欠乏の不定愁訴ブログ

日々の気付きと過程の記録

変わらない本質 エネルギーを働かせる先

昨日は通院の日だった。前日から緊張感はほとんどなく、病院の事はあまり意識に上がらずに済んだ。当日の朝の体調も良好で、自然に家を出発した。先月と比べれば、格段に良い調子だった。先月は無理のしすぎに陥り、好調を加速させようとプレッシャーが生まれていた。今回は時の運もあるだろうけれど、体調が安定していて良かった。

改めて捉え直しをした結果なのかもしれない。でも、運の要素もあったはず。ただ、取りあえず良かった。運であっても良かった。ある程度の現在地を感じられた。体調が落ち着いていれば、ある程度は活動が出来る。心の資源が生まれ、余裕も生まれる。その感触を感じていた。これからは安定的な体調を得たい。

 

診察では、デイケアについては触れられなかった。先月もそのようなもので、通った記録がなかったためにそう判断されたのだろう。暗黙の了解。それは、個人的に悔いはない。改めてデイケアの空間を確認したけれど、どうにも馴染めそうになかった。その場への適応は、あまり利にならなそうだと感じた。

もちろん、外へ出て人と交わったり、活動することは求められる。ただ、まだまだ心身の限度は低い。少しでも無理をすれば、それは身体にたたってしまう。現実的な可能性は薄いけれど、身近な場所と人にアクセスするのが一番だと思う。それが第一の初歩。そこから始めたい。

限度を動かそうとしても、それに効果はないはず。出来ることから始めるしかない。初歩の事から始めたい。それだけで良い。第一のステップからだ。感情の赴くままに、どこかと接点を持てば良い。誰かと連絡を取り合ったり、人のいる場所へ出向いたり、それは何でも良い。心の声の赴くままにすれば良い。その先には人が居るだろう。それが第一の鍵となるはず。まずは初歩から。人の集まりに出向くのは、まだ早い気がしている。

先々月辺りは、何としても欠乏を埋めなければならない、と、煩悶していた。何とか改善しようと格闘していた。事態は喫緊で、看過できないと思っていた。今は、それが和らぎつつある。ただ、欠乏を満たす必要性は変わらない。本質的な原因はそこにある。そこを避けては進めない。歯も削れ、色んなものが不可逆に進行してしまっている。それを解消したい。それは変わっていない。

やれることから始めようとしている。外的な適応の難しさや、内的な適応の重要さは改めて感じている。そのなかで、認識に微妙な変化が生まれている。体調の推移や、捉え直しによる思考の変化が起きている。抜本的に生活を変えたいけれど、今の生活にある根本はひっくり返さなくても良いはずだ。今の生活の一部は、これからの自分の基盤になり得ると思う。平穏でいるのに必要な時間がある。未来であってもそうだろう。そのなかで工夫をする必要がある。

一般的な社会生活をしたいわけでもないし、それは難しいのだと思う。身の丈に合う創造的な日々を創れたら良い。そこを目指して始めるしかない。自分にとって最低限の成り得るものを目指す。まずはそこからだ。そこまで進めば、やがて選択肢は広がるだろう。最大限の存分な日々へは、今は遠い。向かうべき場所は、最小限の日々。小さな人生を築くこと。今はそこだけを考えれば良い。ひとまずはそうだ。それを達成した後であれば、次に進むのは容易だろう。

自分の居場所は自分で創る。生活や人生の現実も浮かぶけれど、それは考える必要がない。考えても仕方がない。目の前のステップをこなし、積み重ねるしかないのだ。初歩的なことから始めて、一歩ずつその時に考えれば良い。目の前の課題に取り組むこと。それが積み重なれば、やがて長い道のりを歩いたということになるはず。

一歩ずつ進めば良い。その一歩を踏み終えたのなら、状況は変わっているはず。その時にまた考えれば良い。その時その時で考えれば良い。まずは小さくでも進むこと。

ともかく第一歩だ。その本質は、欠乏欲求を満たすことだ。日々の欲求の動機は、全てが欠乏にまつわることだろう。それを満たすしかない。最低限の日々でも、最大限の日々でも、それを満たす以外に道はない。自立でも、自活でも、とにかく欠乏だ。今はそれを満たしていないのに、成り得るものへ成ろうとしている。これでは限界がある。それが今の日々だ。

認識の変化は感じるけれど、進展は感じられない。そんな局面だ。日々で言えば、相も変わらず同じことを繰り返している。その状況は脱していない。

 

今はまだ、マニュアルとカリキュラムを作成する段階なのだろう。マニュアルの完成は迎えたと思う。無理のしすぎという問題に対し、緩衝地帯を設けること。そのことを知り、それは施している。これにより、また病状が悪化することはなくなりつつある。

問題は、体調の起伏を抑えつつ、根本的に病を癒すことだ。積極的な健康を作ること。やるべき事を学ぶこと。建設的に生きるため、やるべき事や体得すべきことがある。そのカリキュラムを仕上げる最後の段階だ。そこに入りつつあると思う。

病的な状態を脱し、病を癒し、人生の基礎を構築すること。今はまだ、初歩の仕事をしているのだろう。

 

身体はまだまだ病的な水準だ。緩い静的な日々を送るばかりでは、身体の調子は戻らない。動的さが必要であり、それが欠乏欲求を満たすことにも繋がる。

ただ、刺激に慣れたとしても、完璧な状態になるわけではないだろう。心の資源を得るのは難しく、それが消え去るのは早い。どこかで刺激に圧倒される場面もあるはず。健全に生きていくことが出来ても、どこかに限度はある。動的さも重要だけれど、それと同じ静的さも必要。

静的な内的基盤を据えつつ、しっかりと欠乏も満たすこと。それが欠かせない。進歩を得るにはそれが必要。そのなかで独創的に生きる。平穏に過ごす。成しうることをする。守るべきものは守る。

 

一番看過できないものは、歯が削れること。それは避けたい。それが収まり、健康に近付き、更に日常に満足があれば良い。身体に由々しき事はなく、欠乏を満たし、成長に費やせること。それが一番ほしいものだ。健康があれば停滞していないだろうし、満足があれば無為に消費もしていない。

やりたいことをやり、満足があり、それによって最低限の生活が営めたら良い。それだけで目標は叶う。最低限の自活自立をすること。欠乏も満たされ、成長に費やしているのだろう。

今の日々は、身体に応える。ストレスも溜まり、身体は病的なまま。食べ過ぎや飲み過ぎなど、大きな困難がある。そこは一刻も早く脱したい。

 

欠乏が満たされたのなら、成長へ費やせる。気楽に日々を過ごしていたい。自己実現や確固たる社会的な肩書きが得られなくとも、欠乏さえ満たされていれば良い。身体は楽になり、日々の満足もあるのだろう。それがあり、更に成長にも費やせる。病人の免罪符を片手に、あるいは長いモラトリアムを得て、成すべき事を成すために励むことが出来る。そのように費やしている日々がほしい。社会的な存続を確かにしたい。成るべきところへ成りに行きたい。

 

身近で初歩の事から始めよう。それで良い。それしかない。それが良い。

ブログに精魂を込めていきたい。それが本当に性に合うことならば、長く続けたい。自己実現の鍵としたい。今のところはそう思う。

日々の全てがその鍵に繋がっている。内省、インプット、勉強、アウトプット。そのなかで、多少の満足を得ること。短い時間でエネルギーを得ること。それが大切。一般的な過ごし方など性に合わないはず。自分なりに過ごすしかない。

テレビである方がこう仰った。

「孤独はテクノロジーで解決する」

デジタルにかつての仲間と繋がると良い、とのことだった。

本当にそうだと思います。それしかない。

本名のサイトでも作るか、匿名で誰かと繋がるか、自分から誰かに働きかけるか、そのどれかだろうな。

人と交わるようになったとて、それはそれで支障が出る場合もあるだろう。内的な時間は守る必要がある。それが壊れない関係性を得たい。そんな相手がほしい。

 

心からの人生の充実は遠そうだ。ただ、捉え直しは続くはず。課題は絶えず生まれるのだろう。繰り返し検証することは、ずっと続けられる。文筆の糧は湧き続けるかもしれない。

今日も結局同じことでした。言いたいことは同じです。相も変わらずの事です。

 

また明日。

 

参考文献: