欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

日々の全ての昇華 成りうるものと限度

雨の日が多かったなかで、今日は久し振りに晴れた。暑いくらいで夏を感じさせる日和。青々とした緑が萌える頃。有名なアニメーションの世界を思い出す。田舎の夏。日本の原風景を感じる。豊かな季節がやって来た。季節の風情と、そこに居る人間の営み。情緒に溢れた季節がここにある。季節、人間、文化。個人的な感覚があり、毎年その感触を噛み締めている。

去年の体調は、あまり良くなかった。今年はどうかと言うと、去年と同じようなものだ。体調はまだまだ低調で、余裕はない。体力はあるのはあるけれど、在りたい日々へは程遠い。人にも会えないし、そういった場所に行くことすら出来ず終いだ。

最低限の体力はある。意欲と身体の塩梅は、それなりに整っている。そして、それに加えて気持ちの良い空が広がっている。ただ、分厚い身ごろもを解き、軽装に着替えたものの、結局やることはない。意欲もエネルギーも無に帰すのみだ。相も変わらず無為に費やしてしまう。

何かをしていたい。自分の存続を確かに感じられる何かをしたい。それをしていたい。誰にも責められないような日々を送りたい。個人においてでもそうしたい。仕事でも、学業でも何でも良い。何かをしていたい。個人的にも満足のいく何かをしていたい。

普通の人は忙しいだろうに、自分はこのようなことを言っている。言ってしまっている。親がやるべきことをやってくれているのに、自分は悠長だ。それが嫌にもなる。

 

自分は、欠乏欲求が満たされない事を引き換えに、自由を失っている。健康を引き換えに、かりそめの安息はある。ただ、病気は癒えず、健やかではない。働くことが出来ず、お金を得る事が出来ない。ただ一切は時に流れていくのみ。中身が伴わず、年代だけが繰り越されてしまう。恥ずかしく大人に押し出されていく。

中途半端だ。今の日々を送るのに必要な力はある。ただ、これ以上を望むと困難がある。それは確かだ。病的ではあるけれど、明らかな病人ほどではなく、それなりの体力はある。エネルギーは余っている。

 

きちんと欠乏を満たすことだ。それがやはり大事。それしかやるべき事はない。

多少の欠乏をきちんと満たし、文を書くなどして創造的に過ごしたい。健康で充足した心身を持ち、社会的に認められて対価を得たい。

健康が手に入れば、それだけで幸せになるはずだ。欠乏は満たされているだろうし、成長欲求も現れているだろう。何かに没頭し、独創的で創造的な日々を構築したい。小さな人生の満足があり、健康で成り得る自分になること。

欠乏を満たすことと、高次の欲求による文筆のエネルギーは分かれていると思っていた。そう感じていた。でも、後者も欠乏動機によるものだろうな。そう思いつつある。承認や尊重されること、所属や正の感情など、それらを文筆で得ようとしている。つまりは、文筆に取り組んでいる時は、純に没頭しているのではなく、欠乏を満たすための行いになっている。

始めようとした動機がそうだったのだ。お金を得たかった。それがあれば心を保てると思っていた。確かな拠り所を得ようとしていた。それは今も変わらない。何かに費やしていたかったのだ。

心から没頭しているのであれば、他者の事など気にならないはずだ。自己実現の欲求は、欠乏欲求が全て満たされたときに現れる。欠乏が全くなければ、脇目も振らず、成長のためにひたすら没頭していることだろう。

 

自分がやるべき事は何なのだろう。人は、成り得るものに成る必要があるそう。文筆以外であれば何がある?平穏に過ごすためには、何に成るべきなのだ?生粋の病人なのか?文筆家?ヒーラー?

 

心の資源を取り戻す日が必要だ。それだけを考えれば良い。それでしかない。癒しを得ること。遊ぶことだ。内的な時間が必要ななかで、外の世界へと出ていくこと。外的な適応を果たすことだ。それが内的な適応にもなる。

リラックスをし、退屈を埋めてくれる何かが必要。外的な何かだ。それは現実の他者によって与えられるものだろう。誰かが必要だ。

いつものルーティーンの中に、同じような欠かせない要素を固定すること。とにかく欠乏を満たすことだ。それを日々の中心に据える。それがあってこそ、自己実現の欲求が湧く。何も欠乏はなく、成り得るものに成るために、無欲で没頭できるだろう。

そうすることが出来れば、また何かが変わっていくと思う。健やかで、エネルギーを建設的に用いられる。自己の中で、成長のために用いられる。

次の通院日まで一週間だ。デイケアの壁は高く、1ヶ月ぶりにそこへと向かう。

先月は調子を落としていた。ちょうど1ヶ月前の頃。好調が続いていたため、それを加速しようとしてしまっていた。欠乏性の無理のしすぎによるものだ。理想の日々に進むため、踏ん張って身体を上向かせようとしてしまっていた。

今月は、今のところは平気でいられている。日々の捉え直しが功を奏しているのか、ナチュラルに過ごす事が出来る日が多い。起伏はあるけれど、大打撃となることは少ない。

欠乏性の無理のしすぎなだけに、それを癒すとすれば、実際に欠乏を満たすことだ。退屈しすぎず、人と心を通わせること。適度な興奮の水準を維持し、心身のエネルギー資源を獲得すること。それがあれば、もっと外の世界にも出ていける。そう思う。

いや、その順序は逆だろう。いきなり欠乏を満たしてくれる人など現れない。徐々に外的な時間を過ごし、誰かと交わることだ。それを経るしかない。今の状態でもやれることをすべきなのだ。初歩のことから始めなければならない。それがあってこそ関係を得られ、欠乏は満ちていく。

欠乏がいきなり満たされても、外の世界での免疫は得られない。今の状況では、誰かが現れてくれるなど夢物語だ。可能性は低い。

となると、デイケアがまっとうな選択肢だ。可能性を託すとすれば、それくらいだろう。病を通じて人と会うこと。そのための場所へ通うこと。そこに立ち返っていく。

必要な欠乏を満たした暁では、内的に生きていたい。内省することで何かを生み出したい。それによって社会的な免罪符がほしい。確固たる資源。生きていくための直接の糧がほしい。

内的な時間と、それを可能にする外的な適応、つまりリラックスの時間を設けたい。内的な時間で成果が得られたら、日々の全てに意味が宿る。遊びも、仕事も、存続の確かな要素となる。そんな日々を送りたい。いや、そのくらいの日々でないと由々しき事が起こる。身体に歪みが現れ、健康から遠ざかる。身内に頼らず、社会にも頼らずに生きるとすれば、それくらいしかない。そう思う。成り得るものは、それしかないと思う。

 

今のところはそうだ。その気持ちだけはある。意欲もだ。後は進むのみ。

来年はどんな景色を見ているだろう。心から世界を胸一杯に感じていれば良い。

 

また明日。

 

参考文献:

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの