欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

わずかで確かな満足 成長に費やせるまで

ここ数日において、全く変わらないルーティーンを繰り返している。単調で刺激のない日々が続く。同じ日々の変わらない記すこと。内的にエネルギーを費やしているけれど、それだけでは飽きてしまう。必要なエネルギーが枯渇し、主機能を支えるエネルギーの資源が失われてしまう。身体も低空飛行のままだ。極端に辛くはないけれど、一般的な日々へはまだ遠い。まだまだ病的だ。健全にエネルギーを用いることが出来ず、あっという間に一日は過ぎてしまう。やるせなく、鬱屈と床に就いてしまう。

寝ている間に顎に力が加わっている。それが依然として良くならない。歯をきしませてしまう。随分と歯が削れてしまったな。怪我の功名でも何でもない。今の段階ではそうだ。時が経っていないため、振り返って慈しめない。未来ではどうなのだろうか。一生物が不可逆になってしまうのは悲しいことだ。物に関わらず、人でも何でもそうだ。健全に生きていれば、何も失わずに済んだだろうな。今でもそう既に振り返っている。

その歪みが現れない時もあるけれど、それは時の運だろう。それが続いていくことはない。根本的な元凶を取り除かない限り、何も変わっていかない。喫緊の課題は、何も変わらないまま。変わらずに時に押し流されていくだけだ。

ある有名なインフルエンサーがこう言っていた。

「自分の身は自分で守ろう」

本当にその通りです。最近の意識には上がっていなかったけれど、その事は感じていたのだろう。その発信を閲覧していた。

自助もあれば共助、公助もある。自分で意識して健康維持を心掛けたり、誰かと積極的に交わろうとすることも出来る。あるいは、本当に行き詰まれば、公共の福祉を頼ったって良い。それらを引っくるめて、自分の身は自分で守るということ。そうやって頑張りましょう、というメッセージだった。

 

自助はしていると思う。個人で完結する努力はしているはず。勉強をし、自分の力で病を癒すこと。そのために励むこと。その中に学ぶことがあったりする。

共助、公助にも頼っている。親も見放さずに支援してくれているし、皆さんの財産を分けて頂いたりもしている。それは有難い。それは大きなアドバンテージになる。この時代や、この家庭に生まれて良かった面はある。

 

発信の中で印象に残ったのは、誰かとの繋がりの事だった。誰かとメッセージをやり取りしたり、オンラインで面会したって良いよね、ということ。そうやって誰かと繋がろうとすることは大切だよ、ということだった。

 

他にテレビでも印象に残る話があった。かつての同級生と再開する番組でのこと。アイドルの方が、ある同級生を指名していた。その方は、連絡が途絶えた同級生の名前を検索していたそう。SNSのページには、相手と同じ名前の人がたくさん表示されたそうだ。その事を呟いていた。

自分も少し前に、同じように調べていたのだった。検索で表示された人と、されなかった人がいた。誰しもそのような事をしているのかな、と感じていた。

 

本名のページでも作っておこうかな。そんなことを思った。だとしたら、いつか誰かからアクセスがあるかもしれない。自分の残された可能性は、バーチャルに繋がることくらいだろう。そう思いつつある。この時世の事もあるし、よりその方面が好ましくなっている。

ウイルスによって可能性が狭められたと考えられるけれど、以前から可能性は狭かっただろう。そもそもオンラインくらいしか選択肢はなかったのだ。それが一般的になったからこそ有利でもある。相手に理解があれば、そうやって繋がることに違和感を持たれないだろう。そうであれば、どんどん関係が繋がっていくかもしれない。オンラインであれば、面会する負担も少なくなるだろうな。

話は逸れるけれど、"オンライン教育が実施されていたら"と思う。その選択肢を選び取れる体制であってほしかった。それがあったのなら、かつての過度な痛手は被ることがなかったはず。年代が違っていれば、デジタルデバイスを持つことなど、環境を整えるだけで良かったのだろう。それだけで無理をする必要はなくなっていたはず。そのように思える。それは、自分の家庭環境であれば整えられたのだ。後は生まれた時代の差だろう。

痛手も負担もなく、可能性をがついえることもなかったはずだ。センシティブパーソンや、何かのハンディがある人は助かるはず。更に、それが欠乏を満たすことに繋がれば、余裕が生まれていたかもしれない。社会復帰に近づく場合もあるだろうし、オンラインに活路を見いだすことも出来たのだろう。

 

豊かな技術は、弱者や可能性に優しい。創造的で可能性のある人間を助けてくれるはず。マズローユングの言う神経症者や、能力のある人がそうだろう。独創的な人生を支えるのに一役買ってくれるはず。

 

かつての知り合いでなくても良いし、新しい関係でも良いのだろう。個人が働きかけることだ。それをすべきなのだろう。自分がやるべき事は、始めの一歩だ。

内的な日々を送ることが、自分の存続を確かにするものであれば良い。内省し、表現をすること。そうやって生きていたい。それによって社会的な免罪符を得られたら良い。今の日々でもやるべきことをやっているのだと感じたい。今はそれがない。

ある方の本にはこう記されていた。

「遊ぶのは働くため」

「仕事を仕事と思うな、あれは金の絡んだ遊び」

「遊びを遊びと思うな 、あれは金の絡まぬ義務」

これらの事は、マズローの言う自己実現者の特徴と重なる。二分法の超越だろう。洞察力のある聡明な人は、同じような本質を見つけることが出来るのだと感じた。学びは繋がる。本当に優れた人は、この世の法則を見つけることが出来る。それを感じることが出来、言葉にも表せる。既存の法則を容易く理解することが出来る人は居るだろう。でも、それを新しく見つけ、打ち立てられるような人は限られるはず。

遊びは存続の義務の形であり、仕事は遊びの延長にあるのだろう。まさに自己実現的な人の特徴だ。

そのように生きてみたい。極端な理想と思われてしまうだろうけれど、自分は、一般的に生きることなど難しい。だとすれば、創造的で独創的に生きるしかない。そのための人生を構築する必要がある。マズローらの言葉を信じる人間としては、そのように考えてしまう。

 

内的な日々は性に合う事であり、遊びでもある。それが社会的な存続を確かにするものになれば良い。生存の義務による存続の確保。その中に休養も含まれていれば良い。刺激を得ること。内的な日々を形作るための遊び。外的な適応だ。それも生存の義務になれば良い。それも欠かせないものとして行い、内的な日々の糧にする。傍目には遊びと映っても、それによって社会的な存続は確かになる。そんな理想だ。すべてが意味のある作業であれば良い。

自分なりに、立派に自活をしているような日々を送りたい。

 

その内的な仕事というのは、文を記すことしか浮かばない。それが相応しいと思っているけれど、一体どうなのだろうか。

捉え直しをしていくと、それは自己実現の欲求ではなく、欠乏動機による欲求として記しているのだと感じる。本当の成長のためではなく、擬似的な成長のために行っている。自己実現の欲求とは違うと思う。無欲で無我に成長へ励んでいるのではなく、欠乏を満たすために取り組んでいる。そのために足を取られてしまうのだ。

表現をする際に敏感さが災いとなるのは、心身の欠乏が影響しているのだろう。欠乏が満たされたのなら、それは薄れているはずだ。

 

衝動は、健康であればそれを信じても良いそう。その健康とは、つまりは欠乏欲求を全て満たすことだ。欠乏動機が頭から離れ、純な成長のための動機があるのであれば、それは成長に繋がるだろう。やがては成り得るものに近付いていく。今は、脆弱な土台の上に成長を築こうとしている。それは危険だ。いつ足元が崩れるかわからない。

基本の低次欲求をしっかり満たしつつ、自己実現をもたらす仕事をやり遂げることだ。人を救おうとしても意味はない。救われるべきは自分だ。その救いは、欠乏欲求をしっかり満たすことだ。それがあってこそ無我の境地に至り、無欲に成長へと励むことが出来る。疑似成長はなくなるだろう。欠乏を満たしてこそ、真に解放され、成長欲求が涌いてくる。

今ある衝動は、全て欠乏を満たすためのものだ。それはブログに置き換えられている。書くことに対する不自由がある。それは擬似的な努力によるものだ。欠乏を満たすためのものになっている。好ましくない衝動を解放しても仕方ない。いつか失敗してしまうだろう。本質的な救いは、欠乏を満たし、土台を整えることなのだ。

 

欠乏を満たした暁では、成長欲求は何の動機によって生まれるのだろう。文筆なのか、それとも別の作業なのだろうか。今の段階ではわからない。でも、文筆は性に合うものだと思う。欠乏を全て満たしたとしても、純な記したい欲求は浮かんでくるはず。そう思うし、そうやって肩肘張らず記していたい。自分の成長のために書きたい。生涯に渡って書き続けたい。

欠乏を確かに満たさなければならない。それは所属と愛だ。どこかに所属し、愛情を得ること。いずれも繋がりに関することだ。

バーチャル空間で認められるか、オンラインで繋がるか。それらしかないと思う。それが満たされたら良い。それらによって満たされたい。現実の集まりに所属するのは難しい。可能性を思えば、それくらいしか浮かばない。それが切っ掛けとなれば良い。

 

内的な日々を確かにするのは、一体何だろう。内的な過ごし方は性に合っていると思う。これが一番楽であり、自分らしいと思う。ここで欠乏を少しだけ満たせたら良いはずだ。少ない頻度で欠乏を満たすこと。それが確かな心の資源となっていれば良い。

 

多少の満足と、内的なエネルギー。日々の遊びも義務も、全て何かの一部になっていくと思う。それがブログに繋がっていけば良い。全ての結晶だ。今であっても、結果はなくともそう感じる。

後は、そこに満足という一部を組み込ませれること。それで全てが完成する気がする。

 

一体どうなるのだろうか。

まだまだです。

 

また明日。

 

 参考文献:

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

完全なる人間 [第2版]:魂のめざすもの

 
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