欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

存分な満足 在るべき自分に成るまで

久しぶりに晴れた午後。今日は数日振りに散歩をした。変わらず同じ景色の中を歩いた。いつもの町を繰り返し歩く。晴れた日の晴れた心。きちんと身体を動かす事は大切。それだけでも体調は変わってくる。それはしっかりしないといけない。強迫的な考えかもしれないけれど、それをする。歩くこと自体は心地よいし、そんなに辛くはない。内的で在宅時間の長い日々のルーティーンだ。しっかり歩き、体調を整える。

今は暖かな部屋の中で過ごしている。遠くを走る車の音が聞こえる。遠くの喧騒と、暖かで落ち着いた心。辺りは緑の色が増してきた。大地には潤いがもたらされ、柔らかな日差しが降り注ぐ。植物の薄く鮮やかな緑が萌えている。命が萌えている。そんな季節だ。

気持ちの良い日差しの中で、やることもなく過ごす。それなりの身体の調子で、さほどフラストレーションはない。そんな日は有り難い日なのだろうけれど、心からの満足はない。今日は、たまたま調子の良い時なだけだ。またすぐに身体の調子は乱れてくる。胃腸にしわ寄せが行き、夜中の顎には力が加わっている。その病的な心身を脱却したい。そのために満足を求めたい。

いつになったら日々が動いていくのだろうか。そんなことを思う。自力で日々を創れず、低次の満足で甘んじるしかない。高次の欲求を満たしたいけれども、それは満たせないままだ。擬似的な代償行為に終始してしまう。画面の中に刺激を求めてしまう日々。空虚な刺激を求めるしかない。

多くはSNSを閲覧することだ。人の発信や、誰かの記したことを見てしまう。繋がりを求めているのだろう。所属と愛の欲求だ。その水準までは発展している。生的欲欲求と安全の欲求は大方満たされている。ただ、ずっとそこで停滞している。

人間には、満足されている低次の欲求もあれば、満たされていない高次の欲求もある。所属と愛の欲求のフラストレーションがあるとすれば、それが常に頭に上る。それは、それよりも低次の欲求が満たされているからだ。満たされていない高次の欲求のうち、比較的低次に近い基礎的な欲求が強く求められるそう。自分の場合だと、それが所属と愛だ。それらが満たされない場合は、強いフラストレーションを体験する。それは、自分にとって当然満たされるべきだと思っているからだそう。そうマズロー関連の本に記されていた。

その本によれば、強い欲求不満を体験した場合、今一度自己を振り返り、そこに多くの欲求満足があると注目する必要があるそう。そうすれば、もっと幸福感や満足感を得られるのではないか、と記されている。

確かに自分は、生理的欲求と安全の欲求は満たされている。それは確かだろう。人の力を頼りにしているけれども、生活は盤石になっていて、それを気に留める必要はない。それがある。だからこそ、繋がりや愛情を求めたくなるのだろう。それは幸せなことで、人から見れば羨まれるかもしれない。

でも、それだけでは満足ができないのです。そこで甘んじるという事は出来ない。身体には由々しき事が起こっている。それも確かなこと。夜中に歯ぎしりを起こし、歯は削れ、消化不良が引き起こされる。病的な身体のままで、あまりにも頼りない身体をしている。目の下は紫になっていて、不健康で幼稚な男だ。きっとそのような雰囲気があるだろう。

以前にも記したけれど、言ってしまえば、生きているだけで偉いとは思えないし、寝食を噛み締めるだけで幸福は感じない。違う性質で生まれていれば、最低限の生活を享受し、それが満足になっていたかもしれないけれど、自分はそう思えない。その星の元に生まれてはいない。どうにも満足が出来ない。エネルギーは空回りを起こし、それどころか暴発をしている。身体は由々しき状態のままだ。

欠乏があるという事は、どれだけの影響を与えているのだろうか。それは果てしなく大きい。満たすべきものは、大まかに四種類しかない。でも、それを全て満たすのは難しい。自己実現に至る人間は、人口の一%にも満たないそうだ。大方は、生涯を通じても、欠乏欲求すら満足に充足できないのだろう。低次の気休めのために費やしてしまう。今の画面ばかりを見る日々がそうだ。

誰かがこう言っていた。「人生は壮大な暇潰し」と。それは自己実現的人間を表す意味合いだったと思うけれど、欠乏を満たそうと苦心する場合にも当てはまりそうだ。際限なく成長への欲求に導かれるか、低次の欲求を満たすための人生を構築するか。際限のない刺激的な成長か、低次の気休めをし続けるか。自分の成長が人のためになる場合か、利益追求が誰かの利害と対立してしまうか。二分超越か、二分対立か。

今日は、そこまでのフラストレーションはない。じりじりとしたものはなく、それなりに過ごしている。退屈しすぎて刺激になるほどではない。勉強や表現に費やしたい日だろう。そういったはある。今日はゆっくりと内的に費やしたい日だ。それだけの一日でも平気な場合はある。内向指向としては、それがあることによってエネルギーが充填されるのだろう。

ただ、それは外でエネルギーを使った後にするのが好ましい。それが本来のエネルギーの用い方だ。外側でエネルギーを得て、外側で発散し、内側でエネルギーを調整すること。基軸は内側に設定し、そのように過ごしていくための基盤を作ること。それを構築しつつ、しっかりと外の世界へと出ること。それが理想的な人生だ。そうすると、自ずと体調も良くなるだろう。欠乏は満たされていくだろうし、自己実現の欲求も満たされていくかもしれない。人間の究極の目標の達成だ。

ただ、やはりそれが叶わない。大きな果てしない目標なだけに、容易には叶わないだろう。自分は、一%の人間を目指そうとしているのだ。目指してしまっている。

ただ、そもそもは、一般的な人生を構築することなど厳しいのだ。一般的に働き、普通に生きることは無理だ。便利で有り難い実家に住んでいるのに、どうにも身体は癒されないのです。静かに療養していても、身体は満たされず、病的なままだ。もっと相応しく生きなければならないのだ。それを達成するしかない。その中に、自己実現というものがあると思う。それしかないのだと思う。マズローユングの言葉を信じる。神経症とノイローゼの人は、自己実現を達成する可能性があるそうだ。

丁度人生は絶妙なバランスがあるよう。社会に適応が可能な人は、そのように歩めば良い。それは一番理にかなっている。社会の最前線で世の中を回してくれる人たち。その人達は尊く、素晴らしい。ただ、自己実現の欲求までは満たせないかもしれない。一方で、神経症的な人間は、一般的には生きられないかもしれないけれど、自己実現の可能性がある。それを目指すしかない。そう記されていた。由々しき状態を脱却するために、在るべき自分に成るしかない。不適応の裏にある適応を探し、不可能の裏にある可能性を見出だすしかない。それによって、社会に見えない栄養を与えること。人間は、拡大的な戦士階級と、社会平定役の僧侶階級に分かれる。そのどちらも必要だ。お互いがお互いを尊重し合い、それぞれ相応しい立場を与え合うことが大切なのだろう。

欲求は能力だそう。自分の力を用いるのは、楽しいばかりではなく、それは成長のために必要なのだそう。使わない能力や器官は、病気の中心になり、あるいは萎縮したり、消滅したりする。そして人格までもが縮小されていく。

筋肉的な人間は、自分の筋骨を用いることを好む。というよりも、自己を実現し、調和したこだわりのない満足なはたらきにともなう主観的な感情に浸る必要がある。そのために筋肉を使わなければならない。この主観的な感情は、心理的健康の重要な一面だそう。愛する能力を持ったものは、健康を感じるために、愛する衝動や愛する欲求を持つ。つまり、能力は欲求でもあり、本質的な価値だそう。

繋がりを持ちたいし、愛(肯定)を感じ合いたい。成りたいものがある。これはつまり、それ満たすべきものだし、満たさなければならないものだ。これを満たしてこそ健康になり、存分で最大限な日々に繋がっていく。

たまに刺激を得られたら良い。今日は内的に過ごしても良い日だ。ただ、それは長く続かない。低次のささやかな満足は、満足にならない。それよりも、もっと必要な満足がある。

週に一回か二回、刺激がある日を設けたい。人と会い、外へ出て、好ましい刺激を得る。繋がりを持ち、個々人のやり取りをし、心身にエネルギーを満たす。たくさんの刺激は要らないはず。多少の満足が得れば良い。

衝動を解放し、成るべき所へ成りに辿ること。

今日は、かつて通っていた学校の近くを通った。大分寂しい印象があり、ずいぶんと変わっていた。わいわいと仲間がいた頃は、ずいぶんと昔になってしまった。そう感じていた。十年一昔。自分の短い人生の十年であっても、十年は長い。何もかもが新しく生まれ変わっている。あの頃の皆は、比喩的にも、現実にももう居ないのだ。そう痛感した。あの頃は良かったな。皆が近くに居た。誰かが近くに居た。その場所があったのだった。

夢に同級生が現れた。一番信頼していた女の子と出会っていた。いつもの道を歩いていると、その子と遭遇した。来た道を引き返し、その子と共に歩いた。その子は近くの家に住んでいたようで、その家に入っていった。そこで別れた。それだけだった。

夢の女性像は、自分の劣等な部分と結び付いているそう。読み取れることは何だろうか。いつもの同じことを繰り返すなかで、表層の自我が劣等機能と出会い、今までの道を引き返して歩いた。そして、近くの誰かの家に劣等機能が帰っていく。

女性を追いかけた夢もあったし、女性が自宅にやってきた夢もあった。今日は歩くなかで、女性と遭遇していた。何の関連性があるのだろう。よく分からないな。

ペットでも誰でも良いから、体温を感じたい。感じ合いたい。

それだけで良い。それで良い。

 

また明日。

 

 参考文献:

ユング心理学入門

ユング心理学入門

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 1967/10/01
  • メディア: 単行本
 
完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの