欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

結果と原因 成り行きの転換点

気持ち良く晴れている午後。部屋には柔らかな日差しの温もりが満ちている。窓を開けてみると、少し冷たい風が吹いてくる。そんな空間でゆったりと過ごし、文を記していく。身体もそれなりに落ち着いている。

 

遠くを走る車の音が響いてくる。世の中は回っている。そう感じられる。この心地よい世界には生があり、活気がある。その事を確かに感じられて、風情を感じる。人の活動的な雰囲気があり、確かに町は動いている。そんな午後だ。

 

ただ、自分はその対にあるような人生だ。自分は、活動的な町のエネルギーをよそ目に生きている。何も出来ず終いだ。そんな毎日が続いている。いつになったら変わっていくのだろうか。このままいつまでも変わらないのだろうか。

 

最高の日和のなかで、何年間も晴れない心が続いている。これからの季節では、辺りはますますエネルギーが満ちていく。人間も、自然の植物も、生気に満ち溢れていく。自分はそんな季節が好きだ。生の躍動を感じられる日々が好きだ。でも、自分自身にそのようなものはない。気持ち良くはあっても、ほんとうに心から気持ち良く過ごせはしない。春夏秋冬のイベントを、虚しく遠くから眺めるのが常です。何年もそれが続いている。隔絶されているようで、世界は遠い向こうにあるようだ。

 

もうすぐ風が薫る。力強さが満ちていく。今年も同じ心持ちで居続けるのだろうか。恐らくはそうだろうな。そう思う。

 

変わらずこの町で過ごすことが辛い。町が嫌なのではなく、変わらない景色を見続けることが嫌になってしまう。刺激の少ない日々が辛さの原因。退屈すぎても人は嫌になってしまう。それは誰でも当てはまることだろう。家と職場の往復ばかりでは嫌にもなるはず。旅行へ行きたくなったりもするだろうし、何かの刺激を求めたくなるはずだ。刺激を求めることは、人間の存続の大半なのかもしれない。

 

自分はそれが顕著にある。刺激が少なければフラストレーションとなってしまい、内側からくる刺激となる。敏感さが災いし、外の刺激に回避的になると、内にこもってしまい、やがてこもりすぎになってしまう。そうなるとフラストレーションが生まれる。厄介なのは、刺激に弱いのにも関わらず、刺激を求めたくもある部分だ。それを満たせなければフラストレーションになってしまい、内なるフラストレーションを刺激として受け止めてしまう。外にも内にも敏感に刺激を感じてしまう。外は辛いし、内も辛い。長引く神経の高ぶりを引き起こし、慢性的に疲れてしまう。今は、外の刺激に対して回避的で居すぎてしまっている。それが元凶だ。

 

本来であれば、進学をしているか就職をしているかの年代だ。自分は、この歳になっても初歩的なことでつまずいている。恥ずかしい。何かを発展させようとしても初歩の事からだ。いきなり年代に相応しい事はできない。前提が整っていないからだ。未だ停滞をしているまま。

 

 

どこかに出掛けていたかった。ここではない街で、刺激のある日々を送っていたい。自立的であり、生活の存続を確かにしてくれる何かがあるような、そんな充実した日々を過ごしていたかった。そんな夢だ。それを容易くやってのける人は居るだろうから、尚更恥ずかしく思う。

 

その感情になるのには、理由があるのだろうな。本来であれば、自分もそのようなことをやれると思っているのだろう。自分はこの程度の人間ではない、と、そう思っている。だからそういった思考になる。自分にも十分可能性があり、今は何かに足を取られているだけなのだ、と、そう考えているためだ。ただ劣等を思っているわけではなく、可能性があると思っている。根底では劣等だと思っていないため、それを受け止める事はできない。そのために屈辱を感じ、恥ずかしくなってしまう。

 

 

ここではないどこかへ行っていたい。新鮮なことをしたい。新鮮な場所へ行き、新鮮な体験をしたい。新しい人間関係を築いたり、いつかの関係を取り戻したい。永遠の望み。それだけを叶えたい。

 

欠乏欲求が全て満たされたのなら、それはとても健康になるだろうな。そんな人は強い。多少の段階さえ踏んでいれば、それだけで健康になり、高次の意欲が湧く。となると、後はその意欲の赴くままに費やせば良い。成長へと無我に励むこと。成長のために費やして賃金が得られたのなら、それが天職だろう。自分事で他人が喜ばせられること。そうであるのなら、天から与えられた素晴らしい日々を送ることが出来るだろう。日々の生活の満足があり、経済的にも満たされている人。そんな人が居たらすごい。でも、なかなか居ないだろうな。

 

欠乏を満たすことに専念できるのであれば、それは有利かもしれない。今の日々は、それだけは与えられていると思える。一般的な人は、様々な方面から圧力が掛かり、切迫によってなさなければならないことがある。仕事をすることだ。大きい金銭的な問題に取り組まなければならない。初歩の欠乏を満たすためだ。それは生活の中で絶対的で、そこを看過して何かに取り組むなど出来ないだろう。

 

その中で、それよりも根本的な事に取り組まざるを得ない人も居る。過去のつまずきを看過できない人だ。考えてみると、ある程度の痛みによって立ち止まらざるを得ない人は、機会に恵まれているのかもしれない。外的な適応や、内的な適応をする際の工夫を凝らすことが出来る。その過程を経る機会が得られる。そう考えると、とても有利なことでもある。それに、それは必然的で、理に叶っているような事でもあるかもしれない。

 

ユングマズローは、自己実現をする人は、神経症者やノイローゼの人と言っている。自己を受け容れ、洞察力を持ち、実現すべき可能性を内に持っている人だと言う。

 

そういった人は、病的な状態に陥りやすいのだろう。内的か外的な不適応を起こしやすいのだと思う。心身が悲鳴を上げやすいのだろう。

 

その事は、周囲に対してのメッセージとして発しているという面もあると思う。何かに適応するということは、自身の成長を抑える低い天井をおくことになる。それが病的な社会であれば尚更だ。不健全な適応への反発を行っているとの取れる。それが出来るような人。ある種の心の強さだ。可能性の萌芽だ。

 

それの対に当たる人は、好ましい外的または内的な適応へと向かわずに、一般的に獲得すべき価値に基づいた人生設計をしていくだろう。一般的で社会的な価値基盤に基づいて生きていくことが出来る人。病的な人が持ち得ないものを持っている人だ。自己実現や、持ち得る可能性を発揮することよりも、社会に適応して生きていく。ただ、それは欠乏を満たすための日々になっていくかもしれない。仕事をしなければならなず、それは大変なことであり、やらなければならないこと。楽しくなんかないもので、楽なものではないこと。そういった価値基準が出来上がってしまう面もあるだろう。

 

それが悪い事だとは思わないし、それは生きていく上で理にかなった術だと思う。何かを大成させるのではなく、普通に生きることが一番だ。自分は、その普通の生活をして生きたいと思っている。前述のモデルは親で、その発言を基にして考えているけれど、親の生き方をするのが一番だ。それはずっと思っている。自己実現的な日々を送っている人など、人口の1%にも満たないそうだ。

 

 

自己実現の追及を推奨してくれる社会が健全なのだそう。人としての成長を後押ししてくれる社会。それが良い社会になる。本質的な成長を阻害しない社会。成長に導く価値を追い求められること。それを後押ししてくれること。そういった社会であるべきなのだそう。今の社会通念や、教育の仕方を考えれば、それはどのようなものになるのだろう。それぞれの可能性を存分に活かそうと試みているのだろうか。そういった先達が居るのだろうか。

 

心が弱そうだと思われる人は、心が強い可能性がある。前述のノイローゼの人や神経症者は、ある種の心の強さがあるために、既存の価値基盤に対して反逆をしているとも取れる。その素質や、それを裏付ける可能性は確かにある。その裏打ちはある。反逆ではなくとも、可能性があるために対抗しているようなのだろう。確たる適切なエネルギーの用い方があるために、それを阻む何かに対してメッセージを出す事が出来る人。それが身体の限界というサインで示される。不健全な体制に対して声を挙げていく。それが出来るような人とも取れる。それが色濃く表れる人は、逆説的な意味で心の強い人かもしれない。潜在的な可能性を持っているための結果だ。心が強い人は、ある程度の前提は整いつつも、不健全な体制に対して声を上げるには至らず、最低限の糧を得るために適応し、存続を確かにしているのかもしれない。

 

つまり、病的な人間は、諦めずに創造的に生きることだ。つまずきにも意味はあり、それに意味を見いだす作業に務めることだ。それが大切なのだと思う。内向性向のパーソナリティーや、センシティブパーソン、何かの痛手を被ったような人は、新たな発展の可能性を持っているのだと思う。そのなかで、新たな歩みをするしかないのだろう。それを迫られるようなタイプなのかもしれない。本当に多大で過剰なものを抱えている場合は、それがあるのだと思う。敏感すぎるセンシティブパーソンはそうなのだろう。そのようなことは、アーロン博士の著作に記されていた。

 

 

過去と未来は、相互的、相補的に繋がっている。そう思う。裏表のように、ある転換点を向かえた場合、その先の未来で何かに結び付いていく。そんな気がする。陳腐な言い方で言えば、全ての出来事には意味がある。あると思うし、それを捉えて活かしていくことが出来るはず。あるいは、そうしなくてはならないだろうし、そうせざるを得ない。そう思う。

 

欠乏を満たすための準備期間を設けること。そして、今までに持ち得なかった新たな素質を獲得していくこと。

 

病的な心理について知り、それをほどいていく。真っ直ぐに道を歩んでいくための準備をすること。それが整った時、そこから始まっていく。新たな生命が始まる。ゼロから構築していくこと。やるべき事を知り、自分が作ったマニュアルとカリキュラムを学んでいく。それを学び終えた後、何かが得られているはず。欠乏を満たし、他の人には持ち得ない糧を得ているはずだ。それは、やがて自分だけの存分に自分自身で居られる日々に繋がっていくはず。

 

 

それが自己実現なのだろう。その暁は、至高の瞬間に満ち、生気に満ちた躍動的な存在になっているはず。

 

そんな日々を迎えてみたい。その日々に辿り着いた時は、何が見えるのだろう。この世界はどう見える?豊かな自然も、人も、街も、過去も未来もどう見える?超越的な人は、一体何を思う?

 

 

あっという間に季節は巡る。必ずやってくるのだな。その時その時に時間をきちんと与えつつ、月日は絶えず進んでいく。人間の頭で感じると、それがうたかたの夢のように過ぎていく。人間の記憶は、生を潤沢にさせるものでもあるし、むごさをもたらすものでもあるだろう。

 

自分は、歳を重ねた先で満足をしているのだろうか。そんなことを思う。人生を過ごしてきたにも関わらず、また新たな生を渇望するのではないだろうか。そんな最後を迎えてしまいそうな日常が過ぎてしまっている。このまま地続きに、あっという間に進みそうだ。傲慢にも時に押し出されたのだと悔しがりそうだ。いや、そうだ、既に今そう思っている。そう記しているのだ。あっという間の月日の流れを、全く慈しむことが出来ていない。

 

どうすれば良いのだろう。悠久の時の流れの一時を、うたかたの幻のような一瞬を、どのように過ごせば良いのだろう。どうすれば、全てを慈しみ、全てに感謝を出来るのだろう。

 

人間は、一時の夢を見るためにこの世界へ生まれてきたのかもしれない。世界は何もない死が当たり前で、元々はその空間にいた。そこから何かの巡り合わせにより、この世に生まれついた。それは、一時の夢幻を味わうために、広大で絶大で悠久の世界から送り込まれたのかもしれない。突然この世界へ放り出された後に、一瞬の夢物語を展開させ、演じさせられ、また無の世界ヘと戻っていく。当たり前の無の世界へと。

 

自分というものはなく、ただ人生という映像をぼんやりと見ているだけなのかもしれない。確かな意識は存在するものの、それは何かの約束事に支配されているはずだ。そこに抗うか、従うか、そこに神秘を感じるか、そのどれかの筋道を選ばざるを得ない。ひとつの神の物語が編まれ、それを後の世界の誰かに欲されるように、誰か何かに突き動かされ、ストーリーを求められる。確かにあがきながらも、最終的には俯瞰的に傍観する存在。あるいはその程度のものと感じられるかもしれない。自分自身は傍観者なのかもしれない。

 

そのストーリーは、見えざる力から求められる。この世界へと放り出した何者かが賽を投げ、それによって既に決められているかのように思える。それが生であり、終わりのある物語で、それを求められる。そこに突き動かされ、最後の展開を描いていく。そのようなものなのかもしれない。始まりと終わり。天と地。無限と有限。悠久とうたかた。

 

 

とにもかくにも、生まれてきてここに生があり、ここに自分がいる以上は、生をまっとうすることだ。それを享受する他ない。ただそれだけで良いし、それしかない。その満足さえあれば良いのだ。それしかない。そのために、あがくこと。素敵な人生の物語を楽しむしかない。

 

自分に沿った向かうべき場所へ辿ること。在るべきところへ成りに辿ること。

 

 

自分は、あなたは、どんな物語が続いていくのでしょうか。気になりますね。

 

今日は今日まで。さようなら。

 

 

 

参考文献:

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの