ、と、全てに心から感謝をしていてほしい。それと、その感謝と同じ量の称賛をしていてほしい。人からではなく、自分自身でそれをしていてほしい。自分で自分を褒めていてほしい。人からそれを言われたくなっているかもしれないけれど、自分自身でそれを満たせば良いだろう。自分だけが解っていれば良い。他の人には解らないのだ。全ての体験はこの時のためにあったのだ、と感じられたら良い。

 

 

人の心に触れるということが一番の資源になる。それによってエネルギーが得られ、糧になる。内的な適応を可能にするだろうし、そのための外的な適応も出来るようになっているはず。全ての前提となる。過去の大丈夫だった時は、それが壊れていなかった。それが壊れてしまった時、初歩的なことでつまずいてしまったのだった。

 

自分自身の可能性を最大限発揮出来るような環境に身を置き、存分に自分自身で居られるようになること。それが全てなのだろうな。学校やフリースクールはその場所ではなかったのだろう。過去の時点ではそうだ。現時点で振り返るとそうだ。

 

今になって何をすべきか。教訓を活かして踏み出すか、どうするか。

 

 

 

 

自分は、内なる女性像と対決をすべきなのだろう。その像に鍵が隠れている。

 

人は、男性の場合、この世の中に適応して生きていくためには、外的な環境に対して適切な態度を取ってゆく必要がある。期待される行動に合わせて生きていく。父親は父親らしく、教師は教師らしくする。一般には、"男らしさ"を強調するペルソナ(外的な仮面)を築く。その時、それは内在する女らしさ(=アニマ)によって平衡が与えられる。その女性像は、よく夢に現れる。

 

一般に男性は、強さや判断力などが期待されるため、このような外的な期待に応えるペルソナ(仮面)を作り上げることが大切であり、それは人生の前半で築いていく。女性像との対決は、人生の後半にかけてなされるのが普通であるという。

 

この女性像は、一般に望ましいとされる外的な態度から閉め出された面だ。男らしさというものを築く時に閉め出された面。

 

人は、外的な適応ばかり重視していると、自らの内にある心との接触を失う事がある。外的な適応を誤った時に神経が高ぶるばかりではなく、内的な適応も疎かにしてもいけない。そのときに鍵になるものが、内なる女性像だという。アニマは劣等機能と結びつきやすく、それと結合している。自分の場合は、外向感覚(感情)だろう。

 

アニマとの格闘は、普通は人生の後半にかけて行われるそうだけれど、例外として、芸術家や宗教家、心理療法家などは若い時からアニマの問題と取り組まなければならないそう。他の人との真の関係を築くには、弱さの開発という内的な経験を通じて打ち立てる必要があるためだ。

 

自分の場合だと、内的な適応が優先されるべきな人間のように思える。外的な適応をすることが難しく感じている。となると、外的に有効なペルソナを構築することよりも、内的に劣等機能を開発することが先決なのだろう。それに、心理療法家などは、自分の興味のある分野だ。

 

ただ、内的な適応ばかりを優先させては無理が生じる。外的な適応を優先させてばかりでは内的な適応が疎かになるように、その逆もある。内的な適応のために外と適応すべきなのだ。この事は、劣等機能が外向のものである事からもつじつまが合う。

 

そして、また一般的には、男性はアニマ像を投影した女性と結婚し、バランスを得て男性的なペルソナを築くそう。パートナーによって平衡が与えられているのだろう。

 

自分にもこのような人が現れてくれたら良い。外的な劣等機能を活かし、誰かと交わる。心の資源を得ること。その対象のエネルギーを与えてくれる人が必要だ。そのような人に出会うこと。

 

このような内なる女性像は、男性の場合での事だ。女性にも内なる像はあり、それは男性像だ。女性にも男性的な元型がある。

 

男性の場合、アニマの問題が退行した状態で現れる時は、エロチックな空想で現れることが多いそう。女性の場合は、頼もしい男性の出現による未来の展開などという、願望に満ちた考えとして現れる。

 

この像を自分の相手として考えるのではなく、女性がその像に取りつかれてしまうと、積極的で行動的になる。自分の女性性を無視し、性愛が積極的で攻撃的となり、男性の性愛に近くなるそう。このような女性の相手には、アニマに取りつかれてなよなよしている男性が選ばれるそうだ。ここでもまた、相補的な結び付きがある。

 

お互いがお互いを投影をし合っているのだろう。男性は女性的な面に覆われていて、女性は男性的な面に覆われている。男性の女性的な部分は、その対にある男性を求め、女性の男性的な部分は、対にある女性を求める。

 

今までの少ない経験でも、なんだかそういった事があったように思える。好かれるような相手も、好くような相手も、大体そのような人だった気がする。ユングはよくここまで洞察したものです。

 

夕べの夢に、そのような女性像が現れたのだった。エロチックでもあった。つまり、今は退行的なアニマの段階にある。ここから発展させるには、好ましい相手を見つけることだろう。そうすれば、同時に劣等機能が開発され、均衡がもたらされる。エネルギーが満ちるだろう。この事は、今までの捉え直しと紐付いている。

 

とにかくこのような示唆に富む知見がある。個人的な直感を裏付けるようなものだった。女性的な面(弱い部分)を開発することだ。個々人とのエネルギーのやり取りにはそのような面がある。そうやって心身のエネルギーを得たり、母親から離れていくのだろう。

 

 

どこかに居ないだろうか。そんな人が居てくれたら良いのに。病める者同士で必要としあうことが一番だろうな。そうするしか社会との接点は持てなさそう。

 

そこから始めれば良い。サービスの提供においても、創作においてもそうだと思う。ブログでもそう。必要としあうこと。

 

誰か居ませんかね。一人は居ると思いますが、どうだろう。

 

でも、現実を生きるしかないな。それしかない。代替策では満足はできない。それは確かなことだろう。

 

何から始めようか。この文を記す事がその一環なのだけれど、そこに求めても仕方がない。難しい。

 

でも、励むのみ。いつか何かに繋がるはず。

 

努力努力。

 

 

また明日。また会いましょう。

 

 

参考文献:

ユング心理学入門

ユング心理学入門

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 1967/10/01
  • メディア: 単行本
 
無意識の構造 改版 (中公新書)

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