欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

それなりの日々の妥協点 現実と現実的な理想

相も変わらず刺激の少ない日々が続く。内的な過ごし方にしかエネルギーを費やせない。インプット、勉強、内省、アウトプット、表現、これらの連続だ。これらの事を続けるばかり。それだけでは飽きてくるし、やがて退屈する。そうなれば身体に毒となってしまう。自分は、新しいことを求めたい気持ちが強い。環境だったり、人などの刺激全般についてがそう。その気持ちが満たされなければ、内側における長引く刺激となってしまう。そのフラストレーションを晴らせない日々が続くと、慢性的に疲れてしまう。

 

このような持ち合わせだと、静かなライフスタイルを送るのは難しいのだろう。そのように過ごしていても全く平気な人は居るのだと思う。そんな人が羨ましい。今のような日々であっても、それなりの身体の水準が維持されるのであれば良かった。それを常々思っている。

 

アクティブである必要もあり、人と交わらなければならないタイプであれば、隠とん的に暮らすには無理がある。刺激追求の気がなかったのなら、可能性はもっと広がっていただろうな。そう思ってしまいがちだ。落ち着ける環境さえ整えれば、後は静養していれば良かったはず。それだけで身体は落ち着いていくのだろう。外側の刺激を強く求める必要はなく、落ち着いた身体で居られるような性質。そのような人は存在すると思う。

 

ただ、そういったことを考えても仕方ない。問題なのは、この思考に陥ることだ。この考えには身体至上主義が含まれている。これは好ましくないもので、呪縛に繋がっていく。身体というものに意識が向きすぎているのだ。誰かの人生を気にしても仕方ない。

 

"身体さえ"という考えを拭うためには、満たされない気持ちを満たしていくことが大切。欠乏が満たされたのなら、身体を頼りにする必要はないのだ。それをすべきだ。その事は、身体が虚弱でも出来ることだ。病的な無理のしすぎがなくなれば、ある程度の余裕は生まれる。そうした後で、余裕と共に生まれる意欲を満たしていけば良い。後は欠乏欲求を満たすだけだ。それだけの事。それが唯一の真っ直ぐに進むための道。

 

今はそこに背いてしまっている。そのため、やはり身体にすがってしまう。それは解っているけれど、どうにも切っ掛けがない。可能性が閉ざされているなかで、何とか脱却しようと試みてしまう。

 

"体調さえ良ければ何とでもなっていたのだ"という過去の思考は、今とは違う状況で思ったことだけれど、今もそれに縛られている。その根本には、同じような環境と原因がある。本質的なことよりも、身体が整っていれば誰にも責められることはない。そう感じていた。身体という永遠の課題は、今もずっとある。それが病的な無理のしすぎに繋がり、病的な状態の元になる。

 

本質的な問題点は、身体にまつわる水準の事ではない。仮に体調が上向いた場合、それはそのまま右肩上がりで推移していくかもしれない。ただ、根本にある問題は、刺激にまつわることだ。身体の水準だけで太刀打ち出来るわけではない。好ましく過ごすことが出来なければ、やがて破滅的なサイクルに陥るだろう。

 

刺激の調整の話だ。刺激を得つつ、刺激を遮ること。折り合いとバランスだ。負荷のない生活を構築すること。その問題に取り組まない限り、身体は付いてこない。まず先に身体が整っているという事は起こり得ないだろう。

 

やはり、内側を大切にしてばかりでは無理がある。それは理にかなっている部分もあるけれど、そればかりでは話が変わる。内側で快適に過ごすためは、外側でエネルギーを獲得していないといけない。それが絶えず求められる。

 

 

スクリーンを眺める時間が長くなってしまっている。これも欠乏欲求によるものだと思う。所属や愛の欲求によるものだろう。その欠乏が回復された時、病気は癒える。その欲求を満たすための代わりとして行っている面があると思う。

 

その欲求よりも低次の欲求は満たしている。生理的な欲求と安全の欲求だ。新たな病気が生まれたりはしないし、病気が深刻になる事はない。この事は、後一歩のところまで来ているのだと示している。後は病気を癒すだけだ。所属と愛を得ること。その存在は病気を癒す。それだろうな。

 

SNSを閲覧したり、ブログでの反応を確認したりしがちだ。それは日々の支障になっている。もっと勉強をしたいし、表現にもいそしみたい。けれども、どうにもそこに気を取られる。

 

やはり、自分は現実を生きていないのだ。そう思う。現実での欠乏を、その世界に委ねてしまっている。現実で満たすべき欲求を抑え込んだまま、代替策に甘んじている。心身のエネルギーをそこで得ようとしている。

 

でも、そこでは満たされない。このブログではそうだし、他にやってみたいSNSはやらず終いだ。怖さもあるし、刺激に脆い。敏感さが災いし、踏み込むのが怖くなっている。これも内的に過ごしてばかりによる弊害だ。世の中が未知なもので溢れてしまっている。刺激に対して防御的で居ると、いずれこのような問題は発生する。

 

 

どうにも切っ掛けがない。所属と愛は、在宅で得られるような感触ではない。でも、どこかに適応しに行くためには無理がある。それがある。

 

やはり前段階が必要だと思う。過去の適応の仕方が好ましくなかった面はあると思うし、工夫次第では、過去に失敗した場所で好ましく適応をすることは可能だと思う。でも、やはりそこまでの事をする気になれない。今の身体や、刺激への耐性を考えた場合、限度はすぐにやってくると思う。やはり根本的な解決策としては、どこかへ意を決して出ていくよりも、身近で個々人同士のやり取りが必要だと思う。そこから始めたい。そう思う。それさえ掴めたら良い。

 

今の目標はそれだけだ。それさえ整えば良いと思う。

 

ただ、それを現実にある可能性として考えてみると、やはり身近には何も転がっていないと感じる。結局は、病を通じて人と会う事か、親の力を借りてどこかへ通うしかない。それがある。

 

それは恥ずかしいものではないとも思っている。親からすれば、一般的な親孝行をしてほしいとは思っていないはず。それは難しく、遠い先の未来にあるようなものだと分かっているだろう。一番の親を安心させることは、その遠い未来へ向けて歩み出すことだ。その事が、自分の人生における親孝行でもあると思う。そのためには、退行的であっても協力してもらうことだ。恥ずかしくても、やるべき事のために力を貸してもらうことだ。親からすれば、それが自分にとっての親孝行になるのだと思う。

 

そう意識的に考える時もある。ただ、現実を変えられずにいる。情けなく、申し訳ない。恥ずかしく、やるせなくていっぱいだ。どうにも空虚なままです。

 

 

自立をしたい。独立自足的に生きていたい。なんとか出来ることを完成させ、その中で欠乏を満たし、それなりの健康を得たい。基本的な生活を営むこと。それが全ての目標だ。内的に過ごし、家事をし、仕事をし、遊ぶ。それだけの満足が得られたら良い。平凡な生活があり、その中で生きている実感があれば良い。自身の適応を可能にするものを手繰り寄せ、それによって喜びを感じ、豊かな過ごしがいを感じていたい。

 

この気持ちがとても強い。これがあることで、変わらない日々を過ごしてしまうとフラストレーションが募る。身体は由々しき事になっていて、歴として病的な水準にある。生活に支障が出て、満足はない。健康もなく、生き生きと適応してはいない。それがずっと横たわっている。

 

たまには楽な日があっても良い。正直に言えば、遊んで気晴らしをする日があっても良い。毎日が休日ではあるけれど、身体は病的で、満足はない。身体は辛いのです。言い訳としてそれを言いたい。ある種の辛さがあるのです。働いている方には申し訳ないけれど、それがある。そう思わせてほしい。自分は、リラックスする事が必要。それが欠かせない。それを得るためにも、どうにか欠乏を満たしたい。

 

 

親にそういった事を言ってみたところ、

「猫を飼うか、SNSで誰かと繋がるしかない」と言われた。それで満たされるのであれば、そうしてみたい。猫が居てくれたのなら、愛の欲求を満たしてくれるのだろうか。バーチャルで繋がれば、所属の欲求が満たされるのだろうか。ブログに反応があれば、承認と尊重の欲求は満たされるのだろうか。

 

これが現実で起こることならば、これで欠乏欲求は全て満たされる。そうなると、やがて成長欲求が湧いてくるだろう。後は自らの成長のためにエネルギーを費やすことだ。欠乏欲求はさほど表れず、成長のための意欲が際限なく表れるだろう。そこに全てを費やせば良い。それをこなしていけば、いつかはその先で、最大限存分に自分らしく居られるはず。仕事に繋がっていたり、豊かな生活に繋がっているのだろう。

 

それがほんとうに起こることであれば良い。そうであるのなら、それこそそれなりの日々だろう。工夫をして、それなりに満足を得られる日々。それで満足ができたら良い。身体もそれなりの水準にあるはず。そんな理想だ。

 

 

人と交わるのには、どうにも限度がありそうだ。外食も出来ないだろうし、する気もない。どこかへ出掛けるのも難しい。

 

第一に、社会的な肩書きもない病的な人間と付き合ってくれる人など居ないだろうな。現れるとしても、極々少数の人だろうな。過去に付き合いのあった人か、病める同類のどちらかだろうな。いずれにせよ、信頼できる人と交わらなければいけないだろう。個々人でエネルギーをやり取りすること。

 

猫とたわむれていれば、愛が伝わってくるのだろうか。それは疑問だな。よくわからない。ブログが活況になれば、社会的な存在の意味は確かになるのだろうか。その中で猫が近くに居てくれ、愛を感じられ、誰かに自分を肯定してもらえたのなら、後は内的なエネルギーを存分に発揮するだけなのだろうか。

 

そんな日々がやってきたら良い。そんな夢。現実的な理想でもある。あるいは、何かの同類が近くに居ること。そこで健康を得られ、後は成長していくこと。成れるものに成ること。

 

 

いつかは都会に住み、そこで生活を完結させたい。通う、学ぶ、罹る、買う、それらを自分の力で確かにしたい。この町で生きるのには、自分の力は足りない。

 

かりそめの満足でも良い。それがあれば、精神的なフラストレーションが減るかもしれない。猫とバーチャルにまつわることだろうか。衝動は解放しなければならないだろう。

 

ブログ、SNS、運動、たわむれ、内省、勉強。

 

インターネットに傾倒したいわけでもなく、かといって現実での満足の術はほとんどない。どっち付かずです。

 

 

人と会いたかった。それだけです。同じことを、いつまでもいつまでも、ただ繰り返すのみです。

 

飽くまで何かを続けたのなら、それ以外の事もするべきだった。人を避け続けたのなら、それが嫌になったのなら、人に会いに行くべきでした。あと数年早く気づいたのならば、何かが変わっていたのかもしれないな。

 

このまま何も機会がないのだらうか。そんなことも思う。

 

 

来年の自分は、何を見ているのだろう。

 

 

しばらくは忍耐だろうな。そんな気がする。

 

 

また明日。

 

 

 参考文献:

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの