欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

独自の自立的な日々 身の丈に合う関係

快晴の日。青と白と緑のコントラストが美しい。心地の良い柔らかな日差しに包まれ、辺りには薄く鮮やかな色彩が広がっている。命が萌える季節。季節の風情に満ちている。そのなかで、ほんの少し夏の香りもしてくる。初夏のあの爽やかさや、力強い香りがしてくる。柔らかな匂いの中にそれを感じる。陽射し、温度、光彩、匂い、風、土、植物、それらがだんだんと変わり、命の匂いが感じられる。

それを捉える心模様はどうだろうか。何が浮かんでどう振り返るか。今は、そこまで悪くはない。ただ、自分にも少しの潤いがあれば良い。それがあれば、もっと至高の体験を得られるだろう。豊かな心を携えたい。そうすれば、もっと豊かな風情を感じられる。

誰か豊かな心をもたらしてはくれないだろうか。大地は豊かに躍動しているけれども、自分はまた同じような心持ちで過ごしている。何年も同じだ。変わっていない。変わらない。

相変わらずそれなりの体調だ。自分にとっての体調であれば、今は良い方だろう。これよりも悪くなってしまえば、それまでの好調を感じ、羨んだりする。気付かないだけで好調だったのだな、と、振り返ってしまう。

ただ、依然として病的な水準でいるのだろう。大きなストレスがあり、それに蝕まれている。由々しき状態だ。余裕はなく、活動量も低い水準のまま。

ストレスから全て解放されたとしたら、それはすぐに好調をもたらすのだろう。今は大きな重しがあるのだ。それによって身体に不自由が起きている。好調と呼ぶには頼りない身体で在り続けている。

気楽に考えることが大切。気楽に居られるようにすること。それが健康を生み、豊かな生活をもたらす。いや、本当に気楽になれば、気楽になっているな、ということすら意識に上らないだろう。長い時間を経て気付くはずだ。そういえば楽に居られているな、と。

幸福は、それだけを追い求めても意味がないそう。善き行いに対して間接的に与えられる副産物だという。後で振り返った時に気付くものなのだろうな。本当に幸せな時は、何かに没頭している。何かを達成した後で気付く。

健康もそのようなところがある。振り返った時にようやく気付く。あの頃は良かったな、と、悔やんでしまう。噛み締めれば良かったな、と振り返りがちだ。

今の状態は、何かに取り組むことが出来ているのかもしれない。それは内的な作業だろうか。欠乏を埋めるという仕事を完成させることだろうか。それが務めだと思っていて、それをしているつもりだ。それが出来ている間は、幸せなのかもしれない。

いや、そんなことはない。そこまでの幸せはない。本当の満足はないのだ。そもそも失った後に気付くのだから、幸福とは違うのだろう。基本的なことが満たされていても、それだけでは満足が出来ない。幸福は、価値のある喜びに従っている時に生まれている。失って気付く場合は、ただの後悔だ。あの時に努力すれば良かったな、といった悔いだ。それだろう。

 

身体を肥やすためには、安楽な生活をしなければならないな。ストレスを減らすこと。マイナスを上回るプラスの養分でかき消すこと。それが抑圧を取り払う。何の束縛もなくなり、本来の自律性を持ち、好きに寝食を回していけるだろう。心からリラックスをし、好きなように生きる事が出来るはず。

食事に対して気楽で居られたら、自ずとより食べられるようになるはず。自然と頂くことが出来る。それが大切なのだ。それが自然であり、当たり前のことだ。自分はその程度の事でつまずいている。そのために、まだまだ病的な水準に居る。その根本的なことを変えていく必要がある。

つい最近、自然に食事を摂れたタイミングがあった。そのときに色々な事を感じた。それまでの病的なものを感じたりもしたけれど、可能性も感じた。まだまだ工夫次第で何とかなるかもしれない、と。

去る夏は、一刻も早く祖母宅に引っ越しをしたいと思っていた。全ての寝食を束縛なく回したいと思っていた。現在の家では、どうにも不便な事が多く、健全になるためにはそれが欠かせないと感じていた。

それは、今となっては親の協力や理解が得られ、生活がかなり変化した。そこまで大きな支障はない。低次の欲求は、ほとんどが快適に満たされている。

後は満足をすることだろう。他の欠乏欲求を満たすこと。心身のエネルギーを得ること。神経を高ぶらせないことだ。活動をし、誰かと心を通わせること。そうすればフラストレーションがなくなり、身体は楽になるはず。明らかに変わっていくと思う。変わるとすればそうだろう。明確に身体の感覚が変わるはず。胃袋の状態が良くなり、食べれば快適に膨張していき、気持ちのよい食後感があるはず。その後も気持ちよく消化され、また何かを食べたくなる。明らかな好調を感じるはず。それは数字にも直結するだろうな。

そんな日々が待ち遠しい。早くその日を迎えたい。

高校生のドラマを見た。とても羨ましい気持ちになった。自分にないものを持っている人が居て、そういった人たちの世界があった。健康で、行き場があり、人も居て、学んだり遊んだりしている。そんな光景だった。自分は、それを遠くから眺めるしかない。ずっとそのような人間だ。画面の中の世界であってもそうするしかない。そんな人間。自分には到底得られない日々だと感じた。羨ましい。

そのような生活があるとすれば、それだけで良いのだろうと思った。それだけで充実するだろうな、と思った。自分の場合は、その生活が出来るだけで幸せを感じると思う。生きている感触さえ感じられたら良い。生存の実感。それだけで充実感は生まれると思う。

当たり前にそんな生活が出来る人間なら良かった。ない物ねだりだけれども、やはりそう思った。

普通の高校生にはなれない。一般的な人生を歩むことなど出来ない。自分のスピリットは、端からそういった世界とは混ざり合えないのだ。振り返ればそうだった。多数派の皆と一緒に過ごすには無理があるのだ。それは確かだ。自分は、俗世間と同じ歩みをしていくことは出来ない。始めから無理なのだ。それが出来ない星の元に生まれてしまったのだ。周りとは明らかに違うのだ。

学校生活も、一人暮らしも、車の運転も、就職も出来ない。ほぼ出来なそうだ。幼稚園の時点で不適応を起こし、小学校の時にドロップアウトしてしまった。中学校の敷地には一歩も入ったことはなく、制服に袖を通したこともない。高校に通った事もない。受験もしていない。自分は、その程度の事も出来なかったのだ。これほど過剰に人と違っていたのだった。

 

悲観したいわけではなく、皆それぞれの人生を歩むしかないのだろう。そうなのだと思うし、そう思うしかない。それぞれが独創的に生きるしかない。それは、誰であっても同じはずだ。生まれた時から皆同じ。自分は、その選択を迫られるのが早かっただけなのだ。誰しもが、独自の人生を歩んでいる。それが解りにくいのは、人生の序盤に同じステップが求められるからだろう。自分は、その事が性に合っていなかったのだ。それは仕方がない。考えても仕方ない。いや、考えてはいない。後は、独自の創造的な可能性を活かすしかない。そこに視線は向いている。

どこかに適応するというのは、進歩や成長を抑える低い天井をおくことになるそう。それが出来なかったのであれば、好きに生きるしかない。最大限に自分らしくいる、という適応をするしかない。外的に適応するのではなく、内面における適応をするのだ。周りとネガティブに違いすぎるのであれば、ポジティブな違いもあるだろう。それを活かすしかない。個人的な限度と可能性の適応を果たすしかない。

近所で猫と遭遇した。どこかのお宅の猫だ。道ですれ違うと、自分の後ろを付いてきた。立ち止まると、足元に近づいてくる。自分は棒立ちしているだけなのに、身体をくねらせ、擦り寄ってくる。くねくね、すりすり。

生きる命との関わりは緊張した。不快にさせることなく接触を果たした。生身の身体との接触は、家族以外だとほとんどない。そのなかで、冷静に対応することに成功した。その猫は、じゃれてきたり、腹を見せてきたり、とてもリラックスしていた。

 

人間を諦めたくなる。自分が、ではなく、人間の誰かと関わることだ。もう猫で良いのかもしれない。猫とたわむれ、愛と肯定をやり取りする。新鮮な面白さが刺激追求性を満たしてくれる。人よりも猫でフラストレーションが満たされるかもしれない。

猫と人間のパートナーが近くに居てくれたら良い。それが理想だろうな。そう思いつつある。それが至高ではないか。欠乏欲求は満たされ、心身のバランスが整い、エネルギーを費やせる。そんな内面の適応の理想。

自分のやるべき事は、内的な作業だと思っている。成長欲求に費やしたい。今のところ、それしか浮かばない。自分なりの頻度で欠乏を満たし、自己実現をもたらすような価値に従うこと。インプット、勉強、アウトプット、表現。そんな理想がある。

それによって何かを生産したい。お金を生みたい。それは何にも替えがたい成果だ。それさえあれば、何も言われない。世界の誰にも責められない。自分で自分を責めなくて済む。健康で体力もあり、自活もし、満足もある日々。最高に存分な自分自身であり、自立的だ。最高に健康だろう。欠乏を満たし、自活をしていたい。そんな夢。

生涯に一度くらいは、動物を飼ってみたい。

日々の足りているものを噛み締めたいけれど、それはどうにも難しい。身体は由々しき状態に陥ってしまっている。

やはり何かの満足だ。それが欠かせない。せっかく今は自由なのだから、何かの遊びに費やせば良い。そうすれば良い。自分の生存を確かにしてくれる感触に従えば良い。

今の自分は、欠乏を満たそうと費やしている。それに全てを重ねている。主にスクリーンを見る時だ。それによって満たされたらな、と思っている。そんなことを思う。

でも、それで満たされたとすれば、一体自分は何をしたくなるのだろう。それでも欠乏がまだあるのか?それとも成長の欲求が現れるのか?

 

文筆のエネルギーが湧き続ければ良い。内省と表現の意欲は、いつまで持続するのだろう。

今のところは、欠乏を満たし、内的に費やすことだと思う。それが何かを生むかもしれない。

未来は定まりつつある。夢や理想の範囲においては。現実は置いておいてください。

 

また明日。

 

参考文献:

マズロー100の言葉―名言から読み解く人間性心理学

マズロー100の言葉―名言から読み解く人間性心理学

  • 作者:明, 中野
  • 発売日: 2018/07/01
  • メディア: 単行本