欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

社会的な存続の実感 意識を向ける先

それなりの日々が続いていく。それなりの体力は得つつ、それなりの意欲も湧いている。ただ、それらのエネルギーにはやり場がない。人にまつわることで発散は出来ないし、表現などでも発散しにくいものだ。やはり、満たすべきものを満たさなければならない。好ましくエネルギーを得て、相応しくエネルギーを用いなければならないのだろう。心身のバランスを整えること。刺激を得ること。

 

いつまでもいつまでも、同じことを考えるのです。それを叫ぶしかない。同じような境遇の誰かは、極々限られた人数しか居ないだろうな。そのなかで、自分は自分を叫ぶしかない。全てが中途半端だと言うしかない。中途半端な人へ向けてそう叫ぶ。

 

深く憂鬱になる訳ではなく、色濃く言いたいことが溜まっている訳でもない。ブログに励むことが出来ず、建設的にもエネルギーを発散できない日々。外で刺激を得られず、あるのは自らの内なる感覚のみ。やり場のないエネルギーは、そこを捉えてしまう。そこへと意識が向いてしまう。鍵となる刺激は、内側でのものしかない。それは悪い鍵だ。抑圧へと傾かせるもの。まだまだ病的な水準のなかにいる。

 

本を読んだりしているけれど、それだけでは糧にならない。それは、活かす先があってのものだ。エネルギーとその糧を組み合わせ、本来活かすべき可能性に費やすこと。そのために、前提となる下地を整えたりする。可能性を存分に発揮するための環境に身を置くことだ。それを経て、今までの生き方では成し得なかったことをするしかない。好ましくなかったことを知り、好ましく生きること。やるべきことを知り、やるべきことをすること。

 

でも、行動は伴わず、知識ばかり収集する日々です。欠乏欲求を抑え込んだまま、高次の欲求を満たそうとしている。

 

恐らくこの状況は、疑似成長というものなのだろう。そうマズローの著作に記されていた。一種の疑似成長は、人が満たされない基本的欲求を、実際には満たされたかそれとも存在しないかのように、自ら確信しようとする場合に生じるそう。その時には、自分をより一層高次の欲求段階まで成長させているけれど、それは常に危険な基礎の上に立っている。これをマズローは、「満たされない欲求をやり過ごそうとする疑似成長」と呼んでいる。反復強迫ともいうそうだ。

 

ブログを書くことも、スクリーンを見ることも、満たされない気持ちの代償行為にしか過ぎないのだろう。欠乏を満たすことが先決であるのに、より高次の欲求を満たそうとしている。成長のつもりであっても、本質には欠乏動機があるのだ。欠乏を補おうとしている。その擬似的な成長へのエネルギーは、脆弱な土台の上にあり、空虚で壊れやすい。マズローの記していることは、そういうことだと思う。それは個人的にも実感している

 

一にも二にも、とにかく欠乏を満たすことしかない。その事は、繰り返し著作のなかで記されている。

 

欲求の順序は不動ではないそうだ。でも、低次の欲求を満たすことは、高次の欲求の支えになる。順序としては、やはり前提を整えるべきだ。それは今までの捉え直しと重なっている。

 

欠乏欲求が満たされていなければ、心の資源も少ないままだ。外向感覚(感情)によって得たい刺激は、欠乏欲求が求めるものと同じ。他者からの正の感情。無償の肯定だ。それを得てこそ、本来の適切なエネルギーを発揮できるはず。存分に自分自身でいられる環境がそれだろう。ただ内にこもるばかりではなく、所属や肯定があり、愛があり、その中に居てこそ健康という土台が得られる。

 

それがあれば、表現をしていくのに必要な資源も得られているはず。誰かに見てほしいのであれば、敏感すぎるのは厄介になる。それを変えるのも欠乏だ。それが満たされたのなら、内向直観の暴発は起こらなくなるだろう。心身に正のエネルギーがあれば、不確かな事柄の一点を誇張せずに受け入れられる。

 

無闇に成長しようとしても、それは危うい。土台を整えることだ。

 

*

 

頭に浮かぶのは、欠乏にまつわることしかない。理想も現実も、一にも二にもそれだけなのです。あと一歩のところまで来ている。捉え直しさえ済めば、後は欠乏欲求を満たすだけだ。行動すること。それがあってこそ、成長へと進める。成るべき所へ成りに行くのみ。相応しい歩き方を知り、その先のどこかに辿り着くのみ。

 

 

生きている実感があれば良い。何でも良い。ただ生活を営んでいる実感さえあれば良い。どんな些細な事でも良い。とにかく病的でなければ良いと思う。エネルギーを外側へ向けて用いていたい。健全で建設的なエネルギーの費やし方をしたい。ストレスに足を取られ、そこといがみ合って格闘するのではなく、豊かな生活のためにエネルギーを費やしたい。

 

今の日々では、表現をするのにも、画面を見るのにも、結局は満たされない欲求の代替でしかない。それがある。そこから脱却したい。自立をし、豊かに生きていたい。

 

仕事をするなり、学ぶなり、生活の大きな意義を感じたい。自分の存続を確かにしてくれる何かを得たい。それは肩書きだったりするし、誰にも責められないための免罪符だったりする。学び舎に通うべき学生は、それをするのが相応しいし、働くべき大人は、働くのが相応しいだろう。自分には、それらが何もない。自分を保つ要素が何もない。それがどうしてもほしい。

 

いつまで経っても誰かに頼りっぱなしだ。それが申し訳ないし、自分に対して納得がいかない。

 

 

誰かに責められたくないのだと思う。常に責められるかもしれないという意識があるのだろう。誰にも責められずに生きたい。いや、それは他人ばかりではなく、自責している部分もあるのだろう。それがその意識の元かもしれない。

 

やりたいことや、叶えたいことがあり、それを満たせないことは到底承服出来ない。他者においても、自己においても、それらは深く自尊感情をえぐる。自立したい気持ちも強いし、健康で豊かに生きたい気持ち強い。そうなのだと思う。それが本来の自分であると思っている。これは無理のしすぎの原因とも紐付いてくる。豊かに生きたいし、それが出来ると思っている。

 

 

能力は欲求であり、欲求は能力だそう。マズローはそう言っている。自分は、マズローの言葉を信じたい。人類最高峰の洞察力の持ち主、最高の哲学者を信じます。信じたいという欲求が湧いている。信じて救われたいという動機が生まれている。これはどういう事なのだろうか。自己実現者になれるのか、信じることが都合の良いことなのか解らないけれど、そう信じている。

 

筋肉的な人間は、筋骨を使うことを好む。というよりも、自己を実現し、調和したこだわりのない満足な働きに伴う主観的感情に浸るために、筋肉を使わなければならないそう。知能に優れた人はその知能を使わなければならないし、眼を持った人はその眼を使わなければならない。愛する能力を持った人は、健康を感じるために、愛する衝動、愛する欲求を持つ。使われない技能や能力や器官は、病気の中心になり、あるいは萎縮したり、消滅したりする。ついにはその人の人格を縮小させる。

 

 

学校教育が求めるような価値は、自分の求めるものとは違っていたと思う。そこには付いていけなかった。自己を実現させようとするよりも、基礎的な学力(学歴)を身に付けさせ、社会的な経験を積ませるのが目的だったと思う。

 

その学校生活が負荷にならなかった生徒は、そのまま社会の歯車になるのが一番だろう。その事は、自分の理想でもある。病的な人間は、その事すら出来ない。結局は、一般的な生き方をすることが一番だと思う。万人に当てはめようとしているのは、それが一番理に叶っているからだろう。その生き方が社会的に確立されているのは、確固たる理由があるはず。

 

誰しも原始的に自給自足をすることは出来ないだろうから、何かの資産を得るしかない。そのために前提となる資本を与えようとしているのが教育で、その価値基準は学力や社会性なのだと思う。それを選別せず、誰にも必ずに施すべきだという考えは、理に叶う面があると思う。

 

ただ、そこから脱落せざるを得なかった人はどうすれば良いのだろう。早々に困難が生じた場合は、どうしたら良い?そもそもそこに適応できない人間は、一体どうしたら良い?周りの大人達は、誰しも学び舎を卒業しているのだ。

 

やはり、新しい価値基準で生きるしかないと思う。また学び舎に出戻るよりも、創造的に生きるしかないと思う。そうした方が良いはずだ。環境を変える事が効果的な場合もあるだろうけれど、抜本的に創造しなければならない人間もいるはず。

 

可能性があるからこそ、ネックは顕著に表れる。有効な可能性が活かされなかったために、身体に負荷が掛かったのだと思える。それが周りへのメッセージにもなる。平穏であるためには、成り得るものに成らなければならないそう。

 

可能性の裏には弱点がある。その特質を支えるのは、普段用いていない弱点だ。弱点が表に現れるのは、特質が発揮できていないためだろう。その状態は、心身のエネルギーが失われていることを表す。エネルギーのバランスを取ろうと現れるのが弱点だ。ただ、その機能は簡単に使いこなせるものではない。バランスを取ろうとする事が不発に終わり、ネックとして現れてしまうだろう。

 

その弱点によって基本的なことで立ち止まらざるを得ないのは、可能性を活かすしかないためだろう。弱点を保護し、十分に活用して、最大限特質を発揮すること。それをするしかない。それをすることを求められる。人は、成り得るものに成らなければならないそう。それらの詳細と意味は、歩むべき道のりと、向かうべき場所を示すだろう。

 

教育や、人の心に携わる職業にはもっと柔軟に対応してほしかったけれど、弱者に容赦ない仕打ちはしない社会にはなっている。それは有難い。それがあるからこそゆっくり考えられるし、支援の体制も構築されている。

 

後は、個人の務め次第。どうにかして欠乏を埋めること。可能性の前提を整えること。結局はそこに立ち返る。学校や、かつての場所とは違う場所で立ち直ること。それが整えば、独創的な人生を歩めるはず。独立自足的に、誰にも責められることなく過ごせるはず。

 

*

 

本を読み、アウトプットをし、表現をする。内省を中心に、個人で完結させられる作業を構築する。そうしたい。それを生活の基軸に据えたい。

 

そして、それを可能にする環境に身を置く。それは在宅だけでは可能にならない。どうにかして欠乏を満たすこと。そのためには、外的な時間を濃く短く設けたい。週に数回出掛けたり、人と会うこと。刺激でいっぱいにならないくらいのペースで行う。社会的な意欲を満たすための時間だ。所属と愛と承認の時間。外向感覚を活かすこと。コンスタントにそれをし、バランスを取る。

 

その分、内的な時間でエネルギーを用いる。それが本業になれば良い。内省をし、表現をする。今のところは、それしかエネルギーはない。

 

そのような日々で人生が完結すれば良い。そんな理想。そんな欲求。これはどうなるのだろう。全く分からない。

 

もっとストレスが減れば、お腹も空いてくる。そうなれば、明らかな変化を感じられるはず。気持ちよく食事を頂ける日。それがありありと解る日。そして、胃の膨張も進んでいく。だんだんと胃は拡張する。やがて健康な身体へと近づくだろう。

 

とりもなおさず欠乏です。それが全て。

 

 

この町で生涯を終えたくはない。そう思う。自立し、全ての衝動を解放できるようになること。満たしたいことをしっかり満たせるようになること。当たり前の日々を築くこと。そんな未来であってほしい。

 

励む、遊ぶ、学ぶ、罹る、行く、通う、全てを行動に移し、実行して満足すること。それが出来ること。

 

大人になるということは、恐怖を克服し、意識を向ける方向を決めることだそう。

 

どこへ向けるべきか、まだまだ考えている途中です。

 

 

人を愛し、愛され、自由になること。

 

 

また明日。

 

 

 参考文献:

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの