欠乏の機能性ブログ

日々の上腹部不定愁訴と気付き その思考

社会的承認と正の感情 内的な日常の完成

一昨日ブログを書き、今日はやることがない。散歩をし、少し本を読んだだけ。無為に過ごしているのか、それなりに生きているのかわからない。フラストレーションはあるけれど、低次の欲求の満足はある。ただ、心から充足することはなく、やるせなく日々が過ぎていく。ただ一切は過ぎていくのみだ。

かつての皆は何をしているのだろう。社会人や学生をしているのだろうか。自分にとって、そのような生活は見当も付かない。自分が解るのは、自分の事と、辺りの世界のなんとなくの感じだ。この町で働いている人と、それを眺める自分のこと。それしか解らない。

何年この生活が続くのでしょう。自分から働きかけないといけないのですね。

人と交わってこそ健康となり、欠乏は満たされ、成長の欲求に費やせる。人生は、満たされない欠乏を延々と追いかけるか、際限なく成長を追い求めるか、そのどちらかだ。今の自分は、到底成長に届いていない。欠乏を追いかけている。代替の刺激に甘んじているのみだ。

欠乏を満たしている未来が見えない。どうやったらそんな暁に辿り着く?

明日、もし奇跡が起こるのであれば何を期待しよう。現実的な理想の範囲内で考えてみる。

一番は、やはりある程度都会に住みたい。そこで衣食住の前提を整え、小さな生活圏で日常を完結させたい。季節によって生まれるネックのない家に住むこと。自然による障壁がない街に住みたい。快適で、プライバシーを保つ事が出来る家に住みたい。そのように生活をする。快適に過ごし、買う、行く、罹る、会う、これらを自力で完結させたい。生活の全てを自力で済ませること。そうしていきたい。そうしていくことが出来れば、最低限の自立に繋がっていくだろう。

後は、欠乏欲求を満たすこと。それを満たせるようになること。それも欠かせない。いや、それが一番重要だ。喫緊の課題。それさえあれば何にでも繋がっていく。

 

ただ、人間と関わっていくのは難しいのかもしれない。人と関わるのは刺激が多いし、人が集まる場所へ出ていくのは大変。今は、相当刺激に脆い。平気で居られる可能性もあるけれど、それには限度がある。平気で居られる環境を築くのは大変だ。前提がすぐに狂ってしまう。それだけで相当な壁がある。

猫が居てくれたら良いと思いつつある。近くに居てくれて、それで欠乏が満たされたら良い。そんな希望的観測。刺激や愛が満たされ、日々の面白味が生まれたら良い。日々が退屈で、無為に費やてしまったと感じることがストレスになる。つまらない日常や、親密なやり取りが出来ないと打撃になってしまう。それが満たされたのなら、かなり変わっていくはず。それを動物に満たしてほしい。そんな期待をしている。

所属や尊重は、ソーシャルサービスの中で満たしていきたい。それを現実で満たそうとするならば、学校や職場、親密な人との集まりで感じるしかないだろう。それを目指すのは厳しい。学校に通い出すのは難しい。どうしてもその壁はある。

神経症に陥る原因は、安全、所属、同一化、親密な愛情関係、尊敬と名誉に対する満たされない願望から生じるそう。

自分の場合は、所属、同一化、尊敬と名誉、それと愛情関係が欠乏していると思う。言い換えれば、社会的承認と正の感情が足りていない。恐らくは、その単純な欠乏がフラストレーションになっている。

どこかに属すのであれば、はてなに居たい。そこで受け入れられたい。それが社会的な肯定(承認)にも繋がるはず。

心を通わせ、同一の認識で居たい。愛や肯定を交わし、人格や自我が拡大された相手を得たい。自分と異なる対象との同一化だ。相手の苦しみを自分事のように感じ、相手の喜びも同じように感じること。犬でも猫でも良い。それが大切。

何かの社会的な活動で認められたい。親愛なる人と豊かな関係を築きたい。誰かを愛したい。それらが今の自分に足りない。健康が損なわれ、健全な生活からは離れてしまっている。それを叶えたい。

今のところ、生活に切迫はなく、欠乏を満たすために専念出来ているだろう。それは有り難いことだ。低次の欲求は満たされ、生活は誰がが守ってくれている。自分は束縛なく過ごすことが出来る。

ブログの拘束時間など短く、それどころか自由時間が必要。健康になる務めを果たすのには、刺激を得るという遊びが必要。そのような人間。

ただ、ほんとうの満足からは遠く、豊かには生きられない。そして、自活能力や生活能力はない。いつかこの生活は破綻してしまう。そのバランスがある。

表現が何かに繋がっていけば良い。好ましく生きることで何かに繋がってほしい。

 

アーロン博士曰く、センシティブパーソンの任務(仕事)は、"もっと時間の短い仕事をすること"なのだそう。"自分が健康であること"が他人を助ける第一条件だということだそう。タフさが求められる仕事には、タフでその仕事を楽しめるような人にお任せすれば良い。自分達は、後方から社会を維持すること。そうやってお互いに共存すること。

健康が得られた時、何かのエネルギーが生まれていてほしい。成長のために生き、それによって生まれるエネルギーを社会に還元したい。そんな生き方をしてみたい。そうしていたいし、そうするしかないのだろう。

 

長時間働かなくても良いのであれば、ブログのための数時間だけで何かを生みたい。それだけで勘弁してほしい。その免罪符を得るのためには、確かな報酬を得る事だろうな。

日常では内向する時間が常だ。インプットをし、勉強をして、内省をする。これは常に行われていることで、そのようにエネルギーが用いられる。それは絶えずしている。それを文筆へと繋げたい。最後にブログを仕上げるのは辛いけれど、それまでの過程に苦しみは少ない。義務的な意識がなくなったとしても、自分は内的な時間を送ろうとするだろう。

ブログに対する不滅の原動力があり、そのエネルギーが注がれ、それで報酬が得られたら一番幸せだろう。そうなれば、後は健康を維持することに費やせば良い。刺激を得たり、遊びによってフラストレーションを晴らすこと。それも含めた仕事であれば良い。それが許されてほしい。

インプットと勉強をし、アウトプットと表現をする。ブログを記す時間は短いけれど、それまでの過程がたくさんある。休憩を含めたそれらが仕事であれば良い。そんな理想だ。

 

不変の原動力が大切。延々と何かに費そうと思えるか。思い続けられるか。それが一番重要な事だろうな。文筆であれば、長く記したいことが浮かぶこと。それがその人の特徴であり、特質になる。自分と他人を分けるものになる。それだけでもパワーがあるだろう。ネガティブなエネルギーでも、成長価値の追求であっても。続けられることは才だろう。それを続けていけば、やがて才覚へと昇華されるはずだ。

 

あるいは性に合うことを探すことでしょう。天職にまで繋がらなくとも、身近な何かに繋がる可能性になる。性に合うことや、続けられることを見つけたい。

成長のために日々を費やしたい。

 

衝動は欠乏欲求にまつわるもののみだ。早く満たしていきたい。

自己実現の夢です。

 

また明日。

 

参考文献: